実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

越智神社(中野市越)

越智神社(おちじんじゃ) 口碑によれば 天武天皇 白鳳13年(684)の勧請 往古 越智山の頂上に鎮座し その嶺が険しく里社を造営し後 現地に奉遷 旧地には石祠を建て天神社と称し 旧越村の産土神である 即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるはこれなりとする 式内社論社です

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

越智神社(Ochi Shrine)
おちじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長野県中野市大字越字屋敷添740

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》御穂須須美命(Mihosusumi no mikoto)『出雲風土記』に所造天下大神と奴奈宜波比売命との御子
《合》菅原道真公(Sugawara no michizanekou)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

口碑に云う 天武天皇  白鳳13年(684)の勧請

【由  (History)】

創立の年月を詳らかにせず
されど口碑に云う 天武天皇  白鳳13年(684)の勧請にして 往古 越智山の頂上に鎮座せしを その嶺の険るを以って 里社を造営し 後 現地に奉遷し 旧地に石祠を建て天神社と称せりと 科野村の内 旧越村の産土神たり
即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるこれなり

『明治神社誌料』〈明治45年(1912)〉より抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

越智稲荷社《主》宇迦之御魂神

社頭の前 坂下に鎮座

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)信濃国 48座(大7座・小41座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高井郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 越智神社
[ふ り が な ]をちの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Wochi no kamino yashiro)

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の
信濃國 高井郡 越智神社」の5つの論社について

『特選神名牒』大正14年(1925)出版よれば「式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど 寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず」
と3系統あります

・越智神社(須坂市幸高)

一緒に読む
越智神社(須坂市幸高)

越智神社(おちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「信濃國 高井郡 越智神社」の論社です 湧水池の多いこの地に移住した越智氏の祖神 饒速日命を産土神として 後 諏訪神 建御名方神を勘請し神社名を諏訪大明神とし 寛延3年(1750)神社名を越智神社に改め 延喜式内社として今日に至ります

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・越智神社(中野市越)

一緒に読む
越智神社(中野市越)

越智神社(おちじんじゃ)は 口碑によれば 天武天皇 白鳳13年(684)の勧請 往古 越智山の頂上に鎮座し その嶺が険しく里社を造営し後 現地に奉遷 旧地には石祠を建て天神社と称し 旧越村の産土神である 即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるはこれなりとする 式内社の論社です

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・小内神社(長野市若穂綿内)

一緒に読む
小内神社(長野市若穂綿内)

小内神社(おうちじんじゃ)は 社伝及び古文書に 住古は妙徳山頂の小祠が本社で 越智神社と称し 幾度かの水害により社号額流失の伝承が残る 永正元年(1504)2月現在地に遷宮 寛延年間の式内社定め時(1624~1644)互いに論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載する

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・諏訪社(長野市若穂綿内)〈小内神社の古社地〉

一緒に読む
諏訪社(長野市若穂綿内)

諏訪社(すわしゃ)は 式内社 越智神社(をちの かみのやしろ)の旧社地とされ その跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです 越智神社の創建は 天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀ったのが開基で 『延喜式神名帳(927年編纂)』の頃は 現 宮王神社(長野市若穂綿内)に鎮座 鎌倉時代頃(1192~)清水の片山地籍〈当社 諏訪社〉へ さらに室町時代後期の永正元年(1504~)現 小内神社に遷座と伝わります

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・宮王神社(長野市若穂綿内)〈小内神社の古社地〉

一緒に読む
宮王神社(長野市若穂綿内)

宮王神社(みやおうじんじゃ)は 創建は天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の頃には この地に鎮座したと伝わります 越智神社は 鎌倉時代(1192~)に清水の片山地籍へ さらに室町時代後期の永正元年(1504)に現 小内神社に遷座しました 現在の宮王神社はその跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

信州中野駅から 県道414号を北上 約4.6km 車10分程度

社頭に社号標郷社 式内 越智神社」とあり
越智神社(Ochi Shrine)に参着

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朱色の両部鳥居に 緑色の扁額に金文字で「式内 越智神社」と掲げられています

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地元の青年たちが 幟旗日干しする奉仕をされていて 境内一杯に旗が干されていました 奉仕作業の邪魔は出来ませんので 鳥居前から「こちらからお詣りさせてください」と声をかけると 明るく笑顔が帰って来て「ご苦労様です」と声を頂きました

鳥居前にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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里人の奉仕により 守られている神社に振り返り 一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

『新撰姓氏録』から越智直を引用して 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫と記しています

【意訳】

越智(ヲチノ)神社

姓氏 越智直神 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

祭神を 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ)だろうとして 『新撰姓氏録』から越智直を引用して 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫と記しています

【意訳】

越智神社

越智は 仮字なり
〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ)
姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

所在として ・綿内村の小内神社・幸高村の越智神社・越村の越智神社の3つを論社として挙げ その論点を詳細に記し 綿内村の小内神社が式内社として比定しています

【意訳】

越智神社

祭神 可美摩遅命(うましまぢのみこと)

今按〈今考えるに〉
新撰姓氏録 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)とあるによらば 越智直の祖神 饒速日命を祭れるならん歟(や) されど今 姑く社伝に従う

祭日 5月6日 6月21日 8月27日
社格 郷社(明細帳に 綿内村は 社号 小内神社郷社とあり 越智神社は幸高村にして村社なり)
所在 綿内村(上高井郡綿内村大字綿内)

今按〈今考えるに〉
本社所在
一は綿内村 小内神社
一は幸高村 越智神社
一は越 村 越智神社と云いて言って一定せず
式社考 按云 現今 呼称による時は幸高村相当の如くなれど
寛延年間(1624~1644)式社定めの時より互いに論争を醸し 当時裁決疎漏なるを以って紛乱の説あるなり

 この社号は 綿内村の上申には確証なしと雖も 村内に地名現存し 寛永6年(1629)の古帳に越智山組田方名寄帳と題し 今も越智山組と云い その地の山を越智山 その地の寺を越智山蓮壷寺と云いて昔の神宮寺なるも由あり

幸高村は 社地に越智池あり 越智清水と云ありとて 一小所の名を証としたるは信じがたく

越村の社に至りては 式社に非ること幸高村の旧書類にも所見あり 村名の越を越智の文字に付会したるなれば拠るべきものなし

姑く 綿内村の神社の旧号 越智神社なるを小内神社と称したるを今 又 越智神社と云うは疑わしきに似たれど 地名の確証あること上に云るが如く

且つ同社上申に寛延式社定めの時 幸高村にて旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き居しに 同郡 式内 小内神社は未だ何れよりも願出されば 右社号を願い然るべしと云者あるにより 願出しに許可を得たるを以って 夫より小内神社と称したる由 述べたるにて その事実明瞭なり 故 今附た後考に備ふ

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

越村の越智神社を式内社として 比定して記しています

【意訳】

長野縣 信濃國 下高井郡 科野村大字屋敷添

郷社 越智神社

祭神 御穂須々美(ミホススミノ)神 菅原道真公

創立の年月を詳らかにせず
されど口碑に云う 天武天皇  白鳳13年(684)の勧請にして 往古 越智山の頂上に鎮座せしを その嶺の険るを以って 里社を造営し 後 現地に奉遷し 旧地に石祠を建て天神社と称せりと 科野村の内 旧越村の産土神たり
即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるこれなり
神名帳考証越智(ヲチノ)神社 饒速日命 姓氏録云 越智直 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)
神社覈録越智神社 越智は 仮字なり 〇祭神 越智直(オチノアタイ)祖(オヤ) 歟(ヤ)〇姓氏録 左京神別上 越智直 石上朝臣同祖 神饒速日命(カムニギハヤヒノミコト)之後(スエ)也(ナリ)

大日本神祇志「越智神社〇今在 綿内村 曰 小内社 その地有り越智山 即ち古名の遣 蓋祀 越智直祖 饒速日命を祀る 〇按 社説 可美摩遅命(うましまぢのみこと)蓋父子相誤 故 今訂 云々
神祇志料越智神社 旧趾 今 綿内村越智山に在り 蓋越智直 祖神 饒速日命を祀る 〇〇按 社説 可美摩遅命(うましまぢのみこと)を祭るとするものは 父子を誤れる伝えなり 故今これを訂す 云々」而して
新鈔格勅符に 天慶元年 この神に神封一戸充られしこと見ゆ
文禄4年 検地の際 森左近太夫 社領高外7石6升3合を附す
慶安3年 社殿洪水に流亡し 承慶2年現地に再建す
文政7年2月 吉田家に請い社号の告文を受く


明治6年4月 郷社に列す 同39年12月天神社を合併す
社域は谷街道越橋を測る2丁餘の東北方に在りて 越智山を背にし 星河を隔てて西南諸村落を一牟に収め 頗る眺望の勝あり 土地広からずと雖も 境内の森巌なる

社殿は 本殿 拝殿 祝詞殿 通殿 神饌所 神楽殿 祭器物置 寶蔵 社務所 鳥居等を具備し 境内地464坪あり 其の他 境外 山林宅地田畑等少なからず 宝物又 数多所蔵せり

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』

越智神社(Ochi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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信濃国 48座(大7座・小41座) に戻る

一緒に読む
信濃國 式内社 48座(大7座・小41座)について

信濃国(しなののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 信濃国(しなののくに)には 48座(大7座・小41座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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