実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃは 社記によれば 弘仁2年(811101日に鎮座と伝え 延寶4年(1676の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社なかつの かみのやしろ)(名神大)査定とされ 明治41(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

中津神社(Nakatsu shrine

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市勝本町北触218-2

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天津日高火穂瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみこと
   天児屋根命(あめのこやねのみこと)
   天太玉命(あめのふとたまのみこと)

明治41(1908)佐肆布智明神を合祀
《合》経津主命(ふつぬしのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

社記弘仁2年(811101日に鎮座したと伝え
延宝4年(1676)橘三喜式内調査名神大社 中津神社査定

明治41(1908)佐肆布智明神を合祀

【由  (History)】

当社は、社記によると弘仁2年(811101日に鎮座したと伝え、延宝4年(1676)の式内調査の折りに橘三喜は『延喜式神名帳』に記録される名神大社中津神社をここに査定し、藩主松浦鎮信から木鏡の御正体と烏居の石額が献納された。
現在、合祀される佐肆布都神社は、
『延喜式神名帳』に「壱伎島壱伎郡佐肆布都神社小社」、『壱岐国神名記』に「佐肆布都神社としるす所なり、佐肆布都神社小神、改以前は佐肆布智大神といふ、亦式外といふ、古老の伝云、むかし佐肆布都神石船にのりて比の地に亘り給ふ、其石船は神居の丑子にあり、今案ずるに船石是なり、又石祠の後に大石二つあり、一つは周匝四間三尺六寸、高壱間三尺、一つは周匝三間三尺、高七尺七寸三分、神石と見ゆ」、『壱岐国神社帳』に「打田佐肆布都神社小神、上屋あり、定祭9月18日、古来鎮座年数不知、延喜式にのする所の神社なり」

勝本町史』〈出版者 勝本町1985.2〉より抜粋

【境内社 (Other deities within the precincts)】

【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

明治41(1908)に合祀の佐肆布智明神の旧鎮座地

・佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町)

一緒に読む
佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)

佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 明治41年(1908)中津神社に合祀された佐肆布智明神の旧 鎮座地です 式内社の佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)とされます 石祠の背後の゛巨石゛は〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

名神ノ祭 二百八十五座
・・・

・・・
中  津 (なかつの)神社 一座
天手長男 (あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐

・・・
・・・
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合
加えるに 
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

①中津神社について

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)

[名神大 大 小] 式内名神大

[旧 神社 名称 ] 中津神社(貞・名神大)
[ふ り が な ]なかつの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nakatsu no kamino yashiro)

➁合祀の佐肆布智明神

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 佐肆布都神社
[ふ り が な ]さしつの かみのやしろ
[Old Shrine name]Sashifutsu no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

中津神社(壱岐市勝本町)は 二つの式内社の論社です

佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)

・佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町)

一緒に読む
佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)

佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 明治41年(1908)中津神社に合祀された佐肆布智明神の旧 鎮座地です 式内社の佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)とされます 石祠の背後の゛巨石゛は〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています

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・中津神社(壱岐市勝本町)に合祀

一緒に読む
中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

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中津神社(貞・名神大)(なかつの かみのやしろ)

・聖母宮(壱岐市勝本町)

一緒に読む
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)

聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています

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・中津神社(壱岐市勝本町)

一緒に読む
中津神社(壱岐市勝本町北触)

中津神社(なかつじんじゃ)は 社記によれば 弘仁2年(811)10月1日に鎮座と伝え 延寶4年(1676)の調〈平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉によって 中津神社(なかつの かみのやしろ)(名神大)と査定とされ 明治41年(1908)に佐肆布智明神〈式内社 佐肆布都神社〉を合祀して 二つの式内社の論社となっています

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

芦辺港と勝本港を結ぶ 県道172号 県道23号のちょうど中間点辺り 勝本町北触に鎮座します 両港から車で7~8分程度

一の鳥居は県道23号沿いに建ちます

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一の鳥居をくぐり抜け 森の中を抜けていくと 二の鳥居が見えてきます

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ちょっとした山になっていて 中津山と呼ぶらしく 眼下に県道23号が見えています

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駐車場の先に 二の鳥居が建ちます

中津神社(壱岐市勝本町)に参着

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鳥居の扁額には 中津神社と刻されています
一礼をして くぐり 石段を上がります

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石段を上がると 整地された校庭のように広い境内があり その先に一檀高い社地に社殿が建ちます

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拝殿にすすみます

写真1

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 幣殿 更に一檀高く 本殿が祀られています

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境内の顕彰碑

中津神社顕彰之碑とあり 祭神名も記され
奉歌には 中津山 社の境に とありますので ここはやはり中津山だとわかります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

巻24 新城村之部に記されています

【抜粋意訳】

巻24 新城村之部

中津宮 在 中津山

祭神 中 瓊瓊杵尊 左 天兒屋根尊 右 太玉命

御殿 南向
拝殿 桁 三間半 梁 二間

境内 東西三十八間半 南北四十間半 周囲一百三十八間
社領 水田
神物 石額一隻 延宝四年国主奉納
   告文二通 寛政年中清朝臣奉納

当社は神名式に所載 壱岐郡 中津神社 名神大 是なり
日本管領社記云 壱岐管ニ勤請 壱岐中津神社 若宮記云 若宮大明神の御女を仲姫と申し 父は応神天皇以皇后仲媛命は 今 垂迹を仲津宮大明神とまをす 今 瓊瓊杵尊と称せし是なりひ
後花園天皇享徳三年申戌二月 造替なり 今 嘉永五年に至り三百九十八年
吉野末負大宮司たり その後往々造替なり

佐肆布都社

舩石 堅五尺五寸 横二尺七寸
   縁髙九寸五歩 窪二寸五分

・・・・
・・・・

社記云掛巻に かくこれ若宮大明神 古屋敷より今の社地に遷して給ひし 須は神領多く年中数度の祭礼を厳重なりし
・・・・・
・・・・・

古社地 今古屋敷と云う
此の所前は 知多にして 後は林なり
〇社記云
古屋敷といふは 若宮大明神の古宮地なり 御託宣に任せ今 此新地に安鎮座なり 是によりて 田の名を前神田といふ 又 大畠といふ 九月十六日の晩・・・右 古屋敷前 神田馬場の的場石といひて立石なり 馬出石といひて横石なり 月付石といひて立石なり
・・・・
・・・・

佐肆布都神社 在 打田里

石祠 卯辰向 延宝四年 国主奉納なり

上屋 五尺方 瓦葺

境内 東西十八間 南北十九間半 周囲六十七間半

船石 図出上 畠中にあり 去御山北十七間半 其の形勢真の舟の如し

当社は式の神名帳に所載 壱岐郡 佐肆布都神社なり
延寶〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の改め 以前は 佐志布知大明神といひしなり

【原文参照】

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 壹岐郡 佐肆布都神社の論社の所在について 新城村〈現 佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町)〉と記しています

式内社 壹岐郡 中津神社の論社の所在について 新城村〈現 中津神社(壱岐市勝本町)〉と記しています

【抜粋意訳】

佐肆布都神社

佐肆布都は假字なり
〇祭神明らかなり
〇新城村に在す 土俗 佐肆布智明神と称す 式社考

〇古事記、神武段
答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。

中津神社(名神大)

中津は 奈加都と訓べし
〇祭神 中津島姫命 考証
〇新城村に在す
〇式三 臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 中津神社 一座
〇舊事紀 神祇本紀 一云 中津島姫命者、是所レ居ニ干中島者、此市杵島姫也、
今按るに、此中津宮の神に説々あり、尚 筑前國宗像郡 宗像神社の條見合うべし

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 壹岐郡 佐肆布都神社について 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の時 新城村 打田指淵大明神の指淵(さしふち)の名から由があったとされた

式内社 壹岐郡 中津神社(名神大)の論社について
祭神について 旧説 中津島姫命としてします 所在は 本宮村〈現 中津神社(壱岐市勝本町)〉と記しています

【抜粋意訳】

佐肆布都神社

祭神 経津主命

祭神 十一月十八日
社格 (無社格)

所在 新城村(壱岐郡香椎村大字新城)
今按〈今考えるに〉
新城邑 打田指淵大明神と称して社もなかりしを 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に指淵の名によりて 佐肆布都神社とせりとみえたるによりて 式社沿革考には同村の若宮明神かとあれと 指淵の名いと由あれは長崎縣式内社記に従へり

中津神社(名神大)

祭神
今按〈今考えるに〉
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉より 祭神 瓊瓊杵尊 天兒屋根命を祭るとせしより 明細帳 式内社記みな之に従へり
されと舊説 中津島姫命とある 中津島姫は宗像の中津島にます 湍津姫命を移し祭れるより かく云傳へたるなるべし 然るに沿革考に中津島姫と云より仲姫を祭れるならんと云も勝本浦 聖母大神宮歟と云るは信かたし 祭神 湍津姫命として可ならん姑附て考備ふ

祭日 九月十四日
社格 (無社格)(郷社)

所在
今按〈今考えるに〉
社記に嵯峨天皇 弘仁二年十月朔 壱岐郡新城村川須見の邊り 中津越の峰に鎮座奉るとあり 中津神社の称は この中津越の峰より起れるならん

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 壹岐郡 佐肆布都神社の所在について 新城村と記しています

式内社 壹岐郡 中津神社の所在について 新城村と記しています

【抜粋意訳】

佐肆布都(サシフツノ)神社

今 新城村に在り 蓋 建御雷之男神を祀る 古事記 延喜式

佐肆布都神は、其平國劔の亦名なり 古事記 凡十一月十八日祭りを行ふ

中津(ナカツノ)神社

今、新城村に在り、
〇按 社記に弘仁二年十月朔、壱岐郡新城村川須見の邊、中津越の峯に鎮座とあり、中津の称 或いは此に起こる歟

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

明治41年佐肆布都神社合祀と記しています

【抜粋意訳】

郷社 中津神社(旧号中津宮)

鎭座地 勝本町大字新城北触
 神 天津日高彦火瓊々杵尊、天児屋根命、天太玉命

明治41年佐肆布都神社ヲ合祀シテ経津主命ヲ併セ祀ル。
例祭日 314
境内地 234

〔由緒沿革〕
一、吉野文書ニ曰、中津神社ハ壱岐群管領ノ神社也。
一、神名記ニ新城村中津神社、大、改以前ハ中津宮ト云、式外卜見ユ。
一、神社帳ニ河角、中津神社、二十四座ノ内、有社拝殿、定祭914日、延宝46月國主ヨリ木鏡神体石額ヲ献ゼラルト記ス。
一、吉野氏系譜ニ曰、享徳3年(1214)217日新庄村中津宮造営遷宮吉野五郎三郎末貞。
附記、末貞ノ時代記ニ新庄、香椎、勝本、箱崎、瀬戸、布氣、本宮、唐田、国府、湯岳、長峰、有安、黒崎、小牧、等ノ大小社務ニ與ルトアリ。
文亀元年(1261)中津宮造営遷宮、吉野九郎太夫末春。
天正4年(1576)新庄中津宮造替遷宮、吉野甚五左衛門末秋。
萬治4年新庄中津宮造替310日遷宮、吉野釆女尚忠。
一、明暦2年(1316)8月吉野氏惣領家藤右衛門末正ノ著、新城村若宮御祭礼記ニ中津宮、914日、日ノ日祭リ、庄屋々敷ヨリ献調云々、右諸社ハ若宮大明神末社也、御神事可相勤者也トアリ。
一、明治161011日郷社ニ列セラル。
一、大正22月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

【抜粋意訳】

〇長崎縣 壱岐國 壱岐郡 香椎(カシヒ)村大字新城

郷社 中津(ナカツノ)神社

祭神 番瓊々杵(ホノニニギノ)
   天児屋根(アメノコヤネノ)
   天太玉(アメノフトタマノ)

延喜式神名帳 壱岐島中津神社名神大」とあり、
同考証に、「中津島姫命、旧事記云、市杵島姫命、亦云中津島姫命、姓氏録云、安曇連、于都斯奈賀命之後也」と云ひ、
神社覈録に「中津は奈加都と訓べし、祭神中津島姫命、新城村に在す、
式三 臨時祭 名神祭二百八十五座、壱岐島中津神社一座、旧事紀云、中津島姫命者、是所居于中島者、此市杵島姫命也」とあり、
壱岐国続風土記所引、壱岐式社考に曰く,
「中津神社、所祭火之瓊々杵尊、天児屋根命、天太玉命也、云々」
神祇志料には「今新城村に在り」とのみにて別に祭神を記さす、嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔、神勅によりて、神代の君、璽を写し奉り、神体に象り、此地に渡し奉る、即ち茲に鎭座あり、文徳天皇仁寿元年辛未春正月庚子、勅して正六位上を授け、陽成天皇元慶元年丁酉9月25日癸亥、中臣忌部の両氏参向して、幣帛を奉る事あり、之れ大嘗会の御供なり、朱雀天皇天慶3年庚子、位一階を進め給ふ、白川天皇永保元年辛酉3月、更に一階を進め給ふ、崇徳天皇永治元年辛酉秋7月、更にまた一階を進め給ふ、高倉天皇治承4年庚子12月また一階を、後鳥羽天皇永暦2年乙巳3月3日、同じく一階を進め給ふ、
又壱岐国続風土記所引、壱岐神社帳に曰く、
「中津神社、古来鎮座、萬治4年辛丑再建、延宝4丙辰年、木鏡御正体一面石額是を献ぜらる、云々」
又松浦肥前守鎮信在判壱岐国神社考に、
「中津神社は壱岐郡管領社 名神大 と坐せぱ、壱岐郡の宗社にして、重き神社なり、当社は、天津彦火之瓊々杵尊にして、豊葦原中津国を治め知ろしめし、大神なるが故に、中津大神と申し奉る、云々」
と見え、
又太宰管内志に「中津ノ神社、延喜式に壱岐郡中津神社あり、中津は那珂都とよむべし、中津は地名なり、壱岐国に、中津神社、在新城村本村、祭神瓊々杵尊、天児屋命、天太玉命也、有御殿拝殿、境内東西三十八間半、南北四十間半、周匝百三十八間、社領水田壱畝七歩半、火田壱畝十五歩、又壱岐島若宮記云、若宮大明神之御母號仲媛(則応神天皇之御后仲姫命也、此媛神之垂迹曰仲津宮大明神、今或称瓊々杵尊不知何故(又壱岐式社考云、祭瓊々杵尊、児屋根命、太玉命之社、延宝巳前號仲津宮、或称式外社、定祭9月14日)と見えたり、
地図を按するに、仲津神社は瀬戸ノ浦の北にあり、仲津神社より北ノ方の海邊に田浦ノ魚屋場といふものあり」と云へり、本朝神社牒に「中津神社、社人、吉野弾正、但松浦肥前守領分」とあり、明治7年6月郷社に列せらる。
社殿は本殿、拝殿を備へ、境内234坪(官有地第一種)を有す。
例祭日 六月十四日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

中津神社(壱岐市勝本町) (hai)」(90度のお辞儀)

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る 

一緒に読む
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています