大石神社(おおいしじんじゃ)は 社伝に 第21代 雄略天皇御宇 詔(みことのり)により海部直赤尾物部兎代宿禰(あまのあたいあかお もののべのとよのすくね)によって勧請されたと伝わります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社とされ 明治時代には 物部神社と称したと云う
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大石神社(Ohishi shrine)
【通称名(Common name)】
・往古は「大石明神」
【鎮座地 (Location) 】
山梨県甲州市塩山赤尾982
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇命(おほやまつみのみこと)
可美眞手命(うましまでのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
大石神社(旧村社)
由緒沿革:
雄略天皇御代海部直赤尾物部兎代宿祢奉勅勧請、鎌倉将軍守邦親王深く崇敬あり。寛永十九年八月徳川家光社領高四石五斗餘寄附。元禄二年正月正一位を授る。宝暦十三年九月社宇再建。明治七年三月村社に定めらる。
山梨県神社庁HPより
https://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/2017
【由 緒 (History)】
大石神社々記
一・祭神
大山積命(オオヤマズミノミコト)(山之神)
可美眞手命(ウマシマデノミコト)(軍神物部大神)一・由緒
雄略天皇御宇(代)海部直赤尾物部兎代宿禰(アマノアタイアカオ モノノベノトヨノスクネ)奉勅(ミコトノリヲ)勧請(カンジョウ)ス
鎌倉将軍 守邦親王(モリクニシンノウ)深ク崇敬セリ
寛永十九年八月 徳川家光社領四石五斗餘寄附
元禄二年三月被授正一位 宝暦十三未年九月社宇(殿)再建
明治三午年社領上地。
同七年三月村社ニ定メラル 一ニ物部(モノノベ)神社ト称ス
明治三十四年九月 従来ノ祭日 九月十五日ヲ十月十五日ニ変更ス一・本殿 行一間半 梁一間
一・渡殿 行二間 梁二間
一・拝殿 行六間 梁三間
一・鳥居 一基
一・境内 四百坪一・境内社
大神宮社 山神社
地神社 稲荷大神社
三峯社 道祖神社昭和五十六年九月吉日 大石神社氏子総代
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・大石神社 本殿・磐座
〈境内本殿裏手“大石”磐座〉
・大石神社 社殿〈拝殿・幣殿・本殿〉
・大石神社 拝殿
・注連柱
・鳥居
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷七 貞觀五年(八六三)六月八日己亥
○八日己亥
授に
武藏國 從五位下 氷川神に正五位下
甲斐國 從五位下勳十二等 物部神 美和神に 從五位上
近江國 正六位上 建部神に從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)三月廿八日甲辰
○廿八日甲辰
甲斐國 從五位上勳十二等 物部神 美和神に 並に授くに正五位下 從五位下 宇波刀神に從五位上
大和國 平城京内田地十六町三段百廿歩 賜從四位下行山城權守在原朝臣善淵 先是 善淵奏言 奉爲平城太上天皇 建精舍於陵次 買得舊京荒地 墾闢爲田 修理精舍之資 而内藏寮稱格旨 收爲勅旨田 請頼恩弉 永爲私田 詔許之
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷十二 貞觀八年(八六六)閏三月十八日癸亥
○十八日癸亥
授に甲斐國 正五位下勳十二等 物部神に從四位下を
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十九 貞觀十八年(八七六)七月十一日丙戌
○十一日丙戌
授に
甲斐國 從四位下勳十二等 物部神 越中國 新川神に 並に從四位上甲斐國 正五位下 美和神に正五位上
美濃國 正六位上 兒安神 越中國 櫛田神に 並に從五位下を
丹後 美作兩國飢疫 賑に給す絶乏に
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅七 元慶四年(八八〇)二月八日壬辰
○八日壬辰
授に
甲斐國 從四位上勳十二等 物部神に正四位下 正五位上 美和神に從四位下岩見國 正六位上 椙尾國社神 常世國社神に 並に從五位下を
左京人從四位上 行左馬頭兼伊勢守興基王に賜に姓を源朝臣と 興基は人康親王之子也
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
天慶三年(九四〇)九月四日丙寅
奉授
山城國 正二位 稻荷神 從一位
大和國 瀧倉神 正二位
左京 從三位 太詔戶神 伯耆國 從三位 倭文神 正三位
左京 正四位上 隼神 大和國 正四位下 高屋安倍神 甲斐國 正四位上 物部神 隱岐國 正四位上 天建金草神 並從三位
大和國 正五位上 河內神 甲斐國 正五位上 大井俣神 並從四位下
伊勢國 從五位上 能原神 正五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ](もののへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mononohe no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について
太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります
『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています
東海道
「伊勢國 飯高郡 物部神社」
・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉
「伊勢國 壹志郡 物部神社」
・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉
「尾張國 春日部郡 物部神社」
・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉
・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉
・諸大明神社(春日井市松本町)
・八所神社(豊山町豊場木戸)
「尾張國 愛智郡 物部神社」
・物部神社(名古屋市東区筒井)
・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)
「甲斐國 山梨郡 物部神社」
・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉
・物部神社(笛吹市石和町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷の使者として武内宿禰(たけのうちのすくね)らが東方巡察の折 物部氏の従者により創祀されたと云う 『六国史』には゛物部神゛に神階の奉授が記され 『延喜式』に甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)と所載されます 当初 御室山に鎮座し 鎌倉時代に現在地に遷座と云う
物部神社(笛吹市石和町松本)〈『六国史』物部神・『延喜式』物部神社〉
・大石神社(山梨市西)
大石神社(おおいしじんじゃ)は その名の通り 巨大な花崗岩のご神体〈磐座信仰〉が坐します 社殿の周囲にも数々の巨大な石〈磐座〉があり 不思議な景観となっています 社伝によると 古くは物部神社と称していたとあり 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社となっています
大石神社(山梨市西)〈巨大な花崗岩のご神体が坐します〉
・大石神社(甲州市塩山赤尾)
大石神社(おおいしじんじゃ)は 社伝に 第21代 雄略天皇御宇 詔(みことのり)により海部直赤尾物部兎代宿禰(あまのあたいあかお もののべのとよのすくね)によって勧請されたと伝わります 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)の論社とされ 明治時代には 物部神社と称したと云う
大石神社(甲州市塩山赤尾)〈延喜式内社 物部神社の論社〉
・白山建岡神社(山梨市上栗原)
「武蔵國 入間郡 物部天神社」
・北野天神社(所沢市小手指元町)
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
東山道
「美濃國 厚見郡 物部神社」
・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)
・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)
・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)
・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉
北陸道
「越中國 射水郡 物部神社」
・物部神社(高岡市東海老坂)
「越後國 頸城郡 物部神社」
・物部神社(上越市清里区)
物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉
「越後國 三嶋郡 物部神社」
・二田物部神社(柏崎市西山町)
物部神社(もののべじんじゃ)は 祭神 二田天物部命は 天香山命に奉仕て 高志国(越国)に天降りしたと云う 二田を献上する者がおり その地に居を定め その里を「二田」と称したと伝え 命は薨(こう)じて 二田の土生田(はにゅうだ)の高陵に葬られたと云う 延喜式内社 越後國 三嶋郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
二田物部神社(柏崎市西山町二田)〈『延喜式』物部神社〉
「佐渡國 雑太郡 物部神社」
・物部神社(佐渡市小倉)
物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・『延喜式』物部神社〉
山陰道
「丹後國 與謝郡 物部神社」
・物部神社(与謝野町石川)
物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉
「但馬國 城崎郡 物部神社」
・韓國神社(豊岡市城崎町)
「石見國 安濃郡 物部神社」
・物部神社(大田市)石見国一之宮
物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉
山陽道
「播磨國 明石郡 物部神社」
・可美真手命神社(押部谷町細田)
・惣社(神戸市西区伊川谷町)
西海道
「壱岐島 石田郡 物部布都神社」
・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉
物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉
・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)
國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR中央本線 塩山駅から南下して約700m 車で2分程度
大石神社(甲州市塩山赤尾)に参着
木製の両部鳥居が建ち 一礼をして境内に進みます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には幣殿 本殿が祀られています
本殿の床下には 陽石〈男根石〉が祀られています
さらに その奥に大石が磐座として坐します
こちらは 聖地なので 立ち入らずに ここから撮影します
社殿に一礼をして境内を戻ります
参道から鳥居をくぐり抜けます
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛松本邑に在す、゛〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部神社
物部は毛乃々倍と訓べし
○祭神物部氏祖十神、〔名勝志〕
○松本邑に在す、〔参考〕例祭月日、
類社
伊勢國飯高郡物部神社の条見合すべし神位
三代実録、
貞観五年六月八日己亥、授甲斐國從五位下勲十二等物部神從五位上、
同八年三月廿八日甲辰、甲斐國從五位上勲十二等物部神、授正五位下、
同年閏三月十八日癸亥、授甲斐国正五位下勲十二等物部神從四位下、
同十八年七月十一日丙戌、授甲斐國從四位下勲十二等物部神從四位上、
元慶四年二月八日壬辰、授甲斐國從四位上勲十二等物部神正四位下、
日本紀略、
天慶三年九月四日丙寅、奉授甲斐國正四位上物部神從三位、社領
当代御朱印高二石四斗五升
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 物部神社について 所在は゛舊 御寶山にありしを、後 松本村に移す、物部十社明神と云ふ、゛御寶山〈大蔵経寺山〉より遷座して〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
【抜粋意訳】
物部(モノノベノ)神社
舊 御寶山にありしを、後 松本村に移す、物部十社明神と云ふ、〔甲斐名勝志、甲斐國志、〕
盖 物部連祖 饒速日命を祀る、〔新撰姓氏録、舊事記、延喜式〕
清和天皇 貞観五年六月巳亥、従五位下勲十二等 物部神に従五位上を授け、
八年七月丙戌、従四位上を加へ、
陽成天皇 元慶三年九月丙寅、正四位上より従三位に進めらる、〔日本紀略〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 物部神社について 所在は゛松本村(東山梨郡岡部村大字松木)゛〈現 物部神社(笛吹市石和町松本)〉と記しています
又 一説として゛一説赤尾村 大石大神なりと云ひ゛〈現 大石神社(甲州市塩山赤尾)〉
゛物部郷大石社と記せり゛〈現 大石神社(山梨市西)〉を紹介しています
【抜粋意訳】
物部神社 稱 十社明神
祭神 饒速日命
今按 社傳 祭神 饒速日命より物部氏の祖神十座なりと云へど こは十社明神と云より 十座の祖神と云るものなるべし 故今とらず
神位
清和天皇 貞観五年六月八日巳亥 授に甲斐國從五位下勳十二等 物部神 從五位上
八年三月廿八日甲辰 甲斐國從五位上 勳十二等 物部神 授に正五位下
閏三月十八日癸亥 授に甲斐國正五位下 勳十二等 物部神 從四位下
十八年七月十一日丙戍授に甲斐國從四位下 勳十二等 物部神 從四位上
陽成天皇 元慶四年二月八日壬辰 授に甲斐國從四位上勳十二等 物部神 正四位下
朱雀天皇 天慶三年九月四日 奉贈に甲斐國正四位上 物部神 従三位〔朱雀以下 日本紀略〕祭日
社格 村社所在 松本村(東山梨郡岡部村大字松木)
今按 一説赤尾村 大石大神なりと云ひ 慶長十三年の制札に、物部郷大石社と記せりと云へれど 他に證あるに非ず
且つ松本村 今は松本寺の境内にありて 小社なれど神さぴたる森のさま いかにも式内社なりとみゆると云へば 今は之に從へり
【原文参照】
大石神社(甲州市塩山赤尾)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
甲斐国 式内社 20座(大1座・小19座)について に戻る
甲斐国(かひのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 甲斐国には 20座(大1座・小19座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
甲斐國 式内社 20座(大1座・小19座)について