実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

小祝神社(高崎市石原町)

小祝神社(おぼりじんじゃは 創建は不詳で 大和朝廷の六国史『日本三代實録元慶四年(880)の条に小祝神 正五位上゛と見え 延喜式神名帳927 AD.所載 上野片岡郡 小祝神社をはふりの かみのやしろ)〈 上野國の式内社 上野十二社の第七社に比定さる古社です ご祭神は 医薬及び穀霊神 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

小祝神社(Obori shrine

通称名(Common name)

おぼりさま

【鎮座地 (Location) 

群馬県高崎市石原町1247

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主祭神》少彦名命(すくなひこなのみこと)

合祀されている祭神 二十一柱
速玉男命・大日孁命・五十猛神
・健御名方神・大國主神・誉田別命
・伊弉册命・宇氣母智神・倉稲魂神
・大名持神・大山祇命・八衢姫命
・菊理姫命・軻遇突智命・八衢彦神
・久那止神・市杵嶋姫命・事解男命
・素盞鳴命・菅原道真公・藤原家隆卿

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

安産・子育守護神
悪疫退散(あくえきたいさん)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・ 上野國七

【創  (Beginning of history)】

小祝神社

元慶四年(八八〇)に正五位が贈られているが、創建ははっきりしない
延長五年(九二七)の延喜式神名帳に載せてある上野二社の第七社に加えられているから その時からでも千年以上たっている
祭神は「すくなひこなの命」で安産の守りとされている

境内に芭蕉句碑がある
 しばらくは花の上なる月夜かな

社団法人 髙崎観光協会

現地案内看板より

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小祝神社

 小祝神社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として崇敬篤い社である。
 神社の創建は不詳であるが元慶四年(八八〇)に正五位が贈られ、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に上野十二社の第七社に加えられており、その時からでも千年以上たっている。
 祭神は、「少彦名命(すくなひこなのみこと)」で医薬及び穀霊神であるところからこの土地の豪族が、悪疫退散(あくえきたいさん)・五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願して建立したものと思われる。現在の社殿は江戸時代の正徳年間、高崎城主 間部越前守詮房により造営されたものである。
 四月と十月の祭典には、神楽が奉納され多数の参詣者で賑わう。
 境内には、
  「しばらくは 花の上なる月夜かな」の芭蕉句碑がある。

社団法人 髙崎観光協会

現地案内板より

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【由  (History)】

小祝神社

 当社は片岡の鎮守として、また安産・子育守護神として篤い崇敬を受けています
 神社の創建は不詳で元慶四年(八八〇)に正五位が贈られ、延長五年(九二七)の延喜式神名帳に上野十二社の第七社に加えられていきす。
 祭神は、少彦名命(すくなひこなのみこと)で医薬及び穀霊神

現在の社殿は正徳年(一七一一 ~ 一五)高崎城主 間部越前守詮房により造営されたものです。四月十九日と十月十九日の祭殿には神楽などが奉納され多数の崇敬者で賑わいます。

現地案内板より

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高崎市指定重要文化財
小祝神社本殿 附享保元年棟札・享保二年奉納額・享保四年寄進銘

 小祝神社は『延喜式神明帳(えんぎしきじんみょうちょう)』に記載された小社で上野国十二社式内社の一つである。主祭神は少名彦命すくなひこなのみことである。
 現在の小祝神社社殿は拝殿(はいてん)・弊殿(へいでん)と本殿(ほんでん)が一体となっている。しかし、拝殿と幣殿は後から建てられたものであり、本殿は建設当初は単独で建っていた。
 間部家文書と奉納額により、正徳三年(一七一三)に建て替えの企画が始まり、享保年(一七一七)に上棟したことが明らかである。また、棟札と彫刻バネルの墨書より、享保元年に起工し、享保年には竣工していたと推定できる。棟札によれば大工棟梁は大塚彦平、木挽(こびき)は高橋嘉助であり、共に高崎町住である。
 当本殿は、三間社(さんげんしゃ)入母屋造(いりもやづくり)、側面三間で向拝(こうはい)三間を付ける。屋根は銅板葺(当初は檜皮葺(ひわだぶき)または柿葺(こけらぶき))とし、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とする。向拝は海老虹梁(えびこうりょう)で繋ぎ、手鋏(たばさみ)を付ける。大床を正側背面の四方に廻し、脇障子を立てる。内部は前方二間を外陣、後方一間を内陣とし、内陣に厨子を安置する。
 背面の一部とはいえ、建造当初から壁面に彫刻バネルを嵌め込む例として現時点では県内最古である。当本殿は高崎市における文化財指定の神社本殿建築として最古であり、また、彫刻パネルを嵌め込む建物の年代判定の指標となる建物として貴重である。

所在地 高崎市石原町一二四七
  平成一四二〇
高崎市教育委員会

現地案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

霊亀元年(七一五)八月丁丑廿八〉の条は 霊亀が献上されたことにより年号を霊亀に改元した記事で「左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星とあり 北斗七星〈妙見信仰〉と通じています

宝亀八年(七七七)八月癸巳十五〉の条は 河内妙見寺上野国群馬郡美作国勝田郡よりそれぞれ50戸の封戸を施入したとあり この封戸施入が契機となって上野国にも妙見信仰の 花園妙見寺 引間妙見寺高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉創建されたと推測されます

【抜粋意訳】

霊亀元年(七一五)八月丁丑廿八〉の条

○丁丑
左京人大初位下 高田首久比麻呂
献霊亀 長七寸 闊六寸 左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星 前脚並有離卦 後脚並有一爻 腹下赤白両点 相次八字

宝亀八年(七七七)八月癸巳十五〉の条

○癸巳
 無位 坂上女王 従五位下
上野国 群馬郡戸五十煙
美作国 勝田郡五十煙捨 妙見寺

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

上野國の神々と共に 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日戊寅〉の条

○廿五日戊寅


上野國

正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城 伊賀保神 從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神 正五位上
十二等從五位上 賀茂神 美和神 正五位下十二等
正六位上 稲褁地神 從五位下勳十二等

内藏寮置寮掌二員を 衣粮以て 藏部料内を 給之

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野 12座(大3座・小9座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)片岡郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 小祝神社
[ふ り が な ]をはふりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wohafuri no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『上野国神名帳(kozuke no kuni jimmeicho)』〈寛政5年(1793)〉には三つの゛小祝明神゛が記されています

三ヶ所の小祝明神は

正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)
従三位 息災寺小祝明神 引間妙見寺高崎市引間町)〉
従四位上 小祝明神〈現 冷水 小祝神社(高崎市冷水町)

が記載されています

【原文参照】

上野国神名帳 上埜国捴五百七十九座

鎮守十二社 正一位 抜鉾大明神 赤城大明神 伊香保大明神 榛名大明神 甲波宿祢大明神 小祝大明神 火雷大明神・・・・・・・

国立公文書館デジタルアーカイブス 『上野国神名帳』『群書類従 神祇部 23』塙保己一寛政5年(1793)- 文政2年(1819)木版刊行https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037294&ID=M1000000000000049991&TYPE=&NO=

【原文参照】

群馬郡百四十六座

従四位上 放光明神 小祝明神 止々呂明神 若伊香保明神・・・・・・・

国立公文書館デジタルアーカイブス 『上野国神名帳』『群書類従 神祇部 23』塙保己一寛政5年(1793)- 文政2年(1819)木版刊行https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037294&ID=M1000000000000049991&TYPE=&NO=

【原文参照】

群馬郡西郡百六十九座

正三位 宮姫明神

従三位 大奈知明神 小奈知明神 息災寺小祝明神 尾張明神・・・・

国立公文書館デジタルアーカイブス 『上野国神名帳』『群書類従 神祇部 23』塙保己一寛政5年(1793)- 文政2年(1819)木版刊行https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000037294&ID=M1000000000000049991&TYPE=&NO=

『群馬県群馬郡誌(Gunmaken gunmagunshi)』〈大正14年(1925)〉に記される伝承

星山妙見寺址(国府村)の旧跡「大字引間の東字花園に舊址 引間妙見寺高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉ついて 記しています

【抜粋意訳】

二○。星山妙見寺址(國府村)

大字引間の東字花園に舊址を存す。相傅ふ天正九年聖武天皇の御建立にして同十八年火災に罹り焼失し後千葉氏再建すと。
續日本紀に曰く賓亀八年(光仁天皇朝)八月癸巳上野國群馬郡戸五十煙、美作國勝田郡戸五十煙捨妙見寺とありて、古は由緒正しき霊場なりしと見ゆ。
元は國府村にありしにや、後上野志に國分村より引移すと見え、其後千葉氏の信仰する處となり、下総國千葉に移せしか相馬日記に北斗山妙見寺に千葉氏が代々渇仰せし妙見菩薩立せ玉ふ、もとは上野國の花園と云ふ所より移し參らせし御佛也といへり云々とあり。
後上野志にも千葉妙見縁起に妙見大菩薩は初は上州群馬郡花園に坐とありと見えたり。憶ふに千葉氏嘗て總社の地を領せしことありとの傅虎あれば或は然るやも知れず、去りながら其の移転の年代は不詳なり。(日本名蹟圖誌)

【原文参照】

『群馬県群馬郡誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1020918/1/333著者 群馬県群馬郡教育会 編 出版者 群馬県群馬郡教育会 出版年月日 大正14

上毛花園星神縁』〈東京都台東区 長国寺蔵〉に記される゛小祝信仰゛について

長国寺蔵上毛花園星神縁』は 和田山村(現・高崎市箕郷町和田山)の松本兵右衛門平常正が千葉妙見寺に奉納したもの

『上毛花園星神縁記』は大島由紀夫『神道縁起物語(二)』(伝承文学資料集成第六輯、三弥井書店、平成四年)に翻刻

小祝信仰と妙見信仰との関わりについて 記されています

【抜粋意訳】

元正天皇の御宇 管領上野大掾藤原忠明卿が 花園村の乾に当たる小祝の池に北斗七星が天から降ったのを見る 池を浚わせると霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光を放つ亀〉が見つかったので 萩の花園に祠を作ってそこに置いた
その後朝廷に献上し 年号が和銅から霊亀に改元された 再び忠明卿は関東下向の勅命を蒙り 霊亀を元の池に納めた

聖武天皇天平元年(七二九)三月二十二日の夜半 小祝の池が鳴動し 亀は光り輝きながら天に昇り北斗七星に入った このことが都へ伝えられ 占いの結果「あの亀は 神使いです 背中に北斗七星の化身 妙見菩薩があり 菩薩のせて 天上に昇っていったのです これは 妙見堂を建立せよという神のお告げ」あり 妙見社が建立され 七星山息災寺と号した また国分寺も建立された 本尊は七仏薬師如来

承平二年(九三二)桓武天皇の曾孫 鎮守府将軍村岡陸奥守平良文が勅命を受け 常陸大橡国香を征伐すべく 上野国群馬郡の染谷川で対戦した 良文は妙見菩薩の加護により勝利した 妙見は星の神の化身であると名乗った

良文は星の宮を里人に尋ね 相馬小次郎将門 村岡小五郎資通 陸奥権介忠頼 鎌倉中将忠光 上野介良時 栗飯原文次郎常時等の七騎で向かい 七番の小笠懸を射て奉った 良文の家臣 栗飯原文次郎は山伏姿となって息災寺に留まり 謀を以って妙見尊像一体を持ち出し 上野国平井で一宿した後 良文の領地である武蔵国藤田に社を立てて神楽を奉納した その後 鎌倉の村岡に寺を建立して妙見尊を安置し 平家千葉の守護神として祀った

 良文の母が北斗七星に祈ると 七星の化身の童子が現れ 良文を授けた それゆえ良文は北斗の神の守護を受けた

 武蔵国秩父の妙見は 良文の四代孫秩父三郎武基(忠常の甥)が勧請した処である 武基の父将常は兄忠常の謀叛に与して討死し 武基は佐渡に流され亡くなった 武基の嫡子武綱は本領を召し上げられて螢居していたが 妙見に祈請し 満願の夜に霊夢を見た その霊夢に従い 源義家の先陣を務めて 武衡家衡の反逆を征伐した その功によって秩父の庄を賜り 従五位下伊予守に任ぜられた

 上総の仁見・植野・大椎・下総の大友・千葉郷の妙見も すべて上野国花園妙見社を移し奉ったものである その内で千葉の妙見尊は 千葉介平常重が勧請したもので 数度の合戦で御利益を被った

 中でも源頼朝が安房国に逃れたとき 千葉介常胤と嫡子胤正は一族郎党率いて馳せ向かった しかし遅れて出立しようとした嫡孫成胤を千田判官親政が襲った 多勢に無勢のところを 成胤は妙見に祈ることで勝利することができた これを聞いた頼朝は大いに感じて妙見社に参詣した

堀川院の寛治七年(一〇九三)、下総の千葉常将の二男相満丸が 学問の為に上野国船尾山に登ったが 行方不明になった 寺の仕業であると恨んだ常将は兵を率いて馳せ登り 一山を焼き滅ぼした この時 息災寺妙見社等が類焼した 霊像は白雲に乗って天に帰った

天平より寛治まで 三百六十余年を経た諸堂玉殿は常将の怒りによって灰燈となった 常将の嫡子常長は父の過ちを悔い その昔忠明卿が霊亀を篭め置いた萩の花園の跡に妙見堂を再造営した 往古の広大な寺の跡は今も残っていて 大きな履石や焼崩れた布目瓦が残されている

宝暦四年(一七五四)小祝池のほとりに石祠が建立

正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉について

一緒に読む
小祝神社(高崎市石原町)

小祝神社(おぼりじんじゃ)は 創建は不詳ですが 大和朝廷の六国史『日本三代實録』元慶四年(880)の条に゛小祝神 正五位上゛と見え 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 片岡郡 小祝神社(をはふりの かみのやしろ)〈 上野國の式内社 上野十二社の第七社〉に比定さる古社です ご祭神は 医薬及び穀霊神 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ります

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従三位 息災寺小祝明神 引間妙見寺高崎市引間町)〉について

〈参考〉・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉

一緒に読む
妙見社・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉

妙見社(みょうけんしゃ)・妙見寺(みょうけんじ)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この花園里に祀られた妙見神が〈息災寺小祝明神〉です

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群馬県高崎市冷水町字川窪 鎮座 従四位上小祝明神について

〈参考〉・小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)

一緒に読む
小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)

小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)秋 管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この小祝池の辺に祀られる石祠が 冷水 小祝神社です

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR高崎駅から 観音通り経由 西南へ約1.9km 車7分程度

社頭には 黒御影石の社号標に゛延喜式内社 小祝神社゛と刻まれています

小祝神社(高崎市石原町)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます 参道の右手には社務所

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社檀へと上がる石段の手前には 再び社号標があり゛上野國 七ノ宮゛とあります

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境内には゛小祝神社 甚句 上州相撲甚句会゛の看板がありました

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拝殿にすすみます 見事な装飾と扁額には゛正一位 小祝大明神

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿は 拝殿の奥に幣殿 本殿が一体化しています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています

【抜粋意訳】

小祝(ヲハウリ)神社

和鈔 新田郡祝人

国帳 従一位 小祝大明神 清奥 石原村に在といへり
三実 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています

【抜粋意訳】

小祝神社

小祝は 乎波布里と讀り

〇祭神 少彦名命 地名記
〇石原郷半田村に在す 地名記

神位
三代実録 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上
国内神名帳云 従一位 小祝大明神

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています

【抜粋意訳】

小祝(ヲハフリ)神社

今 石原村に在り 小祝大明神と云ふ、上野國志、巡拝舊祠記、上野國神名帳考証、
即 上野七宮也、神道集
陽成天皇 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上、三代実録

凡 其の祭 三月十九日を用ふ、明細帳

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています

【抜粋意訳】

小祝神社

祭神
神位 陽成天皇 元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上

祭日 三月十九日
社格 郷社
所在 石原村(群馬郡片岡村大字石原)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

小祝神社(高崎市石原町)について 式内社 小祝神社であると記しています

【抜粋意訳】

〇群馬縣 上野國群馬郡片岡村大字石原字西半田名所

郷社 小祝(ヲハフリノ)神社

祭神 少名毘古那(スクナヒコナノ)神

創立年代詳ならず、但、三代実録に、「元慶四年(八八〇)陽成天皇 五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上」と見え、
延喜の制式内の小社に列せられたる古来著名の神社にして、國帳 従一位 小祝大明神と記し、当國七ノ宮たり、
正親町天皇 永禄三年兵火の為 社殿鳥有に帰せしが、中御門天皇 正徳年中 別当石昌寺四世住職高珍、領主間部越前守に乞て 新に社殿を造営し、同享保二年落成す、今の社殿なり、
社傍の田地に小祝名所の號あり、往古の神田なりしなるべし、
明治五年十一月郷社に列す、
社殿は本殿、拝殿、其の他神楽殿、籠屋等あり、境内は七百一坪 桧杉楓櫻相点綴す、境外に逆櫻あり、法性寺入道吉野より櫻の枝を杖として来り、此の地に挿みたりしに、後繁盛茂今日に至ると、樹下に碑あり、建武年代の建設なりと云ふ。

境内神社 厳島社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『上野國志(Kozukekokushi)』に記される伝承

式内社 小祝神社について 所在は石原村〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉と記しています

【抜粋意訳】

片岡郡 〇神社

小祝(をほふり)神社

石原村にあり、

延喜式曰、片岡郡、小祝神社

三代実録、元慶四年(八八〇)五月廿五日 授 正五位下 小祝神 正五位上

本地薬師佛

【原文参照】

『上野国志』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/763813/1/1著者 毛呂権蔵 (義郷) 著 出版者 環水堂 出版年月日 明43.9

小祝神社(高崎市石原町) (hai)」(90度のお辞儀)

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上野國 式内社 12座(大3座・小9座)について

上野国(かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上野国には 12座(大3座・小9座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています