中臣印達神社(なかとみ いだてじんじゃ)は 宝亀元年(770)創立と伝へ 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)とされ 又 式内社 阿波遅神社(あはちの かみのやしろ)を合祀します 更に鎮座地(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
中臣印達神社(Nakatomi idate shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県たつの市揖保町中臣1360
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
中臣印達神社
《主》五十猛神(いたけるのかみ)
合祀 阿波遅神社〈式内社〉
《合》大鹿嶋神(おほかしまのかみ)
大香山戸臣神(おほかぐやまとおみのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
中臣印達(なかとみいだて)神社
御祭神 五十猛神(いたけるのかみ)(素戔嗚尊の御子)
創 建 宝亀(ほうき)元年(西紀七七〇年)
例 祭 四月十日 十月十日
社 格 『延喜式』に名神大神とあり、古社であり、大神でもある。
(『延喜式』第十巻五十七枚所蔵)五十猛神は父神である素戔鳴尊とともに天照大神(あまてらすおおみすみ)が驚きになるくらいの、又、国内が混乱するぐらいの新しい文化・文明を大陸より移入。それ以降、国内の農耕・文化・文明は大変な発展をとげたとされる。
これらより、ご霊験灼(あらたか)な神と信仰が篤(あつ)い。そして、大陸・朝鮮半島より樹木の種(たね)を持ち帰ったことにより、植林の神とも伝えられている。
近年では困った時の神頼みの神社として、一言(ひとこと)心願成就が密かに人気である。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社は 宝亀元年6月15日の創立と伝へ 延喜式の制名神大に列せしも 中古より両部神道の為め 修験者が社務に干與するにおよびて社背の山上にありし十二所権現と唱ふる木像を本社に合祀の結果 近世に至るまで社名をも蔵王権現とのみ称するに至る 明治10年10月10日願済の上 創立当時の社名 即ち中臣印達神社に復称し 同年同月(明治12年5月とも)縣社に列せらる。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
由 緒
創建は宝亀元年(770)。『延喜式』に名神大神とあり、古社であり、大神でもある。
五十猛神は父神であられる素戔鳴尊とともに天照大神が驚きになられるぐらいの、又、国内が混乱するぐらいの新しい文化・文明を大陸より移入。それ以降、国内の農耕・文化・文明は大変な発展をとげたとされる。
これより、ご霊験あらたかな神と信仰が篤い。そして、大陸・朝鮮半島より樹木の種を持ち帰ったことにより、植林の神とも伝えられている。
近年では困った時の神頼みの神社として、一言心願成就が密かに人気である。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6318008.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・中臣印達神社 社殿
・中臣印達神社 拝殿
・〈拝殿の前〉狛犬
・境内社と御神木
・粒丘(いひほのをか)
中臣印達神社 鎮座地の丘(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されています
このことから式内社 粒坐天照神社の論社にもなっています
・〈境内社〉式内社 粒坐天照神社〈社殿は無く 石碑のみ〉
・〈境内社〉薬司神社
薬司(やくし)神社(権現(ごんげん)さん)
御祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)
創 建 不詳
例 祭 九月十八日もと山上に鎮座(ちんざ)坐(ま)しました社である。神仏混淆(こんこう)時代 薬師堂と称呼し、現在地に奉祀(ほうし)された。
御神像(ごしんぞう)は口伝されて周知だが、降魔(こうま)・忿怒(ふんぬ)の相(悪魔を降伏(こうふく)させる時のような怒った形相(ぎょうそう))をお表わし、極彩色(ごくさいしき)のものである。
氏子、民人は畏(おそ)れ、敬(うやま)い、大事に祀(まつ)ってきた。
現地案内板より
・〈境内社〉木種神社・天満神社
木種(こだね)神社
御祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
例 祭 十月十日
荒ぶる神で有名だが、出雲の国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したことで広く知られる英雄神でもある。
中臣印達神社の御祭神 五十猛神(いたけるのかみ)の父神であられる。大陸、朝鮮半島より文化、文明、そして樹木の種(たね)を国内に持ち帰られた。巷(ちまた)で子宝授りの神、安産の神と崇(あが)める信仰がある。
現地案内板より
天満宮(てんまんぐう)
御祭神 菅原道真公(すがわらみちざねこう)(菅公さん)
例祭 五月五日
京都北野天満宮、九州太宰府天満宮で有名な天神(てんじん)さんをお奉(まつ)りする。学問・書道上達が顕著(けんちょ)な御効験(ごこうけん)として知られている。
少年・少女、習い事をしている方は参拝し、ご加護(かご)をいただかれるべし。
現地案内板より
・参道石段・注連柱
・参道・手水舎
・〈古い〉鬼瓦・扁額
・〈古い〉鬼瓦・砲弾
・絵馬殿
・神馬像
・狛犬
・〈境内社〉厳島神社
厳島(いつくしま)神社
御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
例祭 五月五日
七福神の弁財天(べんざいてん)の神で有名。いつの頃からか近郷・近在では、いぼ神さんとして周く知られている。いぼ治療として特に有名である。
阪神地区・岡山地区からも参拝者がある。現地案内板より
・石碑
・一の鳥居〈南鳥居〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される「粒丘(いひほのをか)」の伝承
中臣印達神社 鎮座地の丘(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されています
【抜粋意訳】
揖保里(いひほのさと)
粒(いひほ)
と称される所以は 粒山(いひほやま)があった故に 山の名をこの里名とした
粒丘(いひほのをか)
と名付けた所以は 粒丘に天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 韓国から渡来して宇頭川の辺に到り ここで宿を乞うた 葦原志舉乎命(あしはらのしこをのみこと)は「汝は国主である 我が宿を与えよう」と云い 海中に案内した この時 客神(まらひとのかみ)〈天日槍命〉は 剣で海水をかき回して宿とした
すると 客神〈天日槍命〉の行いを見た主神(あるじのかみ)〈葦原志舉乎命〉は畏れ 先に国を占拠しようと欲して 国を巡り粒丘に到り ここで湌(みをし)〈食事〉をした その時 口から米粒が落ち 粒丘と名付けられた
その丘には小石があり 皆 米粒によく似ている また 杖を刺した地から冷水が湧き出て 遂に南北に流れた泉は 北は寒く 南は温い
ここには 白朮(おけら)が生える
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
粒坐天照神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申
〇廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
備中國 三品吉備都彦命二品・・・
・・・播磨國 從五位下勳八等 粒坐天照神 伊和坐大名持御魂神 並從四位下
從五位下海神 從五位上
・・・
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・
・・・海神社三座 粒坐天照神社一座 中臣印達神社一座 家嶋神社一座 伊和神社一座〈已上播磨国〉
・・・
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
中臣印達神社は 三つの式内社〈①粒坐天照神社(名神大)②阿波遲神社③中臣印達神社(名神大)〉の論社です
①中臣印達神社 鎮座地の丘(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されています このことから式内社 粒坐天照神社の論社にもなっています
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 粒坐天照神社(名神大)
[ふ り が な ](いいぼにます あまてらす かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iibonimasu amaterasu kaminoyashiro)
②式内社 阿波遲神社は 中臣印達神社」に合祀されています
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿波庭神社
[ふ り が な ](あはての かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ahate no kaminoyashiro)
③中臣印達神社(名神大)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨國 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)揖保郡 7座(大3座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 中臣印達神社(名神大)
[ふ り が な ](なかとみ いんたちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nakatomi intachi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 播磨国 揖保郡 粒坐天照神社(名神大)(いいほにます あまてらすかみのやしろ)の論社
・粒坐天照神社(たつの市龍野町日山)
・古宮神社(たつの市揖西町小神)
・天祇神社(たつの市揖西町小神)
・粒坐天照神社(たつの市揖保町中臣)〈中臣印達神社の境内〉
中臣印達神社(なかとみ いだてじんじゃ)は 宝亀元年(770)創立と伝へ 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)とされ 又 式内社 阿波遅神社(あはちの かみのやしろ)を合祀します 更に鎮座地(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されます
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣) 〈『延喜式』名神大神 中臣印達神社〉
・梛神社(姫路市林田町下伊勢)
・梛八幡神社(たつの市神岡町沢田)
・井関三神社(たつの市揖西町中垣内)
・多賀八幡神社(姫路市林田町上伊勢)
延喜式内社 播磨国 揖保郡 阿波庭神社(あはての かみのやしろ)の論社
・中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〈中臣印達神社に合祀 阿波庭神社〉
中臣印達神社(なかとみ いだてじんじゃ)は 宝亀元年(770)創立と伝へ 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)とされ 又 式内社 阿波遅神社(あはちの かみのやしろ)を合祀します 更に鎮座地(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されます
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣) 〈『延喜式』名神大神 中臣印達神社〉
・夜比良神社(たつの市揖保町揖保上)
・山戸春日神社(姫路市勝原区山戸)
延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)の論社
・中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)
中臣印達神社(なかとみ いだてじんじゃ)は 宝亀元年(770)創立と伝へ 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)とされ 又 式内社 阿波遅神社(あはちの かみのやしろ)を合祀します 更に鎮座地(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されます
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣) 〈『延喜式』名神大神 中臣印達神社〉
・林田八幡神社(姫路市林田町)
・魚吹八幡神社(姫路市網干区宮内)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山容本線 竜野駅からR2号を東へ揖保川を渡り 西構の交差点を左折〈北へ〉 駅から約3.7km 車で8分程度
境内から南方600m程の位置に一の鳥居が南を向いて建っています
参道を進むと神社の鎮座する中臣山〈粒丘(いひほのをか)〉が見えてきます
石燈籠の立ち並ぶ 境内参道に着きます
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)に参着
駐車場があります
参道を上がって行くと 右手に〈境内社〉厳島神社
参道を登ると広い境内があり 左手には手水舎と粒丘(いひほのをか)の碑があります
右手には絵馬殿があります
手水舎で清めてから 石段を上がり拝殿に進みます
拝殿の扁額には゛式内 中臣印達神社゛と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿には 醤油〈マルテン醤油・ヒガシマル醤油〉が奉納されていました
拝殿の奥は一段高い壇になっていて 透塀で本殿が囲まれて 祀られています
拝殿の向かって左横には 玉垣が廻されていて 境内社が祀られています
向かって 右側の二つの祠が・〈境内社〉木種神社・天満神社
中央の敷地には 社殿は立っていませんが ゛〈境内社〉式内社 粒坐天照神社〈社殿は無く 石碑のみ〉゛
一番左〈粒坐天照神社の石碑の左〉は〈境内社〉薬司神社です
境内社に一礼をして 参道を戻ります
境内の先に参道が伸びています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 粒坐天照神社(名神大)について 表記は゛揖保坐天照神社(名神大)゛と記し 所在は゛揖東郡岡野郷上伊勢村に在す、今伊勢宮と稱す、゛〈現 多賀八幡神社(姫路市林田町上伊勢)〉と記しています
【抜粋意訳】
揖保坐天照神社(名神大)
揖保は 郡名に同じ、和名鈔、〔郷名部〕揖保、〔伊比奉〕
天照は 阿麻弖留と訓べし、
〇祭神 伊勢都比古命歟
〇揖東郡岡野郷上伊勢村に在す、今伊勢宮と稱す、〔古跡便覧〕
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕播磨國粒坐天照神社一座
〇播磨國風土記云、〔揖保郡〕
伊勢野(いせの) 伊勢野と名付けられた所以は この野に毎(ごと)有る人家は 静けさを得ず そこで 衣縫猪手(きぬぬひのゐて)・漢人刀良(あやひととら)らの祖が 此処に居住し山の麓に社を建て 山峯の神を敬い祀った その神は 伊和大神の御子神 伊勢都比古命(いせつひこのみこと)と伊勢都比賣命(いせつひめのみこと)です これより後は 家々は静かで安らかになり 遂に里を成した よって伊勢と号した考證云、天照國照彦火明饒速日尊、
比保古云、天照大神也と非也、〔連胤〕按るに、風土記に據て見れば、此古跡なる事疑ひなきを、彼伊勢とだにいへば、天照大神の事に泥みて此故事を忘れ、はやく貞観の頃より、天照神社と唱へ來りしを、其ままに注進したるにこそあらめ、是を以て見れば、伊勢村伊勢宮の名のみ、千載を經てさやかなるぞ、いともいとめでたかりける、河内國 高安郡 天照大神高座神社も、伊勢都比古命といふによく符合ひて證とするに足れり、〔前にも、天照大神にはあらず、必ず山城國 葛野郡 木島坐天照御魂神社と同じく、天日神命なるべしと思へるも、今にて見れば臆断にして恐るるにたれり、返す返すも神號などは、穿ちて説をたつる事なかれ、つつしむべし〕
〇式社記云、下伊勢村八幡宮也、一説に上伊勢村伊勢宮といふ
播磨鑑には、伊勢村の地に社跡あり、大門の跡存すと云り、さては今廃亡ときこえたり、猶國人に尋ねて改むべし、
類社
山城國 葛野郡 木島坐天照御魂神社の條見合すべし神位
三代實錄、貞観元年正月廿七日甲申、奉 播磨國 從五位下動八等 粒坐天照神從四位下、比保古に、續日本後紀、嘉祥二年十二月甲午、奉授に伴馬立(はりまいほ)天照神 從五位下、と云るは、社撰なる事、摂津國 島下郡 新屋坐天照御魂神社の條に辨へり、
式内社 阿波庭神社について 祭神・所在は不明 と記しています
阿波庭を阿波遅と記す本もある と記しています
【抜粋意訳】
阿波庭神社
阿波庭は 假字也、兼永卿本作に阿波遅、〔秘釋云、作 庭非〕
〇祭神在所詳らず
此保古に、淡道之穂之狹別烏靈欺、と云るは、例の杜撰なれど、古本みな阿波遅とあれば、淡路の緣は遁れざるべし、
式内社 中臣印達神社について 所在は゛揖西郡中陣村に在す、゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達神社
中臣は 奈賀止美と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕中臣
印達は 伊多知と訓べし、和名鈔、飾磨郡印達 假字の如し、射楯兵主神社の射楯と同じ地名と思はるれば、今 伊多天と讀り、此帳の假字インタチとあるは、後人の所意なる事明かなるべし、
〇祭神詳ならず
〇揖西郡中陣村に在す、〔播磨鑑〕今 雑王権現と稱す、〔式社記〕
古跡便覽に、其所しれずといひて、中陣村雜王権現を夜比良神社とす、今暫く多分に從ふ、猶考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 粒坐天照神社(名神大)について 表記は゛揖保坐天照神社(名神大)゛と記し 所在は゛今 揖東郡上伊勢村に在り、伊勢宮と云ふ、゛〈現 多賀八幡神社(姫路市林田町上伊勢)〉と記しています
【抜粋意訳】
揖保坐天照神(イホニマスアマテルカミノ)社
〔〇按 三代実録、延喜式臨時祭式、揖保を粒に作る、並に同じ〕
今 揖東郡上伊勢村に在り、伊勢宮と云ふ、〔伊保庄 日山村 天神山にあり飾麻縣神社調、播磨事始、古跡便覧、〕
盖 天照國照天火明命を祀る、五百木連の祖神也、〔参酌日本書紀、舊事本紀、新撰姓氏録、三代実録、延喜式〕〔〇按 三代実録、貞観四年、揖保郡人 伊福貞に本姓 五百木連を賜ふ、實に火明命の裔也〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從五位下勳八等 粒坐天照神に從四位下を授け、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列らしむ、〔延喜式〕
凡 毎年九月廿二日祭を行ふ、〔神社明細帳〕
式内社 阿波庭神社について 阿波庭を阿波遅と記す本もある と記しています
【抜粋意訳】
阿波庭(アハテ)神社
〇按 本書異本、庭を遅に作る
式内社 中臣印達神社について 所在は゛今 揖東郡中陳村にあり、産土神とす、゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達(ナカトミイダテノ)神社
今 揖東郡中陳村にあり、産土神とす、〔播磨事始、龍野藩式社取調帳〕
盖 五十猛命を祭る、〔日本書紀、延喜式、〕〔〇按 倭名鈔、本郡中臣郷にあり、蓋此地也〕
平城天皇 大同元年、中臣神に神封五戸を充奉る、盖此神也、〔新抄格勅符〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 粒坐天照神社(名神大)について 祭神は゛天照國照彦天火明命゛
所在は゛伊保庄日山村〔天神山〕 (揖保郡東栗栖村大字日山 )、゛〈現 粒坐天照神社(たつの市龍野町日山)〉と記しています
その他に所在地の考証を重ねていて゛伊勢村八幡宮゛〈現 多賀八幡神社(姫路市林田町上伊勢)〉゛下伊勢村 梛神社是なり゛〈現 梛神社(姫路市林田町下伊勢)〉゛粒坐とある粒の地゛〈現 粒坐天照神社(たつの市揖保町中臣)〈中臣印達神社の境内〉〉を挙げています
【抜粋意訳】
粒坐天照神社(名神大)
祭神 天照國照彦天火明命
今按 社傳 祭神 天照皇大神とあるは 天照神社とあるより云出たるものにて取かたし 古書の例 皇大御神を天照神とは云べからさる理なる事を思ふへし 神名式に大和城上郡 鏡作坐天照御魂神社 他田坐天照御魂神社 山城久世郡 水主神社十座の内 水主坐天照御魂神 葛野郡 木島坐天照御魂神社 攝津島下郡 新屋坐天照御魂神社の類 みな尾張連の支別の氏人の祭れる社にて 其祖神 天照國照天火明命なる事著きを 此國にも揖保郡人雅樂笛生無位 伊福部貞 復本社五百木部連火明命之後也と三代實錄に見えたれば 此 粒坐天照神社も其祖神 天火明命なるを 土人は大御神と思混へたるものなり 而るを神社覈録に伊勢村の伊勢宮を式社とし 播磨風土記伊勢野の條によりて 祭神 伊勢津彦命なりと定めて 天照御魂神と思へるは非なる由云れは却てあやまれり
神位
清和天皇 貞親元年正月廿七日甲申 奉授 播磨國從五位下勳八等 粒坐天照神 從四位下祭日
社格 縣社所在 伊保庄日山村〔天神山〕 (揖保郡東栗栖村大字日山 )
今按 神社覈録に 式社記云 伊勢村八幡宮也 一説に上伊勢村伊勢宮と云 播磨鑑には伊勢村の地に社跡あり 大門の跡存すと云り さてやは廃止すと聞えたりとみえ
注進狀に揖東郡下伊勢村 梛神社是なりとあれど確誰なし 思ふに村名伊勢と云より 天照神に附會したるなるべし播磨鑑に伊勢村の社をのせて 式社とし粒坐天照大神神社 上揖保庄樋山村にありとする從ふべし 日山村なるは伊保庄内にて天神山と云ふにあり 又 其社説に椎古天皇の御世 神ありて一つの稲種を牧田彦に授け玉ふ 其四至の中 一夜に千頃の水田となるとみえたるは 粒坐とある粒の地の故事をかく誤り傳へしものならん
播磨風土記 揖保郡揖保里所
粒(いひほ)と称される所以は 粒山(いひほやま)があった故に 山の名をこの里名とした粒丘(いひほのをか)と名付けた所以は 粒丘に天日槍命(あめのひぼこのみこと)が 韓国から渡来して宇頭川の辺に到り ここで宿を乞うた 葦原志舉乎命(あしはらのしこをのみこと)は「汝は国主である 我が宿を与えよう」と云い 海中に案内した この時 客神(まらひとのかみ)〈天日槍命〉は 剣で海水をかき回して宿とした
すると 客神〈天日槍命〉の行いを見た主神(あるじのかみ)〈葦原志舉乎命〉は畏れ 先に国を占拠しようと欲して 国を巡り粒丘に到り ここで湌(みをし)〈食事〉をした その時 口から米粒が落ち 粒丘と名付けられた
その丘には小石があり 皆 米粒によく似ているとあるに由あり
又 此村の伊保庄にある伊保は 粒にて揖保に同じ 又 社記に文明三年本社を小神村より今の地に移して齋き祭ると云り 此地に粒山など云山ありや猶よく考ふべし
式内社 阿波庭神社について 祭神・所在は不明 と記しています
一説として ゛揖西郡中陣村 藏王権現の境内に社跡あり 廃絶とみえたり゛廃絶と記しています 揖西郡中陣村 藏王権現とは〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉のことです
【抜粋意訳】
阿波庭神社
祭神
祭日
社格所在
今按 この社 龍野志に爽所不知考ふへし 播陽事始に中陣村に社跡ありとみゆ 注進狀に揖西郡中陣村 藏王権現の境内に社跡ありと云へるを合せ考るに 廃絶とみえたり
式内社 中臣印達神社について 中臣とは゛中臣は中臣氏の事にあらすして地名と聞ゆれば 中臣の地にます印達神と云ふ゛と記し
所在は゛揖東郡奥佐見村 松尾山に鎭座の八幡宮゛〈現 林田八幡神社(姫路市林田町)〉だが
その他の説に゛八幡宮舊境内 東方に八幡より古く 在來の社とて舊趾は一坪餘の本殿と九坪餘の拜殿と思敷所あり 以前 頽破の時 八幡宮へ神體を遷奉りし也 其邊の地をナカトビと稱來れりと云り゛〈現 中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)〉
又゛播磨揖束郡 宮内村 魚吹八幡社゛〈現 魚吹八幡神社(姫路市網干区宮内)〉と記しています
【抜粋意訳】
中臣印達神社(名神大)
祭神
今按 祭神は中臣印達神とあるを以て 中臣氏によしある神の如く思はるれと 中臣は中臣氏の事にあらすして地名と聞ゆれば 中臣の地にます印達神と云ふにて 五十猛命を祭れるなるへし祭日 九月八日
社格所在
今按 注進狀 揖東郡奥佐見村 松尾山に鎭座の八幡宮を往古より 中臣印達神社と稱し 守札に中臣印達神社の朱印を捺し來る事も久しき也
さて古老の傳に 中臣印達社は八幡宮舊境内 東方に八幡より古く 在來の社とて舊趾は一坪餘の本殿と九坪餘の拜殿と思敷所あり 以前 頽破の時 八幡宮へ神體を遷奉りし也 其邊の地をナカトビと稱來れりと云り
然るに播磨揖束郡 宮内村 魚吹八幡社を中臣印達神社なりとも云へと 更に其證みえす 又 播磨鑑に中陣村にありともあれは 今決めかたし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
粒坐天照神社(たつの市龍野町日山)について 縣社と記しています
式内社の論社として・多賀八幡神社(姫路市林田町上伊勢)・梛神社(姫路市林田町下伊勢)・粒坐天照神社(たつの市揖保町中臣)〈中臣印達神社の境内〉を挙げています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 揖保郡龍野町大字日山
縣社 粒坐天照(イヒホニマスアマテルノ)神社
祭神 天照國照彦火明(アマテラシクニテラスヒコホアカリノ)神
本社は 舊と八幡宮とも稱す、創建は傳へ云ふ、推古天皇二年正月一日 伊穂郡伊保の庄〔今の揖保郡小神村〕の勧請なりと、
三代實錄に清和天皇 貞観元年己卯春正月二十七日、從四位下を奉授せらる、次いで延喜の制 名神大社に列せらる、龍野村の産土神たり、
播磨國式内神社考に云く・「揖東郡下伊勢村にあり、今八幡宮と唱ふ、貞義曰、 鳥居銘にも八幡宮とあり、神官なし、俗人支配す、正殿〔小社一宇〕相殿〔一宇〕烏居は石也、右境内の山内五十九間に五十五間、往古境内猶廣大上りしと云ふ、ここより半里餘奥に、上伊勢村あり、神社あり、是 内外両宮に擬す、
榮亮曰く、上伊勢村両社あり、多賀明神 宇佐八幡宮とあり、宇佐八幡は宇知か、又 山上に岩屋と云ふなる巖崖あり、此の岩屋戸の趣あり、
上伊勢村の神
内八幡宮と唱ふ、正殿相殿鳥居石也、境内山也、六十八間に八十七間〔〇中略〕
又 播磨鑑に、「伊勢村の地に在に社跡、大門等の跡存す、今 樋山村 三社権現の別宮也、則 龍野府の氏宮」とあり、
明治七年二月 郷社に列す、同十二年一月、從來 伊保社と稱せしを、粒坐天照神社と復稱す、赤松則祐の室山落城の時 兵火に罹り、天正年中 今の地に遷座し、寛永の初年 再び火災あり、同九年再建す。今 社殿は本殿、幣殿、拜殿、繪馬殿、神饌所、幌舎、随神門、水屋形等を具備し、境内は二千八百四十三坪 (官有地第一種)あり、龍野城址の西南 白鷺山の中復に位し、古松老杉の間に櫻楓数百株を交へ、春は雲の如く、秋は錦の如く、脚下には揖保川の清流を瞰望し、淡路の諸島海上に基布して、白帆点々其間に浮ぶを観るべく、風景眞に儘くに似たり。
境内神社
菅原神社 天照大御神社 瑜伽神社 稻荷神社
厳島神社 琴平神社 秋葉社 住吉神社
愛宕社 恵美須社
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)について 縣社と記し
式内社の論社として・林田八幡神社(姫路市林田町)も挙げています
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)の境内に 式内社 阿波庭神社もあったが今は廃絶とも記しています
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 揖保郡揖保村大字中臣村
縣社 中臣印達(ナカトミイダテノ)神社
祭神 五十猛(イタケルノ)命
本社は舊 雑王権現 又は 中陣明神とも稱す、創建は光仁天皇 寶龜元年六月にして、萬延元年、脇坂中務少輔安宅再建し奉る、
延喜の制 小社に列せられ、新抄格勅符抄に、大同元年神封五戸を寄せられし古社にして、古來 近郷四ヶ村の産土神たり、播磨國式内神社考に云く、「今 雑王権現と唱ふ、揖西郡中陣村〔龍野に近し〕にあり、〔〇中略〕中陣村、出屋鋪、吉田村、山下村、四ヶ村の産社なり、祭主山伏實相院、
榮亮曰く、印達神社は中陣にてはなし、揖東郡林田東之宮 今は八幡宮と唱ふ」明治七年二月、村社に列し、十二年五月五日、縣社に昇格す。
社殿は本殿、拜殿、舞殿、神供所、及社務所を備へ、境内は二千八百七十五坪 (官有地第一種 )あり。
大日本地名辞書に云く、「中臣印達神社は、新抄格勅符抄に、大同元年中臣神々封五戸の事見え、今中臣の中陣明神是なり、中陣とは中臣の訛とす、播州神社記に太神二十四社のーなる射楯太神 蓋是のみ、後を姫路の射楯神に比すれば甚々衰へぬ、田問わっかに小祠を見るのみ、播磨事始に 延喜式阿波庭神社も中陣に在りしが、今亡びぬと云ふ」
境内神社
阿波庭神社 嚴島神社 天満神社 藥司神社
【原文参照】
中臣印達神社(たつの市揖保町中臣)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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播磨国(はりまのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 播磨国 50座(大7座・小43座)の神社です 播磨国は 和銅6年(713) の詔によって『播磨国風土記』が編纂されていますので 7世紀には成立したとされています
播磨国 式内社 50座(大7座・小43座)について