日光二荒山神社・中宮祠・奥宮は 男体山の山頂にあるので奥宮と呼ばれ 奥宮と日光二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています 御祭神は日光二荒山神社と同じ・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です 中宮祠の本殿右側には山頂の奥宮への登拝門があり 5月から10月に登山口の門が開き ここから男体山に登ることができます
・奥宮(okumiya)のご朱印
・中宮祠(chugushi)のご朱印
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)
・中宮祠(chugushi)・奥宮(okumiya)
(にっこうふたらさんじんじゃ・ちゅうぐうし・おくみや)
【鎮座地 (location) 】
栃木県日光市中宮祠2484
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》二荒山大神(Futarayama no okami)
⇒二荒山大神して 親子3神を祀る
男体山 父 大己貴命(onamuchi no mikoto)
女峯山 母 田心姫命(tagorihime no mikoto)
太郎山 子 味耜高彦根命(ajisukitakahikone no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・農業の祖神 God of agriculture
・醸造の祖神 God of brewing
・婚姻の祖神 God of marriage
・温泉の祖神 God of hot springs
・医薬の祖神 God of medicine
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社(名神大)
・ 下野国一之宮(Shimotsuke no kuni ichinomiya)
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
・奥宮(okumiya)について
延暦元年(782)勝道上人(shodo shonin)が始めて登頂の大願を果たして山頂に神祠を営み二荒山神を祀りました
・中宮祠(chugushi)について
延暦元年(782)の男体山登頂ののち 勝道上人(shodo shonin)が延暦3年(784年)二荒山神社の神宮寺「中禅寺(chuzenji)」として創建 奥宮への登拝口に当たります
中禅寺(ちゅうぜんじ)の寺伝によれば
784年(延暦3年)日光山の開祖 勝道上人が船で湖を遊覧していた際 湖上に千手観音の姿を感得し 桂の木に立木のまま千手観音像を刻んだ
この「立木千手観世音菩薩」を本尊として「中禅寺」が開かれた当初は 二荒山神社の神宮寺として 男体山登拝口近くに建立「補陀洛山(ふだらくさん)中禅寺(ちゅうぜんじ)」(現在の日光二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし))とされました
【由 緒 (history)】
日光二荒山神社 中宮祠
鎮座地 日光市中宮祠(海抜1,230m)
御祭神 大己貴命 田心姫命 味耜高彦根命
主な祭典 男体山登拝大祭 7月31日より8月7日まで
武 射 祭 1月4日
開山祭 5月5日 閉山祭 10月25日このお社は 下野国一の宮日光二荒山神社の中ノ宮で 幸の湖に臨み霊峯二荒山(男体山)の中腹に当るこの境域に鎮り給う
ここに男体山の登拝口があり 山頂に奥宮が鎮りますこのお社は 悠久の昔から当国の衆庶崇敬の的であったが 今から約千二百年前 延暦元年(782)勝道上人が始めて登頂の大願を果たして山頂に神祠を営み二荒山神を祀りました
以来 関東の霊場として栄え 日光連峯の主峯 男体山を中心に、女峯山・太郎山・大真名子山・小真名子山・赤薙山・前白根山・奥白根山の山頂に夫々奥宮を建て それぞれのお山を御神体山としてお祭りしています
この日光八峯 境内として広大三千四百ヘクタール華厳滝を始め名勝「中禅寺湖畔」「いろは坂」を含む日光国立公園の中心部であります
御社殿 本殿・拝殿・中門・透塀は重要文化財に指定され幸の湖(中禅寺湖)に臨む銅鳥居も重要文化財であります
二荒山神社 宝物殿
皇室の御物を始め 国宝 重要文化財の宝刀
男体山頂から出土した祭祀遺品を公開出陳ふたら幼稚園
神社付属の幼稚園で当地区幼光の保育に当たっている境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
奥宮(okumiya)周辺
・志津宮(shizumiya)男体山裏登山道の志津峠に鎮座
《主》大己貴命(onamuchi no mikoto)
田心姫命(tagorihime no mikoto)
味耜高彦根命(ajisukitakahikone no mikoto)
祭日:8月1日-17日(男体山登拝祭)
志津峠は 男体山表登山道の五合目と同じ標高にあります
男体山・太郎山・大真名子山の分岐点のため 日光連山の中心に鎮座しています 古くから修験道の拠点とされていました
・滝尾神社(Takinoo Shrine)男体山表登山道八合目に鎮座
《主》田心姫命(tagorihime no mikoto)
通称:男体山滝尾神社(女峰山の滝尾神社の分祀)
・太郎山神社(Tarosan Shrine)男体山頂上の奥宮境内地に鎮座
《主》味耜高彦根命(ajisukitakahikone no mikoto)
通称:男体山太郎山神社(太郎山の太郎山神社の分祀)
中宮祠(chugushi)境内
・水神碑(suijinhi)浜鳥居に鎮座
《主》水波能売神(mizuhanome no kami)
祭日:9月5日午前10時(水神祭)
1921年(大正10年)9月28日 中宮祠渡船組合により建立
・稲荷社(inari sha)中宮祠境内入り口に鎮座
《主》倉稲魂神(ukano mitama no kami)
祭日:3月28日午後2時
通称:中宮祠稲荷神社 文久3年(1863年)鎮座
・神宮遥拝所(jingu yohaijo)稲荷社に鎮座
伊勢神宮遥拝所
・神楽殿・大国殿(okuni den)
《主》大国様(大己貴命(onamuchi no mikoto))
中宮祠境内に鎮座
・中宮祠七福神(chogushi shichifukujin)中宮祠境内に7体の神像が鎮座
《主》七福神(shichifukujin)
・恵美須神・大国様・毘沙門天・辨財天・福禄寿・寿老神・布袋尊
・山霊宮(yama no miya)
《主》霊峰男体山を中心に日光連山八峰に 篤い信仰を捧げた功休徳者(功績の優れ徳行のあった人々)の御霊
中宮祠境内奥に鎮座
・山王社(sanno sha)男体山 登拝門をくぐってすぐに鎮座
《主》大山咋命(oyamakui no mikoto)
・幸運神社(koun Shrine)男体山登拝門をくぐり その先「幸運の杜」に鎮座
・男体山奥宮遥拝所(nantaisan okumiya yohaijo)男体山一合目に鎮座
登拝門をくぐり徒歩で往復10分程度
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)下野国 11座(大1座・小10座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河内郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社名 ] 二荒山神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](ふたあらさんの かみのやしろ)(みょうじんだい)
[How to read ](Futaarasan no kamino yashiro)(myojindai)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
世界遺産「日光の社寺」(The World Heritage Shrines and Temples of Nikko)
日光三社権現(Nikko sansha gongen)について
日光山に鎮座する3つの神社の総称で「日光三社(Nikko sansha)」とも呼ばれます
日光山の信仰は
三山(女峰山〈Mt. Nyoho〉・男体山〈Mt. Nantai〉・太郎山〈Mt. Taro〉)を御神体山として
【山・所・仏・神・社】は 神仏習合をして 唱えられていました
・三山 (女峰山 ・男体山 ・太郎山)
・三所 (女体権現 ・男体権現 ・太郎大明神)
・三仏 (阿弥陀如来・千手観音 ・馬頭観音)
・三神 (田心姫命 ・大巳貴命 ・味耜高彦根命)
・三社 (滝尾権現 ・新宮権現 ・本宮権現)
江戸時代までは 日光山を信仰する三社として
日光三社権現(Nikko sansha gongen)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれ
明治元年(1868)3月「神仏判然令(神仏分離令)」に伴って
明治4年に現在の「滝尾神社・日光二荒山神社・本宮神社」と改められています
現在 日光三山を御神体として祀る神社は 次の通りです
・女峯山〈Mt. Nyoho〉⇒
頂上には「女峯山神社(Nyohosan Shrine)奥社」
山麓の遥拝処には「瀧尾神社(Takinoo Shrine)」
・男体山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には「二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)」
中腹には「二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)」
山麓の遥拝処には「日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)」
・太郎山〈Mt. Nantai〉⇒
頂上には「太郎山神社(Tarosan Shrine)」
山麓の遥拝処には「本宮神社(Hongu Shrine)」
日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)と その別宮である「本宮神社・滝尾神社」の「日光三社権現(Nikko sansha gongen)」は いずれも世界遺産(World Heritage)「日光の社寺(Shrines and Temples of Nikko)」の一群です
・本宮神社(Hongu Shrine)の記事をご覧ください
本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました
本宮神社(日光発祥の地)
・日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)の記事をご覧ください
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します
日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉
・滝尾神社(Takinoo Shrine)の記事をご覧ください
滝尾神社(たきのおじんじゃ)は 弘仁11年(820)弘法大師空海(くうかい)が創建したと伝え 江戸時代までは 日光山を信仰する三社の1つとして 日光三社権現(にっこうさんしゃごんげん)(滝尾権現・新宮権現・本宮権現)と呼ばれていました 女峰山を御神体山と仰ぎ 田心姫命(たごりひめのみこと)を祀り「女体中宮」とたたえます
瀧尾神社(日光市山内)〈弘仁11年(820)弘法大師空海が創建 日光瀧尾女躰権現〉
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』に所載の
下野国 河内郡 二荒山神社(Futaarasan no kamino yashiro)(貞・名神大)の論社について
現在 論社とされている神社は 全部で6神社あります
日光に4神社と宇都宮に2神社が鎮座します
・日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)
・本宮神社(Hongu Shrine)
・二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)
・宇都宮二荒山神社(Utsunomiya Futarasan Shrine)
・二荒山神社 下之宮(Futarasan Shrine Shimonomiya)
それぞれの記事をご覧ください
・日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)の記事をご覧ください
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します
日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉
・本宮神社(Hongu Shrine)の記事をご覧ください
本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました
本宮神社(日光発祥の地)
・二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)の記事をご覧ください〈当社〉
日光二荒山神社・中宮祠・奥宮は 男体山の山頂にあるので奥宮と呼ばれ 奥宮と日光二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています 御祭神は日光二荒山神社と同じ・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です 中宮祠の本殿右側には山頂の奥宮への登拝門があり 5月から10月に登山口の門が開き ここから男体山に登ることができます
日光二荒山神社・中宮祠・奥宮(日光市)
・宇都宮二荒山神社(Utsunomiya Futarasan Shrine)の記事をご覧ください
宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます
宇都宮二荒山神社(宇都宮市)
・二荒山神社 下之宮(Futarasan Shrine Shimonomiya)の記事をご覧ください
二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました
宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
日光駅からR120号経由 約22km 車30分程度
いろは坂を超えると 二荒山を開山した勝道上人によって発見されたと伝えられる「華厳滝(Kegon Falls)」があります
その流れの大元にあるのが「中禅寺湖(Lake Chuzenji)」です 北湖畔には中禅寺戸の分岐点に 一の鳥居が建ちます
東参道入口には青銅製鳥居が建っています
日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)
・中宮祠(chugushi)・奥宮(okumiya)に到着
R120号沿い中禅寺湖畔からの南参道入り口には「浜鳥居」が建ちます
社号標には「日光二荒山神社中宮祠」と刻まれています
南参道には 八脚門が建っています
正面には狛犬が座して 重要文化財に指定されている中門と透塀があります その奥には二荒山が雲に隠れながら見えます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿を仰ぎます
立札には
重要文化財
本殿
三間社流造 銅瓦葺、漆塗
元禄14年(1701)造営、中門、掖門、透塀も重要文化財指定である。
境内社にお詣りをします
ご神木・イチイにもお詣りをします
奥宮(okumiya)へ
男体山の山頂に鎮座する奥宮への登拝道入口には 鳥居と奥宮登拝口として「登拝門」が建ちます
ここから山頂に登拝するには 社務所に届け出が必要です
ただし
男体山奥宮遥拝所(nantaisan okumiya yohaijo)が 男体山一合目に鎮座していて 登拝門をくぐり徒歩で往復10分程度です ここまでの参拝には届け出は不要とあります
中門をくぐり出て 奥宮(okumiya)と中宮祠(chugushi)社殿を振り返り一礼
東参道から境内を後にします
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
神戦「赤城と日光二荒山神戦」について
下野国の二荒神(男体山)と上野国の赤城神(赤城山)が 中禅寺湖の領有権を争って戦ったという伝説から名づけられたのが 戦場ヶ原戦です
赤城山の神と二荒山の神が争って、赤城山の神が勝ち、二荒山の神が流した血で山が赤くなった。逆に、二荒山の神が勝ち、赤城山の神が流した地で山が赤くなった。そうして赤き山→赤城山と呼ばれるようになった、という伝説が各地に伝わっています。
ある時、赤城山の神様は、日光中禅寺湖の領有を主張し、それを認めない日光二荒山の神様との戦いが始まった。赤城山の神様は大ムカデ、日光二荒山の神様は大蛇に化身し、日光の戦場ヶ原で戦った。
初めのうちは、足尾の細尾が加勢し、二荒山の神様は苦戦し、下毛野国に押し返されてしまった。
そこで日光の神は、鹿島の神の紹介を受け弓の名人の猿麻呂の助太刀を得た。猿麻呂が駆けつけると、たくさんのムカデとこれまたたくさんの蛇が戦っている。猿麻呂は、無数のムカデのうち、すぐれて大きな百足が赤城の神だと、矢をムカデの左目に当てた。すると、ムカデはたまらず逃げていってしまった。
傷ついたムカデが赤城山に帰り、その血で山が真っ赤に染まり、以来「赤き山⇒赤城山」と呼ばれるようになった。(栃木県の伝説)
上毛新聞刊「なるほど 赤城学」(東京福祉大学・大学院教授 栗原久先生)によれば、ほかにも、二荒山の神の流した血で山が染まる伝説(桐生市新里町)、赤城山の神は大蛇に二荒山の神はムカデに化身して赤城山の神が二荒山の神を打ち負かし追い返す伝説(老神温泉)、二荒山の主の大蛇が赤城山の主の大ムカデに苦しめられて坂上田村麻呂に助けを求め、敗走する大ムカデの足跡が菅沼・丸沼になる伝説(片品村)、日光二荒山の神が赤城の沼の領有を主張して戦になる伝説(栃木県)などが伝わっています。
大和朝廷の支配下で毛野国が渡良瀬川を境に上毛国と下毛国に分割され、その後激しい領地争いの戦いがあったようで、これが赤城山と二荒山の神々の争いとして伝承されている、と指摘なされています。
群馬県・赤城山広域振興協議会HPより http://akagi-yama.jp/archives/358
日光二荒山神社(Nikko Futarasan Shrine)
・中宮祠(chugushi)・奥宮(okumiya)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
それぞれの記事をご覧ください
・日光二荒山神社 本社(Nikko Futarasan Shrine)の記事をご覧ください
日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)は 標高2486m霊峰「男体山(二荒山)」をご神体として 古くから日光における信仰の中心となってきました 残存する最も古い記録には 767年に勝道上人が 日光山を開基したとあり 世界遺産「日光の社寺」の一群で 日光東照宮と日光山輪王寺の中間の位置に鎮座します
日光二荒山神社 本社(日光市山内)〈世界遺産「日光の社寺」〉
・本宮神社(Hongu Shrine)の記事をご覧ください
本宮神社(ほんぐうじんじゃ)は 神護景雲元年(766年)勝道上人(shodo shonin)が「山菅の蛇橋」(現在の神橋)を渡りこの地(日光)に神仏を祀り 庵を結んだのが始まりとされています ここは日光の原点であり 二荒山神社発祥の地であり 開運の神社と言われます 古くは 新宮(現在の二荒山神社)と滝尾神社と共に 日光三社と呼ばれていました
本宮神社(日光発祥の地)
・二荒山神社 中宮祠(Futarasan Shrine Chugushi)
・二荒山神社 奥宮(Futarasan Shrine Okumiya)の記事をご覧ください〈当社〉
日光二荒山神社・中宮祠・奥宮は 男体山の山頂にあるので奥宮と呼ばれ 奥宮と日光二荒山神社本社の中間にあるので中宮祠と呼ばれています 御祭神は日光二荒山神社と同じ・大己貴命・田心姫命・味耜高彦根命の3神です 中宮祠の本殿右側には山頂の奥宮への登拝門があり 5月から10月に登山口の門が開き ここから男体山に登ることができます
日光二荒山神社・中宮祠・奥宮(日光市)
・宇都宮二荒山神社(Utsunomiya Futarasan Shrine)の記事をご覧ください
宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます
宇都宮二荒山神社(宇都宮市)
・二荒山神社 下之宮(Futarasan Shrine Shimonomiya)の記事をご覧ください
二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました
宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
下野国 式内社 11座(大1座・小10座)について に戻る
下野国(しもつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 下野国には 11座(大1座・小10座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
下野國 式内社 11座(大1座・小10座)について