実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大國玉神社(桜川市大国玉)〈『続日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉

大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間717~724年の創立とされます 『続日本後紀』承和4年8373月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社おほくにたまの かみのやしろと載る由緒ある古社です

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大國玉神社(Ohokunitama shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

茨木県桜川市大国玉1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大國主命(おほくにぬしのみこと)

《配》武甕槌命(たけみかづちのみこと)
   別雷命(わけいかづちのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・五穀豊穣、厄除開運、商売繁盛、縁結び、家内安全、学業成就などの福徳

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

・ 国史見在社(こくしげんざいしゃ)
〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載されている神社〉

【創  (Beginning of history)】

大國玉神社

(常陸二十八社の一社  延喜式内社、旧郷社)

御祭神

 大國主命(おおくにぬしのみこと)
 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
 別雷命(わけいかづちのみこと)

由緒

 当神社の創建は詳(つまび)らかでないが、仁明帝 承和四年三月(西暦八三七年)には霊験甚だ大であったために官社に預り、同十二年には従五位下を授けられたことが続日本後記に記されている。更に清和帝 貞観三年九月(西暦八六一年)には従五位上に昇叙されたことが三代実録に記されている。また、延喜式神名帳(西暦九二七年)に当社 の名が記されている。

慶長年間に徳川幕府から御朱印地二十石を賜る。更に元禄十二年には水戸光圀公より、四神乃旗、日月乃幢が奉納された。

明治六年四月郷社に列格された。

鍬の祭(鍬打祭)

指定無形民俗文化財
昭和五十四年十一月五日指定

毎年正月三日に当神社で行われている行事で田遊びの神事ともいわれている。のお祭りに使用する翁の古面や牛面は中世の頃の作と いわれている。

年頭に氏子崇敬者の家内安全と五穀豊穣を祈願する予祝行事である。

社殿の前庭に榊の小枝を敷き田所となし、古式にしたがって「春鍬打ち」「畦づくり」「水切り流し」「牛口伝」「しばふみ」「田ならし」「種まき」「早苗とり」「お田植え」から「お中食」と農作業の仕ぐさをしながら唱え言をして豊作を祈願する古くから本社に伝わるお祭りである。

さやど廻り祭

指定無形民俗文化財
昭和五十四年十一月五日指定

毎年正月四日早朝に行われる神事である。

詳しい名称は「大國玉神社末社七十五社御宮渡巡行」と呼ばれるものである。

大国玉地内に祀られて当社の末社を氏子崇敬者の有志が大榊と大太鼓を先頭にして走りながら巡行し、家内安全と五穀豊穣を祈願する お祭りである。

帰社後、甘酒を頂き、「神宝日出五穀豊熟福田之祓」の御神符を受ける。

この行事に参加すると年間無病息災であるといわれている。

桜川市教育委員会

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

【御由緒】

 当社は、社伝によれば養老年間の創立とされている。続日本後記に承和4年3月霊感甚だ大であるため、官社に預かり、同12年に従五位をさずけられ、貞観3年に従五位上が贈られた、延喜式内社である。

徳川累代将軍より御朱印地二十石が下賜された。

元禄12年11月に水戸黄門より四神の幡、日月の幡鉾が奉納された。

茨城県神社庁HPより
https://www.ibarakiken-jinjacho.or.jp/ibaraki/kensei/jinja/12178.html

幣殿・拝殿造営の記

 大国玉神社は、御創立極めて古く延喜式内社として平安の昔から朝廷の御崇敬、一般国民、の信仰甚だ厚いものがあったことは広く世に知られております。

今日でも郷土の永永安寧と限りない発展をお祈り申し上げ御祭神の御偉徳を敬仰いたしております。

隔世天地の罹災多く改築を重ねてまいりました拝殿が、幾星霜を経て老朽甚だしく永命を全うするに及びました。氏子一同協議を重ね、造営の時宜と定め、敬神の念篤き二百七十余名の奉賛を戴き、平成月礎固め、太柱敷き立て、同月絢爛高雅な幣殿・拝殿を竣成し、併せて御本殿の大屋根を銅板葺にいたしました。

茲に祖先の恩に感謝し、敬神の真意と奉賛者芳名を後世に残すべく碑に列記します。

  平成月吉日
  大国玉神社拝殿改築委員会
  大国玉神社宮司 太田良正

現地石碑文より

Please do not reproduce without prior permission.

『新編常陸国誌』に記される内容

往古 大國玉神社 鹿島大明神と呼ばれており 宮と女二社一対とされていたと伝わります 在の社地は 宮の継承で 宮は明治期に統合されたらしい

「大國玉神」についての解釈は「国神」のことである 各国を平治した神の尊称として 常陸国の国神 武甕槌命を指し示す神号とする見解を記しています

【抜粋意訳】

真壁郡一座

大國玉神社

 真壁郡大玉村にあり〔二十八社考〕大國魂神〔延喜式〕

鹿島大明神云、社傳によりてふるに、祭神二座あり、東男體宮西を女體宮、又 物忌宮、鹿島大神れるにやあらん 社にふる歌二十三首あり、れも鹿島神威靈を稱へまつれるものなるをもとすべしされど大國玉神によりて、大己貴命亦名大國魂神なりなどもすこれなれも、自神なるべし
大國玉神とは、何れのにまれ國を経営坐し功德あるを、其國々にて國魂とも、大國魂ともして、拜なり

故れ 倭大國魂神、高市郡吉野大國御魂神社、山城久世郡 水主坐山背大國魂命神和泉國日根郡 國玉神社、攝津國東生郡 生國魂神社鬼原郡 河內國魂神社伊勢園度會郡 大國玉比賣神社度會大玉比賣神社尾張國中島郡 尾張大國靈神社、遠江國磐田郡 淡海園玉神社、能登國能登生國玉比古神社馬上縣郡 島大國魂神社など、各國處経営功偽ありし神を、如此申してれり、右にも園々園玉神社、大國玉神社云多し、皆同じ〔古事記傳〕
るが如く、本社は國の大國玉神にして、即 鹿島武甕槌命の、この國をへる功業を稱へ奉りて、殊更此地に斎きりしなるべし、

續日本後紀云、承和四年三月戊子、常陸國真壁郡大園玉神、預官以此之中特有靈驗也、同十二年七月辛未授常陸國無位大國玉神從五位下、〔已上〕
延喜ノ制社にる〔延喜式〕

祭禮正月四日、村中末社七十五所神幸あり、九月九日女體宮神輿、男體宮神幸あり、七十五社の神、十日鷹狩式あり、十一日夜還幸あり、之大祭とす、其大祭三十日歌樂金鼓禁ずるを例とす、〔本社由緒書〕
神領朱印地二十石あり、社中山竹木諸役免除せらる、〔慶安三年御朱印〕

【原文参照】

中山信名 編 ほか『新編常陸国誌』下,積善館,明32-34. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/763974

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

大國玉神社 本殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

大國玉神社 拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈社殿向って右の境内社〉石祠3宇

Please do not reproduce without prior permission.

・〈本殿向かって右奥 境内社青麻神社

《主》天照大御神、月読神、天之御中主神

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈本殿裏〉御神木 神代杉爾

Please do not reproduce without prior permission.

〈本殿向かって左奥 境内社七拾五柱神社(八百萬神集合社)

《主》八百萬神

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈社殿向って右の境内社〉石祠2宇

Please do not reproduce without prior permission.

・西参道口 注連縄

Please do not reproduce without prior permission.

・〈西参道口 境内社〉石祠2宇

Please do not reproduce without prior permission.

・東参道口 注連縄

Please do not reproduce without prior permission.

・〈東参道口 境内社〉后神社

《主》須勢理比女命

Please do not reproduce without prior permission.

・社務所

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・〈表参道 境内社〉八坂神社

《主》須佐之男命

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

・表参道

Please do not reproduce without prior permission.

・社頭・鳥居

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

后神社(きさきじんじゃ)について

『新編常陸国誌』に 往古 大國玉神社 鹿島大明神と呼ばれており 宮と女二社一対とされていたと伝わります 在の社地は 宮の継承で 宮は明治期に統合されたらしい

女体宮の旧址は不詳とされていますが 后神社が二ヶ所あります
①〈境内社后神社は 大国主命の正后 須勢理比女命を祀っています

②又 大國玉神社の東にも后神社(単立社)があって 祭神は大国主命の正后 須勢理昆賣平将門夫人「君の御前」2柱を祀っています 御神体は木造女人像(后神社御神体。桜川市指定文化財)とされています こちらは女体宮の旧址に関係するのでしょうか?

后神社(桜川市大国玉)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

后神社

祭神
 須勢理毘売命
 君の御前

 承平の頃、豪族 平真樹と云う者、大国玉字木崎に居を構え、従五位上 延喜式内社 大国玉神社並びに、平将門の父 良将の遺領 大国玉地方を宰領す。妙齢の娘あり「君の御前」と云う。豊田郡国生に住む平将門に嫁す。ときに大串(下妻市)に前常陸大掾源護あり、勢威をふるう。その子に扶・隆・繁あり、君の御

前に懸想し、これを得人と、承平五年二月石田(明野町)に住む平国香に援を頼み、将門を襲う。国香また領地を望むなり。戦いは将門・真樹の勝利となり、扶・隆・繁は戦死、国香は自殺す
 これより将門は伯叔父たちと相争う。承平七年七月服織(真壁町)に住む叔父平良兼将門を攻む 同月十八日猿島郡陸閑(八千代町)に於て、君の御前とその子斬殺さる。死後祭祀の礼をうく。后神社と称す后の名は、将門が新皇即ち帝と称せしにより正妻の意なり。地名また木崎なり御神体は 平安時代五衣垂髪の女人木像村指定文化財)である 岩井市国王神社将門像と対をなすと云うや知らず近くに御門御墓あり。

平成元年一〇月 桜川市教育委員会

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

后神社 本殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

后神社 拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

・境内の祠

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

后神社 境内全景

Please do not reproduce without prior permission.

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承

常陸 大國玉佐志能は 霊験が甚だ大であったので官社に預った と記されています

【抜粋意訳】

承和四年(八三七)三月戊子廿五

○戊子

常陸 新治郡 佐志能 眞壁郡 大國玉 官社に の之中靈驗也

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

无位〈無位〉大國玉に神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卷十五 承和十二年(八四五)七月辛未廿六

○辛未

奉授に 常陸 无位 大國玉 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047680&ID=&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

号は「主玉神」と記され この神が大國玉神であるかは未定とされています
現在 茨城県内「主玉神」の論社は3社〈・主石神社鉾田市)・鴨大神御子神主玉神社桜川市)・大國玉神社(桜川市大国玉)〉です

【抜粋意訳】

卷五貞觀三年(八六一)九月廿三日甲午

○廿三日甲午

に 常陸 從五位下 主玉神 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸國 38座(大7座・小31座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)真壁郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大國玉神社
[ふ り が な ]おほくにたまの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokunitama no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

・゛延喜式内社゛の内で 大國魂〈大国玉〉神を祀ると想われる神社について

・國魂神・国霊神・国玉神とも書く 古代の日本人は それぞれの国土には霊威が内在していて その霊威の盛衰が国の興亡を左右する そして その霊威の所有が支配権に結び付くとも考えていたようで この霊威が国魂である固有の神霊に関する信仰の一形態として 国土そのものの神霊を云うようになっていったと云う

延喜式内社 山城國 久世郡 水主神社十座(並 大 月次 新嘗・就中同 水主坐天照御魂神 水主坐山背大国魂命神 二座預相嘗祭)(みぬしの かみのやしろ)

・水主神社(城陽市水主宮馬場)

延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社 三座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(おほやまとにます おほくにたまの かみのやしろ みくら)

・大和神社(天理市新泉町)

一緒に読む
大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉

大和神社(おほやまとじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇の御代 宮中内に天皇と同殿共床で奉斎の二大神(天照大神・大地主大神)の神威を畏れた爲 大地主大神を皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります

続きを見る

延喜式内社 和泉國 日根郡 國玉神社(くにたまの かみのやしろ)

・國玉神社(泉南郡岬町深日)

延喜式内社 攝津國 東生郡 難破坐生國咲國魂神社二座(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)(なにはにいます いくくにさき くにたまの かみのやしろ ふたくら)

・生國魂神社(大阪市天王寺区生玉町)

延喜式内社 攝津國 莵原郡 河内國魂神社(寛大延・鍬靫)(かわちくたまの かみのやしろ)

・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通)

・綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています 

続きを見る

・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)

宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています

続きを見る

延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會國御神社(わたらひの くにみかみの やしろ)

・度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
度會國御神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度会国御神社(わたらい くにみ じんじゃ)は  豊受大神宮(外宮)宮域内に鎮座する摂社です しかし かつての鎭座地は宮域外とされ『度會元長の内外宮諸社記』に 室町時代の文明(1469~1487)の頃までは 豊受大神宮の神域より堀を隔てた所〈現在の山田工作場の辺り〉と記載があり その後頽廃して社地を失い 正保二年(1645)に禰宜 常晨が その位置に再興したが 古今その旧社地には諸説があり定まっていません

続きを見る

延喜式内社 伊勢國 度會郡 度會乃大國玉比賣神社(わたらひの をほくにたまひめの かみのやしろ)

・度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
度會乃大國玉比賣神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

度會大國玉比賣神社(わたらいおほくにたまひめじんじゃ)は 神武天皇の御代 伊勢国造の祖・天日別命(あめのひわけのみこと)が伊勢の國覓(くにまぎ)〈平定〉の時 地主神に梓弓を以て橋と為して出迎えられ 歓んで゛刀自に度り會ひぬ゛と云い度會の名を為したという故事を持つ古社で 中世時代にも頽廃せずに祭祀が継続されていた神社であったと伝わる 豊受大神宮(外宮)摂社です

続きを見る

延喜式内社 伊勢國 多氣郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大国玉神社(松阪市六根町)

延喜式内社 尾張國 中嶋郡 尾張大國霊神社(貞)(をはりおほくにたまの かみのやしろ)

・尾張大國霊神社(国府宮)

一緒に読む
尾張大國霊神社(稲沢市国府宮)〈尾張国総社〉

尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)は 尾張地方の総鎮守神 農商業守護神 厄除神として広く信仰される神社です 奈良時代に国衛(こくが)に隣接して御鎮座していたので尾張国の総社と定められ 国司 自らが祭祀を執り行っていたので 一般には「国府宮神社」「国府宮」と呼ばれるようになり 通称「国府宮」として広く知られます

続きを見る

延喜式内社 遠江國 磐田郡 淡海国玉神社(あはうみの くにたまの かみのやしろ)

・淡海國玉神社(磐田市見付)〈遠江總社〉

延喜式内社 常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大國玉神社(桜川市大国玉)

一緒に読む
大國玉神社(桜川市大国玉)〈『続日本後紀』大國玉ノ神『延喜式』大國玉神社〉

大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝によれば養老年間(717~724年)の創立とされます 『続日本後紀』承和4年(837)3月の条に゛霊感甚だ大であるため 官社に預かる・同12年の条に゛従五位下を授く゛と記され 『延喜式』常陸國 眞壁郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と載る由緒ある古社です

続きを見る

延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくに かみのやしろ)

・大國神社(伊勢崎市境下渕名)

一緒に読む
大國神社(伊勢崎市境下渕名)

大國神社(おおくにじんじゃ)は 第十一代 垂仁天皇の御宇 朝廷から派遣された百済車臨が 御手洗池で手を洗う大国主命の化身である白頭翁と出会い大干魃(かんばつ)から救われた伝説により創建された その後 丹波国穴太郷より五媛の宮を奉遷合祀して五護宮・五后宮・第五姫大明神とも称した 延喜式内社 上野國 佐位郡 大國神社(おほくにかみのやしろ)とされます

続きを見る

延喜式内社 陸奥國 磐城郡 大國魂神社(をほくにたま かみのやしろ)

・大國魂神社(いわき市平菅波宮前)

延喜式内社 能登國 能登郡 能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこの かみのやしろ)

・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)

一緒に読む
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮

能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています

続きを見る

・能登生國玉比古神社(中能登町)

一緒に読む
能登生國玉比古神社(中能登町金丸)能登の国魂の神「多気倉長命」を祀ります

能登生國玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神 多気倉長命(タケクラナガノミコト)は 神代の昔 能登国に巡行された・大己貴命・ 少彦名命の2柱の神と協力して 国土を平定されたので「能登の国魂の神」と仰がれています 又 その姫神〈娘〉の伊豆目比売命(イズメヒメノミコト)は 少彦名命の妃(ヒ)となって 金丸村 村主の遠祖である菅根彦命を生み給わった伝えられていて 現在の神主家 梶井氏は その裔(エイ)とされます

続きを見る

・能登部神社(中能登町)

一緒に読む
能登部神社(中能登町能登部上)

能登部神社(のとべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社 祭神は 第10代 崇神天皇の皇子 大入杵命(オホイリキノミコト) 同じく能登部に鎮座する能登比咩神社には 妹の皇女 沼名木入比咩命(ヌナキイリヒメノミコト)が祀られていて 往古この地は 能登部兄村妹村と称され 両村の神社も 兄宮 妹宮とも 上宮 下宮とも称します ここ上宮は 加賀藩 初代藩主 前田利家公が深く崇拝し「兄宮の神域を侵すべからず」と掟書を記した高札を与えたと伝わります

続きを見る

延喜式内社 出雲國 出雲郡 杵築大社〈名神大〉(きつきの おおやしろ)

・出雲大社〈大国主神を祀る〉

一緒に読む
出雲大社(出雲市)【前編】

出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています

続きを見る

延喜式内社 阿波國 美馬郡 倭大國玉神 大國敷神社二座(やまとおほくにたまのかみ おほくにしきかみの やしろ ふたくら)

・医家神社(三好市池田町)

一緒に読む
醫家神社(三好市池田町マチ)〈式内社 倭大國玉神大國敷神社 二座の論社〉

医家神社(いけじんじゃ)は 兵火により 社伝・記録等を全て焼失の為 創建等不詳です 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡  倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の論社となっています

続きを見る

・磐坂神社(三好市池田町シンヤマ)
〈医家神社 旧鎮座地〉

一緒に読む
磐坂神社〈医家神社 旧鎮座地〉(三好市池田町シンヤマ)

磐坂神社(いわさかじんじゃ)は 医家神社(三好市池田町)の旧鎮座地であると伝わります 従って『延喜式神名帳(927 AD.)』所載 阿波國 美馬郡  倭大國玉神大國敷神社 二座(やまとおほくにたまのかみおほくにしきのかみのやしろ ふたくら)の旧鎮座地の論社となっています

続きを見る

・倭大國魂神社(美馬市美馬町字東宮ノ上)

・倭大國敷神社(美馬市脇町拝原)

延喜式内社 壹岐嶋 石田郡 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)

・大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

一緒に読む
大國玉神社(壱岐市郷ノ浦町大原触)

大國玉神社(おおくにたまじんじゃ)は 社伝に 嵯峨天皇 弘仁二年(811)草創と伝わり 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉で 式内社 大國玉神社(おほくにたまの かみのやしろ)と比定されました それ以前は 田原天神(たいばるてんじん)と称されていました

続きを見る

・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)

一緒に読む
兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)

兵主神社(ひょうすじんじゃ)は 元々は日吉山王と称し奉っていましたが 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉によって 聖母神社〈現 聖母宮〉を日吉山王権現と査定し 現 兵主神社を聖母神社と査定して 式内社 壱岐郡 兵主神社 名神大と比定されました 其の後この処置が誤りであると藩も認め 聖母宮は元に戻りましたが 兵主神社はそのままと据え置かれています

続きを見る

延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大國魂神社(しまおおくにたまの かみのやしろ)

・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

一緒に読む
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります

続きを見る

・島大國魂神社(対馬 豊)

一緒に読む
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉

島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影

続きを見る

・那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社(三社合祀)

一緒に読む
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉

那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります

続きを見る

・島大國魂神社(対馬 御岳)

一緒に読む
島大國魂神社(対馬 御岳)

島大國魂神社(しまおおくにたま じんじゃ)は 御岳(ミタケ)の山頂に磐座(イワクラ)があり かつては禁足地でした 山岳信仰〈修験道〉の霊場とされ た対馬北部の上県町「御岳(ミタケ)」は ・雄岳・雌岳・平岳が連なり 御岳と呼ばれます 対馬南部の「白嶽(シラタケ)」と並んで古くから知られた修験道の聖地です

続きを見る

延喜式内社 對馬嶋 上縣郡 島大国魂神御子神社(貞)(しまおほくにたまのかみの みこの かみの やしろ)

・嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

一緒に読む
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)

嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります

続きを見る

・島御子神社(対馬 曽)

一緒に読む
島御子神社(対馬 曽)

島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です

続きを見る

・国本神社(対馬 瀬田)

一緒に読む
國本神社(対馬 瀬田)

国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります 

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR水戸線 大和駅から県道148号を南下して約2.6km 車でや5分程度

社頭のすぐ南側に 駐車場があります

Please do not reproduce without prior permission.

大國玉神社(桜川市大国玉)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして鳥居をくぐり 参道へと進みます

Please do not reproduce without prior permission.

石畳の参道が 社殿から真っ直ぐに南へと伸びています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

参道の途中 向かって左側に〈境内社〉八坂神社が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

参道の向って右側の建物は 社務所です

Please do not reproduce without prior permission.

境内向かって左手には 石碑と西参道からの入口に注連縄が張られています

Please do not reproduce without prior permission.

境内向かって右手には境内社〉后神社と東参道からの入口には 西側と同じく 注連縄が張られています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿の向かって右側には 三宇の石祠が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は 拝殿の奥には幣殿 本殿が続いていて 本殿向かって右奥脇には〈 境内社青麻神社が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

本殿の周囲は 透塀で囲まれています

Please do not reproduce without prior permission.

本殿の向かって左側には〈境内社七拾五柱神社(八百萬神集合社)が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

更にいくつかの石祠が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社頭の鳥居をぬけると 目の前には 大神が 大国玉に住む子供たちを見守り続けるように桜川市立大国小学校の校庭とプールがあります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 大國玉神社ついて 所在は゛大國玉村に在す、゛〈現 大國玉神社(桜川市大国玉)〉と記しています

【抜粋意訳】

大國玉神社

大國玉は 於保久爾多萬と訓べし

○祭神 大己貴命か

○大國玉村に在す、(地名記)例祭  日、

類社
 伊勢國多氣郡大國玉神社の條見合すべし

神位 官社
 續日本後紀、承和月戊子、常陸國真壁郡 大國玉神 官社、以此之中特有霊験也、同十二月辛未、授常陸國無位 大國玉神從五位下、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大國玉神社ついて 所在は゛今 大國玉村に在り、鹿嶋明神といふ、゛〈現 大國玉神社(桜川市大国玉)〉と記しています

更に東西に各々一座〔男体宮・物忌宮〕の計 二座があったとも記しています

【抜粋意訳】

大國玉(オホクニタマノ)神社

 大國玉村に在り、鹿嶋明神といふ、祭る所の神 凡 二座 東を男体宮といふ、西を物忌宮と云、〔神社由緒書、廿八社考、〕

大國玉神を祭る、〔延喜式〕

任明天皇 承和十二年七月辛未、無位 大國玉神に従五位下を授け、四年三月戊子官社に預らしむ、此神 殊に靈験あるを以て也、〔日本後紀

後宇多天皇 弘安二年、本社神領 凡三十町九段ありき、〔祝所文書〕

凡 正月三日、鍬初祭、九月九日神幸祭を行ふ、〔廿八社考〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大國玉神社ついて 所在は゛大國玉村〔字宮〕 (眞壁郡大國村大字大國玉)゛〈現 大國玉神社(桜川市大国玉)〉と記しています

【抜粋意訳】

○真壁郡一座

大國玉神社

祭神 國玉神
   武健雷神

神位 仁明天皇 承和四年三月戊子 常陸國眞壁 大國玉神 預社 十二年七月辛未 常陸 大國玉神 從五位下

祭日 九月十日十一日 一月三日四日 六月十五日
社格 郷社

所在 大國玉村〔字宮〕 (眞壁郡大國村大字大國玉)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

大國玉神社(桜川市大国玉)ついて 式内社 大國玉神社であると記しています

一に鹿島明神と称し、祭る所二座、東を男宮といひ、西を女  物忌宮と云ふ、御神は一尺二寸の霊石なりと、(社記)゛と祭神は二座と記しています

【抜粋意訳】

〇茨城縣 常陸國 眞壁郡大國村大字大國玉字宮

郷社 大國玉(オホクニタマノ)神社

祭神 大國主(オホクニヌシノ)

相殿 武甕槌(タケミカヅチノ)命 別雷(ワケイカツチノ)

創立年代詳ならず、
日本後紀に仁明天皇 承和月戊子、官社に預り給ふ、蓋 此神 特に験有るを以てなりと、次いで同十二月辛未、従五位下を奉授せられたる由見えたり、
三代實録に清和天皇 貞観月從五位上に進み給ふ、

延喜の制 式内小社に列せられ、古来上下の崇敬厚く社領の如き、既に後宇多天皇 弘安年神領凡三十町九段を有し鉛ひしこと祝所文書に見え、

近世 徳川墓府 亦二十三石の祀田を寄進す、社一に鹿島明神と称し、祭る所二座、東を男宮といひ、西を女  物忌宮と云ふ、御神は一尺二寸の霊石なりと、(社記)
明治年郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、幣殿、境内は七百九十一坪(官有地第一種)あり、物は珠七個、小槌、源光圀奉納の旗四、翁面等其主なるものなり。

境内神社
 后神社 八坂神社 拾五柱神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

大國玉神社(桜川市大国玉) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

『常陸國の式内社〈28座〉について』に戻る

一緒に読む
常陸國 式内社 28座(大7座・小21座)について

常陸国(ひたちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 常陸国には 28座(大7座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています