南宮大社(なんぐうたいしゃ)は 社伝によれば 神武天皇東征の時 金鵄を輔(たす)けて大いに霊験を顕された故を以て 不破郡 府中に鎮座したが 後に第十代 崇神天皇の御代 美濃仲山麓の現在地に奉遷された 古くは仲山金山彦神社と号したが 国府から南方に位するので南宮大社と云われる様になったと伝えます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
南宮大社(Nangu Taisha)
[通称名(Common name)]
なんぐうさん
【鎮座地 (Location) 】
岐阜県不破郡垂井町宮代1734-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》金山彦命(かなやまひこのみこと)
《配》見野命(みののみこと)〈豊雲野神〉
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・金物の神様〈金属の総本宮〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 美濃国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
南宮大社 御由緒
御祭神 金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)
御鎮座は古く人皇十代崇神天皇の御代と伝えられ 国府から南方に当たる故 南宮大社と称せられている
古来金宝の守護神 破魔除災の神と御神威高く
既に千年前延喜の制に國幣大社に列せられ一宮として亦広く金之總本宮として崇敬厚い名社である
御社殿は関ヶ原合戦の兵火に遇いて炎上の為 徳川家光公旧に復して再建され 明治維新の神佛分離令に依り 堂塔は他に移建され今日に至る
本殿以下十八棟が国の重要文化財の建築である節分祭 二月節分 大的歩射神事
例大祭 五月四日・五日 御田植神事蛇山神事 御興渡御国指定無形文化財
金山祭 十一月八日 通称ふいご祭
現地由緒書より
【由 緒 (History)】
南宮大社のあらまし
一、御祭神は金山彦命をお祀り申し上げ、古来金の守護神として、また魔除け、災難除けの大神として御神徳の高い神様であらせられます。
一、御鎮座は遠く、人皇崇神天皇の御代と伝えられ、美濃国の国府から南方に当たる故、南宮大社と呼ばれるようになりました。
一、古来朝野の崇敬極めて厚く、天武天皇・聖武天皇の御参拝を始め、既に千年前より国幣の名神大社に列せられ、正一位勲一等の神位を極められて美濃国の一宮として、また広く金山彦大神の総本宮として厚く崇敬されてきた名大社であります。
一、天下分目の関ケ原合戦に、御社殿は惜しくも兵火にかかって炎上した為、徳川家光公が寛永年問(三六十年前)莫大な経費を寄進して再建したのが現在の御社殿であります。御祭神の御神威をよく表現した名建築として重要文化財に指定されています。
一、特殊神事
節分祭(二月節分)大的神事
例大祭(五月五日)御輿渡御 蛇山神事(重要無形文化財)
金山祭(十一月八日)ふいご祭 古式鍛錬式奉納
社頭案内板より
由緒
御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様であります。社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕された故を以て、当郡府中に祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。
御神位は古く既に貞観15年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国39座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶3年(940)、平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任追討の神験によって、正一位勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。御社殿
現在の社殿は、天下分け目の関ケ原合戦の折、兵火にかかって炎上の為、再建を願う美濃国人の只管なる念願と、この西濃に生い育った春日局(家光公の乳母)や、竹中伊豆守(竹中半兵衛の一族)等の厚い崇敬心と相俟って、寛永19年の秋九月、徳川三代将軍家光公の天下普請によって、旧構のままに造営されたものであります。以来、歴代将軍の替わる毎に405石の朱印状を捧げてこれを安堵し、また、51年目毎の式年遷宮をも、古式を護って、これを奉仕し続けて来たのであります。
豪壮華麗なるこの朱塗の社殿様式は、正しく御神威を表徴する独自の社殿様式であり、世に「南宮造り」とも称せられる名建築であります。寛永御造営の棟札を始め、膨大な造営文章623冊を蔵し、これには明治維新の神仏判然令によって移築された堂塔をも含めて、細大洩らさず、その経費が明示され、全国的にも極めて貴重な史料として、御社殿・石鳥居・石輪橋等18棟とともに国の重要文化財に指定されています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社 (Other deities within the precincts)】
境内案内図〈南宮大社公式HPより〉
境内の案内板
本殿向かって右横に鎮座する境内社〈・樹下社・隼人社〉
・樹下社(このもとしゃ)《主》大己貴神(おほなむちのかみ)
・隼人社(はやとしゃ)《主》火闌降命神(ほのすそりのみこと)
本殿向かって左横に鎮座する境内社〈・高山社・南大神社〉
・高山社(たかやましゃ)
《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)瓊瓊杵尊神(ににぎのみこと)
・南大神社(みなみだいじんじゃ)
《主》火明命神(ほのあかりのみこと)
本殿の奥に鎮座する境内社〈・七王子社〉
・七王子社(しちおうじしゃ)
《主》大山祇神,中山祇神,麓山祇神,正勝山祇神,志芸山祇神,高龗神,闇龗神
南門を出て南宮山登山口までの参道に鎮座する境内社
・金敷金床神社(かなしきかなとこじんじゃ)
《主》豊玉姫命(とよたまひめのみこと)蛭児神(ひるこのかみ)
・石船社(いしふねしゃ)
《主》石船明神(いしふねみょうじん)
社の後ろに磐座が祀られています
・聖武天皇大仏建立勅願所
・湖千海社(こせがいしゃ)
《主》豊玉彦神(とよたまひこのかみ)
・帳内引常明神 磐境石(いはさかいし)
・南天竺の鉄塔
・聖武天皇行幸曳常泉
・瓦塚・御神木白玉椿旧址
・三重塔旧址
・御霊社(みたましゃ)
《主》大戦における戦没者の慰霊社
・伊勢両宮社(いせりょうぐうしゃ)〈聖武天皇行幸 往古本殿奉斎地〉
《主》天照大御神(あまてらすおほみかみ)豊受大御神(とようけのおほみかみ)
・東照宮(とうしょうぐう)
《主》東照大権現(とうしょうだいごんげん)〈徳川家康公〉
・荒御魂社(あらみたましゃ)
《主》金山彦大神(かなやまひこのおおかみ)の荒魂(あらみたま)
・百連鳥居
・南宮稲荷神社(なんぐういなりじんじゃ)
《主》保食神(うけもちのかみ)
・袖神(そでかみ)
北門を出て駐車場に面してに鎮座する境内社〈・落合社・数立神社〉
・落合社(おちあいしゃ)
《主》素盞嗚尊(すさのをのみこと)
・数立神社(かずたてじんじゃ)
《主》猿田彦神(さるたひこのかみ)
南宮山山腹にに鎮座する境内社〈・高山社奥宮・子安社〉
・高山社奥宮(たかやましゃ おくのみや)
《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)瓊瓊杵尊神(ににぎのみこと)
・子安社(こやすしゃ)
《主》保食神(うけもちのかみ)
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・大領神社(たいりょうじんじゃ)
《主》宮勝木實(みやの すぐりの このみ)
・『延喜式神名帳』所載 美濃國 不破郡 大領神社(たいりやうの かみのやしろ)
・南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ)〈南宮大社の旧鎮座地〉
《主》金山姫命(かなやまひめのみこと)《配》豊玉姫命・埴山姫命
・南宮御旅神社(垂井町府中)〈南宮大社の旧鎮座地〉
南宮御旅神社(なんぐうおたびじんじゃ)は 往古は 南宮大社が鎮座していたとも伝わり その境内は 美濃国府跡にあり 國府の宮〈美濃国総社〉ともされています 一説には 現在の南宮大社は 遷座の際 古宮の南方に位する「南の宮」の意から 南宮と云われる様になったと伝えます
南宮御旅神社(垂井町府中)
・吉葛神社(よさづらじんじゃ)
《主》天吉葛神(あまのよさづらのかみ)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉の内
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・・・・
仲山金山彦神社 一座 美濃國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)不破郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 仲山金山彦神社(名神大)
[ふ り が な ](なかやまかなやまひこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakayamakanayamahiko no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
南宮大社の配祀神 見野命(みののみこと)について
配祀神 見野命(みののみこと)とは 豊雲野神(とよくもののかみ)の別名
『古事記』 では 神世七代の第2代の神 豊雲野神(とよくもののかみ)
『日本書紀』では 天地開闢に登場する神世七代の第3代の神 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)と記される神の別名です
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
『日本書紀』神代上の冒頭本文では 神世七代の第三の神の名は「豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)」と記されます
一書(第一)では その神名を「豊国主尊(とよくにぬしのみこと)」と記されています この神の別名は「見野命(みののみこと)」と明記されています
【抜粋意訳】
神代・上 第一段 一書(第一)の段
〈一書(第一)〉ある書(ふみ)によると
天地(あめつち)が初めて分かれたとき 虚中(そらのなか)にひとつの物がありました
その中に現れました神の名は 国常立尊(くにのとこたちのみこと)と号す
別 名を 国底立尊(くにのそこたちのみこと)とも云う
次に 国狭槌尊(くにさつちのみこと)
別名を国狭立尊(くにのさたちのみこと)とも云う次に 豊国主尊(とよくにぬしのみこと)
別名を豊組野尊(とよくみののみこと)
別名を豊香節野尊(とよかぶしののみこと)
別名を浮経野豊買尊(うきふののとよかいのみこと)
別名を豊国野尊(とよくにののみこと)
別名を豊齧野尊(とよくひののみこと)
別名を葉木国野尊(はこくにののみこと)
別名を見野尊(みののみこと)とも云う
【原文参照】
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR東海道線 垂井駅から 南へ約1.7km 車5分程度
R21号の御所野交差点を左折〈南下〉東海道新幹線の高架をくぐるとすぐ大鳥居が建ちます 鳥居に向かって右の山は神体山の南宮山(なんぐうさん)
大社の東面に 駐車場があり 境内社の数立神社(かずたてじんじゃ)が祀られています
社頭には大きな社号標「南宮大社」とあり
南宮大社(垂井町宮代)に参着
石輪橋の先に楼門が建ちます
楼門の中には 木製の狛犬が構えます
楼門をくぐると手水舎があり 清めます
楼門の正面 玉砂利が敷き詰められている境内の中央には 高舞殿
高舞殿の奥には 左右は廻廊が廻され 中央に拝所があり 拝殿の後ろに本殿が鎮座しています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
左右の廻廊から 拝殿奥の本殿・境内社にお詣りをします
本殿向かって右横の境内社・樹下社・隼人社神
本殿向かって左横の境内社・高山社(たかやましゃ)・南大神社神
社殿に一礼をして 境内西側の境内社エリアに向かいます 境内からは 神輿舎の隣 南門を出れば直接いけますが 一度 楼門を出てから向かいます
楼門をくぐり出ると すぐに石輪橋があります
石輪橋の横には 祓所があり その先に南宮稲荷神社から南宮山へと続く参道
ここからは別世界のような空間が続きます ひとつひとつお詣りをしながら参道を上がります
・金敷金床神社・石船社
・湖千海社・帳内引常明神 磐境石
・瓦塚・御神木白玉椿旧址
・三重塔旧址
・伊勢両宮社〈聖武天皇行幸 往古本殿奉斎地〉
・東照宮
ここには 立派な金蛇(カナヘビ)が居ました
・荒魂社
稲荷への・百連鳥居
・南宮稲荷神社
・袖神
境内の南門まで戻り 南門から再度一礼をして 戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
承和 3年(836)11月4日(己巳)の条
美濃國(みののくに)不破郡(ふはのこほり)仲山金山彦大神に
奉授(たてまつりさずく)に 従五位下を 即預(あずかしらしむ)に名神
【原文参照】
【抜粋意訳】
承和13年(846)5月8日(戊申)の条
奉授(たてまつりさずく)に 美濃國(みののくに)不破郡(ふはのこほり) 従五位下 中山金山彦神に 正五位下を
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞観元年(859)正月27日(甲申)の条
奉授(たてまつりさずく)に 美濃國(みののくに)従三位 中山金山彦神(なかやまかなやまひこのかみ)に 正三位
【原文参照】
【抜粋意訳】
貞観6年(864)5月22日(丁未)の条
授(さずく)に 美濃國(みののくに)の正三位 中山金山彦神に 従二位
【原文参照】
【抜粋意訳】
貞観15年(873)4月5日(己卯)の条
授(さずく)に 美濃國(みののくに)の従二位 中山金山彦神に 正二位
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
仲山は奈加夜麻(なかやま)金山彦は加奈也万比古(かなやまひこ)と読むべし と記しています
【抜粋意訳】
中山金山彦神社(名神大)
仲山は奈加夜麻、金山は加奈也万比古と訓べし、
〇祭神明らかなり
〇社伝云、金山彦命、見野尊、彦火火出見尊、秘神二座、
〇新井郷宮代村に在す、今雨宮と称す、
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座 美濃國 仲山金山彦神社一座
〇当国一宮なり
〇日本紀、神代上 一書曰 一書曰、伊弉冉尊、且生火神軻遇突智之時、悶熱懊悩。因爲吐。此化爲神。名曰金山彦鎮座 崇神天皇五年十一月中十日鎮座 明細記
神位
『続日本後紀』承和 3年(836)11月4日(己巳)美濃國 不破郡 仲山金山彦大神 奉授に 従五位下 即預に名神
『続日本後紀』承和13年(846)5月8日(戊申)奉授に 美濃國 不破郡 従五位下 中山金山彦神 正五位下
『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日(甲申)奉授に 美濃國 不破郡 従三位 中山金山彦神 正三位
『日本三代実録』貞観6年(864)5月22日(丁未)授に 美濃國 正三位 中山金山彦神 従二位
『日本三代実録』貞観15年(873)4月5日(己卯)授に 美濃國 従二位 中山金山彦神 正二位
社伝、朱雀天皇 天慶三年、平将門叛逆時、敇祈誓、神功最掲、被授に勲一等、後冷泉天皇 康平年中〈康平5年(1062)〉、安倍貞任、宗任糺、亦有 霊験被授に正一位 明細記
本国神名帳、正一位勲一等 仲山金山彦大神社領
当代御朱印高四百五石沿革
明細記云、慶長五年庚子九月、関ヶ原合戦之時、安国寺手勢 放火 神社為灰塵、東照宮祈願、天下統一之後、至に于家光公、寛永九年造営成、元禄七年修造社職
社家 不破氏、大庭氏、東四あり宇都宮氏、及 社傍十坊、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
現在の南宮大社は 府中に祀られていたものを南へ移したので 南宮と呼ばれる と記しています
【抜粋意訳】
仲山金山彦(ナカヤマカナヤマヒコノ)神社(名神大)
祭神 金山彦命
今按〈今考えるに〉社伝に祭神三座 金山彦命 相殿 彦火火出見尊 見野尊とあれど 今は式に従て一座を記せり神位
仁明天皇
『続日本後紀』承和 3年(836)11月4日(己巳)美濃國 不破郡 仲山金山彦大神 奉授に 従五位下 即預に名神
『続日本後紀』承和13年(846)5月8日(戊申)奉授に 美濃國 不破郡 従五位下 中山金山彦神 正五位下清和天皇
『日本三代実録』貞観元年(859)正月27日(甲申)奉授に 美濃國 不破郡 従三位 中山金山彦神 正三位
『日本三代実録』貞観6年(864)5月22日(丁未)授に 美濃國 正三位 中山金山彦神 従二位
『日本三代実録』貞観15年(873)4月5日(己卯)授に 美濃國 従二位 中山金山彦神 正二位
社格 國幣中社
所在 新井郷宮代村 中山麓(不破郡宮代村)
今按〈今考えるに〉神社考に 初ノ美濃ノ國不破ノ郡府中祭ル之後移ニ千郡ノ之南仲山ニ故ニ号スニ南宮ト とあるにて本社を南宮と云由いと明かなり 姑く附て考に備ふ
【原文参照】
南宮大社(垂井町宮代)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
美濃国 式内社 39座(大1座・小38座)について に戻る
美濃国(みののくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 美濃国には 39座(大1座・小38座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
美濃國(みののくに)の 式内社 39座(大1座・小38座)について