実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

小被神社(寄居町富田)

小被神社(おぶすまじんじゃは 27代安閑天皇の朝〈531~536年郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます

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 1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

 【神社名(Shrine name

小被神社(Obusuma shrine

 通称名(Common name)

明神様(みょうじんさま)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県大里郡寄居町富田1508

  (Google Map)

 【御祭神 (God's name to pray)】

《主》瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

《配》木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
   彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

 【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

小被(おぶすま)神社 略誌

鎮座地 埼玉県大里郡寄居町大字富田字宮田,五〇八番地

御祭神 主神 瓊瓊杵(ににぎ)
    相殿 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)
    相殿 彦火火出見(ひこほほでみ)

 
富田邑は、第二十七 安閑(あんかん)天皇の朝(みよ).千四百七十年前 郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)、塚越に居住せしに始り、富鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。

延喜式内社 第六十 醍醐(だいご)天皇 延長 平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて,〇八一年前。

男衾郡総鎮守
旧村社

御神徳
主神 瓊瓊杵尊は皇祖 天照大神の御孫にて豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。

相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。

相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火(ほほ)は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。

 
一月一日 新年祭
年頭にあたり幸先(さいさき)を祈念し,氏子社に互礼を交す。

月第二日曜日 春祭
神社本庁より幣饌料供進、祈年(としこひ)祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を祈願する。

月第二日曜日 秋祭
以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。

十二月三十一日 大祓
年間思はずも積ったてあらふつみ汚(けがれ)を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。

平成十八月吉日 小被神社社務所

現地掲示板より

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【由  (History)】

由緒

富田邑は、第27代安閑天皇の朝、郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富田鹿が郡内鎮護のため創祀せりと伝承。
延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1063年前。男衾郡総鎮守。旧村社。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

明神川 赤浜南側道路 改修記念碑 宮司 持田倫武書

 本地域は大里郡寄居町の東方に位置し、東武東上線、男衾駅より、約〇キロメートルにあり、北側を赤浜集落、南側を吉野川が流下し、又県道赤浜小川線に囲まれた自然豊かな地域てある当小被神社はすぐ前を流れる明神川の左岸に鎮座 廷喜式内社であり田地区の総鎮守として古くより里人の信仰を集めてきた。

然るに今日の地域の発展に伴い明神川、及び赤浜南側道路の改修が望まれたこれらを解消すべく地権者の協力と氏子の皆様、及び総代の熱意と団結且つ努力、又町行政の御指導に対し深く敬意を表すと共に感謝を申し上げ本事業が地域発展に多大に寄与すること大なりと信じ皆様繁栄と幸せを祈念しつつ人の和を讃えここに事業完成を祈念し碑に刻んで末長く後世に伝えんとするものである。

平成二十七吉日
 司 持田倫武 撰文
総代長 栗原茂樹 撰文

現地石碑文より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社頭

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・社頭 二の鳥居

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・社頭 向かって右手の建物 参集所?社務所?

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・参道

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・手水舎 神楽殿

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〈参道向かって左に並ぶ 境内社摂社〉

 ※明治40年 近隣の無格社10社を合祀した際 かつての本殿ごとに覆屋を建てて 境内社として祀られているもの

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〈もと伊勢原 鎮座〉・神明神社《主》天照皇大神

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〈もと中郷 鎮座〉・愛宕神社《主》軻遇突智神

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〈もと谷津 鎮座〉・白山神社《主》菊理姫命,伊弉諾尊,伊弉冉尊

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〈もと塚越 鎮座〉・稲荷神社《主》保食神

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〈もと下郷 鎮座〉・内の宮社《主》瓊瓊杵尊

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〈もと頭牛 鎮座〉・天王宮《主》須佐之男命

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〈社殿向かって左手に祀られる石祠 境内社 末社

〈もと堂ノ入 鎮座〉・山神社《主》大山祇命
〈もと谷戸 鎮座〉・山神社《主》大山祇命
〈もと鷲丸 鎮座〉・冨士浅間大神《主》木花咲耶姫命

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・社殿〈本殿の覆殿〉

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本殿修覆記念碑

  武蔵國男衾郡富田村に鎮座する延喜式内社 小被神社は古より里人の信仰厚く祭祀の中心としてて現在に至るに近年社殿の老朽化甚しく氏子一同相諮りて天皇陛下御即位十年記念事業として本殿修覆並に御内陣壁代の調整を行った。
平成十五年二月吉日

現地石碑文より

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

 〈小被神社 旧鎮座地〉

・不動寺(寄居町富田)

一緒に読む
不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉

不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

 この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

 『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

 延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

 [旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)男衾郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 小被神社
[ふ り が な ]をふすまかみのやしろ)
[Old Shrine name]Wofusuma no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)の論社について

・小被神社(寄居町富田)

一緒に読む
小被神社(寄居町富田)

小被神社(おぶすまじんじゃ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 郡内鎮護のため創祀と伝承されます 当初の鎮座地は 現在の不動寺(寄居町富田)の境内地辺りでしたが 天正年間(1573~1591年)この地に遷座しました 延喜式内社 武蔵國 男衾郡 小被神社(をふすまの かみのやしろ)とされます

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・不動寺(寄居町富田)の境内
〈小被神社旧鎮座地〉

一緒に読む
不動寺(寄居町富田)〈小被神社 旧鎮座地〉

不動寺(ふどうじ)は 第27代安閑天皇の朝〈531~536年〉郡家郷(ぐうけきょう)富田鹿(とみたろく)が 富田村字塚越(現在の大聖山真言院不動寺境内)に祠を建て゛小被神゛を祀った〈式内社 小被神社の旧鎮座地〉とされ 平安時代末期には この地を領有した 武蔵七党のひとつ猪俣党一族の武将 不動寺太郎の居館跡であったとも 男衾氏・横瀬氏の館跡とも云われています

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小被神社 遷座の理由

 天正年間(1573~1591)荒川の大洪水によって 赤浜村が流失して 赤浜村民が川沿いの低地から 標高の高いこの辺りのに耕作地を与えられて移り住み始めました すると 土地の領有権争いが起こったとのこと 寛文9年(1669)赤浜村との村境を明らかにさせる為 小被神社旧鎮座地〈不動寺(寄居町富田)〉から遷座させて ここに鎮座したという事で 境内の入口は富田 社殿は赤浜に建っています

一方 赤濱の゛出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)゛も 荒川沿いの赤濱村から この台地に遷座しているので 式内社の論社が 非常に近い位置に鎮座しています

最初の参拝時には 別々の式内社がこんな近くにあるのだろうかと疑問を持ちましたが どちらも 別の場所から遷座したものと分かり 納得したことを思い出しました

赤濱の゛出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)゛については

・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

一緒に読む
出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)

出雲乃伊波比神社(いずものいわいじんじゃ)は 天喜年中(1053~58)源頼義が 奥州征伐の途 当社に白旗を献じて戦勝を祈願し「白旗八幡社」と称し 荒川沿いの赤濱村に鎮座しましたが 天正8年(1580年)荒川の度重なる氾濫により 住民と共に現在地に遷座します 江戸時代までは「八幡さま」と呼称されますが 明治になって『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社として 現在の社号に変更しました

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・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地 

一緒に読む
八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)

八幡塚旧跡は 井椋神社に合祀された 字栗坪にあった祠「白旗八幡社」の旧鎮座地の跡になります 従って『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社の跡地ですが 延喜式の時代(927年)には 当地に鎮座していたことになります

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

東武東上線 男衾駅 東口から県道252号・274号経由 東へ約1.1km 車5分程度

小被神社(寄居町富田に参着

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一礼をして 社頭の鳥居をくぐり 境内に進みます
参道向かって左手には 境内社が並んで祀られています

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参道向かって右手には 神楽殿

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参道を
拝殿にすすみます

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石灯籠の先には 新しい狛犬が座します

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拝殿は 本殿の覆殿でした

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内社にお参りをしながら 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承

小被神社(寄居町富田)について 式内社 小被神社であると記しています
所管は 旧鎮座地であった「不動寺の持」となっています
現在 小被神社の境内社として祀られている 各字の鎮守も記されています

〈式内社 小被神社の旧鎮座地とされる不動寺については 特に式内社との関連は述べていませんが゛當住まで二十六世に及゛と記し 古寺であることを記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百二十三 男衾郡 巻之二 鉢形領之一 富田村

小被神社

延喜式神名帳に載る 武蔵國 男衾郡 小被神社是なりと云
祭神 瓊瓊杵尊にて 郡内の惣鎮守なり されど古文書棟札等の證とすべきものなし 社もさせる大社にあらで 免田纔に壹段五畝なり
不動寺の持

〇稲荷社 塚越の鎮守なり 村持
〇内 宮 祭神等詳ならず 字小菅の鎮守なり 村持

〇大神宮
〇天神社
〇浅間社 以上三社 不動寺持

東全院・・・・

不動寺
新義眞言宗 京都知積院の末 大聖山明王坊眞言院と號す 本尊不動は大山不動と同木同作と云傳ふ 開山元成法印遷化の年代詳ならず 當住まで二十六世に及と云
鐘樓門 天明二年鑄造の鐘をかく
清龍権現社
稲荷社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『新編武蔵風土記稿』 著者:間宮士信[数量]265巻80冊[書誌事項]活版 ,明治17年 , 内務省地理局[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 小被神社について 所在は富田邑〈現 小被神社(寄居町富田〉と記しています

【抜粋意訳】

小被神社

小被は郡名に同じ
○祭神 瓊々杵尊地名記
○富田邑に在す、同上
例祭  日、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 小被神社について 社名 小被(ヲブスマノ)神社とだけ 記されています

【抜粋意訳】

小被(ヲブスマノ)神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 小被神社について 所在は富田村〈現 小被神社(寄居町富田〉と記しています

祭神については 瓊瓊杵尊 木花咲耶姫命 彦火火出見命とあるが 何故この三柱の神が祀られているのか 理由はわからない とも記しています

【抜粋意訳】

小被神社

祭神
今按〈今考えるに〉

明細帳 祭神 瓊瓊杵尊 相殿 木花咲耶姫命 彦火火出見命とあるは何の據ありて云るか考べき由なし

祭神 三月十五日
社格 村社

所在 富田村(大里郡男衾村大字富田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

小被神社(寄居町富田 (hai)」(90度のお辞儀)

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武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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