村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
村屋神社(Muraya shrine)
〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県磯城郡田原本町大字蔵堂423〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》経津主神(ふつぬしのかみ)
武甕槌神(たけみかづちのかみ)
〈天武五年(676)に合祀〉
《合》室屋大連神(むろやおほむらじのかみ)
大伴健持大連神(おほとものかけもちおほむらじのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社
【創 建 (Beginning of history)】
田原本 歴史遺産 神々を訪ねて
延喜式内社 旧城下郡 蔵堂村屋(むらや)神社
祭 神 経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神
経津主、武甕槌二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言う。
大連二神は 壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績が高かったため、天武五年に合祀される。
この森屋郷は、古くは、室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。この神社は、元は大宮から200mほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、神領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向い合せの型で遷された。
明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、鐘楼跡と言われている。
壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。 文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司
村屋神社の建築について
切妻造妻入り見世棚造庇付銅板葺千木・勝男木付である。柱間55cm位の小社で、基壇上に土台を廻し、方柱を建てる。柱天端は簡略の大斗、舟肘木を組み、繁垂木を打つ、正三面板扉両開戸、見世棚上部三方板壁、同下部四面解放、見世棚上部片流れ庇付である。
近代に建築された社で、木肌も新しいが、屋根勾配きつく、神明造風の2社殿である。
文 田原木町文化財保護審議委員会長 林清三郎
平成21年度 No.7 田観57 田原本町観光協会現地案内板より
【由 緒 (History)】
村屋神社
壬申の乱で大海人皇子軍に神託を授け勝利に導いた神
延喜式内社 旧 式下郡 蔵堂
祭神:経津主神(フツヌシノカミ)・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)
室屋大連神(ムロヤオオムラジノカミ)
大伴健持大連神(オオトモノカケモチオオムラジノカミ)経津主、武甕槌二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言う。
大連二神は壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績が高かったため、天武5年に合祀される。
この森屋郷は、古くは、室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。
この神社は、元は大宮から200mほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、神領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向い合せの型で遷された。幕末から明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、神宮寺であった新楽寺の鐘楼跡と言われ、この鐘楼に吊られていた梵鐘は、現在堺市立みはら歴史博物館に展示されている。
壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。弥冨都姫は女神なので、村屋神とは軍神である村屋神社の二神(経津主神・武甕槌神)ではないかとも思われる。
村屋坐彌冨都比賣神社 公式HPより
http://murayajinja.com/sessha/murayajinja/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
村屋神社(田原本町蔵堂)は 村屋坐彌冨都比賣神社の境内摂社です
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の摂社について
境内・境外に鎮座する式内社が多くあります
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿の向かって右には
摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)《式内社》
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
本殿の向かって左には
摂社・服部神社(はとりじんじゃ)《式内社》
・服部神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
拝殿の向かって左には
摂社・久須々美神社(くすずみじんじゃ)《式内社》
・久須須美神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉
久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます
久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
摂社・物部神社(もののべじんじゃ)
《主》炊屋姫命 宇麻志摩遅命《配》物部守屋連
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
摂社・岐多志太神社(きたしたじんじゃ)《式内社》
・岐多志太神社(田原本町伊与戸)
岐多志太神社(きたしたじんじゃ)は 社名の岐多志太は キタ氏の田という意味で ゛キタ゛ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神 とされます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の大和国 城下郡 岐多志太神社 二座(鍬靫)(きたしたの かみのやしろ ふたざ)とされます
岐多志太神社(磯城郡田原本町伊与戸)〈延喜式内社〉
摂社・森市神社・千代神社(ちしろじんじゃ)《式内社》
・森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
森市神社・千代神社(もりいちじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)とされます
森市神社・千代神社(田原本町大安寺)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 村屋神社 二座
[ふ り が な ](むらやの かみのやしろ ふたざ)
[Old Shrine name](Muraya no kamino yashiro Futaza)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壬申(じんしん)の乱(673年)について
大海人皇子(おおあまのみこ)
『日本書紀』によるプロフィール
・ のちの天武天皇
・ 生まれながらに容姿端麗(ようしたんれい)、武術に優れていた
・ 『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)を命じた
・ 律令制の礎(いしずえ)を築いた「白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、都は近江(おうみ)へ。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は天智天皇として即位し絶大な権力を持ちました。しかし、その後、病に倒れてしまい皇位継承者として有力だった弟・大海人皇子と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こりました。これが古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」です。
大海人皇子は容姿端麗で、武術にも優れていたため、天智天皇も大海人皇子に自分の跡を継ぐように伝えていました。しかし、大友皇子を次の天皇にしようという動きがあることを知った大海人皇子は、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。そして、皇位を引き継ぐ意志がないことを示すため、出家して吉野へと向かいました。天智天皇の崩御後、政権を手にした大友皇子は天智天皇の陵(みささぎ)(お墓)を造ると言いながら、農民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監視を置きました。
この動きを知った大海人皇子は立ち向かうことを決意します。吉野を出て地方の豪族を味方につけながら兵力を強化し、各地で大友皇子との戦いを繰り広げました。戦いは現在の岐阜県にまで及びましたが、近江の瀬田川(せたがわ)での決戦を制して大海人皇子が勝利し、飛鳥の都(飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや))で天武天皇として即位します。
奈良県庁広報広聴課公式HP https://www.pref.nara.jp/49040.htm
{県民だより奈良 平成30年1月号「歴史体感日本書紀」}より
天武天皇 元年(673)壬申の乱の時 三神の神託について
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に記される
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託は
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
➂村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
“三神の神託”の現在の論社について
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
《式内社》大和國高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
論社 河俣神社(かわまたじんじゃ)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)
《式内社》大和國高市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)
論社 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
論社 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
・牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は 中世の『五郡神社記』旧記によると 第20代 安康天皇の御代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記しています 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)とされます
牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
・生國魂神社(橿原市大久保町)
生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)の論社とされます
生國魂神社(橿原市大久保町)
➂村屋神(むらやのかみ)
《式内社》大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
論社 村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です
村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
奈良盆地の東側を南北に走るJR桜井線の巻向駅 と 奈良盆地の中央を南北に走る近鉄橿原線の田原本駅との 中間地点辺り大和川の西岸
大和三道の一つ「中つ道」(橘街道)に面して鎮座する村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)の境内に祀られています
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)は 祭神は大物主命の妻神 三穂津姫命で 大神神社の別宮とされます 壬申の乱(673)の時には 村屋神が 天武天皇を勝利に導く神託を下し 神社として初めて位階を皇室から賜りました《式内社》大和國 城下郡 屋坐彌冨都比賣神社(大月次相嘗新嘗)(むらやにます みふつひめの かみのやしろ)です
村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
村屋坐彌冨都比賣神社 本殿の向かって右に 摂社・村屋神社(むらやじんじゃ)に参着
《式内社》村屋神社 二座とあるように 二座の本殿が並んで祀られています
本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
【抜粋意訳】
第二十八巻 天武天皇 上 元年(673)七月 神の神託 の段
事代主神(ことしろぬしのかみ)生霊神(いくたまのかみ)村屋神(むらやのかみ)これより先に 金綱井(かなづなのい)に軍を集結した時 高市郡大領(たけちのこおりのこおのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は にわかに ロをつぐんで 言うことが出来なくなった。
三日の後 神著(かみがかり)になって言うには
「吾は高市社(たけちのやしろ)〈河俣神社〉に居る 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)
又 身狭社(むさのやしろ)〈牟佐坐神社〉〈生國魂神社〉に居る 名は生霊神(いくみたまのかみ)なり」と言うと 顕(あらこと)〈神意を明らかとする〉をいう
「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)〈神武天皇〉の陵(みささぎ)〈陵墓〉に 馬と種々の兵器を奉れ」と言ったまた言われるには
「吾は 皇御孫命(すめみまのみこと)〈天皇〉の前後(みさきしり)に立ち 不破(ふわ)に送り奉り帰った 今もまた 官軍の中に立って 守護している」
また
「西道(にしのみち)から軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 慎重にせよ」
言い終わると 目が醒めたそこで すぐに許梅(こめ)を遣わし 御陵(みささぎ)〈陵墓〉を祭り拝ませ 馬と兵器を奉った
また幣(みてぐら)を捧げ 高市(たけち)身狭(むさ)の二社(ふたやしろ)の神に礼祭(れいさい)をしたそうして後 壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が 大坂(おほさか)から来襲した
時の人々は言う
「二社(ふたやしろ)の神が 教えたる所の辞(ことば) 適(まこと)にこれのことなり」又 村屋神(むらやのかみ)〈村屋坐弥冨都比売神社〉も 祝(はふり)〈神官〉に神憑(かみがか)り
「今 吾社(わがやしろ)の中道(なかのみち)より 軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 社(やしろ)の中道(なかのみち)を塞げ」と言われた何日かで 廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が 中道(なかのみち)から襲来した
時の人々は言う
「すなわち 神の教えられた言葉は これであった」
軍(ぐん)の政(まつりごと)が 既に終わったのち 将軍たちは この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ すぐに三神の品〈神階〉を登進(あげて)勅(みことのり)されて 祠を祀られた
【原文参照】
『大和名所図会(Yamato Meisho Zue)』〈寛政3年(1791年)刊〉に記される伝承
蔵堂村の13ヶ村の氏神と記しています
【意訳】
村屋神社(むらやのじんじゃ)二座
蔵堂村にあり 十三村の氏神なり 神名帳出
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
日本書紀 壬申の乱の神託神 村屋神 ではないかと記しています
【抜粋意訳】
村屋(ムラヤノ)神社 二座
書記 天武紀 村屋神著祝曰、今自吾社中道軍衆将至、故宜塞社中道
〇按 三穂津姫命 室屋大連公 共に高皇産霊尊 後也(三実)大伴健持大連公 子 室屋大連公 按 村を室 語通ず
〇蔵堂村尾邑
〇信友云(令集觧)の相嘗祭の条に釈云 大倭社 大倭忌寸祭 宇那太利 村屋 住吉 津守 云々
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
所在は「蔵堂村に在す」と記しています
【抜粋意訳】
村屋神社 二座
村屋は前に同じ
〇祭神詳ならず
〇蔵堂村に在す 大和志、同名所図会
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神として・経津主神・武甕槌神の二座としているが 高市御縣坐鴨事代主神と牟佐坐生魂神の二座ではないかと 記しています
【抜粋意訳】
村屋(ムラヤノ)神社 二座
祭神 経津主神
武甕槌神今按〈今考えるに〉
奈良縣注進に この祭神二座を記せれど 天武紀に村屋 高市 牟三の神のこと みえたるを思うに 本文は村屋坐弥富都比賣神社の條に引り 彼時の故事によりて 高市御縣坐鴨事代主神と牟佐坐生魂神と二座を合せて 同地に祭れるものなるべし祭日 弥富都比賣神社に同じ
社格 (明細帳に 村屋坐弥富都比賣神社 境内 村屋神社あり 無格社)
所在 蔵堂村 弥富都比賣神社 域内(磯城郡川東村大字蔵堂)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
天正の兵火に罹り 宮山より現在地に遷座 と記しています
【抜粋意訳】
村屋(ムラヤノ)神社
延喜式神名帳に「村屋神社二座」と、
大和志に「在に蔵堂村屋邑」と見ゆ。郷社 村屋坐弥富都比賣神社の境内にありて これが末社たり。
社伝に旧と宮山と字する所にありしを、天正兵火後 今の地に遷し祭ると云う、祭神 また詳ならず。
【原文参照】
村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)