実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

六嶽神社(鞍手町室木)〈宗像三女神が初めて降臨した六嶽〉

六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は 宗像三女神が初めて降臨した゛六嶽 門〈サキト〉゛と伝わる地に上宮が鎮座 その後 宗像三女神は 7 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝わり 第13代 成務天皇七年〈西暦137年頃〉里宮〈下宮〉として創建され ゛前戸(サキト)神社称していたと『宗像神社末載る由緒ある古です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

六嶽神社(Mutsugatake shrine

通称名(Common name)

・六嶽宮(むつがたけぐう)

【鎮座地 (Location) 

福岡県鞍手郡鞍手町室木1207

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》田心姫之神(たごころひめのかみ)
   湍津姫之神(たぎつひめのかみ)
   市杵島姫之神(いちきしまひめのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

安産交通安全守護神

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
 〈宗像三女神降臨の地〉

【創  (Beginning of history)】

六嶽神社由来

紀元前七百年ノコロ 皇女三神 霊山六嶽崎峰二御降臨アリ 此地ヲ上宮卜定メ 室木ノ里二下宮ヲ建立シ 安産交通安全ノ守護神トシテ鎮守ノ杜トス

御祭神
 田心姫之神
 湍津姫之神
 市杵島姫之神

大祭日
 春季大祭 四月八日
 秋季大祭 十月十二日

六嶽神社々務所

現地案内板より

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【由  (History)】

郷社 六嶽神社

<祭神>

田心(たごころ)姫命 湍津(たぎつ)姫 市杵島(いちきしま)姫命

<由緒>

この地は宗像三女神が初めて降臨したといわれるゆかりの地で、
成務天皇七年の時、室木の里長・長田彦が神勅により崎門山上に神籬(ひもろぎ)を建てたのが初めという。
延喜七年菊花を神社の神紋と定め、文中三年足利戴満が社殿を造営し、宝永二年に社殿が再建された時には、黒田長清が木材を寄進した。
明治五年十一月三日に郷社となり、明治四十三年に六嶽上宮(宗像三女神最初御影向(ようごう)の霊地)及び貴船神社と八幡神社を合祀した。
また、六嶽神社は安産の神様として古くより安産祭を春の大祭に行い、境内繁茂する神木(力柴)の枝を用いて安産を祈る。

<六嶽神社祭典日>

1月1日歳旦祭 1月3日年始祭 4月8日(前後)春季大祭
7月(田植後)御獅子祭 9月(彼岸のうち)社日祭(上宮祭)
10月17日(前後)秋季大祭 11月23日新嘗(にいなめ)祭
12月31日除夜祭

神社配布紙より

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六嶽神社(むつがたけじんじゃ)と室木神楽(むろきかぐら)(町指定無形文化財)

 六嶽神社は三女神を祀る近郷で最も由緒古い神社である。 筑前風土記逸文(ちくぜんふどきいつぶん)の中に「宗像の大神天より降り崎戸山(さきとやま)(六の古称)に居ましし時云々」とある。室木神楽は江戸に直方多賀神社宮司 青山雅楽頭(あおやまうたのかみ)が京都より宮中に伝わる神楽を伝え帰り、鞍手地域に拡めた優雅な神楽である。はじめは神社人が舞い奉納していたが、 明治以降は別に神楽座(かぐらざ)が組織されるようになり郡内に三・四座あったが今日は室木のみに残っている。

歴史を守る会(くらじの会)

社頭の案内板より

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿

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・稲荷社・天満神社《主》菅原神

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・貴船社・貴船社

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・八幡社・貴船社

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・御神木・八幡社

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八幡社・八幡社

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・手水舎

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・注連柱

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・須賀神社《主》素盞嗚命

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・御神木・参道

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・四の鳥居

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・三の鳥居

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・二の鳥居

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・一の鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・六ヶ岳(むつがだけ)

〈旭岳、天冠岳、羽衣岳、高祖岳、崎戸岳、出穂岳〉

※『筑前風土記逸文(ちくぜんふどきいつぶん)の中に「宗像の大神天より降り崎戸山(さきとやま)(六の古称)に居ましし時云々」とある崎門山(さきとやま) 六ヶ岳の古称です

・六嶽上宮(鞍手郡鞍手町 六ヶ岳山頂付近)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宗像郡 4座(並大)

[名神大 大 小] 式内名神大

[旧 神社 名称 ] 宗像神社三座(並名神大)
[ふ り が な ]むなかたの かみのやしろ みくら
[Old Shrine name]Munakata no kaminoyashiro mikura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 宗像神社 三座(並名神大)(むなかたの かみのやしろ みくら)

「宗像社縁起」
 「宗像三女神は 初め 室貴(室木 鞍手郡鞍手町室木)の六ヶ嶽に御着になり その後 此の地・津丸神輿村に著き給ふ この村において初めて天神威を輝かせらる その後三所の霊地(・田島・大島・沖ノ島)に御遷座あり」

〈宗像三女神降臨の地〉
・六嶽神社(鞍手町室木)

一緒に読む
六嶽神社(鞍手町室木)〈宗像三女神が初めて降臨した六嶽〉

六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は ゛宗像三女神が初めて降臨した六嶽 崎門〈サキト〉峰゛と伝わる地に上宮 里宮〈下宮〉は 第13代 成務天皇7年(137年頃)創建゛前戸(サキト)神社゛と称したと『宗像神社末社記』に載る古社です 宗像三女神は 第7代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝 

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〈宗像三女神遷幸の地〉
・神興神社(福津市津丸)

一緒に読む
神興神社(福津市津丸)〈宗像大社の旧鎮座地゛神興(かみおこり)ます所゛〉

神興神社(じんごうじんじゃ)は 『宗像社縁起』には゛宗像三女神が初め室木の六ヶ嶽に天降り その後この地に留り給う 此の村に於て神威輝耀を以って神興と號す その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々゛と 宗像大社の゛神興ります所゛旧鎮座地であると伝えます

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〈霊地・田島〉
・宗像大社 辺津宮(宗像市田島)

一緒に読む
宗像大社 辺津宮(宗像市田島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社(むなかたたいしゃ)は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛が三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉に坐ます ゛辺津宮(へつぐう)の起源゛は 背後の宗像山〈辺津宮古代祭祀の場〉゛高宮祭場゛の麓に本土の信仰の場として社殿が造営されたものです 古から受け継がれる宗像信仰の中心地となっています

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〈霊地・大島〉
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)

一緒に読む
宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました

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・宗像大社 沖津宮遥拝所(宗像市大島)

一緒に読む
沖津宮遥拝所(宗像市大島 字伊東)& 御嶽山祭祀遺跡

宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています

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〈霊地・沖ノ島〉
・宗像大社 沖津宮(沖之島)〈一般参拝は不可〉

一緒に読む
宗像大社 沖津宮(沖之島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉

宗像大社 沖津宮(おきつぐう)〈一般参拝は不可〉は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛を祀る 三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉の内 玄界灘の沖に浮かぶ゛神宿る沖ノ島゛に鎮座 島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから〈一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉 限られた人のみ参拝が叶います

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この五つの神社が古代に祀られていた斎場の位置関係について

宗像神〈三女神〉祀る゛延喜式内社国史見在社゛について

現在 全国に宗像神〈三女神〉を祭る神社は3500社を超えると云います
この内 本来の゛宗像神〈三女神〉゛と゛厳島系で宗像神〈三女神〉のみを祀る゛神社は 950社を超えると云います

更に『宗像神社史』一覧表には 90社が挙げられています

古代から 続いている神社として ゛延喜式内社国史見在社゛に記載のある 宗像神〈三女神〉を祭る神社は 50社の記載があります

詳細は

宗像神〈三女神〉祀る神社について

 

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR筑豊本線 筑前植木駅から西へ約7.3km 車15分程度

社頭は 神社の西側を流れている小川と九州縦貫自動車道の高架下辺りです

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六嶽神社(鞍手町室木)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり参道を進むと 石段があり上がります
振り返ると こんな感じ ちっぴり息が切れるかも

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石段には゛神様とんぼ゛と呼ばれる黒い羽根のトンボ⇒「ハグロトンボ」の番い(つがい)〈オスはお腹がemerald green メスは羽もお腹も全身black〉

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石段を上がると 平坦な参道が 数段の石段で少しづつ上がって行くイメージです

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境内地と同じ高さまで上がると 参道の先に社殿が見えてきます
昔ながらの参道が神秘さを奏でます

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境内の入口には 注連柱と手水舎があります

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手水舎の横には ゛郷社 六嶽神社゛の社號標

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拝殿にすすみます

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿本殿が鎮座し その周囲には境内社の石祠が祀られていますので お参りをします

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『風土記』岩波書店,昭和12〉に記される伝承

宗像社の社説として『筑前國風土記逸文』に載せられる一節に 宗像(むなかた)の謂れについて記されています
その一文に「宗像の大神、天降(あまくだ)りまして崎門山さきとやまに居給ひし時」とあり 宗像三女神が崎門山さきとやま)〈現 六ヶ岳(むつがだけ)〉に降臨したと記されています

【抜粋意訳】

風土記逸文
 〔何國風土記と明記し ,大體原文の儘に引用したと認められるもの〕

筑前國宗像(むなかた)の郡身形みなかたの郡

(社記あり。その中に、)

 西海道風土記に曰はく、宗像の大神、天降(あまくだ)りまして崎門山さきとやまに居給ひし時、

靑蕤あをにの玉一本に八尺累蕤玉とあり。を奥津宮(おきつみや)の表(かたち)に置き、八尺瓊(やさかに)の紫の玉を中津宮(なかつみや)の表(かたち)に置き、八咫(やた)の鏡を邊津宮(へつみや)の表(かたち)に置きて、この三つの表(かたち)を神體かみの形(みかたち)と成して三つの宮に納め、すなはち納隱(かく)り給ひき。

 因りて、身形みなかたの郡といふ。後の人改めて宗像(むなかた)といひき。其の大海(おほあま)の命の子孫は、今の宗像朝臣等なり云々。

【原文参照】

武田祐吉 編『風土記』,岩波書店,昭和12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1173165

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

六嶽神社(鞍手町室木)ついて 宗像大社の三女神が最初に降臨した地 であると記し 最初は 嶽の山上に鎭座し その後 下宮として嶽の西北の麓に鎮座しているのが当社であるとし
南北朝時代 正平廿三年(1368)の「宗像神社正平廿三年の祭祀次第」には「当社の正月の行事には宗像大宮司奉仕せる由」が記されている という

【抜粋意訳】

〇福岡縣 筑前國 鞍手郡西川村字室木

社 六岳(ロクダケ)神社

祭神
 田姫(タゴリヒメノ)
  市杵(イチキシマヒメノ)
  湍津姫(タギツヒメノ)

當社は と前戸(サキト)神社と稱し 宗像神社末記に載せられたるなり、
名義は筑前風に「宗像大神自天降居山云々」とあるの地名によれといふ山また六といふ

社の創建年月詳ならねど、最初は嶽の山上に鎭座し給ふ、嶽は宗像大神 最初御降臨の地にして、

宗像神社文安元年の縁記に「三處大菩薩 最初御影向地の事、富貴六嶽仁有御著」とあり、後光巖院應安七年足利義満より當社殿の建立ありしと云ふ、次いで後土御門天皇明應六年、及正親町天皇永録九年造営あり、かくて東山天皇寶永二年に再営せしか、當時黑田長清用材を寄附せり、〔棟書及び社傳等に據る〕

古來より室木村の産土神として土民の崇敬頗る盛にして、明治五年十一月に至り、宗像仲社の末社を離れ郷社に列す、社殿は本殿・中殿、拜殿を備へ、境内三百五十餘坪(官有地第一種)六嶽西北の麓に在り、所謂下宮にて、上宮は石殿 にて山上にあり、正月朔日の神事は、宗像神社正平廿三年の祭祀次第にも載せられ、當時 宗像大宮司奉仕せる由にて、頗る盛大を極めしといふ。

境内神社 須賀神社 天満神社

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』下,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088313

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』下,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088313

『福岡県神社誌』上巻,大日本神祇会福岡県支部昭和20年〉に記される伝承

像三女神最初降臨の地で 第七代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸した

創建は 成務天皇七年と記しています

【抜粋意訳】

郷社 六嶽神社

鞍手郡西川村大字室木字下方

祭神
 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、高龗神、闇龗神

由緒

 宗像三女神最初降臨の地にして孝霊天皇の御宇に宗像三所に遷幸ましまし
宗像大神顕れ玉ふ其の后 成務天皇七年室木の里長 長田彦 神勅を蒙て崎門山上に神籬を建つ 是れ御社の始也 延喜七年菊花を以て御社の御紋に定め賜へり 文中三年足利義満 社殿を造営し 宝永三年御社再建の時 黒田長清 材木を寄附せらる 明治五年十一月三日郷社に被定

同大字字六嶽 無格社六嶽上宮として由緒 宗像三女神最初御影向の霊地にして 成務天皇七室木里長々田彦神勅を奉て此山上に神籬を営みける 是れ社御社の初め 往古は堂々たる社殿なりしも 享禄年中に炎して 殿舎悉亡せしかば 神躰を下宮に移し 其後社殿の再営なく今僅に石殿一宇を存するのみ
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰は 同大字字若原宮原 無格社八幡神社として 仁治二年斎祀る社にして若宮と称せり 今此の所を若宮原と称するも此の故也と云へり。
祭神 高龗神、闇龗神は同大字字森上 無格社貴船神社として 由緒不詳
同大字字下方 無格社貴船神社として祭祀ありしを 明治四十四年四月二十九日合併許可同一祭神は合併と同時合霊せり。

社説に述ぶる所次の如し、宗像三神最初御降臨の霊蹟なり。

(イ)筑前国風土記。宗像大神自天降居崎門山之時以青薤玉置奥津宮表以八尺紫薤玉置中津宮表以八咫鏡置辺津宮表以此三表成神体形納置三表隠之因曰身形郡後人改宗像
(ロ)風土記附録。初めは六嶽の山上に鎮座し給ひしといふ、六嶽は崎門山、朝日峯、羽衣峯、出穂峯、高租峯、天冠峯也崎門山は宗像大神の最初降臨の地なり宗像宮の記に見えたり云々。
(ハ)宗像宮録記。三所宮最初御影向地事「室木六嶽仁有御着則神輿村仁着玉此於此村初天被輝神威故仁神輿村止号之其後三所之霊地仁有御遷座」
(ニ)太宰管内誌。前戸神社。宗像神社末社記に前戸神社とあり前戸は佐支等と訓べし御名義は風土記に宗像大神自天降居崎戸山云々とある崎門の地名によれり(中略)され前戸神社は鞍手郡室木村六ヶ嶽西北の麓に在りて今は六嶽神社といふ三女神を祭る云々。
(ホ)福岡県地理全誌。六嶽神社。村の西南宮山に在り宗像七十五社の一なり祭神宗像三神祭日九月十九日宗像宮末社記には室木若宮又前戸明神とあり初は六嶽の山上にあり社記に孝霊天皇の御宇六嶽より宗像三所に遷幸ましまし宗像大神と現れ玉ふ(下略)
(ヘ)六嶽神社縁記。孝霊天皇の御宇に此六嶽より初て宗像三所に遷幸ましまし宗像大神と顕れ玉ふ所謂沖津宮中津宮辺津宮是也凡此山を六嶽と称し且崎門の名有る事、古来より宗像大神御鎮座ましませば宗像宮縁記に風土記の赴にも附合しぬれば最初影向の霊地なること疑ふべきにあらず。

当社縁記に據りて 其の沿革を見るに 成務天皇七年 筑紫国造 田道命の子孫室木里長々田彦 神勅を奉じて六嶽(崎門峯)山上に神籬を樹て三女神を奉祀す(爾来文中三年まで一千二百余年間不明)
文中三年 足利義満建立(此棟書焼失せしに依り次の棟書に転記せらる)

明応六年改築

(棟札)宗像郡室貴村第二宮棟書
一、中興後光厳院慶安七年八日征夷大将軍源義満公建立 再興明応六年九月三日棟上宗像大宮司興氏 支配当参殿上衆池浦法眼良興大法師高向兵部卿良舜大法師同供奉人
許斐新左衛門大和四郎左ヱ門占部彌三郎同彌四郎。右造営雖為公方役今者依有別願而池浦法眼以勧進建立之。公方御奉行高向兵部卿良舜社司藤原致貞
享禄年中社殿炎上爾来神体を下宮に遷し上宮再建なし永禄年中宗像氏貞下宮再興之棟書曰。宗像郡室木村第二宮御社殿。長吏大宮司宗像朝臣氏貞建立之。永禄二年九月代官石松加賀守秀兼

寛永二年(附記、明細帳には寛永三年とす)改築、領主黒田長清公材木を寄附せらる。

明治二十七年改築。現在の神殿也

古来当社は 貴賤武将等の尊信極めて篤し、今其の事歴の二三を挙ぐれば
元正天皇養老三年 宇佐宮の禰宜、辛島の勝波豆米と云人、故有りて此御社に詣てりけるに室木長田彦の斎彌室木国彦と云者、禰宜辛島に出合ひ、三神此山に御遷幸の故事 其外神威の著しき事共委しく語りしかば、辛島愈々敬信を興し、此宮吾宇佐宮に均しければ日本三所の姫大神の御廟なるべし、然らば今より宜しく第二宮とは次の意にあらず中つ宮の心なるべしと称し奉るべしと云へり。
是より第二宮室木六嶽神社と唱へ来りしとなり。

清氏親王 宗像大宮司職に任じ給ひ、筑前に下り給ひし後、延喜七年菊花を以て御社の御紋に定め給ひしより御殿の棟に菊花を画けり。

仁治二年 宇佐蓮台寺の僧寂可と云者、此御社に来りて室木山の麓に一刹を創立し御社の寺院とす、則宇佐寺と号す。此時又八幡の社を営み作りて 若宮と称し奉る此所を若宮原と云。又西の岡に尼寺を建て尼僧数十人を居らしめき、其寺を伏原寺と号す。

北条時頼。御嵯峨院康元元年十一月北条左近将監時頼(法名道崇最明寺と号す)落飾し、諸国を巡回して此国に到りける時此御社に詣て和歌を詠じ奉献し給ひ永く御社に伝はりしが享禄の頃上宮炎上の時焼失しけり。

足利氏数代尊氏、義満、義持、義量の如きは特に崇拝措かず 或は社殿を造営し 或は下行料を献じたりと。

又一般民衆の尊信篤く 殊に安産の守護神として地方民の信仰深し。(縁記に)「成務天皇の御宇 此御社造立の時 山の麓に大なる櫲樟有り 両枝南北に差し覆ひ四方に伸て欝々として林の如し 其許に芙蓉繁茂して数十歩の間に蔓れり 花の時は艶美の色甚しく人の目を喜ばしむ 櫲樟芙蓉二つに分れて互に栄行末を争へるが如し 時の人 此木を名付けて諸木(モロキ)といふ。よつて地の名とす、今は室の字を用て室木といふ。
是によりて婦人女子戯れに縁結びとて紙を結び付けて夫婦の縁を求む 果して其しるし掌を指すが如し、又芙蓉の枝を折て産屋の軒にさしはさみて生産安泰を祈るに其しるしあらずと云事なし 故に此芙蓉を泰産木と称しけると也。

特殊祭事 安産祭。(四月八日)
往古芙蓉の枝の故事に拠り古くより此祭行はる、今は境内に繁茂せる神木「力柴」の枝を請ひて安産を祈る

例祭日 十一月十六日
神饌幣帛料供進指定 大正九年十一月二十五日

主なる 建造物 神殿、中殿、拝殿、神饌所、社務所、倉庫、参籠殿
境 内 坪 数 三千一百十九坪
氏子区域及戸数 大字室木 百二十戸

境内神社
 須賀神社(素盞嗚命)
 天満神社(菅原神)

【原文参照】

『福岡県神社誌』上巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040130

『福岡県神社誌』上巻,大日本神祇会福岡県支部,昭和20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1040130

六嶽神社(鞍手町室木) (hai)」(90度のお辞儀)

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筑前国 式内社 19座(大16座・小3座)について に戻る

一緒に読む
筑前國 式内社 19座(大16座・小3座)について

筑前国(ちくぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 筑前国(ちくぜんのくに)には 19座(大16座・小3座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています