牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は 中世の『五郡神社記』旧記によると 第20代 安康天皇の御代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記しています 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
牟佐坐神社(Musa ni masu shrine)
[通称名(Common name)]
北の宮(きたのみや)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県橿原市見瀬町718
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》高皇産霊命(たかみむすひのみこと)
孝元天皇(こうげんてんのう)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
牟佐坐(むさにます)神社
祭 神 高皇産霊命
孝元天皇例 祭 十月九日
新年祭 一月八日
月次祭 毎月九日
由緒沿革
日本書紀 天武天皇紀 安康天皇の御代 牟佐村(現見瀬町)村主 青の経営であった。
当時の祭神 生雷神(即ち雷公)であり 江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。
享保の頃に菅原道真公を祭神とした 明治に至り 古道再び明らかにと天津神である高皇産霊命を奉祀して今日に至る。
境内は 孝元天皇の即位された宮地と伝えられている。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
牟佐坐神社
近鉄南大阪線岡寺駅の線路を越えた西側の小丘陵上の森に鎮座する。
鎮座の地、見瀬はムサの転訛だと本居宣長が言っているが、身狭(『紀』)・牟佐(『紀略』・『続紀』)とも書く。
『紀』天武天皇元年(672)七月の条に壬申の乱の戦闘中、高市郡大領県主許梅の神懸りにしたがって戦勝したとの記事に「吾は身狭社に居る名は生霊神なり」「神大和磐余彦天皇の陵に男及び種々の兵器を奉れ」「吾は皇御孫命の前後に立ちて、不破に送り奉りて遷る。今もまた官軍の中に立ちて守護りまつる」とあり、「高市・身狭二社の神を礼ひ祭る。」とある。
当社の禰宜宮直君述が文安三年(1446)に書いた『五郡神社記』には、牟佐神社は牟佐村築田にあり、祭神は生雷神で、旧記によると安康天皇の代 牟佐の村主青によって創祀されたと記している。
『三代実録』の貞観元年(859)正月二十七日に従五位下から従五位上に進められている。
『延喜式』神名帳では式内大社として登載され、月次・新嘗・祈年三祭には案上官幣に預かる由緒ある古社であった。
しかし『大和志』に今榊原天神と呼ぶとあるように、享保二十一年(1736)『大和志』編集当時には古の祭神や所伝を失って時流に追従し、菅原道真を祭る天神社と呼ばれるようになっている。しかも天保十三年(1842)の棟札には天神宮、春日大明神とあるし、慶応四年(1868)の棟札には天神と高皇産霊尊とあり、明治四年(1871)には本来の祭神『生雷神・思兼神』を加えたが、さらに明治二十五年の『明細帳』や昭和二十八年七月二十六日付け『宗教法人法による届出書』には、高皇産霊神・孝元天皇と届けている。この地が孝元天皇の軽境原宮跡伝承地と云われたことから天皇を祭神としたと見られる。
例祭は十月九日。
『奈良県史 第五巻 神社』〈平成元年出版〉より抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・一の鳥居 左側〈南〉に境内社 二社が東向きに並んで鎮座
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)髙市郡 54座(大33座・小21座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 牟佐坐神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](むさにます かみのやしろ)(だい つきなみ にいなめ)
[Old Shrine name](Musa nimasu kamino yashiro)(Dai Tsukunami Niiname)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壬申(じんしん)の乱(673年)について
大海人皇子(おおあまのみこ)
『日本書紀』によるプロフィール
・ のちの天武天皇
・ 生まれながらに容姿端麗(ようしたんれい)、武術に優れていた
・ 『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)を命じた
・ 律令制の礎(いしずえ)を築いた「白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、都は近江(おうみ)へ。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は天智天皇として即位し絶大な権力を持ちました。しかし、その後、病に倒れてしまい皇位継承者として有力だった弟・大海人皇子と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こりました。これが古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」です。
大海人皇子は容姿端麗で、武術にも優れていたため、天智天皇も大海人皇子に自分の跡を継ぐように伝えていました。しかし、大友皇子を次の天皇にしようという動きがあることを知った大海人皇子は、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。そして、皇位を引き継ぐ意志がないことを示すため、出家して吉野へと向かいました。天智天皇の崩御後、政権を手にした大友皇子は天智天皇の陵(みささぎ)(お墓)を造ると言いながら、農民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監視を置きました。
この動きを知った大海人皇子は立ち向かうことを決意します。吉野を出て地方の豪族を味方につけながら兵力を強化し、各地で大友皇子との戦いを繰り広げました。戦いは現在の岐阜県にまで及びましたが、近江の瀬田川(せたがわ)での決戦を制して大海人皇子が勝利し、飛鳥の都(飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや))で天武天皇として即位します。
奈良県庁広報広聴課公式HP https://www.pref.nara.jp/49040.htm
{県民だより奈良 平成30年1月号「歴史体感日本書紀」}より
天武天皇 元年(673)壬申の乱の時 三神の神託について
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に記される
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託は
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
➂村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
“三神の神託”の現在の論社について
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
《式内社》大和國高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
論社 河俣神社(かわまたじんじゃ)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)
《式内社》大和國高市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)
論社 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
論社 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
・牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は 中世の『五郡神社記』旧記によると 第20代 安康天皇の御代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記しています 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)とされます
牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
・生國魂神社(橿原市大久保町)
生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)の論社とされます
生國魂神社(橿原市大久保町)
➂村屋神(むらやのかみ)
《式内社》大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
論社 村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄吉野線 岡寺駅のすぐ西側に鎮座します
線路を渡る手前には
この地が「孝元天皇の軽境原宮跡伝承地」と云われていることから 石碑が立ちます
踏切を進むと社頭に出ます
牟佐坐神社(橿原市見瀬町)に参着
鳥居の扁額には 牟佐坐神社 とあり 一礼をしてから くぐり抜けます
境内への階段前には 禊(みそぎ)のように用水が流れ 小橋を渡ります
正面の石段を上がります
石段を上がると木製の鳥居が建ち 正面に社殿が建ちます
社殿の前には レースの前垂れを掛けた狛犬が座します
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
高台にある為か 神聖な空間は保たれていて 蒼然とする下界とは隔離されて 静寂が保たれているような感覚になって居ましたが 石段を下りると 現実の世界へと戻ります 目の前の踏切を近鉄線が行き交っています
鳥居をくぐり 再度 小高い鎮座地に一礼をしました
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
牟佐坐神社の鎮座する丘陵地は 第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)跡伝承地石碑があります
【抜粋意訳】
大日本根子彦国牽天皇〈第八代 孝元天皇〉の条
大日本根子彦国牽天皇(オホヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)〈第8代 孝元天皇〉は 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)〈第7代 孝霊天皇 こうれいてんのう〉の太子(ミコ)
母は 細媛命(ホソヒメノミコト)といい 磯城縣主大目(シキノアガタヌシオオメ)の娘孝元天皇は 大日本根子彦太瓊天皇〈孝霊天皇 こうれいてんのう〉三十六年春一月 皇太子となられた 年は19才
孝霊天皇 七十六年春二月 大日本根子彦太瓊天皇〈第7代 孝霊天皇 こうれいてんのう〉が崩御
孝元天皇 元年春一月十四日 太子(ヒツギノミコ)は 天皇に即位
先の皇后(きさき)〈細媛命(ホソヒメノミコト)〉を尊び 皇太后とされた
この年 太歳丁亥(たいさいひのとい)即位 四年春三月十一日 都を軽地(かるのち)に移された これを境原宮(さかいはらのみや)という
即位 六年秋九月六日 大日本根子彦太瓊天皇〈第7代 孝霊天皇 こうれいてんのう〉を片丘馬坂陵(カタオカノウマサカノミササギ)に葬られた
即位 七年春二月二日 欝色謎命(ウツシコメノミコト)を皇后とした
后は 二男(ふたはしらのひこみこ)一女(ひめみこをひとはしら)を生みました
第一は 大彦命(オホヒコノミコト)という
第二は 稚日本根子彦大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオホヒヒノスメラミコト)〈第9代 開化天皇〉という
第三は 倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)という
ある書によると
天皇の弟 少彦男心命(スクナヒコヲココロノミコト)なり妃(ひ)伊香色謎命(イカガシコメノミコト)は 彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)を生まれた
次の妃(ひ)河内青玉繋(カフチノアオタマカケ)の娘の埴安媛(ハニヤスヒメ)は 武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)を生まれた
兄(あに)大彦命(オホヒコノミコト)は 阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣などの七族の始祖
彦太忍信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)は 武内宿禰(タケシウチノスクネ)の祖父
即位 二十二年春一月十四日 稚日本根子彦大日々天皇〈第9代 開化天皇〉を立てて皇太子とした 年齢は16
即位 五十七年秋九月二日 大日本根子彦太瓊天皇〈第8代 孝元天皇〉が崩御
【原文参照】
『日本書紀(nihon shoki)(720年)』雄略天皇14年春正月の条に記される伝承
『日本書紀(nihon shoki)』では
兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ) について
「応神(オウジン)天皇の条」と「雄略(ユウリャク)天皇の条」の両方の天皇記に いずれも機織り技術をもった織女について 二つの渡来伝承を記しています
二つの渡来伝承とも 呉から日本に招いた工女で 四婦人の名は ほぼ同じです
「応神天皇の条」
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)
「雄略天皇の条」
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)漢織(アヤハトリ)
また 兄媛(エヒメ)は 双方の伝承で 同じように神に捧げられます
「応神天皇」で〈宗像大社の神〉に 「雄略天皇」で〈大神神社の神〉に
第21代 雄略天皇〈推定在位456~479〉
雄略天皇14年春正月の条に記される内容に兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)漢織(アヤハトリ)を連れて来たのは 雄略天皇の命により 呉国に派遣された「身狭村主青(ムサノスグリアオ)」と記されます
又 室町時代の文書『和州五郡神社神名帳大略注解』〈『五郡神社記』〉旧記によると
牟佐坐神社は 第20代 安康天皇の代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記している
【抜粋意訳】
雄略天皇〈第21代〉14年春1月13日の条
身狭村主青(ムサノスグリアオ)等らは 呉国(ゴノクニ)に共に使わした
呉(ゴ)の献じた手末才伎(テナスエノテヒト)漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)と衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)等を帰国させ 住吉津(スミノエノツ)〈住吉大社〉に泊めた
この月に 呉(ゴ)の来客の道を 磯歯津路(しはつのみち)に通じさせた
これを呉坂(クレサカ)と名づけた
3月 臣連(オミノムラジ)に命じ 呉(ゴ)の使者を迎えた
その呉人(ゴノヒト)を桧隈野(ヒノクマノ)に於いて〈あって〉それで呉原(クレハラ)と名づけた衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)を大三輪神(オオミワノカミ)〈大神神社の神〉に奉(タテマツ)った
弟媛(オトヒメ)を以って 漢(アヤ)の衣縫部(キヌヌイベ)とする漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)の衣縫(キヌヌイ)は 飛鳥衣縫部(アスカノキヌヌイベ)伊勢衣縫(イセノキヌヌイベ)の先(サキ)〈先祖〉なり
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
第40代 天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
【抜粋意訳】
第二十八巻 天武天皇〈第40代〉上 元年(673)七月 神の神託 の段
事代主神(ことしろぬしのかみ)生霊神(いくたまのかみ)村屋神(むらやのかみ)
これより先に 金綱井(かなづなのい)に軍を集結した時 高市郡大領(たけちのこおりのこおのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は にわかに ロをつぐんで 言うことが出来なくなった。
三日の後 神著(かみがかり)になって言うには
「吾は高市社(たけちのやしろ)〈河俣神社〉に居る 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)
又 身狭社(むさのやしろ)〈牟佐坐神社〉〈生國魂神社〉に居る 名は生霊神(いくみたまのかみ)なり」と言うと 顕(あらこと)〈神意を明らかとする〉をいう
「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)〈神武天皇〉の陵(みささぎ)〈陵墓〉に 馬と種々の兵器を奉れ」と言ったまた言われるには
「吾は 皇御孫命(すめみまのみこと)〈天皇〉の前後(みさきしり)に立ち 不破(ふわ)に送り奉り帰った 今もまた 官軍の中に立って 守護している」
また
「西道(にしのみち)から軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 慎重にせよ」
言い終わると 目が醒めたそこで すぐに許梅(こめ)を遣わし 御陵(みささぎ)〈陵墓〉を祭り拝ませ 馬と兵器を奉った
また幣(みてぐら)を捧げ 高市(たけち)身狭(むさ)の二社(ふたやしろ)の神に礼祭(れいさい)をしたそうして後 壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が 大坂(おほさか)から来襲した
時の人々は言う
「二社(ふたやしろ)の神が 教えたる所の辞(ことば) 適(まこと)にこれのことなり」又 村屋神(むらやのかみ)〈村屋坐弥冨都比売神社〉も 祝(はふり)〈神官〉に神憑(かみがか)り
「今 吾社(わがやしろ)の中道(なかのみち)より 軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 社(やしろ)の中道(なかのみち)を塞げ」と言われた何日かで 廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が 中道(なかのみち)から襲来した
時の人々は言う
「すなわち 神の教えられた言葉は これであった」
軍(ぐん)の政(まつりごと)が 既に終わったのち 将軍たちは この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ すぐに三神の品〈神階〉を登進(あげて)勅(みことのり)されて 祠を祀られた
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社が記され その名で大和国の上位の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞観元年(859)正月27日(甲申)の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉り授くに
大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位
正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ)に並びに 従一位
・・・
・・・従五位下
和邇赤坂彦神 山邊御縣神 村屋祢富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神
鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原髙御魂神 畝尾建土安神 子部神
天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神
牟佐坐神 高市御縣神 軽樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神
川俣神 波多井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天照御魂神 志貴御縣神
忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久虫玉神 調田一事比古神
金村神 葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神
矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神並びに 従五位上
无位 綱越神 に 従五位下
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神は 生雷神と記しています
【抜粋意訳】
牟佐坐神社 大月次新嘗
牟佐は假字也
○祭神 生雷神、天武紀
〇三瀬村に在す、今 境原天神と称す、大和志、同名所図会
○日本紀、天武天皇 元年七月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、高市郡大領高布縣主許梅、條忽口閇而不能言也、三日之後、方著神以言、牟狭社所居、名生雷神也、又捧幣而禮祭高市身狭二社之神、然後壹伎史韓國自大坂來、故時人曰、二社神所教之僻適是也、軍政既訖、将軍等挙是三神 三神は高市、牟佐、村屋をいふ也、 教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉、
神位
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國 從五位下 牟佐坐神 從五位上、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の所在は 見瀬村 と記しています
【抜粋意訳】
牟佐坐(ムサニマス)神社 大月次新嘗
祭神 生霊神(イクムスビノカミ)
今按〈今考えるに〉
本社祭神は 日本紀 天武巻に 牟狭ノ社ニ 所居(マス)名ハ 生雷神(イクイカヅチノカミ)也 とみえ
社伝にも 生雷神とあれど 生雷神の御名いかがあらん 續日本紀に生霊神(イクムスビノカミ)とあるぞ宣しき故 今これに従う神位
清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申 奉授 大和國 從五位下 牟佐坐神 從五位上
祭日 九月九日
社格 村社
所在 見瀬村 字荘屋垣内(高市郡白樫村大字見瀬)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
中世の『和州五郡神社神名帳大略注解』〈五郡神社記〉の作者 宮道連之は牟佐坐神社の祝部である と記しています
【抜粋意訳】
牟佐坐(ムサニマス)神社
畝傍町大字見瀬らあり。
牟佐に身狭に作る。見瀬は 即ち身狭の伝称なり。日本書紀に
「天武天皇 元年七月庚寅朔壬子、先是、軍金綱井之時、高市郡大領高布縣主許梅、條忽口閇而不能言也、三日之後、方著神以言、牟狭社所居、名生雷神也、又捧幣而禮祭高市身狭二社之神、然後壹伎史韓國自大坂來、故時人曰、二社神所教之僻適是也、軍政既訖、将軍等挙是三神 三神は高市、牟佐、村屋をいふ也、 教言而奏之、即勅登進三神之品以祠焉、」延喜式神名帳に
「牟佐坐神社 大。月次。新嘗。」と即ちこれ。 今 指定村社たり。祭神創祀
五郡神社記に
「牟佐神社。帳云。牟佐坐神社に久邇郷牟佐村築田。当家〇この書の作者 宮邉氏を謂う、即ち 当社の祝部なり 古来所伝 社記曰。
謹稽に日本書紀に曰。牟狭社所居、名生雷神也。
旧翁口伝。火雷神者火中の陰火なり。闇罔象(クラミツハ)者水中の陰水なり。蓋陰火興に陰水令レバ剋化為に雷公と。これ即ち陽中の火気可云。火雷神 所謂 生雷神これなり。
旧記云。安康天皇勅ニ 呉使主青為ニ牟佐村主。當り この時ニ依リ霊夢ニ奉祀ニ 生雷神ヲ於 牟佐村築田ニ。
その子孫為ニ 祝部ト。
天武天皇 即位元年七月。奉授ニ 无位 生雷神 正六位上ヲ これ曰 無位 雲梯神。村屋神 並 奉授ニ 正六位上ヲ」と見え、これによれば雷公を祭り 安康天皇の御宇 牟佐青(ムサノアオ)の創祀する所なり。青の事 檜隈村 及び 子島社の下に出ず、
而して その位置は牟佐村築田とあれば、当社にして 古来 遷移なからしめば 現在の社地は 即ち 古の築田なり。築田一に桃花鳥田に作り、かの桃花鳥坂とは地勢 相接せしなるべし。然るに桃花鳥坂社 及び 倭彦命・宣化天皇のの桃花鳥坂の陵墓は共に鳥屋にありて 彼この相近きも、綏靖天皇の桃花鳥田丘の陵を四條にありとすれば、築田・築坂の方位少か背けるに似たり。もしくは古、この辺りを総て桃花鳥田と称せしか、将た綏靖天皇の陵名に牟佐を冠せざれば、牟佐の桃花鳥田とは同名異所なるべきか。後考をまつ。社職
古は 牟佐氏 祝部たり。
桓武天皇 都を平安に遷し給うに及び 遣てその左京に貫住す。
姓氏録 左京諸蕃に「牟佐村主。呉孫権男髙之後也」とこれなり。
時に村部氏 淡海國より移り来り高市郡に住す。
因りて命じて これが祝部たらしめ、更に 宮道君(ミヤヂノキミ)の氏姓を賜わる。その後相續で その職を襲ふ。
宮道氏系図 五郡神社記に「宮道君 出自ニ日本武尊ノ児 稚武王(ワカタケルノキミ)也、稚武王ノ後葉居ニ近江國志賀郡ニ為ニ淡海村部君。及干延暦年中ニ 還住ニ 大和國高市郡 詔ニ 淡海村部君 陳義ニ定ニ 牟佐社ノ祝部ト賜ヲ 宮道君姓。先にこれより祝部 牟佐村主貫干平安城左京に也」と見ゆ。永享・文安の際 禰宜散位 正六位上 宮道連之あり、即ち五郡神社記の作者なり。
【原文参照】
牟佐坐神社(橿原市見瀬町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)