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大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大河内神社(Ohokouchi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市辻久留1-172-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『神宮要綱』昭和3年〉に記される内容

【抜粋意訳】

大河内神社

鎭座地 攝社 志等美神社御垣内

殿舎
正殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
右神宮司廰造替

大河内(オホガフチ)神社も亦、延喜大神宮式及び神名式に載す。神名祕書及び社記に、祭神大山祇命、沼木郷山幡村に坐すと為す。大治三年宮川堤防守護の爲めに、志等美・打懸の両社と共に從四位下の神階を奉られしこと竝に社域の移動等、総て志等美神社の條に述ぶる所の如し。元來獨立の神社なれども、御垣•御門等は中絶のまゝ再興無きが故に、今猶 志等美神社御垣内に鎭座せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

【由  (History)】

『大神宮叢書』前篇昭和7-9年〉に記される内容

【抜粋意訳】

大河内神社

此社は帳に大河内社、大神宮式に大河内社とあり。〔倭名鈔に國郡條、河内を加不知と訓り。大河内も此訓に從ふベし。〕
此社は宮川の南東にあるをもて、大河内の名在ならんか。そのよしは國名の河内と云も淀川の西北にある國なれば、かくいへるに同じかるべし。〔こは倭國より西北に川ありて、其川の内なるよしなり。今此社地の西北に宮川流れあれば、沼木郷よりは川内といふべき地なり。〕
祭神はいまだ考えず。此社も宮川堤防護の爲に神位を授給ふと神祇本源にいへば、水の神にもあらんか。〔神名祕書•神名略記に大山祇神を祭るといふはいかヾなり。〕
社地は沼木郷山幡村に在といへり。〔神祇本源に東大河内、中志度美、西打懸と三社竝べるさまにしるせり。〕
神境紀談に、寬文三年再興の時は舊地知がたしとて、宮崎の根堀松に建られしに、〔卽ち岩戸坂をいふ。〕
元祿五年に今の地に遷されしと見えたり。〔今の世に小川町より壹丁ばかり南に清水地蔵とも、流の地藏ともいへるあり。こは大道の西、宮川の束岸にて古の山幡の地に属けり。此處に参詣るには人每に土團子とて土塊を奉るといへり。是古儀なりといへば古へ堤守護の爲に神位を給ふとあるにも似つかはしければ、此社の舊地にもあらんか。猶考ふべきなり。〕

【原文参照】

神宮司庁 [編]『大神宮叢書』前篇,内外書籍,昭和7-9. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212315

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

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上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

一緒に読む
上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

大河内神社は 豊受⼤神宮(外宮)の摂社です

・豊受神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

志等美神社〈豊受神宮(外宮)摂社〉『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)延暦23年(804)〉に゛大河内゛と載る古社です

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大川内神社
[ふ り が な ]おほかはちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokahachi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

上社(伊勢市辻久留)は 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の旧跡です

『宇治山田市史』下巻〈昭和4年〉に記される内容

上社(かみのやしろ)は 往古に 外宮攝社 志等美(しとみ)神社・大河内(おうがうち)神社・末社 打懸(うちかけ)神社が 鎮座していた所であると記し

現在 外宮攝社 志等美神社外二社が 現在の上社 入口の右方に鎭座しているのは 明治以後 種々の考証の結果 明治十六年(1883)に 當社の域内を舊地と定めて再興されたものであると記しています

【抜粋意訳】

第十一節 村社 上社

 

上社(かみのやしろ)

所在 辻久留町字辻久留

祭神  久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神
   以上古來奉祀する所

宇迦之御魂神四座、菅原道眞、天忍漁人(あめのおしあま)命、譽田別尊、不詳二座、以上明治四十二年三月七八日合祀 

 當社地は往古、外宮攝社 志等美(しとみ)神社、大河内(おうがうち)神社、末社 打懸(うちかけ)神社の鎭坐ありし所であるが、戰國時代久しく殿舎の造営もなくして廃退となって居た所を、後世に至りて附近の住民が産土神と崇めたものらしい。古記に境内社 並社は打懸神社の舊地で同明神を奉祀し、同神社は大河内神社の舊地で大山祇神を奉祀したとあるから恐らく當社地は昔の志等美神社の舊跡であらうと思はるる。

社名は永正十六年〔二一七九〕九月の畠券には二俣社と稱し、大永六年〔二一八六〕十二月の田券には二俣八王子社とあり、天文六年〔二一九七〕十一月の畠券には牛頭社としてある。

 然るに明治三年十月、神佛混淆之儀を止め佛号の神社名は改むべき由の布令によって、同月上ノ社と改稱し、同四年十一月二日郷社に列せられたが同五年十月村社格に更められ、同三十九年十二月神饌幣帛料供進社に指定せられた。又同四十一年四月二十一日許可を得て、同四十二年三月七日には浦口町無格社稻荷社・同土井稻荷社・同大杉稻荷社、二俣町無格社二俣菅原社・同田村社を、同八日には、境内社稻荷社・同山神社、中島町無格社小川社・同稻荷社・同掃守社・同八幡社・同浅間社を並社に合祀し、同月十日、再び並社を本社に合祀する許可を受け、同月十二日に合祀した、

前述の外宮攝社 志等美神社外二社は、現時の上社の入口の右方に鎭座あるが、これは明治十六年の遷移に係る。その以前三社荒廃の後、寬文三年 再興の際には舊社地不明の故を以て假に岩戸山に建立せられ、元祿五年には辻久留町の南方山上に新地を選んで移轉せられたが、明治以後、種々考証の結果、同十六年に至り當社域内を以て舊地と定められ、爰に復古せられたのである
・・・・
・・・・

【原文参照】

宇治山田市 編『宇治山田市史』下巻,宇治山田市,昭和4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1266086

同じ境内地に祀られる豊受大神宮(外宮)の攝社・末社

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》大山祗神(おおやまづみのかみ)

一緒に読む
大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

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内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道37号経由で西へ約2.7km 車7分程度

上社(伊勢市辻久留)に参着

一礼をして一の鳥居をくぐると 社号標があり゛上社゛と刻字

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
左の参道には 狛犬が座し 鳥居が建てられています

こちらが上社(伊勢市辻久留)への参道です 一礼をして鳥居をくぐり参道を進みます

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・上社(伊勢市辻久留)
志等美神社・大河内神社・打懸神社の旧跡〉

一緒に読む
上社(伊勢市辻久留)

上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています

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境内の東南に入り口があります

石垣に囲まれた参道が左右に各々あり
向かって 右には 豊受大神宮(外宮)の攝社・末社の3社が祀られていて

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その奥側には
社殿は 南向き 同じ玉垣内に攝社2社〔志等美神社・大河内神社〕が祀られています

大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉に参着

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玉垣内の攝社の正殿が2宇
向かって左 志等美神社
向かって右 大河内神社

2宇の殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉については

・志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉《主》久久能智神(くくのちのかみ)

一緒に読む
志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷

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攝社2社が祀られている玉垣が向かって左側
その玉垣の向かって右手にもう一つ見えている 独立した玉垣は 打懸神社です

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・打懸神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》打懸名神(うちかけみょうじん)

一緒に読む
打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉

打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 大川内神社について 所在は 志等美社地内に在す〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています

【抜粋意訳】

大川内神社

大川内は 於保加布知と訓べし

〇祭神 大山祇神、神名秘書

○志等美社地内に在す、神名略記

○式四、伊勢大神宮、度會宮所十六座の第八に載す、

神位
神祇本源云、大治 奉授從四位下、為防河堤守護也、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 内神社について 所在は 志等美社の東にあり〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています

【抜粋意訳】

(オホカハチノ)神社

舊地詳ならず、今 志等美社の東にあり、〔神境紀談、神名帳考証、神名略記、〕

大山祇神を祭る、〔神名秘書、〕

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、〔延喜式〕

崇徳天皇 大治三年六月癸亥、正五位下 名神に従四位下を授く、〔神祇本源、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大川内神社について 所在は 志等美社東〈現 志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の同玉垣内〉と記しています
旧跡については 志等美神社の項を参照すべし と記しています

【抜粋意訳】

大川内神社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日
社格 外宮所攝十五所之ー(外宮攝社 )

所在 三重縣沼木郷山田上三郷領也婆古山 志等美社東(宇治山田市大字辻久留町 志等美神社域内) 

今按 覈録に寬文三年宮山岩戸坂に造立し 元祿五年今の地に遷す 舊地は上郷の産神なり 其社をガウヅ社と呼ぶはの略轉なるべしと云り なほ上の志等美神社の條に云るを合せ考ふべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

大河内神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

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  • B!

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています