実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社かはらの おほやしろの論社とされます

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大口神社(Ohokuchi shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市竹ヶ鼻町 53-2-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》速秋津彦命はやあきつひこのみこと
   速秋津比売命はやあきつひめのみこと
   手置帆負命たおきおいのみこと

《合》河神(かはのかみ)
   水神(みつのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

由 緒

 大口とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川の合流する地点が大水戸口(おおみなとぐち)を形成するが故に、大湊といい、また上下2字をとって大口と称したものである。『二宮使解』の元久元年(1204)10月條に「抑度会郡大湊ノ平湯浜并宮河ノ合流、字ハ子勾埋地壹処、四至ハ限リ2東ハ松原ヲ1南ハ限ル2大口ニ1」とある。

 また、大湊の『大田家文書』には、「昔時度会郡箕曲郷大湊の戌亥に勾村あり。 同村の分村にして、長徳3年(997)の頃大口村と称し一村たりし、明応7戌午年地震津波のため人家田畑流失して其地を再興の目途之無に據り同村の人民若干諸村へ住居し、その中8戸ばかり人民謀りて氏神水饗社を奉載して同郡勾村字升鼻の洲寄りに住家を構え、一村の姿をなし竹ヶ鼻村と称し、氏神水饗社の称号を換えて旧村名大口神社と唱えたり云々」とあり、竹ヶ鼻村の発祥と大口神社の由緒がうかがえる。

 往古、水郷の守り神として勾村字三津社という地に河原大社、水饗社、河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが、明応の大震災により、水饗社を竹ヶ鼻に遷移し、大口神社と改称したというのである。

 明治に入ると、神社合祀令により、同41年4月17日に村社小木社(現、箕曲神社)に合祀される。しかし、昭和20年11月には、箕曲神社から分祀され、大口神社として奉斎され今日に至っている。

三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e5%a4%a7%e5%8f%a3%e7%a5%9e%e7%a4%be/

【由  (History)】

由緒

 大口とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川の合流する地点が大水戸口(おおみなとぐち)を形成するが故に、大湊といい、また上下2字をとって大口と称したものである。
『二宮使解』の元久元年(1204)10月條に「抑度会郡大湊ノ平湯浜并宮河ノ合流、字ハ子勾埋地壹処、四至ハ限リ2東ハ松原ヲ1南ハ限ル2大口ニ1」とある。
また、大湊の『大田家文書』には、「昔時度会郡箕曲郷大湊の戌亥に勾村あり。 同村の分村にして、長徳3年(997)の頃大口村と称し一村たりし、明応7戌午年地震津波のため人家田畑流失して其地を再興の目途之無に據り同村の人民若干諸村へ住居し、その中8戸ばかり人民謀りて氏神水饗社を奉載して同郡勾村字升鼻の洲寄りに住家を構え、一村の姿をなし竹ヶ鼻村と称し、氏神水饗社の称号を換えて旧村名大口神社と唱えたり云々」とあり、竹ヶ鼻村の発祥と大口神社の由緒がうかがえる。
 往古、水郷の守り神として勾村字三津社という地に河原大社、水饗社、河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが、明応の大震災により、水饗社を竹ヶ鼻に遷移し、大口神社と改称したというのである。
明治に入ると、神社合祀令により、同41年4月17日に村社小木社(現、箕曲神社)に合祀される。
しかし、昭和20年11月には、箕曲神社から分祀され、大口神社として奉斎され今日に至っている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・七本竹社〈元々 この社地に鎮座していた社〉

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参詣者の皆様へ

参りご苦様です
七本竹社は「安産の神様」で、の神様のお守りを用意いた

されたい方は、左記に申し出て下さい

大口神社氏子
竹ケ自治会

案内板より

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・山の神

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原大社
[ふ り が な ]かはらの おほやしろ
[Old Shrine name]Kahara no ohoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社かはらの おほやしろの論社について

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容

河原大社〈豊受大神宮(宮)摂社の旧鎮座地について
箕曲郷勾村に在り〈明応7戌午年1498地震津波のため 流出した神社

①寛文三年再興〈河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉の現社地
檜木尻の社〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
③神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林〈大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

何れであるかは 判断がつかないと記しています

【抜粋意訳】

攝社末社所管社

河原神社

鎭座地 三重縣度會郡御薗村大字新開

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

河原(かはら)神社は 延喜大神宮式及び神名式に河(川)原大社に作る。
神名祕書及び神祇本源所引の社記には 箕曲郷勾(ミノガウマガリ)村に在り、祭神 川神・水神の二座と爲せり。
中世以後 社地 湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を地名と傳説とに考へ、現地に再興す。
但し 両宮攝社参詣記には 檜木尻の社を以て本社に擬し、神名帳考證再考・勢陽五鈴遺響等之に從へり。
又 二宮管社沿革考には、神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林を以て ,本社の奮地と爲せり。勾の地名は鎌倉時代に於て既に存せること、光明寺舊記及び神宮雜書に載する所の文書によりて知るべく、之を地理と遺跡とに徵するに、今の御蘭村の東部より神社町に亘る地域之に相當するが如し。
然れども寬文再興の現社地が果して眞の古址たるや否やに至ては、容易に之を断言し得べからざるに似たり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社

・河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原神社〈御同座 毛理神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉

河原神社(かわらじんじゃ)〈御同座 毛理神社(もりじんじゃ)〉は どちらも『延曆儀式帳(804年成立)』に川原社(かはらのやしろ)毛理社(もりのやしろ)と記載される千年以上の古社 川原社は寛文三年に当地に再興された『延喜式神名帳(927年)』所載の伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社 毛理社は明治三年(1870)に御同座御再興されて 今日に至ります

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②・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました

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③・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉

一緒に読む
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます

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現在の大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります

現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています

・大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》葦原神(あしはらのかみ)

一緒に読む
大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています

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『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社旧鎮座地の候補地

長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地滅して明かなら
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にあり或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり

長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?

大水神社(伊勢市御薗町長屋)

神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?

大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です

・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

一緒に読む
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます

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神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?

・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

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・箕曲神社(伊勢市小木町)
箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

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『大神宮叢書 前篇1932年』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地

今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故な。上いへる水戸御食都神社は神名秘書、大口村に在今の神社村なりとれど、其條に論ふ如く、水の字神社村に似しから。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります

水戸御食都神社大口村大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?

御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です

・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます

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候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 伊勢市駅から神社港方面へ北東へ約3.7km 車10分程度

 往古 水郷の守り神として勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが 明応の大震災〈明応7戌午年1498〉の地震津波のため 流出した神社 その内の水饗社を竹ヶ鼻に小祠を遷座させた
 明治時代になって 小祠は村社小木社(現 箕曲神社)に合祀され その跡地一帯は工業用地〈神鋼電機工場〉となる 昭和20年に 箕曲神社から分祀され 神鋼電機東隣に鎮座していた もと七本竹社の小祠に合祀してから 大口神社として奉斎され今日に至っている という歴史を持つ

大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)に参着

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社号標には゛大口神社゛と刻字
一礼をして 西を向いている鳥居をくぐると 正面には゛山の神゛を祀る神域があります

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境内と社殿は南向き 再び鳥居が建ち 割拝殿 その奥に正殿があります

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玉垣に囲まれた 殿にすすみ
賽銭を納め お祈りをしま

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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南向きの正殿の隣には かつてはこの地の小祠であった゛七本竹社゛が 玉垣に囲まれて 並んで鎮座します

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七本竹社゛の前〈正殿の向かって右前〉には 神域があります

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〈正殿の向かって左前〉には 同じく神域があり 石神か? が祀られています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原大社について 所在は 載せず
大社と呼ぶのは 同じ郡に川原神社がある為で深い意味はない と記しています

【抜粋意訳】

川原神社

川原は前に同じ

○祭神 川神、水神、神名秘書
○(欠く)

○式四、伊勢大神宮 度曾宮所摂十六座の第十一に載す

連胤云、式内小の社にて、大社とあるは社と近江國 栗太郡 小槻大社のみ也、
当社は上に川原神社あり、小槻大社も同郡に小槻神社あり、共に同を分むため かくいふにて、大社といふに深き心あるに非ずと知るべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原大社について 所在は゛昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云゛と記すが 現在地については 明言しません

【抜粋意訳】

川原(カハラノ)大社

昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云、神祇本源、神名秘書、
後 舊址詳ならず、近世 之を新開村に建つ、神境紀談、神名略記、
〇按 今 船江町産神社の地に淵形池あり、毎年 淵祭あり、是蓋 川原渕社にして、其北 檜尻地に川原渕社と云ふは、此の説據あるに似たり、附て考に備ふ

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原大社について 所在は゛蘭村大字新開゛〈現 河原神社(伊勢市御薗町新開)〉とし
旧鎮座地の所在について゛竹ケ鼻村に今も川社と唱ふる小祠あり是ならむ゛〈現 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)〉である と記しています

【抜粋意訳】

川原大社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日

社格 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)

所在 三重箕曲郷新開村 (度會蘭村大字新開 )

今披るに檢錄に寬文三年の地に造立あり 舊社はと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

大口神社(伊勢市竹ケ鼻町) (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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  • B!

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています