野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります
拝殿の社号額 ゛正一位 楙埜芽大明神゛ 享保十二未(1727)
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
野芽神社(Noge shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県比企郡吉見町和名464
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》草野姫命(かやのひめのみこと)
本殿覆屋の内 本殿の両脇に祀られる〈大正元年八月二十一日 合祀された〉神社
《合》〈字丸山に鎮座〉八幡社
《合》〈字合ノ田に鎮座〉白山社
《合》〈江戸時代からの当社末社〉稲荷神・八坂社 合殿
〈稲荷神・八坂社 合殿に合祀された・《合》〈字稲荷に鎮座〉稲荷社〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社《参考》
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代等は不詳
イネ科植物の穂先〈鱗片(穎)の先端にある棘状の突起〉を芒(のぎ・のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります
【由 緒 (History)】
野芽神社
吉見町和名四六四(和名字丸山)
吉見丘陵の東端部一帯は、古くから谷田が開かれた所で、中世には、横見郷と呼ばれていた。当社の鎮座する和名は、この横見郷に属した村で、その地名は、『郡村誌』に「地味 真土三分 赤色埴土七分」とあるように、埴土の多い土地であるため、「埴」が転訛したものと考えられている。
当社の社名の「野芽」は「のげ」(『風土記稿』では「のぐ」)と訓んでおり、イネ科植物の穂先にある剛毛である芒のことを意味している。『曾丹集』に「我守るなかての稲も芒は落ちてむらむら穂先出でにけらしも」という歌があるが、稲や麦の穂先に伸びる芒は豊かな実りをもたらすもの、すなわち穀霊が宿る依代に見立てられていたことは十分に推察できる。
横見郷の総鎮守は、式内社の横見神社に比定されている飯玉氷川明神社(旧号)で、「飯玉」という社号が示すように稲に宿る穀霊を祀る社であることを考え合わせると、当社もまた、芒に宿る穀霊を祀った社であるということができよう。なお、『明細帳』によれば、祭神は草野姫命となっている。
また、拝殿には、江戸時代に奉納された「正一位野(埜)芽大明神」という社号額が二枚掲げられており、そのうちの一枚の裏面には「享保十二未(一七二七)八月二日」の年紀が見えることから、このころ京都の吉田家から極位を受けたものと思われる。
『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈社殿の真後ろの石祠〉
※石祠については 詳細不明ですが「平成の祭」データーには境内社として・浅間神社《主》木花咲耶姫命《合》誉田別命,菅原道真公が記されています
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)横見郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 横見神社
[ふ り が な ](よこみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Yokomi no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
野芽神社(のげじんじゃ)を式内社 横見神社の論社と推定する郷土史研究家の説
越谷市郷土研究会の案内人 宮川進氏が仲田靖之介君の豊国として 式内社 横見神社の論社について 野芽神社(吉見町和名)ではないかとの 推説を記しているので紹介します
式内社 横見神社については 御所村の飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉が有力視されていますが 確証はなく 比定社はなく 現在は 複数の論社があります
ここに紹介する 郷土史研究家による推定も 確証はありませんが その熱意に敬意を表して その論点について紹介します
①御所村の飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉と同様に穀霊を祀って創祀
横見郷の総鎮守 御所村の飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉は ゛飯玉゛という社名が示すように稲に宿る穀霊を祀る社です
同じく野芽(のげ)神社が イネ科植物の穂先〈鱗片(穎)の先端にある棘状の突起〉を芒(のぎ・のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わり 同じ穀霊信仰である事
➁吉見丘陵の高台から 横見郷の村々を見下ろし見渡せる
横見郷の村々を見下ろし見渡せる 吉見丘陵の高台の東南端に鎮座している事
を挙げていて興味深いものがあります
越谷市郷土研究会 第一八九回 史跡めぐり案内 より抜粋
越谷市郷土研究会 第一八九回 史跡めぐり案内
案内人 宮川進 平成四年二月二十三日「東松山 黒岩横穴群 吉見観音」
・・・
・・・私は仲田靖之介君の発見された、和名村の野芽(のげ)神社が式内横見神社であると思う。次に彼の報告を述べる。
-和名村の野芽神社は高負比古神社(田川・山の下)~伊波比神社(黒石)に続く吉見丘陵が少し低くなり、南に突出した丘の上にある。境内は杉の古木数本あり、全体としてコンモリした森で、その丘の下を横見川が流れている。和名の部落は広く、和名沼や学校前も合まれている。
昔はワラブキの神楽殴もあった。帰途、さらに遠くからこの丘を眺めると、関西なら式社がありそうな、古代村落の人々が仰ぎ見るような風景であった。
五万の地図を見ると、和名は黒石の伊波比神社の南一キロにあり、南に久米田・南東に下細谷・加美(久米田の東南)などの農村が連なり、いずれも上古の氏子部落であったらしいことは一見明瞭である。したがって横見郷はこれらの氏子の村々を含んでいたのであろう。
私はこの和名村の野芽神社を式内横見神杜と確信するものである。野芽(のげ)は野毛で、上野毛・下野毛と同義の語であろう(氏子代表に聞いたが、古い伝承は何も無かったという)。
野芽神社(吉見町和名)と他の式内社 横見神社の論社との位置関係について
郷土史研究家による推定を考慮して 野芽神社(吉見町和名)の位置を考証してみると 野芽神社は・横見神社(吉見町御所)と・横見神社(吉見町久保田)のちょうど中間辺りに位置します
野芽神社(吉見町和名)の鎮座地は 吉見丘陵の上 東南端にあり 古代の横見郡であった 丘陵とその崖下から荒川までの平地が見渡せます
古代において 大河や低地の湿地帯は 潅漑工事が出来なくて いつも洪水の危機があり 水田には適していませんでした
むしろ 吉見丘陵の谷間には 地表近くに湧水があり 丘陵の谷間は 縄文期より人々が生活した場所でした
先程の『越谷市郷土研究会』のレポートを見ると 次のように記されています
「吉見丘陵のなかは、地下水が地上近くまできているところが多いようだ私がある農家の庭先の井戸をのそいて見たら、地上から三分の一メートルほど下まで水がきており、つるべは使用せず、ひしゃくで水を汲みあげていた。だから、少し掘りくぼめれば、すぐ水が出るので、用水溜をつくるに適当な場所は、比較的容易に見つけられたであろう。
四辺森林に蔽われた当時としては、もっと水が豊富であったろうから、この水を利用して、農耕が早くから始められたということも、じゅうぶん考えられる。」
こうしたことも考慮した時 野芽神社(吉見町和名)の辺り 鎮座地゛和名゛は 古代から栄えていた地域であることが分かっています
鎮座地゛和名゛は 水も豊富で 古代から 工業〈窯業〉も盛んで゛和名埴輪窯跡群゛がありました
和名埴輪窯跡群は 和名沼に面した南斜面〈斜面の前面が和田沼〉に発見された古墳時代の窯跡群です 埴輪〈古墳周囲に配置した埴輪〉を製造していたとされます
吉見町HPには「古墳時代の遺物である埴輪は500℃以上の高温で焼くために、半地下式の登窯やトンネル等の施設が必要であった。和名埴輪窯跡群は、そうした登窯が集中しており和名沼の北側斜面一帯に広がっている。昭和49年に行われた発掘調査では、円筒埴輪・形象埴輪を伴って4基の登窯を検出しているが、この付近一帯にはさらに多くの窯跡が存在していると考えられる」
発掘調査で 数多くの埴輪が発見されています
和名埴輪窯跡
古くから、ここ和名沼の北側斜面一帯は、多くの埴輪が発見されることで知られていました。昭和四十九年に行われた発掘調査では四基の埴輪を焼いた登り窯の跡が見つかっています。昭和六十二年にはさらに一基の窯跡があることが確かめられ、そのままこの場所に遺されています。これら以外にもたくさんの登り窯跡があると考えられており、県内有数の埴輪窯跡群のひとつです。
埴輪は、今からおよそ一六〇〇年前から一二〇〇年前頃まで続いた古墳時代の豪族の墓である古墳の廻りに設置されたものです。
ここで焼かれた埴輪には、人物、馬などの形象埴輪や円筒埴輪があり、近くの久米田古墳群をはじめとする吉見丘陵や、岩鼻古墳群などの松山台地上に造られた多くの古墳に設置するために生産されたと考えられます。
吉見町教育委員会現地案内板より
横見郡の式内社 三社〈・横見神社・髙負比古神社・伊波比神社〉の位置関係
〈・横見神社・髙負比古神社・伊波比神社〉三社の式内社の位置関係を見ると興味深いことが見えてきます
横見神社を野芽神社(吉見町和名)と仮定した場合
式内三社が全て 吉見丘陵の東側の崖上に南北に 横見郡を上中下と三分割したように並んで鎮座している事に気が付きます 眼下には大河の旧荒川に洗われた平地があります
吉見丘陵の東端をめぐった荒川流域に式内三社が存在したのは 史実に確実で 太古には崖下すぐを旧荒川が流れていたこともありますので
やはり 式内三社は 吉見丘陵の上にあったであろうとする説は 力説しても良いと思います
・〈吉見丘陵上の北東端〉式内社 髙負比古神社(たけふひこの かみのやしろ)
吉見丘陵の東北端 ポンポン山〈玉鉾石〉に鎮座 吉見丘陵の崖があり「岩山の下にかつては湊石があり 船の綱を結んだ石と伝えられ 船着き石とも呼ばれていた」
・高負彦根神社(吉見町田甲)
高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は 吉見丘陵の東北端 ポンポン山〈玉鉾石〉に鎮座します 創建は和銅三年(710)と伝えられ 宝亀三年(772)の太政官符には 武蔵国の班幣対象社四社の内として「横見郡 高負比古乃社」と記される古社 延喜式内社 武蔵國 横見郡 高負比古神社(たけふひこの かみのやしろ)とされています
高負彦根神社(吉見町田甲)
・〈吉見丘陵上の中間辺りの東端〉式内社 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)
旧鎮座地は 現社地の西方の吉見丘陵の八幡台という高台〈吉見観音の観音山の地続き〉
・伊波比神社(吉見町黒岩)
伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました
伊波比神社(吉見町黒岩)
・〈吉見丘陵上の東南端〉式内社 横見神社(よこみの かみのやしろ)(野芽神社と仮定した場合)
野芽神社の東側は 丘陵の崖下になっていて 吉見町が見渡せます
三社の式内社の位置関係について Googleマイマップを作成しましたので参照してください
驚くべきことです
式内社 横見神社を 野芽神社と仮定すると 三社の式内社は 一直線上に並びます〈③は伊波比神社は旧鎮座地〉
更に その先には 御神体が流れ着いたとされる 横見神社(久保田)が鎮座しているのは 神の成せる業か?
吉見(よしみ)の地名について
横見郡(よこみのこおり)の名から 吉見(よしみ)に変化したと考えられています
中世には 吉見郡と記された記録があり 当時は吉見(よしみ)ではなく 吉見(よくみ or よくみゆ)と呼んだらしく よこみ⇒よくみ⇒よしみ と訛ったという説があります
あるいは゛横見゛を好字として゛吉見゛にしたとも伝わります
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れ(いわれ)について
この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りです
武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます
これは第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛横渟(よこゐ)゛伝承
埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おぎ)が 武蔵国造の地位をめぐって争った事が 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん/むさしこくぞうのらん)」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時の武蔵國が 東国の蝦夷(えみし)への前線として 朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
因みに 武蔵國 横見(よこみ)郡の謂れを遡ると 元は横渟(よこゐ)であったと云われます この横見郡は 郡(こおり)としては小規模な範囲ですが 現在の埼玉県比企郡 吉見町辺りで 第27代天皇 安閑天皇〈在位 531~536年〉の時 笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が朝廷に献上した 屯倉(みやけ)四力所の内 横渟(よこゐ)の事であるとされます
【抜粋意訳】
第十八巻 安閑天皇 宣化天皇
安閑天皇 元年閏十二月の条
武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)とが 国造(くにのみやつこ)の地位を争い 長年決着しなかった
※使主(おみ)・小杵(おき)はどちらも名前です
小杵(おき)は 性格が激しく逆らうことがあった 心が高慢で順(まつろう)〈従う〉ことがなかった
ひそかに上毛野君小熊(かみつけのきみおくま)に助を求め 使主(おみ)を殺そうと謀りました
使主(おみ)は悟って 逃げ走り 京(みやこ)に詣で到り 実状を言上しました
朝廷は 臨断〈裁断〉を下され 使主(おみ)を国造(くにのみやつこ)とし 小杵(おき)を誅殺しました国造(くにのみやつこ)使主(おみ)は 恐懼感激して黙し得ず〈黙っていられなくなるほど 喜びが心に満ちた〉
国家のために・横淳(よこぬ)〈横渟(よこゐ)〉・橘花(たちばな)・多氷(おおひ)・倉樔(くらす)の四力所に屯倉(みやけ)を設け奉りました
この年 太歳甲寅(をほとし きのえとら)
【原文参照】
延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社について
・横見神社(吉見町御所)
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます
横見神社(吉見町御所)
・横見神社(吉見町久保田)
〈建長年間(1249~56)大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 現在まで祀られている神社〉
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
横見神社(吉見町久保田)
・氷川神社(吉見町上細谷)
氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります
氷川神社(吉見町上細谷)
・吉見神社(熊谷市相上)
吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
吉見神社(熊谷市相上)
・野芽神社(吉見町和名)〈郷土史研究家による推定 参考論社〉
野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります
野芽神社(吉見町和名)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
和名沼の北岸 和名埴輪窯跡群の南斜面を上がった所 吉見丘陵の東南端
神社脇〈西側〉の広い敷地に駐車できます 東方面は吉見町を一望できます
野芽神社(吉見町和名)に参着
吉見丘陵の高台の東南角を見守るように鎮座している感で 旗立石の先に明神鳥居の石鳥居 境内の東側は崖になっています
参道を進みます
鳥居の扁額には 野芽神社 と刻字されています 一礼をして 鳥居をくぐります
コンクリート製の参道の先には 社殿が建っています
しかし ゴミ一つなく 清掃と手入れされた境内です
かつては もう少し木々が鬱蒼としていたようで 大木が切られた跡がありますので 参道の陽射しはあり 明るい境内となっています
さすがに社殿の辺りは 木々が生い茂り 神聖な感じとなっています
参道には 昭和三年(1928)奉納の石燈籠があります
参道の脇にあるこの石は たぶん 風化した狛犬だろうか?
この石は 何だったのか? 手水舎の跡?
社殿は 拝殿 兼 本殿の覆屋となっているようです
社殿にすすみます
社号額が二つ掲げられています
一つは 社号額 ゛奉献 野芽神社 大正十二年゛
一つは 社号額 ゛正一位 楙埜芽大明神゛ 享保十二未(1727)
社殿の内には 御本殿と その両脇に合祀した社が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は瓦屋根です
興味深いのは 社殿の真後ろに 石祠が一宇
最初見た時には この石祠が本殿かと想いましたが 何の神を祀るのかわかりませんが 合せてお祈りをします
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
野芽神社(吉見町和名)について 和名村の鎮守と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之一九七 横見郡 巻之二 下吉見領 和名村
野芽明神社
村の鎮守なり 常念寺持 下同じ
末社 牛頭天王社 稲荷社
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について (高負比古根神社に由来して 古くは高負村と呼ばれた)田甲村〈現 吉見町田甲〉の゛横見松゛と記していますが 現在どこにあるのかは判りません
その他に 御所村に飯玉氷川社〈現 横見神社(吉見町御所)〉
【抜粋意訳】
横見神社
横見は郡名に同じ
○祭神 素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)
○田甲村に在す、(同上)
例祭、 月 日、
地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、
又 田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、
類社
美作國 大庭郡 横見神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 横見神社について 社号のみ 記されています
【抜粋意訳】
横見(ヨコミノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 横見神社の所在について 御所村〈現 横見神社(吉見町御所)〉と記しています
【抜粋意訳】
横見神社
祭神
今按〈今考えるに〉
明細帳 祭神 素戔嗚尊 稲倉魂神 大己貴命とあり
武蔵式社道程命附に大己貴命はなくて 二社を祭る由 云れど主神は何れの神にますや詳かならず 思ふに素戔嗚尊 大己貴命の内 一座なるべし
稲倉魂命は由ありとも聞えざれば也祭日 九月十五日
社格 郷社
所在 御所村(比企郡西吉見村大字御所)
【原文参照】
野芽神社(吉見町和名)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について