実践和學 Cultural Japan heritage

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遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おがじんじゃ)は 中世に赤川が乱流していた所「外内島(とのじま)」に鎮座します この地名の語源は 赤川の旧称である外川と内川の間にできた島という説 名請人 戸内大夫(とのうちだゆう)(神主)と関連するとの説もあります 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

遠賀神社(Oga shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

山形県鶴岡市外内島(とのじま)字明神川原1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山祇尊(おほやまつみのみこと)
   倉魂命(くらたまのみこと)
   土祖神(つちのおやのかみ)

〈戸隠神社〉
《配》戸隠大明神〈手力雄命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

『山形県管内神社名簿』巻之2に記される内容

【抜粋意訳】

遠賀神社

元 戸隠神社と云ふ  外内島村

【原文参照】

佐伯菅雄 編『山形県管内神社名簿』巻之2,遠藤司,明11.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/816153

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

遠賀神社 社殿

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遠賀神社 拝殿

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・〈社頭の左側 境内社2社合殿〉古峰神社・厳島神社

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・〈向かって左側 境内社〉古峰(こぶ)神社《主》日本武尊

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・〈向かって右側 境内社〉厳島神社

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・農民歌人 上野甚作の歌碑

山にゐて こゝろよこしま なきならむ
 うたふ小唄乃 聲乃すがしさ

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農民歌人 上野甚作 大人

 明治十九年、この地外内島に誕生す。
 若年の頃から文学にいそしみ、明治の終わりの頃より、農耕の合い間に、作歌 (短歌)活動を始めて、農村の青年達を啓蒙し、大正六年に機関誌「島影」を発刊する。
その後も、歌集「耕人」など次々と刊行している。
 また、昭和三年 (四十三歳)に、人望厚く推挙されて斎村長となり、耕地整理や道路の改修、学校の増築など幾多の難事業を成し遂げた。
 一方、私人としては、激しい公務の中、鶴岡周辺の歌会を主宰して後進の指導と、庄内歌人伝の出版のほか、郷土史・伝説などの研究と保存につとめて、地域文化の発展に尽くし、多くの功績を遺した。
 それから、大戦のさなかに一切の公職を辞し、昭和十八年、満蒙開拓団の団長となって渡満する。間もなく、終戦直前ソ連軍の参戦と侵攻に遭い銃弾を受け、満州(現中国)の地に没す。享年六十歳。

 鶴岡市立図書館では、その名を後世に伝えるため、昭和三十四年、「上野甚作賞」を制定し、毎年短歌を広く募って、優秀作品の表彰を続けている。

平成二十八年十月

鶴岡市文化財愛護協会 斎地区自治振興会 斎郷土文化愛護会

現地案内板より

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・鳥居・社号標

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)出羽國 9座(大2座・小7座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 遠賀神社
[ふ り が な ]をかの かみのやしろ
[Old Shrine name]Woka no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)の論社

・遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)

一緒に読む
遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おかじんじゃ)は 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)とされ 古くは岡山の岩台に鎮座したが 天長年間(825年)当地に遷座したと云う 中世に至り神佛混淆し 井岡寺を創設し 別當を置き゛岡大権現゛と称していたが 明治維新の際 神佛分離により 延喜式 遠賀神社と改称しました

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・遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)

一緒に読む
遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おがじんじゃ)は 遠賀神社と云ふ額面が殘っていたとあり これを説として 稻荷は「タウガ」と読み 遠賀も亦「タウガ」と訓む 故に中世には 遠賀神社を稻荷神社とし 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)であるとされていました

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・遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)

一緒に読む
遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)〈『延喜式』遠賀神社〉

遠賀神社(おがじんじゃ)は 中世に赤川が乱流していた所「外内島(とのじま)」に鎮座します この地名の語源は 赤川の旧称である外川と内川の間にできた島という説 名請人 戸内大夫(とのうちだゆう)(神主)と関連するとの説もあります 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)の論社です

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR羽越本線 鶴岡駅から県道350号経由で南へ約4.7km 車で12分程度

県道350号沿いに境内があります

遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)に参着

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社頭の正面に社号標と鳥居 その奥に拝殿 境内の向かって左手に境内社があります

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一礼をしてから 朱色の両部鳥居をくぐり 境内へと進みます

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拝殿にすすみます
御堂のような感じではあります

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内の向かって右手には 郷土の農民歌人「上野甚作」の歌碑があります

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境内の向かって左手には 境内社の合殿が祀られています

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社殿に一礼をして参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 遠賀神社について 所在は゛遠賀村に在す、今 俗云、稲荷村゛〈現 遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)〉と記されています

【抜粋意訳】

遠賀神社

遠賀は假字也

〇祭神 詳ならず

遠賀村に在す、今 俗云、稲荷村 猶社中道 曰くに遠賀道、自に鶴岡 十町許東也、〔考証〕例祭 月 日、

伴信友云、斉明紀四年に出たる 齶田(あきらた)〈秋田〉の蝦夷 恩荷(おが)か 祭なるべし、

類社
 近江國神崎郡 乎加神社の條 見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 遠賀神社について 所在は゛井村村 遠賀井山にあり、゛〈現 遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)〉と記されています

【抜粋意訳】

遠賀(ヲカノ)神社

井岡村 遠賀井山にあり、
〔一宮巡拝記、神名帳打聞、出羽國全圖、〇按 今 井岡村に井岡寺あり、長禄四年扁額一面を蔵む、岡大権現御正体 大山祇命の文あり、蓋 此寺 或は本社の神宮寺などにて、古より社務をも掌りしを以て、この額面を蔵めしならむ、姑附て考に備ふ、

凡 其祭三月八月の十六日を用ふ、〔酒田縣神社取調帳〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 遠賀神社について 所在は゛井村村 遠賀井山にあり、゛〈現 遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)〉と記されています

他の説として゛稻荷村に同名の社ありて〈現 遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)〉もあるが採用しない と記しています

【抜粋意訳】

遠賀神社

祭神 大山祇命

祭日 八月二十三日
社格 郷社

所在 井岡村 遠賀野井山(西田川郡大泉村大字井岡)

 今按 註進狀に此神社ますによりて井岡村と云由  往昔は神社近隣 岡山村の山上柏伊波手井と申所にありしを 天正中 今地に遷座すと古記にみえたり
岡山より少隔りて 蛇蝄池あり  御手洗池なり  井を遠賀野井と云ひ 其他井岡など云處もあり
長祿中 武藤家の宿老 渡邊重吉 奉納の銅器に岡大権現御正體大山祇命云々  地主岡大権現御正殿とあり  舊社僧を井岡寺と云など證とすべし
而るに稻荷村に同名の社ありて 往古は村名 遠賀なるを神名を憚りて稻荷と改むと云るのみにて他に確證あらねばとらず

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)ついて 中世以降は全く神佛混淆し 維新の際 神佛分離令達に依り、再び往昔の制に復し、延喜式内 遠賀(ヲカノ)神社と改称し、明治九年十一月郷社に列す

【抜粋意訳】

〇山形縣 羽前國 西田川郡大泉村大字井岡(ヰノヲカ)

郷社 遠賀(ヲカノ)神社

祭神
 豊岡比咩(トヨヲカヒメノ)神 稚産靈(ワクムスビノ)神 鳴雷(ナリイカヅチノ)神 大山祇(オホヤマヅミノ)神 高龗(タカオカミノ)神 猿田彦(サダヒコノ)神

配祀
 天照大御(アマテラスオホミ)神 軻遇突智(カグツチノ)神 伊弉諾(イザナギノ)尊 伊弉冉(イザナミノ)尊
 大己貴尊  宗像中津姫命  山末大主命  應神天皇
 玉依毘賣命 神功皇后 武甕槌命 經津主命
 天之兒屋根命 比賣神 菅原道眞 吉祥姫中将殿
 倉稲魂命 素戔嗚尊 大市姫命 五十猛命
 上筒之男命  中筒之男命  底筒之男命  氣長足姫命
 少彦名命 田心比賣命 田湍津比賣命 市杵島比賣命
 大物主神 大國魂神 菊理比賣命

 本社の社號は 往古より種々唱へ來れり、抑も遠賀は假字也と (神社覈録)云へり、又 長祿四年扁額に「井岡大権現御正體大山祇命云々」と見ゆ、是れ井岡に鎭座するを以て社號 井岡大權現と稲せしならん、

但し遠賀の名稱の出所明かならず、往昔 遠賀神社鎖座せられしにより、今地名を井岡村と稱せり、而して太古 該村内一名 岡山村字伊波手井と云ふ山上に鎭座せしを、淳和天皇 天長二年 當今の地へ奉遷す、祭主は大伴親王(オホトモシンノウ)の御子 基貞(モトサダ)卿と申す御方なりき、

而して中古 神佛混淆し、梵刹を建立して井岡寺と云ふ、別當を置き岡大權規と稱し、本地勢至菩薩等を脇立せり、創建年代詳ならざれども、上記の字伊波手井山上に鎭座せられしを、淳和天皇 天長年間に當地に奉遷せし所を見れば、其以前よりのものなるべし、
中世以降は 全く神佛混淆し、祭主 基貞卿は源樂上人と頻りに梵刹を創設し、阿迦井坊遠賀野井寺と稱し、又 社傍に古井あり、因つて遠賀迺井山と山號を稱するに至れり、其後、正親町天皇 天正年間 兵燹に罹り、堂宇全く灰燼に帰せり、當時、及 榮上人寺内東南の山上に七問圓法の陵を築きその、灰燼を納め、且つ法鬼神靈正降の碑を立てたりと云ふ、かかる古社なるに依って 舊御神田と申して字御饌田、搗分田、御鉾田、三能田、燈油田、三月田、十七夜田、七字の田等の名今尚存せり、
後水尾天皇 慶長十六年八月十八日 少將出羽守源義光金幣奉納あり、又 當時境内禁制の事ありて其記録 今尚存す、卽ち當社領園境内殺生の事、山林竹木等 伐採の事、社内殿押寄宿の事等の三條の制札を揭げて嚴禁せられしと云ふ、光格天皇文化中撰 鄙乃須佐美(ヒナノスサミ)(白井氏撰)に曰く、井岡観音堂に、古き鋳像あり、一は圓径一尺二寸、三十三観音の形像をあらはし、一は佛像ー體をあらはし、径ー尺五寸)と見ゆ、是れ懸佛なるべしと、此鋳物の蓋の様なる銅器に刻文あり、
・・・・
・・・・〔中略〕

而して永く神佛混淆にて伝来せしが、維新の際 神佛分離令達に依り、再び往昔の制に復し、延喜式内 遠賀(ヲカノ)神社と改称し、明治九年十一月郷社に列す、同十一年五月本殿、拜殿 末社 等悉く炎上せしが、同十五年に至り本殿新築、續いて同四十一年十月拜殿を新築せり。

本社の御神體は金幣、御鏡なりと云ふ、寶物類としては次に示すが如し。
・・・・
・・・・〔中略〕

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原) (hai)」(90度のお辞儀)

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出羽国 9座(大2座・小7座)

一緒に読む
出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について

出羽国(でわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 出羽国には 9座(大2座・小7座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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