南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ)は 往古は 南宮大社が鎮座していたとも伝わり その境内は 美濃国府跡にあり 國府の宮〈美濃国総社〉ともされています 一説には 現在の南宮大社は 遷座の際 古宮の南方に位する「南の宮」の意から 南宮と云われる様になったと伝えます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
南宮御旅神社(Nanguotabi Shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
岐阜県不破郡垂井町府中2506
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》金山姫命(かなやまびめのみこと)
《相》豊玉姫命(とよたまびめのみこと)
埴山姫命(はにやまびめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
・ 美濃国総社
・ 美濃国一宮である南宮大社の摂社
【創 建 (Beginning of history)】
南宮御旅神社由緒
祭神 金山姫命 南宮大神の御后神(おきさきかみ)
相殿(あいどの)
豊玉姫命(とよたまひめのみこと)安産成育 守護神
埴山姫命(はにやまひめのみこと)沃土豊産 守護神往古、諸國に國府を置かれた時、美濃國には要衝の地なるを 以ってこの府中に定められた 着任した國司の美濃守は毎年正月元旦に 國内の名社を次々と参拝した その順位から一宮二宮三宮の名も生じ、國府には國中の諸神を招神して國の安泰を祈るを古例とした 当社の創建はこの國府の宮であった
國司の時代から守護の中世の代になると國府招神の古儀を承けて 南宮神の神幸は華麗なる母衣花(ほろばな)に飾られ神輿(みこし)三基は 相川の清流に禊(みそぎ)の川渡りを行い御幸道(ごこうみち)を走り込みに依って参向した 在庁の守護代諸役人を初め郷人等がこれを迎えて奉拝するを恒例(こうれい)とする内当社は次第に南宮神の御旅神社と仰がれるに至った
寛永十九年(一六四二)徳川家光公は春日局の諸願成就奉謝の願いを入れて南宮社と旧に復して再建した時、当社も深き神縁に依って造営の栄に浴した。以来将軍寄進の栄光を仰いで、その社構は堅く守られて現本殿に伝え残された
悠遠なる古代より神祭勤仕怠らず父祖相承(う)けて守り来た中に近時広大なる境内を玉垣を巡(めぐ)らして囲み、両社本殿も更に瑞垣(みずがき)を 以って齋(いわ)い樹(た)てるに至った、これは正(まさ)しく全氏子等の厚き崇敬の結晶であり永く後代に讃(たた)え伝えらるべき功業である
茲(ここ)に謹みて改(あらた)まる平成の御代の御大典斎行の年を迎えて心を新たにして益々祭祀を厳修し御神徳の弥栄を祈り奉(まつ)る例祭 四月五日 神幸祭 五月五日
白鬚神社由緒
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと) 郷土安泰 河川水害 守護神
古来府中の守護神として字葉生に鎮座され遠隔の地なるを父祖相承けて祭儀厳修奉仕を續けて来たところ 昭和三十九年三月 開け行く時代の要請と社地環境保全の見地から氏子一同衆議一決し これを御旅神社南側に遷座移建されるに至ったのは祭儀萬代の為の畏き御神慮と拝察される、然(しか)るところ昭和四十九年南宮大社の式年遷宮假殿の用材を寄進されるに及んで拝殿造立の運びとなり氏子一同 衷心協賛して本殿に相応(ふさわ)しい社殿の完備を成し竣えた
以来両社相並んで鎮祭され御神徳益々顕揚されて今日に至る
例祭 四月五日
南宮御旅神社 白鬚神社 宮司 宇都宮精秀 謹記
境内由緒石碑より
【由 緒 (History)】
由緒由来
創祀不詳。里伝に曰く、府中村は往昔国府なり。時の守護職金山彦神社を称して南宮と言ふ。今の南宮神社是なり。該神社を御旅神社と称するは金山彦命の御旅所なればなり。往昔より五月五日該神社へ南宮神社の御輿を始め摂社の御輿共に渡御あり。然るに明治六年新たに同郡垂井村八重垣神社にて其の祭式ありしが、明治十一年に至り、其の祭式復古。該神社へ御輿先例の如く渡御あり。又該神社境内中央に御幸道と言へる小路あり。文和の頃北帝垂井の行在所より当村民安寺に御幸まします事ありし由。故にや其の道の名称あり。然るに其の後当村中央より垂井に達する三間の大道を開き右道に代へ祭典行幸の道とす。但其の道開設年紀を知らず。
岐阜県神社庁HPよりhttp://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=2560
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・白鬚神社《主》猿田彦命(さるたひこのみこと)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
南宮御旅所神社は 南宮大社の摂社です
・南宮大社(垂井町)美濃国一之宮
南宮大社(なんぐうたいしゃ)は 社伝によれば 神武天皇東征の時 金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕された故を以て 不破郡 府中に鎮座したが 後に第十代 崇神天皇の御代 美濃仲山麓の現在地に奉遷された 古くは仲山金山彦神社と号したが 国府から南方に位するので南宮大社と云われる様になったと伝えます
南宮大社(垂井町宮代)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉の内
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・・・・
仲山金山彦神社 一座 美濃國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)不破郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 仲山金山彦神社(名神大)
[ふ り が な ](なかやまかなやまひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayamakanayamahiko no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
美濃国国府跡(みののくに こくふあと)について
南宮御旅神社 境内の南面隣には 美濃国国府跡があります
7世紀の終わりから8世紀初めにかけて 律令政治の完成をめざしていた大和朝廷は 全国を国と郡に分け それぞれに役所〈・国には国府(こくふ)・郡には郡衙(こおりが)〉を置きました
美濃国〈みののくに〉では 古くから府中地区に国府(こくふ)があったと伝えられてきましたが 発掘調査によって 現在の垂井町府中にあったことがわかってきました
美濃国府跡 2015年7月8日
大化改新(645)によって全国に国府がつくられ、美濃では府中地区一帯にあったといわれています。
平成3年からの調査で中心地は御旅神社付近と推定され、当時使われた布目瓦や土器の破片・柱跡が見つかっています。垂井町観光協会 役場事務所HPより
美濃国府跡(みのこくふあと)の正殿(せいでん)跡に建つ 南宮御旅神社
南宮御旅神社の境内の下には 美濃国府跡(みのこくふあと)の正殿(せいでん)があることが 発掘調査の案内板にある「美濃国府跡建物模式図」に描かれています
国史跡 美濃国府跡(みのこくふあと)
平成18年1月26日指定
岐阜県不破郡垂井町府中 所在
国府(こくふ)とは、奈良・平安時代に地方統治のため国ごとに置かれた官衙(かんが)(役所)のことで、中央から派遣される国司(こくし)の出先機関でした。
美濃国府は8世紀前葉に造営され、その後200年ほど機能していました。
平成3年から行われた発掘調査によって、美濃国府の主要な施設の配置関係が判明しました。政庁(せいちょう)は東西約67㍍、南北約73㍍の長方形で、塀で区画されていました。政庁内には、国府で最も格式の高い建物である正殿(せいでん)、南北に長い建物の脇殿(わきでん)などが建てられていました。また、政庁の東側には、国府の実務を行っていた役所群が建っていました。古代律令国家の地方官衙の実態を良く示しており、当時の美濃国の政治情勢を知るうえで重要な遺跡です。
平成19年3月 垂井町教育委員会
現地解説板より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東海道線 垂井駅の西北 約1.4km 車5分程度
垂井町の旧中山道には 南宮大社の参道入口 石鳥居が建っています ここから1.4km程 南下すればで南宮大社です
ここから 北上すると約1km程で南宮御旅神社(垂井町府中)になります
鳥居の扁額には「正一位 中山金山彦大神」と記されています
美濃国国府跡(みののくに こくふあと)南面から
南宮御旅神社(垂井町府中)に参着
こちら南面は 表参道ではありませんでした 神社は東を向いて建てられていて 社頭も東側にあります
南宮御旅神社と白鬚神社が並列に祀られています
社殿に向かって右手が 南宮御旅神社
社殿に向かって左手が 白鬚神社
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
賽銭箱に御朱印について 南宮大社にて承ります との案内があります
白鬚神社にも 賽銭をおさめ お祈りをします
社殿に一礼をして 帰りは表参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
現在の南宮大社は 府中に祀られていたものを南へ移したので 南宮と呼ばれる と記しています
【抜粋意訳】
仲山金山彦(ナカヤマカナヤマヒコノ)神社(名神大)
祭神 金山彦命
今按〈今考えるに〉社伝に祭神三座 金山彦命 相殿 彦火火出見尊 見野尊とあれど 今は式に従て一座を記せり神位
仁明天皇
『続日本後紀』承和 3年(836)11月4日(己巳)美濃國 不破郡 仲山金山彦大神 奉授に 従五位下 即預に名神
『続日本後紀』承和13年(846)5月8日(戊申)奉授に 美濃國 不破郡 従五位下 中山金山彦神 正五位下清和天皇
『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日(甲申)奉授に 美濃國 不破郡 従三位 中山金山彦神 正三位
『日本三代実録』貞観6年(864)5月22日(丁未)授に 美濃國 正三位 中山金山彦神 従二位
『日本三代実録』貞観15年(873)4月5日(己卯)授に 美濃國 従二位 中山金山彦神 正二位
社格 國幣中社
所在 新井郷宮代村 中山麓(不破郡宮代村)
今按〈今考えるに〉神社考に 初ノ美濃ノ國不破ノ郡府中祭ル之後移ニ千郡ノ之南仲山ニ故ニ号スニ南宮ト とあるにて本社を南宮と云由いと明かなり 姑く附て考に備ふ
【原文参照】
南宮御旅神社(垂井町府中)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
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美濃国 式内社 39座(大1座・小38座)について に戻る
美濃国(みののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 美濃国には 39座(大1座・小38座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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