丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
丹生官省符神社(Niukanshobu shrine)
【通称名(Common name)】
・丹生神社(にうじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県伊都郡九度山町慈尊院八三五
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
第一殿
丹生都比売大神 (丹生明神) 天照大御大神の御妹
高野御子大神 (高野明神) 真言密教の守護神 丹生都比売大神の御子 導きの神
天照大御神 (天照大神) 日の神
第二殿
大食都比売大神 (気比明神) 五穀酒造の神
誉田別大神 (八幡大神) 応神天皇に坐して武勇の神
天児屋根大神 (春日大神) 神事祭祀の神
第三殿
市杵島比売大神 (嚴島明神) 福徳寿の神 多くの氏神社をお祀りしています
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
古来より真言宗(仏教)に伝わる忌明清祓社(いみあけきよはらいしゃ)との立札があります
弘法大師 壮健の社
忌明清祓社(いみあけきよはらいしゃ)
忌明清祓とは 帰幽(きゆう)後(亡くなってより)51日、101日をもって親族、家族が当社に参拝、禊祓(みぞぎはらえ)の御祈祷を受け御幣を賜わる儀式です。
このお祓いを受けることにより、喪中が解け各神社、慶事等に参拝、参列することができると共に新しい生活を踏出す節目となるのです。
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考論社〉
【創 建 (Beginning of history)】
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)
通称名 九度山 慈尊院 丹生神社
御由緒 当社の草創は古く 弘仁七年(八一六)年 弘法大師(空海)によって創建されたお社であります
主祭神として
丹生都比売大神 高野御子大神 大食都比売大神 市杵島比売大神
天照皇大神 八幡大神 春日大神お祀りし合祀社として
雨宮神社 丹生神社 嚴島神社二社 飯炊神社
金刀比羅神社 子守神社 早苗降神社 八王子神社
八幡神社 稲荷神社 天満神社 伊勢神社
蛭子神社 大黒天神社 境内社として招魂社をお祀りしています高野山町石道登山口鎮座(国指定史跡 )
慈尊院の総門(明神慈氏寺)をくぐり 参道正面 石段途中 石造大鳥居右百八十町石を拝し百十九段を登り切り神前へと進みます 高野登山は当神社にて 登山の奉告(報告)と道中の安全(導き)を祈りましょう
また下山された時はお礼を申し上げましょう正面参道石段(百十九段)=指定文化財
古来より百十九は吉数とされ割切れない数でもあります 天と神に通じる地(神通寺壇=現鎮座地)にふさわしい体裁を整えられ将来が永く続くように祈念されました この石段を祈念坂ともいわれています現地案内より
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)由緒
通称 丹生神社
神代の昔奄田村の石口(三谷・慈尊院・九度山の総称)に丹生都比売大神降臨せられ里人に農耕作穀の道を教えられ 紀北紀南を始め各地を御巡歴せられ、丹生都比売神社(かつらぎ町)に鎮ませられる、弘仁年間 空海(弘法大師)が慈尊院を開いたとき、地主神(守り神)である丹生都比売・高野御子の二神を奉斎し紀の川のほとりに祀ったのが始まりで、其の後 大食都比売・市杵島比売の二神を合わせ四社明神とした。天文九年(一五四〇)紀の川の水害にあい翌年社地を現在地に移し、この折 古くより当社の傍に祀られていた天照大神・八幡大神・春日大神の三神をあわせ丹生七社大明神とした。明治には丹生神社と称したが、明治四十三年 九度山・入郷・慈尊院の各氏神を合祀、昭和に入り社格を廃して丹生官省符神社と改めた。
御祭神
第一殿 丹生都比売大神
高野御子大神
大食都比売大神第二殿 天 照 大 神
市杵島比売大神
八幡大神(誉田別大神)
春日大神(天兒屋根大神)第三殿 合祀社(多くの氏神が合祀されている)
招魂社 九度山戦没者の英霊を祀る祭日
官省符荘
高野山領は空海が地主神(高野御子大神)より受けついだと伝えられ、平安の末になると朝廷を・・・・文化別指定
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
慈尊院の総門を入ると、桜の古木におおわれた高い石段が仰がれる。
途中、高野山町石道の180町石を右に見て石造大鳥居をくぐり、109段の石段をのぼりきると、大きな丹塗りの鳥居の建つ広庭から、拝殿を通して拝観する極彩色の神殿は、霊峰高野山を背に森の緑にはえて美しい。
境内は、高燥で清々しく春の桜、秋のもみじに参詣者も多く、紀ノ川、和泉山脈が一望のうちに眺められ、紀伊山地の霊場高野山町石道の登山口として広く知られている。
弘仁年間空海(弘法大師)は、真言密教修法の道場の根本地を求めて、東寺を出立ち各地を行脚され、途中、大和国宇智郡に入られた時、1人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられた。
猟師は、従えていた白・黒二頭の犬を放たれ、空海を高野山へと導かれた。
此の処は天下無双の霊地であり、空海は、此の処を教え下さった猟師は、神さまが姿を猟師に現し、化現狩場明神となり神託として一山(高野山)を与え下さったものであると、想念の内に感得されたのだった。
その事を嵯峨天皇に上奏し、天皇は深く感銘され、一山(高野山)を空海に下賜された。
狩場明神との運命的な出会い。
神さまの尊い導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。
空海はその思いを政所(一山の政務庶務を司る所)として慈尊院を開いた時、参道中央上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀され諸天善神への祈願地として、この地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし慈氏寺の壇と併せて女人高野萬年山慈尊院と称した。
空海によって創建鎮座爾来御社号も慈尊院丹生高野明神、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し県内外を問わず尊崇を受け官省符荘の総鎮守として栄えた。
『紀伊名所図会』では、数多くの御社殿等が建並び荘厳を極めていたが、明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は、取り除かれ天文10(1541=室町時代)年に再建された本殿3棟が往年の姿をとどめ、神仏習合のなごりを今に伝え、僅に空海の初心をうかがい知ることができる。
(社叢)
高野山町石道の登山口にふさわしく、鎮守の森は樟、椎、樫などが生茂り小動物(ももんがなど)が生息している。
春から新緑初夏にかけてはウグイスが、またヒヨドリ、モズ、メジロ等の小鳥のなき声に心が癒される。
(例祭)
官省符荘は、高野領の代表的な荘園で、太政官と民部省から認可され国の干渉を受けない不入の特権と国へ税金を納めることがいらない不輸租の特権をもつ正式な荘園であり認可を賜った(永承4年=平安時代=1049年成立)のを記念して執り行われたのが官省符祭のおこりで、橋本市、かつらぎ町、九度山町の荘園とする村々の人達が祭礼に参加した。
「人を見るなら官省符祭」と言われるほどに賑いをみせ、参道馬場道では、流鏑馬神事がおこなわれ大勢の見物客で賑わった。
祭りは、當年に誕生した赤子(當年児)を祝う神事があり、親等は神輿を担ぎ行列をしながら嵯峨浜御旅所へと渡御する行事で、『紀伊名所図会』に「神輿をかつぐもの数十人、石段を下ること空中を飛ぶがごとし」と、その勇ましい情景を記している。
神輿が紀ノ川の清流にて禊をした後、御幣と御神酒を授ける。
今でも御幣を授かろうと沢山の参詣者で賑わう。和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=4045
丹生官省符神社
もとは猿田彦神社と呼ばれていたこの神社は、816年に創建されました。頻繁な紀の川の氾濫から守るため、1541年に川に近い以前の場所から移されて以来ずっと現在の場所にあります。移された後、神社の名称は丹生官省符神社に変えられました。 丹生官省符神社は、主に高野山の守護神である丹生都比売という女神とその息子の高野御子(狩場明神)の二神を祀っています。伝説によると、二匹の犬を送って高野山の開祖である空海(諡号 弘法大師、774-835)を仏教研究の中心地を開創すべき場所へと導いたのは高野御子でした。また、この神社には境内の三棟の社殿と摂社に五十二柱の神々が祀られています。 丹生官省符神社は町石道の起点にあります。高野山に登る人々はこの神社の本殿に立ち寄り、旅を始める前に守護神を参拝します。
国土交通省資料より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・招魂社
・神宮遙拝所
・高野山遙拝所
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・「万年山慈尊院」〈現在も境内を共有している寺院〉
丹生官省符神社は かつて神通寺七社明神とも丹生七社大明神と呼ばれていて 神通寺の名の通り 神に通じる寺の意で高野山の神仏混合の霊場でした
「万年山慈尊院」とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産としても登録されています
・慈尊院の境内社 知貞母社
寺院の境内社で 鬼子母神を祀ります
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)伊都郡 2座(大1座・小1座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小田神社
[ふ り が な ](をたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wota no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)の論社
丹生官省符神社(九度山町慈尊院)が天文九年(一五四〇)紀の川の水害にあい翌年に社地(北の方宮の橋)〈江戸時代には川底となっていたが小田村の辺り〉をから現在地に移し この折 古くより当社の傍に祀られていた天照大神・八幡大神・春日大神の三神をあわせ丹生七社大明神としたとのことから 旧鎮座地を式内社 小田神社とする説があります
・小田神社(橋本市高野口町)
小田神社(おだじんじゃ)は 建立は1,400年前で 神領も多く朝野ともに尊敬の深かった式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えられます その後の数々の兵乱に合い 社地も衰廃し 祠は焼失してしまいました 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~1624)に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えさせ 現在に至っています
小田神社(橋本市高野口町)
・丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〈参考論社〉
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます
丹生官省符神社(九度山町慈尊院)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
南海高野線 九度山駅から西へ約2.4km 車10分程度
神社の裏手〈南側〉には駐車場がありますが 北側の慈尊院の駐車場に停めて
慈尊院にお詣りをしながらの御参拝をお薦めします
慈尊院の山門があり その正面に 丹生官省符神社への参道石段があります
一礼をして 北門をくぐります
この北門の案内板には 天文9年(1540)の紀の川洪水による旧慈尊院境内流失時には既に建てられていたようである と記されています
山門をくぐると 参道は真っ直ぐに 丹生官省符神社の参道石段へ向かっていて 右手には慈尊院 多宝塔があり 寺院の中を参道が抜けている 神仏分離がなされている現在では 珍しい光景となっています
石段の下に来ると 鳥居が建ち神社であることが分かります
丹生官省符神社(九度山町慈尊院)に参着
石段の右手には 丹生神社の社号標
石段の左手には 丹生官省符神社(弘法大師創建の社 高野山町石道登山口)と刻字があります
この石段の案内板がありました
九度山町指定文化財
丹生官省符神社 石段
(附)・七社明神石階施主銘碑
・石造常夜灯
(建造物)
この石段は、百十九段、幅約四米 高さ約二十米、角度約三十度、斜面約四十五米の大規模な構造である。下の十二段は、延享五年(一七四八)妙寺の田村伝助氏より寄進され、その上からの石段は、宝暦三年(一七五三)多くの氏人からの浄財によって建設されたものである。
また、踊り場の石造鳥居と石灯篭は槙尾明神参道より移されたものである。
平成六年三月十九日 九度山町教育委員会
石段の途中に北を向いて 石鳥居が建ちます
この石鳥居について案内板があります
九度山町指定文化財
丹生官省符神社 石造大鳥居
(建造物)
この鳥居は、宝永二(一七〇五)年三月九度山村岡久兵衛氏の浄財によって、九度山槙尾山明神社の参道(鳥居芝)に建立されていたものである。明治四十三年の神社合祀に伴い大正十年八月多くの人たちの奉仕によって現在地に移されたものである。
平成五年二月十八日指定 九度山町教育委員会
一礼をして 鳥居をくぐり 更に石段を上がると 上には朱色の鳥居が建っています
119段の石段をのぼりきり 二の鳥居〈朱塗りの両部鳥居〉が北向きに建ち 扁額には 丹生神社とあり 一礼をして境内へと進みます
境内には 御寄進の名簿石碑
すぐ右〈西〉に手水舎があり 清めます 少し変わった手水となっていて 清らかな水が竹筒から滴り落ちていて 石の手水鉢が受けています この手水鉢からあふれ出た水は 下に池を作っています
拝殿にすすみます
拝殿の前には 世界遺産 丹生官省符神社の木札が置かれています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 一間社春日造り 檜皮葺 丹塗りと極彩色が施された華麗な社殿が 金剛峰寺の方角を意識して東西一列に北面して並んでいます
社殿に一礼をして 参道石段を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『今昔物語集(konjaku monogatari shu)』に記される伝承
弘法大師空海が 高野山金剛峯寺を開いた際に 地主神の丹生都比売神社(丹生明神の化身)から神領を譲られた伝説が 綴られています
大師は「我が唐にして擲げし所の三鈷落ちたらむ所を尋ねむ」と思って 都を出て探し求めたとあり 大小2匹の黒い犬を連れている狩人〈狩場明神(かりばみょうじん)゛(高野御子大神)〉に逢い そして山人〈丹生の明神〉に案内されて三鈷が突き刺さっていた所を見いだすことになる
当社の御祭神゛狩場明神゛と゛空海゛の絵馬が境内にありました
当社御祭神゛狩場明神(かりばみょうじん)゛(高野御子大神)と゛空海゛(弘法大師)との出会いの図
狩場明神は従えていた二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導かれました。
【抜粋意訳】
巻十一 第廿五話 弘法大師始建高野山語第廿五
〈弘法大師(こうぼうたいし)始めて高野の山を建つること 第二十五〉
今昔 弘法大師 真言教 諸の所に弘め置給て 年漸く老に臨給ふ程に 数(あまた)の弟子に皆所々の寺々を譲り給て後「我が唐にして擲(な)げし所の三鈷、落たらむ所を尋む」と思て 弘仁七年と云ふ年の六月に 王城を出て尋ぬるに 大和国宇智の郡に至て 一人の猟人に会ぬ
〈今は昔 弘法大師(こうぼうたいし)は真言(しんごん)の教えを諸所方々に広められたが しだいに老齢になられて 数多くの弟子に所々の寺を譲られた その後 「私が唐にいる時に 投げた三鈷(さんご)の落ちた所を尋ねてみよう」と思い 弘仁七年(816)6月に都を出て尋ねるうちに 大和国(やまとのくに)宇智郡(うちのこおり)に至って 一人の猟師に出会われた〉其の形 面赤くして長八尺許也 青き色の小袖を着せり 骨高く筋太し 弓箭を以て身に帯せり 大小の二の黒き犬を具せり 即ち 此の人 大師を見て過ぎ通るに云く「何ぞの聖人の行き給ふぞ」と 大師の宣はく「我れ 唐にして三鈷を擲て『禅定の霊穴に落よ』と誓ひき 今 其の所を求め行く也」と 猟者の云く「我れは是南山の犬飼也 我れ其の所を知れり 速に教奉るべし」と云て 犬を放て走らしむる間 犬失ぬ
〈その姿を見ると 顔は赤く 身長は8尺(約240㎝)程で 青い色の小袖(こそで)を着て 骨は高く筋肉は太く 身に弓と矢を帯びていて 大小2匹の黒い犬を連れている この人は 大師を見て 通り過ぎ行く時に「そこを行かれる聖人(しょうにん)は どちら様でしょうか」という
大師は「私は唐にいる時に 三鈷を空へ投げ『わたくしが禅定(ぜんじょう)に入るに相応しい霊穴(れいけつ)に落ちよ』と誓いました 今 その所を捜し求めて歩いています」
猟師は「私は 南山の犬飼です 私はその場所を知っています すぐにお教えいたしましょう」と言って 犬を放って走らせると 犬は失せてしまった〉大師 其(そこ)より紀伊国の堺 大河の辺に宿しぬ 此に一人の山人に会ぬ 大師 此の事を問給ふに「此より南に平原の沢有り。是其の所也」
明る朝に 山人 大師に相具して行く間、密に語て云く「我れ 此の山の王也 速に此の領地を奉るべし」と 山の中に百町許入ぬ 山の中は直しく鉢を臥たる如くにして 廻に峰八立て登れり 檜の云む方無く大なる 竹の様にて生並たり 其の中に 一の檜の中に 大なる竹胯有り 此の三鈷 打立てられたり 是を見るに 喜び悲ぶ事限無し 「是禅定の霊崛也」と知ぬ 「此の山人は誰人ぞ」と問へば「丹生の明神となむ申す 今の天野の宮是也 犬飼をば 高野の明神となむ申す」と云て失ぬ
〈大師は そこから紀伊国(きいのくに)の国境にある大河のほとりで宿をとられた そこで一人の山人に出会われた 大師がこのことを問われると「ここから南に 平原の沢があります その所がお尋ねの場所です」と答えた
翌朝 山人は大師と一緒にそこへ出かけて行く途中「私は この山の王です さっそくこの領地をさしあげましょう」とささやいた
やがて山の中に百町ほど入る この山の中はきちんと鉢(はち)を伏せたような形で 周囲には八つの峰がそび立っている 言葉に出来ない程の檜の大木があり その中に 一本の檜の中に二股となっている部分があって そこに この三鈷が打ち立てられていた
これを見ると 限りない喜びと悲しみがあられた「これこそ禅定の霊崛(れいくつ)」であると悟られた
「貴方は誰ですか」と この山人に尋ねると
「丹生の明神と申します」と答えた
今の天野の宮(天野神社)は この方を祀られています そして更に「あの犬飼は 高野明神(こうやのみょうじん)と申します」と言って消えてしまった〉大師 返給て 諸の職 皆辞して 御弟子に所々を付く 東寺をば実恵僧都に付く 神護寺をば真済僧正に付く 真言院をば真雅僧正に付く 高雄を棄て南山に移り入給ぬ 堂塔房舎を其の員造る 其の中に 高さ十六丈の大塔を造て 丈六の五仏を安置して 御願として名づけて金剛峰寺とす
亦 入定の所を造て 承和二年と云ふ年の三月廿一日の寅時に 結跏趺坐して 大日の定印を結て 内にして入定す 年六十二 弟子等 遺言に依て弥勒実号を唱ふ〈大師は 都にお帰りになりすべての役目をみな辞して 御弟子に諸所の寺をお任せになられた
東寺(とうじ)を実恵僧都に 神護寺を真済僧正に 真言院をば真雅僧正に お任せになり こ自身は高雄を去って南山に移られた 数多くの堂塔や僧房を造られたが その中に 高さ一六丈の大きな塔を造り 丈六の五体の仏像を安置して その寺を大師のご本願寺として金剛峰寺と名付けられた また 入城の場所を作り 承和二年三月廿一日寅刻に結跏趺坐して 大日如来の定印を結んで その中で入城なされた 御年六十二歳 その時 御弟子たちは 遺言により 弥勒菩薩の名号を唱えた〉其の後 久く有て 此の入定の峒(ほら)を開て 御髪剃り御衣を着せ替奉けるを 其の事絶て久く無かりけるを 般若寺の観賢僧正と云ふ人 権(かり)の長者にて有ける時 大師には曾孫弟子にぞ当ける 彼の山に詣て 入定の峒を開たりければ 霧立て暗夜の如くにて 露見えざりければ 暫く有て霧の閑(しづ)まるを見れば 早く 御衣の朽たるが 風の入て吹けば 塵に成て吹立てられて見ゆる也けり
〈その後 長い間が経っても この入定の峒(ほら)を開き 髪を剃り 衣を着せ替え差し上げていたが それ以降 そのようにはしなくなりました 般若寺の観賢僧正という人物が 権(かり)の長者〈権長者〉になっていた時 大師には曾孫弟子にあたります 彼の山〈高野山〉を訪れ 入定の峒(ほら)を開いたところ 霧が立ち込め 暗闇のようで 露見することはありませんでした しばらくすると霧が晴れて静まり返ると 早くも衣が朽ち果て 風に吹かれて塵となり 舞い上がって 霧に見えていたのです〉塵閑まりければ 大師は見え給ける 御髪は一尺許生て在ましければ 僧正自ら水を浴び 浄き衣を着て入てぞ 新き剃刀を以て 御髪を剃奉ける 水精の御念珠の緒の朽にければ 御前に落散たるを拾ひ集めて 緒を直ぐ揘(すげ)て 御手に懸奉てけり 御衣 清浄に調へ儲て 着(きせ)奉て 出ぬ 僧正 自ら室を出づとて 今始て別れ奉らむ様に 覚えず無き悲れぬ 其の後は 恐れ奉て 室を開く人無し
但し 人の詣づる時は 上ぐる堂の戸 自然ら少し開き 山に鳴る音有り 或る時には金打つ音有り 様々に奇(あやし)き事有る也 鳥の音そら希なる山中と云へども 露恐しき思ひ無し
〈塵が静まってくると 大師は姿を現しました その髪は一尺ほど伸びておられたので 僧正は自ら水を浴び 清浄な衣を着て中に入りました 新しい剃刀を用いて 大師の髪を剃りました 水精の念珠の糸が朽ちていたので 彼は地面に散らばった糸を集め 直ちに結び直して手に掛けました 清浄な衣を整えてお着せし 僧正は自ら室から出て行きました 今初めてお別れする様な気持ちになり 思わず泣き悲しまれました しかし その後 恐れ多く感じて 室を開く人はいませんでした
ただし お参り人がある時には 上へ向かう堂の戸が自然に少し開き 山から鳴る音が聞こえ 時には鐘を打つ音もあり 様々な奇妙なことが起こります 鳥の鳴き声もまれな山中ですが 露恐ろしい思いはありません〉坂の下に丹生・高野の二の明神は 鳥居を並べて在す 誓の如く山を守る
「奇異なる所也」とて 于今人参る事絶えず 女 永く登らず
「高野の弘法大師と申す是也」となむ 語り伝へたるとや
〈坂の下に 丹生(にう)・高野(こうや)の二柱の明神が 鳥居を並べて鎮座されていて 誓い通りに このお山を守護しておられる「霊妙なる所だと」今も参拝人の絶える事はないが 女性は永久に登らない
「高野の弘法大師と申し上げるのはこの方である」とこう語り伝えている〉
【原文参照】
『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』〈文化9年(1812)〉に記される伝承
【抜粋意訳】
三編 巻之四 高野山之部上
高野山麓 慈尊院 の図
官省符祭 の図
七社明神
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 小田神社について 官者省符の小田村の東北にあり社の跡あり
又 或説に慈尊院村丹生七社〈現 丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〉を論社と記しています
【抜粋意訳】
小田(ヲタノ)神社
旧事記 物部建彦連公は 小田連等の祖とあり
三代実録 伊都郡人六人部由貴紀云々
〇在に 官者省符の庄 小田村の東北 今 社跡存
紀志 と称したるは(南紀名勝志)なり 官者省符の小田村の東北にあり社の跡あり
(本国神名帳)従五位上 小田神
或説に 慈尊院村の丹生七社は 小田神社なりともいへり
【原文参照】
『紀伊続風土記(KizokuFudoki)』〈天保10年(1839)完成〉に記される伝承
丹生官省符神社(九度山町慈尊院)は 神通寺七社明神と呼ばれていて 七社からなっていた
一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 今は川床となっている これは 天文年中(1532~)の洪水によるもので 此の時 慈尊院に遷座した
三社宮も 此の時遷座して 七社明神となったと記されています
【抜粋意訳】
巻之五十 伊都郡第九 官省符荘 慈尊院村
〇神通寺七社明神境内周百四十間
一 宮 一間六尺 祀神 丹生明神
二 宮 同 祀神 高野明神
三 宮 同 祀神 気比明神
四 宮 同 祀神 嚴島明神三社宮 二間六尺三扉 祀神 大神宮 八幡宮 春日明神
十二王子社 方三尺五寸
百二十番神社
右 瑞籬の内にあり瑞 籬 拝 殿 二間十三間 舞 台
本地堂 本尊金胎大日如来 神輿堂
大黒天堂 今御供所と称す 鳥 居慈尊院の山上石階を登る事一町許にあり 官省符荘二十一村の産土神なり
七社の中
丹生高野明神は 弘仁年中(810~)大師の勧請なり
十二王子 百二十番神の二社も同時の勧請なりといひ伝ふ
気比厳島二神は 文明年中(1469~)の勧請といひ伝ふ
此四社 天文の洪水以前は 北の方宮の橋といふ地にあり 今川床となる
三社宮は 古官省符荘の氏神にて 今の社檀の巽一町神楽尾山にありしを 天文年中(1532~)慈尊院に移せし時倶に移して七社明神とし 一荘の總氏神とす 舊地を今古宮の檀といふ 今に宮の雑費三分の二は修理料より出し 一分は氏子より出す 是又古三社を氏神とせし証といふへし祭礼 九月晦日なり 高野山南院高室院遍照尊院此三院別当職を兼ね依りて三院別当領七石宛を領す
什宝に菊一文字太刀一振
真田幸村の奉納といふ 今一宮に納む 銘に奉寄進御太刀一振菊一文字弐尺七寸五分 紀州伊都郡慈尊院正一位勲八等丹生七社大神等云々とあり 箱の書記に施主九度山とあり
国次太刀三振 永正十二年(1515)粉河幸蜜蔵院の奉納といふ
神主 二人 坂上左内 吹本宮内 巫女二人あり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 小田神社について 現在は祠はなく 碑を建てている 祭神は小田連祖神ではないだろうか
又 或説に慈尊院村丹生七社〈現 丹生官省符神社(九度山町慈尊院)〉を論社としているが今は従わない と記しています
【抜粋意訳】
小田神社
小田は 乎田太と訓べし
〇祭神 小田連祖神歟
〇官省庄小田村東北に在す、今神祠なし、碑を建て表す、南紀神社録
〇同名勝志に、或説に、慈尊院村丹生七社を小田神社と云といへり、今従わず
〇旧事記、天孫本紀 物部建彦連公、小田連等祖、神位
本国神名帳、従五位上 小田神氏人
諸書いまだ考へ得ず
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 小田神社について 祭神は不詳だが 一説には小田連等の祖の物部建彦連公で 當社の小田は姓によるもので 小田連もこの地に居り その祖 物部建彦命を祭り 小田社と呼ばれているのであろう と記しています
【抜粋意訳】
小田神社
今按ずるに『紀伊國續風土記』に小田は地名にして 祭神不詳 或は云ふ 舊事記に物部建彦連公は 小田連等の祖とあり 是によるに當社の小田は姓にて 小田連 此の地に居り 其の祖 物部武彦連公を祭りしより小田 社と云ふか と疑へり
今姑く 紀伊國式社考明細帳の二書に據る祭日 六月晦日
社格 村社
所在 小田村(伊都郡慶其村大字小田)
【原文参照】
丹生官省符神社(九度山町慈尊院)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について