実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳(熊谷市)

奈良神社【旧跡】は 社伝にある「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し これにより600余町歩が水に恵まれた水田とな」と伝わる場所(本殿から東北500m程)に石碑延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉舊蹟が残っています 又 社伝には 奈良別命の墓所であるという伝承が残る古墳(本殿から東北1km程)があります

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

奈良神社【旧跡】Nara Shrine【Historic site】
(ならじんじゃ きゅうせき)

【鎮座地 (location) 

埼玉県熊谷市中奈良

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》奈良別命Narawake no mikoto

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社の旧蹟

【創  (Beginning of history)】

延喜式内社 奈良神社の由緒
御祭神 奈良別命

奈良別命の由緒
「 奈良別命は 崇神天皇の皇子 豊城入彦命、(上ツ毛野国,下ッ毛野国の祖)の四世の孫に当り、仁徳天皇の卸代に下野国の国造りに任ぜられ 武蔵野の沃野に分け入り、その徳によって荒地を拓き美田を墾し、人々の発展と安住の地を造られた、そのため、卿民がその徳を偲んで奈良神社を建立し祀ったものである。」と国造本記に記されてあります。

奈良神社の神威
奈良神社のご祭神には、後光が射しでおり、或る時 奥州で蝦夷の反乱があったので、これを征討するため奈良神社の神霊を奉じて出兵し、転戦しつつ進んだが 向うところ敵なしの状態で 年老いた者や体の弱い者も同行したが ご祭神のお陰で全員無事であった。」と検古記に記されております。

さらに「奈良神社の境内から忽然として水が湧き出し、これにより600余町歩が水に恵まれた水田となった。
また、病人が出るたびに奈良神社に祈ったところ、すぐに御利益があったので、人の生命に係わること故 みんなが御祭神を家庭にお招きし大切に崇めた。この習慣が今なお続いている。」と同じ検古記に記されております。

古文書の出典
国造本記 慶雲2年(705年)文武天皇の御代の記述
検古記  和銅4年(711年)元明天皇の御代の記述

合祀各社(明治四十三年 本殿合祀)
諏訪大社(火産霊神・西田)
愛宕神社(火産霊神・奈良新田)
諏訪社 (建御名方命・久保)
年行社 (大国主命・後原)
神明大神社(大日孁貴神・善能寺)
箱根神社(彦火火出見命・葉草)
浅間社 (木花咲耶姫命・原)
八坂神社(須佐之男命・中妻)
伊奈利神社(豊宇気毘売神・二ツ道)

信仰
この地域の開拓の祖神として地域の氏神さま・そして・創業(事業)守護・厄除け・交通安全・家内安全

境内案内板より

【古墳の名前 (Name of the tumulus)】横塚山古墳(Yokozukayama tumulus)
(よこづかやまこふん)

【建造の時期(Time of construction)】

西暦5世紀(Around the end of the 5th century AD)

【概要説明 (Outline explanation guide)】

神社の社伝には 当古墳が 下野国の初代国造の任を終えて 当地を開拓された奈良別命(Narawake no mikoto)の墓所だと伝えています
考古学的には 埋葬施設が調査されておらず 不明な点が多く明確ではありません

熊谷市指定文化財史跡

横塚山古墳(よこづかやまこふん)

横塚山古墳は、古墳の形態として代表的な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)であり、長軸は東西方向を向いています。

墳丘(ふんきゅう)は、一部消滅して現在では全長30m、後円部最大径22.5

m、前方部先端幅12m、高さは後円部で3.2m、前方部で2.5mです。

妻沼バイパスの工事に伴って、昭和46年と51年の2度にわたり墳丘部が調査され、周溝(しゅうこう)の一部が確認されています。この周溝により、墳丘は本来 東西40mの長さであったと推定されます。周溝の幅は、後円部南側で5.8mです。

本古墳の造られた年代は、周溝内から出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)や朝顔形(あさがおがた)円筒埴輪によると5世紀末と考えられます。しかし埋葬施設(まいそうしせつ)が調査されておらず不明な点が多く明確ではありません。

本古墳の周囲は、現在、水田になっていて、他に古墳は見られませんが、付近で埴輪片や土器片が採集されます。かつては、付近に数多くの古墳があり、横塚山古墳を中心とした古墳群があったことが考えられます。

平成8年3月 熊谷市教育委員会

案内板より

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 奈良神社
[ふ り が な  ](ならの かみのやしろ)
[How to read ](narano kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鎮座地の奈良村について

古代には 奈良村には荒川(Arakawa river)の川筋があったことが判っています

ここ奈良村からは 荒川(Arakawa river)
元の毛野国(現在の群馬県・栃木県)を分割して上下(上野国・下野国)となった頃は 地理的には中心地となります

上流は 伊勢崎 前橋 渋川と群馬県へ繋がります(上野国)
下流の 栗橋には 渡良瀬川と思川が合流し栃木県(下野国)に繋がります

社伝にあるように
第16代 仁徳天皇の卸代に 元の毛野国を分割して上下(上野国・下野国)としました
下野国の国造には 豊城入彦命の四世孫にあたる 御祭神の奈良別命(Narawake no mikoto)が 初めて国造を賜りました
奈良別命(Narawake no mikoto)が 下野国の国造の任の後
この地 奈良村に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた
そのため郷民がその徳を偲んで建立した

何故に奈良別命(Narawake no mikoto)が この地に分け入ったのかも
上下(上野国・下野国)の地理的には中心地ならば 納得がいくような気がします

当地一帯を支配した奈良氏は 幡羅郡の豪族(別府氏 奈良氏 玉井氏など)として 関東の名族でもありました
現在でもそうした気概とプライドを感ずるものがありましたので ご紹介します

先人の足跡を汚さぬよう

奈良公民館 小林熊二

奈良地区は、大変古くから開けたところと伝えられている。

それは、六世紀頃造られたといわれる横塚山古墳がこのことを物語っており、また時を同じくして奈良神社が創建されている。

この御祭神は「奈良別命」で、命のことは国造本記(慶雲二年事跡)及び検古記(和銅四年事跡)に詳しく述べられている。
しかし、古墳の被埋葬者と御祭神の関係は解っていない。

時代を少し下ると、熊谷次郎直実とともに奈良三郎高長が活躍しており、江戸時代には吉田市右衛門宗敬を筆頭に五代に亘る社会貢献の事跡があり、最近では経団連会長や日本万国博覧会会長を務めた石坂泰三氏を輩出し、さらに文芸評論で秀才振りを発揮され、後に衆議院議員を務められた石坂養平氏など多くの偉人に恵まれている。

いつの頃からか、近郷近在から「奈良道心」と、奈良地区の人々を尊敬する渾名までつけていただいた地区である。現在に生きる私達は、この様に素晴らしい歴史と輝かしい伝統を受け継ぎ大いに誇りに思い、かつ先人の足跡を汚さないよう大きな責任を感ずるところである。

奈良公民館は、活動の柱を地域のもつ篤実生、温厚性、そして奉仕感をより助長することとするが、新住民や戦後の教育を受けた者とのずれもあり、求められるより良き日本人像を目指して頑張っている。

(熊谷市公協だより 第 32 号 平成 12 年より)
熊谷市公式HPより

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

奈良之神社から 北東に数百mで 旧蹟の石碑「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉地 舊蹟」があり
さらに500m程の北に横塚山古墳があります トータルで約1.3km 徒歩15分程度

奈良神社【旧跡】Nara Shrine【Historic site】に参着

田畑の中に石碑があります
古代には この辺りに泉が湧いて 奈良村を潤していたと伝わる旧蹟です

近づくと石碑には「延喜式内 奈良神社 和銅四年 涌泉舊蹟」と刻まれています
和銅四年は 西暦711年です

お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

横から見ると

横塚山古墳(Yokozukayama tumulus)に向かいます

妻沼バイパス沿いにあります
バイパス側からですと一部切り崩されています

反対側の畑から廻ると円墳であることが判ります

こちら側からですと 畑があり 近づけないので望遠で見るとなおさら円墳と判ります

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』嘉祥3年(850)5月19日条に記される伝承

神社の由緒書きでは
『検古記』和銅4年(711年)元明天皇の御代の記述 とされている奈良神社の神威の内容と同様のものが 正史の六国史にも記されています

意訳

武蔵国の 奈良

慶雲2年(705年)の古い記録の調べによれば 武蔵国を挙げて 官社に列せられました

この神は 火熾し(ひおこし)の様に その光が放たれている如くです

その後 陸奥(東北地方)で蝦夷(えみし)の反乱があり これを征討するために赴きました この神(奈良神社)の神霊を奉じて 陸奥の軍士は出兵しました 戦いでは向うところ敵無しの状態で 年老いた者や体の弱い者もあり 同行したが この神のお陰で死傷者は免れました

和銅4年 奈良神社の境内から 忽然として泉が湧き出し これにより600余町歩の田を灌漑(かんがい)することが出来きました

また 病気の民があると 奈良神社に祈祷すれば すぐに癒えた 人の生命に係わることなので 皆が御祭神を大切に崇め従っています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成
選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

奈良神社【旧跡】& 横塚山古墳 (hai)」(90度のお辞儀)

奈良之神社Nara Shrine)の記事をご覧ください

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奈良之神社(熊谷市中奈良)

奈良神社(ならじんじゃ)は 御祭神「奈良別命(ならわけのみこと)」の名残りから 鎮座地も中奈良(熊谷市)といいます 創建は 第16代 仁徳天皇の卸代〈1600年程前〉奈良別命は 下野国の国造の任の後 この地に その徳によって荒地を拓き美田を墾し 人々の発展と安住の地を造られた そのため郷民がその徳を偲んで建立したと伝わります その後中世に 熊野社に社名を変えて存続 江戸後期になり 王政復古の思想興隆により 社名を古代の奈良神社に復したとあります

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宇都宮二荒山神社(うつのみや ふたあらやま じんじゃ)は 宇都宮市の中心部 明神山(臼ヶ峰、標高約135m)山頂に鎮座します 大変歴史が古く 創建は 第10代 崇神天皇の御代に遡ると云われます 戦災で多くの資料を喪失し 現存の社記には 第16代 仁徳天皇の御代(約1600年前)毛野国が下野国と上野国の二国に分割された時 下野国国造に任じられた奈良別王(ならわけのきみ)が 曽祖父・豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を氏神として祀ったのに始まると記されます

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宇都宮二荒山神社 下之宮(宇都宮市)

二荒山神社 下之宮は 宇都宮二荒山神社の旧 鎮座地に祀られる元宮です 御祭神の4世の孫 奈良別王が 第16代 仁徳天皇の御代(1600年程前)に下野の初代国造となり 国を治めるに当たり 御神霊を荒尾崎(現在の下之宮)の地に祀り合せたとされます その後 神社は 平安時代前半の承和5年(838)に臼ヶ峰(現在地)に還座しましたが 下之宮は発祥の聖地に鎮座するとして永く奉斎されてきました 1995年以後の再開発の際に現在地に再建されました

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