宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宗像大社(Munakatataisha shrine)沖津宮遥拝所(Okitsugu yohisho)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県宗像市大島字伊東1293
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈沖津宮〉遥拝所
《主》田心姫神(たごりひめのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・道主貴の御別称が示すように国民道の祖神として歴代の皇室を守護され国家鎮護の御神徳を発揚
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の遥拝所
【創 建 (Beginning of history)】
宗像大社 沖津宮遥拝所
沖津宮遙拝所(おきつみやようはいしょ)は、遠く沖ノ島(沖津宮)を望み参拝するために建立されました。
沖津宮は、この遥拝所から約48km先の沖ノ島にあり、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御子神(みこがみ)(宗像三女神 むなかたさんじょしん)のおひとり、田心姫神(たごりひめのかみ)を祀っています。沖ノ島への上陸は今も守られる禁忌によって厳しく制限されていて、通常は渡島できません。また、沖ノ島の古代の祭祀遺跡(さいしいせき)からは約8万点の奉献品(ほうけんひん)が発見され、全てが国宝となっています。
遥拝所から望む沖ノ島
※天気が良い日には肉眼で確認できます
宗像市現地案内板より
【由 緒 (History)】
沖ノ島を世界遺産に
~未来につなごう私たちの宝~
平成21年1月5日、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」がユネスコの世界遺産暫定リストに記載されました。
現在、福岡県・宗像市•福津市は共同で、世界遺産登録に向けて取り組んでいます。
古代から現在まで受け継がれてきた貴重な遺産を未来に残していきましょう!
宗像市
現地案内板より
沖ノ島での祭祀
沖ノ島では、4世紀から約6 0 0年もの間、形態を変えながら航海の安全を祈願する国家的な祭祀が行われていました。
その後も、島への信仰は現代に至るまで脈々と続いています。祭祀の流れ
第1段階:岩上祭祀(がんじょうさいし)
(4世紀後半から5世紀)
岩上祭祀は、沖ノ島祭祀遺跡の中で最も古い形態であり、最も高いところから始まります。
この頃、本土では前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)などの古填が造られています。第2段階:岩陰祭祀(いわかげさいし)
(5世紀後半から7世紀)
この祭祀遺跡から出土した神宝には、韓国(新羅 しらぎ)製の金製指輪(きんせいゆびわ)や、遥か東アジアからシノレクロードを経て持ち込まれたカツトグラス碗片(わんへん)などがあります。
第3段階:半岩陰(はんいわかげ)・半露天祭祀(はんろてんさいし)
(7世紀後半から8世紀)
この祭祀遺跡から出土した神宝の中には、金銅製龍頭(きんどうせいりゅうとう)や唐三彩(とうさんさい)など古代中国の資料となるものが含まれます。
第4段階:露天祭祀(ろてんさいし)
(8世紀から10世紀初頭)
露天祭祀は、平地で行う祭祀形態です。この祭祀遺跡からは中央政権とのつながりを示す奈良三彩(ならさんさい)や、大量の土器などが出土しています。
宗像市
現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・正三位神社(しょうさんみいじんじゃ)(宗像市大島字伊東1293)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
沖津宮遥拝所(宗像市大島字伊東)は 宗像大社の境内社です
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました
宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷九 承和七年(八四〇)四月丙寅〈廿一〉
○丙寅
奉授に
肥後國 從四位下勳五等健磐龍神從四位上 餘如故
筑前國 從五位下竃門神
筑後國 從五位下 高良玉垂神 並從五位上
又 勳八等宗像神從五位下 餘如故
【原文参照】
【抜粋意訳】
〈官幣〉
卷十二 承和九年(八四二)七月乙未〈三〉
○秋七月癸巳朔乙未
遣の使を於 筑前國宗像神 竃門神 肥後國健磐龍神等 諸社に奉幣らむ 縁たなり有に祟(タタリ)也
越前國人散位正六位上長谷連貞長 同姓貞成等 改本居貫附左京二條三坊
【原文参照】
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷二 嘉祥三年(八五〇)十月辛亥〈七〉
○辛亥
進て 山城國 稻荷神階授從四位上
授に 攝津國 廣田神從五位下
進む 大和國 大和大國魂神階授從二位 石上神 及大神大物主神 葛木一言主神等並正三位 夜岐布山口神從五位下
河内國 恩智大御食津彦命神 恩智大御食津姫命神等並正三位 丹比神從五位上
伊勢國 阿耶賀神從五位上
尾張國 熱田神正三位
越前國 氣比神正二位
筑前國 宗像神從五位上 竃門神正五位上
筑後國 高良玉垂命神從四位上
肥後國 健磐龍命神正三位
伊豆國 三嶋神從五位上
【原文参照】
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷五 仁寿三年(八五三)二月癸亥〈辛酉朔三〉
○二月癸亥
加に 筑前國 宗像神(ムナカタノカミ)に 正五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷九天安元年(八五七)十月丙寅〈二〉
○丙寅
在に 筑前國 正四位下勳八等 宗像神に 授く正三位を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道ノ諸ノ神に 進階(クライ)を及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社なり
奉授に淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉都彦命二品
・・・
・・・筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下 竈門神 從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神(ミナキノカミ)に 並に從五位上
无位 住吉神 從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
〈神位〉
卷二貞觀元年(八五九)二月卅日〈丙辰〉
○卅日丙辰
大祓於建禮門前。以明日可發奉幣 八幡大菩薩使也
筑前國 從二位勳八等田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並に授正二位を
太政大臣 東京一條第
從二位勳八等田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並に授に正二位 此の六社居雖異なりと 實に是同神也
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・志加海神社三座 住吉神社三座 宗像神社三座 八幡神社一座 筑紫神社一座 竈門神社一座 美奈宜神社三座〈已上筑前国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)宗像郡 4座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 宗像神社三座(並名神大)
[ふ り が な ](むなかたの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Munakata no kaminoyashiro mikura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 宗像神社 三座(並名神大)(むなかたの かみのやしろ みくら)
「宗像社縁起」
「宗像三女神は 初め 室貴(室木 鞍手郡鞍手町室木)の六ヶ嶽に御着になり その後 此の地・津丸神輿村に著き給ふ この村において初めて天神威を輝かせらる その後三所の霊地(・田島・大島・沖ノ島)に御遷座あり」
〈宗像三女神降臨の地〉
・六嶽神社(鞍手町室木)
六嶽神社(むつがたけじんじゃ)は ゛宗像三女神が初めて降臨した六嶽 崎門〈サキト〉峰゛と伝わる地に上宮 里宮〈下宮〉は 第13代 成務天皇7年(137年頃)創建゛前戸(サキト)神社゛と称したと『宗像神社末社記』に載る古社です 宗像三女神は 第7代 孝霊天皇(在位 BC290~215年)の御宇に宗像三所に遷幸したと伝
六嶽神社(鞍手町室木)〈宗像三女神が初めて降臨した六嶽〉
〈宗像三女神遷幸の地〉
・神興神社(福津市津丸)
神興神社(じんごうじんじゃ)は 『宗像社縁起』には゛宗像三女神が初め室木の六ヶ嶽に天降り その後この地に留り給う 此の村に於て神威輝耀を以って神興と號す その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々゛と 宗像大社の゛神興ります所゛旧鎮座地であると伝えます
神興神社(福津市津丸)〈宗像大社の旧鎮座地゛神興(かみおこり)ます所゛〉
〈霊地・田島〉
・宗像大社 辺津宮(宗像市田島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛が三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉に坐ます ゛辺津宮(へつぐう)の起源゛は 背後の宗像山〈辺津宮古代祭祀の場〉゛高宮祭場゛の麓に本土の信仰の場として社殿が造営されたものです 古から受け継がれる宗像信仰の中心地となっています
宗像大社 辺津宮(宗像市田島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
〈霊地・大島〉
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました
宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
・宗像大社 沖津宮遥拝所(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)沖津宮遙拝所(おきつぐうようはいしょ)は 遥か沖に浮かぶ゛神宿る島 沖ノ島゛〈島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉この遥拝所として 少なくとも江戸時代〈境内の石碑には寛永3年(1750)と刻字〉には ここに造られていたと推測されています
沖津宮遥拝所(宗像市大島 字伊東)& 御嶽山祭祀遺跡
〈霊地・沖ノ島〉
・宗像大社 沖津宮(沖之島)〈一般参拝は不可〉
宗像大社 沖津宮(おきつぐう)〈一般参拝は不可〉は 日本神話に起源を持つ゛宗像三女神゛を祀る 三つの宮〈・沖津宮(沖ノ島)・中津宮(大島)・辺津宮(田島)〉の内 玄界灘の沖に浮かぶ゛神宿る沖ノ島゛に鎮座 島は全体が御神体であり 厳格な禁忌によって古くから〈一般人の渡島は禁止・女人は禁制〉 限られた人のみ参拝が叶います
宗像大社 沖津宮(沖之島)〈世界文化遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
この五つの神社が古代に祀られていた斎場の位置関係について
宗像神〈三女神〉を祀る゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛について
現在 全国に宗像神〈三女神〉を祭る神社は3500社を超えると云います
この内 本来の゛宗像神〈三女神〉゛と゛厳島系で宗像神〈三女神〉のみを祀る゛神社は 950社を超えると云います
更に『宗像神社史』一覧表には 90社が挙げられています
古代から 続いている神社として ゛延喜式内社゛と゛国史見在社゛に記載のある 宗像神〈三女神〉を祭る神社は 50社の記載があります
詳細は
宗像神〈三女神〉を祀る神社について
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
・宗像大社 中津宮(宗像市大島)
宗像大社(むなかたたいしゃ)中津宮(なかつぐう)は ・沖津宮(沖ノ島)と・辺津宮(九州の田島)をつなぐ大島に鎮座します 社殿背後の御嶽山の山頂には゛湍津姫神(たぎつひめのかみ)を祀る御嶽山祭祀遺跡゛〈沖ノ島と共通する古代国家祭祀の跡〉があり 後に山頂には御嶽神社が 麓には中津宮 社殿が創建されました
宗像大社 中津宮(宗像市大島)〈世界遺産 「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群〉
宗像大社 中津宮(宗像市大島)の参拝をすませてから
大島港のレンタショップで レンタサイクルを借りて向かいます
ここから 大島の北側にある 沖津宮遥拝所(おきつぐうようはいしょ)(宗像市大島字伊東1293)へ約2.3km 自転車で15分程度
海岸線を進むと゛干洲(カンス)゛と呼ばれる洲があり 海の道のようです
この洲の先に見えている島は゛地島゛です
その先 海岸線には ゛夢の小夜島(さよしま)゛と呼ばれる 海中に立つ朱色の鳥居 島を覆う松の緑のコントラストが美しい小島があります
大島全体の案内図があり この辺りから北上すると島の北側に進めそうです
この時には 電動自転車はなく ただのママチャリでしたので けっこうキツイ道中を進み 島の北側にやっと出ました
崖下に沖津宮遥拝所が見えますので あそこ迄 下ることになります
宗像大社 沖津宮遥拝所(おきつぐうようはいしょ)に参着
沖津宮遥拝所は 沖ノ島を望む海岸の高台に鎮座します
石段の下には゛澳嶋拝所゛と刻された號石には 「寛延弐年」(1749年)と年号も刻まれます
石段を上がります
石段を上がると゛史跡 宗像神社境内゛と刻された標石柱があり 社殿が建ちます
中津宮の境外社゛正三位神社(しょうさんみいじんじゃ)゛の石祠が祀られています
その先に鳥居が建ち 扁額には゛沖津宮゛と刻字
石灯籠には゛瀛津宮゛と刻字があります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社地は とても広く整地がされています
天気が良ければ この地から゛沖ノ島゛が見えて まさに遥拝所
ですが 当日は小雨日和で視界は悪く 見渡せません
社殿に一礼をして 参道を戻ります
大島では 古代には遥拝所は 此処ではなく
゛御嶽山の頂上゛に沖ノ島を望む゛祭祀場゛があったとされます
沖ノ島と同様に 国家祭祀が行われていたそうで
現在は〈御嶽山祭祀遺跡〉 御嶽神社(みたけじんじゃ)(宗像市大島字中津和瀬2987)となっています
山頂を目指して ママチャリでは心もとないのですが 目指します
御嶽山へは 誰一人いない道をひたすら登ります
天気が良かったら 最高の景色が見れたのだと思います
へとへと くたくたになりながら 山頂に到着
御嶽神社(みたけじんじゃ)(宗像市大島字中津和瀬2987)に参着
拝殿にすすみ賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
帰りは 疲れ切っていましたが
下り坂だったので よく覚えていませんが 行きに見た ゛夢の小夜島゛と呼ばれる処に戻ってきました
先程とは違い 潮が引いて陸続きになっていましたので 自転車を下りて散策
海水はとても綺麗です
帰りの船から 見えている高い山が゛御嶽山゛ その麓に゛中津宮の鳥居゛が見えましたので 再度一礼をします
神湊港に到着
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『記紀神話』に記される゛胸形(むなかた)゛の伝承
宗像大社(むなかたたいしゃ)の読みについて
漢字文字が 大陸より伝来する以前から゛ムナカタ゛と呼ばれていたとされ 当初は 万葉仮名として その音に相応しい様々な文字があてられた結果
『記紀神話』では゛胸形(むなかた)゛と記されています
『古事記』では
多紀理毘売命が゛胸形の奥津宮゛
市寸島比売命が゛胸形の中津宮゛
田寸津比売命が゛胸形の辺津宮゛に鎮座する神であると伝えます
このことからも 奈良時代には 既に当社が現在地に鎮座し 三女神が祭られていたことがわかります
奉斎氏族については
『古事記』と『日本書紀』巻第一神代上第六段本書は゛胸肩君゛
『日本書紀』第六段一書第三では゛水沼君゛と記します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
誓約(ウケイ)の段
〈天照大御神(アマテラスオホミカミ)須佐之男命(スサノヲノミコト)〉
須佐之男命(スサノヲノミコト)が云われた
「しからば 天照大御神(アマテラスオホミカミ)に 申し上げてから根国へ行くことにしよう」
高天原に登って行く時に すると山や川が 悉く動き みな震えました
それを聞いて 天照大御神)は驚かれ
「我が弟の命が 上ってくる由は 不善心(ウルハシキココロナラジ)〈善良な心ではない〉我国を奪おうと思っているのか」と言い髪を解き 御美豆羅(ミズラニ)に束ねて 左右の御美豆羅(ミズラニ)にも 左右の手にも 勾玉(マガタマ)を沢山連ねた玉緒を巻き付けた
千本の矢が入った靱(ユギ)〈矢筒〉を背負い 脇に五百本の矢が入る靱(ユギ)〈矢筒〉を抱え 威勢のよい音を立てる鞆(トモ)をお帶び 弓を振り立て 力強く大庭を踏みつけ 泡雪のように大地を蹴散らかし 勢いよく叫びの聲を擧げて 待ち問われた
「どういうわけで 上り來こられたか」と尋ねたそこで 速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)は答えた
「私に無邪心(キタナキココロナシ) 大御神之命(オホミカミノミコト)の仰せで 私が哭きわめいていることをお尋ねになられたので 私は 母の居る根国へ行きたい と思っていると言上すると
大御神(オホミカミ)は この国から出て行け と私を追放されたので 母の居る根国へ向かうことになった事を話に来たのです 謀反の心などありません」と言った天照大御神(アマテラスオホミカミ)が詔(ミコトノリ)され
「しからば あなたの心之清明(ココロノアカキコト)はどのように知るのですか」速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)は
「宇氣比(ウケイ)を持って 子を生みましょう」と答えたよって 天安河(アメノヤスカワ)を中に置いて 宇氣比(ウケイ)する時
天照大御神(アマテラスオホミカミ)が 先(マズ)建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)が持っていた 十拳の剣(トツカノツルギ)を受け取り 三段に打ち折り 天真名井(アメノマナイ)の水ですすいで 噛み砕き 吹きその息吹から成(ナ)せる神の名は
多紀理毘売命(タキリヒメノミコト)
またの名を 奥津嶋比売命(オキツシマヒメノミコト)次に 市寸嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)
またの名を 狭依毘売命(サヨリビメノミコト)次に 多岐都比売命(タキツヒメノミコト)
速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)は 天照大御神(アマテラスオホミカミ)の左の角髪(ミズラ)に沢山の勾玉を貫き通した玉緒を受け取り 玉が揺れて音が立つほど 天真名井(アメノマナイ)の水ですすぎ 噛み砕き 吐き出した
その息の霧から生まれたのは
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)次に右の角髪(ミズラ)に撒いている玉緒を受け取り、同様に噛み砕いて吐き出した息の霧から生まれたのが天之菩卑能命(アメノホヒノミコト)です。
次に 御鬘に巻いた玉緒を受け取り 噛み砕き 吐き出した息の霧から生まれたのは 天津日子根命(アマツヒコネノミコト)
また 左手に巻いた玉緒を噛み砕き 吐き出した息の霧から生まれのが 活津日子根命(イクツヒコネノミコト)
また 右手に巻いている玉緒を 噛み砕き 吐き出した息の霧から生まれのが 熊野久須毘命(クマノクスビノミコト)
合わせて五柱天照大御神(アマテラスオホミカミ)が 速須佐之男命(ハヤスサノヲノミコト)に告げた
「この後から生まれた五柱の男子(ヒコミコ)は わたしの持ち物(玉緒)から生まれた 吾子(アガミコ)なり
先に生まれた三柱女子(ミハシラノヒメミコ)は あなたの持ち物(十拳の剣)から生まれたので 汝子(ミマシノミコ)〈あなたの子〉である」と 生まれた神を別けた多紀理毘売命(タキリヒメノミコト) は 胸形之沖津宮(ムナカタノオキツミヤ)に
市寸嶋比売命(イチキシマヒメノミコト)は 胸形之中津宮(ムナカタノナカツミヤ)に
田岐都比売命(タキツヒメノミコト) は 胸形之辺津宮(ムナカタノヘツミヤ) に坐します
この三柱神(ミハシラノカミ)は 胸形君(ムナカタノキミ)等が祀る 伊都久三前大神(イツクミマヘノオホカミ)である
この後に生まれた五柱子(イツハシラノミコ)の中に 天菩比命(アメノホヒノミコト)の子(ミコ)建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)
これは 出雲国造(イズモノクニノミヤツコ)・武蔵国造(ムサシノクニノミヤツコ)・上海上国造(カミツウナガミノミヤツコ)・下海上国造(シモツウナガミノミヤツコ)・伊甚国造(イジムノクニノミヤツコ)・対馬縣値(ツシマノアガタノアタイ)・遠江国造(トオツオウミノクニノミヤツコ)等の祖神である次に
天津日子根命(アマツヒコネノミコト)は 凡河内国造(オオシコウチノクニノミヤツコ)・額田部湯坐連(ヌカタベノユエノムラジ)・茨木国造(イバラキノクニノミヤツコ)・大和田中値(ヤマトノタナカノアタイ)・山城国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)・馬来田国造(マクタノクニノミヤツコ)・道尻岐閇国造(ミチノシリノキヘノクニノミヤツコ)・周芳国造(スオウノクニノミヤツコ)・大和淹知造(ヤマトノアムチノミヤツコ)・高市縣主(タケチノアガタヌシ)・蒲生稲寸(ガモウノイナキ)・三枝部造(サキクサベノミヤツコ)等の祖神である
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛日神と素戔嗚尊との誓約(うけい)によって誕生した三女神゛の伝承
『日本書紀』巻第一 神代上 第六段 本文には
日神と素戔嗚尊との誓約(うけい)によって誕生した三女神を゛筑紫の胸肩君(ムナカタノキミ)が祀る神が これである゛と記します
『日本書紀』巻第一 神代上 第六段 一書第一には
日神と素戔嗚尊との誓約(うけい)によって誕生した三女神を゛日神が筑紫洲に降し「道中に降り居て 天孫を助け天孫の為に祭られよ」と勅した゛ことが記され これが「宗像大社の創祀」であると云います
『日本書紀』巻第一 神代上 第六段 一書第二には
゛・市杵島姫命は「遠瀛(おきつみや)」に鎮まる神・田心姫命は「中瀛(なかつみや)」に鎮まる神・湍津姫命は「海浜(へつみや)」に鎮まる神゛と記され それぞれ「宗像大社の沖津宮・中津宮・辺津宮」であると云います
『日本書紀』巻第一 神代上 第六段 一書第三には
゛三女神を宇佐島に降し「今 海の北の道の中に在す」゛と記され 「宗像大社の三柱の女神の御別称゛道主貴(みちぬしのむち)゛」であると云います
【抜粋意訳】
巻第一 神代上 第六段本文
素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が曰く
「わたしは今 教えに従って 根の国に参ります その前に 高天原に向かい 姉〈天照大神〉にお目にかかり その後 永遠に根の国に退きます」伊奘諾尊(イザナギノミコト)は「許(ユルス)」と勅されたので すぐに素戔鳴尊は天に昇られた
その後 伊奘諾尊は 神の成すべきを終えられて あの世に赴かれるにあたり 幽宮(カクレノミヤ)を淡路之州(アワジノクニ)に造り そこに静かに永く御隠れになられた
別の言い伝えでは
伊奘諾尊は 神の成すべきを終えられて 既に徳が大いに至り 天に登られて報命(カエリコトウマシタマウ)日之少宮(ヒノワカミヤ)に留まりました
〔少宮は倭柯美野(ワカミヤ)と読む〕素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が 天に昇られる時 海は轟いて揺れ 山は鳴り響いた これは神の性質が 猛々しいからです
天照大神(アマテラスオホカミ)は その神が 暴悪(アラクアシキ)と知っておられたので 天に昇ってくる様子を聞き 驚きました
「わたしの弟が来るのは 善良な心によって天に上がってくるものではない きっと 国を奪おうとする志があるのだろう
父母は既に 子供たちに それぞれに任じて その治める場所に境を設けた どうして 自分の治めるべき国を捨てて この處(トコロ)を奪おうと窺うのか」と云われた天照大神は 髪を解き 男のように角髪(ミズラ)に結い 腰にまとっていた裳を やはり男のように袴(ハカマ)にした また 大きな勾玉を五百筒も紐で連ねてまとめた御統(ミスマル)を頭(ミズラ)や腕に巻きつけ 背中には千本の矢が入る靭(トモ)と五百本の矢が入る靭を背負い 肩から肘・手首までを守る稜威之高鞆(イズノタカトモ)を身につけ 弓の上弭(ウワハズ)を振り起こし 太刀の柄を握り締め 固い地面を腿まで沈むほど踏みしめ その土を蹴りあげて泡雪のように撒き散らし 雄たけびを上げ 素戔鳴尊を責め 問い詰めた
素戔鳴尊が 云うには
「私は 元から悪い心はありません 父と母から厳勅(イツクシキミコトノリ)を受け これから永久に根の国に行こうと思っております ただ 姉と会わずこの国から去れません そこで雲霧をかき分け 遠くからやってきたのです 姉がこのように厳しい顔をしているとは不意でした」すると天照大神は 復(マタ)問い返した
「もしそうであるなら 清らかな心を持つと どうやって証明するか」素戔鳴尊は 答えた
「姉と共に誓約(ウケイ)をしよう 誓約の中で子を生みましょう 私が女者を生んだならば 濁心(キタナキココロ)があるでしょう もし私が 男者を生んだならば 清心(キヨシココロ)と為すでしょう」天照大神は 素戔鳴尊が持っていた十拳釼(トツカノツルギ)を受け取り これを三段に折り 天眞名井(アメノマナイ)の井戸水で濯(すす)いで清め カリカリと噛んで砕いてフっと吹き出した その細かい霧から生まれ出た神を號(ナヅケテ)曰く
田心姫(タコリヒメ) 次に湍津姫(タキツヒメ) 次に杵嶋姫(イチキシマヒメ) 凡(スベテ)三女(ミハシラノヒメカミ)にます素戔鳴尊は 天照大神が 頭や腕に身に着けていた八坂瓊之五百箇御統(ヤサカニノイヲツノミスマル)を受け取り 天眞名井(アマノマナイ)振り濯ぎ カリカリと噛んで噴き出した息が霧となって生まれた神を號(ナヅケテ)曰く
正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)次に 天穗日命(アメノホヒノミコト)
この神は 出雲臣(イズモノオミ)土師連(ハニシノムラジ)の祖先次に 天津彦根命(アマツヒコネノミコト)
この神は 凡川内直(オオシカワチノアタエ)山代直(ヤマシロノアタエ)の祖先次に 活津彦根命(イクツヒコネノミコト)
次に 熊野櫲樟日命(クマノクスビノミコト)
凡(スベテ)五男(イツハシラ ヒコカミ)にます
このとき天照大神は
「生まれた神の元は 八坂瓊之五百箇御統(ヤサカニノイツオノミスマル)で それは私の持ち物である だからこの五柱の男神は悉(コトゴトク)吾兒(アガコ)である」と言われ 取られて育てられたまた勅(ミコトノリ)ら曰く
「その十拳釼(トツカノツルギ)は 素戔鳴尊のものである よってこの三女神(ミハシラノヒメカミ)は 凡(スベテ)お前のものだ」その兒(ミコ)を素戔鳴尊に授けました筑紫の胸肩君(ムナカタノキミ)が祀る神が これである
【抜粋意訳】
巻第一 神代上 第六段一書第一
ある書(第一)によると
日神〈天照大神〉は 素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が武勇に優れ 誰にも負けない心を持っていると知っていた
なので素戔鳴尊が高天原に昇ってくるのを見て すぐに言われた
「弟〈素戔鳴尊〉が 昇ってくる理由は 善い心持からではないであろう 我が高天原を奪おうと考えてのことであろう」すぐに男のように身支度をして 十拳剣(トツカノツルギ)・九拳剣(ココノツカノツルギ)・八拳剣(ヤツカノツルギ)を身につけ、背には靭(ユギ)〈矢を入れる筒〉を負い 腕には稜威之髙鞆(イズノタカトモ)〈腕の防具〉を身につけ 手には弓矢を握り 自ら侵略を防ごうとされた
このとき素戔鳴尊が言うには
「私は 元々 悪い心を持っておりません ただ 姉〈天照大神〉とお会いしたいと思って来ました」これに対し日神は 素戔鳴尊と対峙して言われた
「もしも お前の心が清く 高天原を奪う気持ちが無いのであれば お前が生んだ子は゛男神゛となるであろう」そう言ってまず
腰の十拳剣(トツカノツルギ)を噛んで生んだ子が 瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)
九拳剣(ココノツカノツルギ)を噛んで生まれた子は 湍津姫(タギツヒメ)
八拳剣(ヤツカノツルギ)を噛んで生まれた子は 田心姫(タゴリヒメ)
以上三柱の女神であった今度は 素戔鳴尊が 首に掛けた五百箇御統之瓊(イホツミスマルノタマ)を取り 天渟名井(アメノヌナマイ) 又の名を去來之眞名井(イザノマナイ)の綺麗な水で濯いで噛んで生んだ子が
正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)
次に 天津彦根命(アマツヒコネノミコト)
次が 活津彦根命(イクツヒコネノミコト)
次が 天穗日命(アメノホヒノミコト)
次が 熊野忍蹈命(クマノオシホムノミコト
以上の五柱の男神です。素戔鳴尊は 既に誓約の勝利の験(シルシ)を得ました
これで日神は 素戔鳴尊が悪い心を持っていないと知りました すぐに日神が生んだ三柱の女神を筑紫(チクシ)に降らせて言われた
「お前たち三柱の神は 天より降臨して 道中に居よ そして天孫を助けなさい そして天孫のために祀られなさい」
【抜粋意訳】
巻第一 神代上 第六段一書第二
ある書(第二)によると
素戔鳴尊(スサノヲノミコト)が 天に昇ろうとされたとき 一柱の神が現れた 名は 羽明玉(ハアカルタマ)
この神が迎奉(ムカエマツリテ) 瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を進以(タテマツル)
素戔鳴尊は その勾玉を持ち天上に到ったそのとき天照大神は 弟が悪心(アシキココロ)を起こしたと疑い 兵を集め問い詰めた
素戔鳴尊は
「私が来た理由は 姉に会いたいと思ったからです また珍しい瑞八坂瓊之曲玉(ミズノヤサカニノマガタマ)を献上しよう欲したからで 別意はありません」と答えた天照大神は 復(マタ)問い返し
「お前の言葉が嘘か本当か どのように証明するか」素戔鳴尊は 答えた
「私と姉で 誓約(ウケイ)をしましょう 誓約の間に 女神が生まれたならば黒心(キタナキココロ)がある 男神がならば赤心(キヨキココロ)があるとしてください」すぐに天眞名井(アメノマナイ)を三カ所掘り 向かい合って立ちました
この時 天照大神は 素戔鳴尊に謂(カタリ)て
「私が腰に帯びた剣を お前に奉ろう お前が持つ八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を私に授けなさい」そう約束(チギリ)て 共に相(アイ)換(カエ)た
天照大神は 八坂瓊之曲玉(ヤサカニノマガタマ)を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべ寄せて 瓊端(ニノハシ)を噛み切り
噴き出した息吹きの中から生まれた神を號(ナヅケテ)曰く
市杵嶋姫命(イチシキシマヒメノミコト)
この神は 遠瀛(オキツミヤ)に居る神
又 瓊中(ニノナカ)を噛み切り 噴き出した息吹きの中から生まれた神を號(ナヅケテ)曰く
田心姫命(タコリヒメノミコト)
この神は中瀛(ナカツミヤ)に居る神
又 瓊尾(ニノヲ)を噛み切り 噴き出した息吹きの中から生まれた神を號(ナヅケテ)曰く
湍津姫命(タギツヒメノミコト)
この神は 海濱(ヘツミヤ)に居る神凡(スベテ)三女(ミハシラノヒメカミ)にます
ここに 素戔鳴尊が 持っていた劔を天眞名井(アメノマナイ)に浮かべ寄せ 劔の先を噛み切り 噴き出した息吹きの中から生まれた神を號(ナヅケテ)曰く
天穗日命(アメノホヒ)次に 正哉吾勝勝速日天忍骨尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホネノミコト)
次に 天津彦根命(アマツヒコネノミコト)
次に 活津彦根命(イクツヒコネノミコト)
次に 熊野櫲樟日命(クマノクスヒノミコト)
凡(スベテ)五男神(イツハシラノヒコカミ)にます
【抜粋意訳】
巻第一 神代上 第六段一書第三
ある書(第三)によると
日神(ヒノカミ)が 素戔鳴尊と天安河(アメノヤスカワ)を隔てて 相対して誓約(ウケイ)をして曰く
「お前がもし 奸賊之心(アダナフノココロ)が無いのなら お前が生む子は必ず男となるであろう もし男が生まれたならば 私の子として天原(アマノハラ)を治めさせよう」そこで日神(ヒノカミ)は まず十拳釼(トツカノツルギ)を食べ 生まれた兒(ミコ)は
瀛津嶋姫命(オキツシマヒメノミコト)
またの名を 市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)又 九拳釼(ココノツカノツルギ)を食べ 生まれた兒(ミコ)は
湍津姫命(タギツヒメノミコト)
八握劒(ヤツカノツルギ)を食べ 生まれた兒(ミコ)は
田霧姫命(タキリヒメノミコト)素戔鳴尊は 左の髻(モトドリ)に巻かれた五百箇統之瓊(イホツミスマルノタマ)を口に含み 左の掌に置いて 男神を生みました
そこで
「吾(アレ)勝(カチ)ぬ」と云いそれで名(ナヅケテ)曰く
勝速日天忍穗耳尊(カチハヤヒアメノオシホミミノミコト)右の髻(モトドリ)の玉を口に含んで 右の掌に置くと 天穗日命(アメノホヒノミコト)が生まれた
首に下げた玉を口に含んで 左腕に置くと 天津彦根命(アマツヒコネノミコト)が生まれた
右腕に置くと 活津彦根命(イクツヒコネノミコト)が生また
左足からは 熯之速日命(ヒノハヤヒノミコト)が生また
右足からは 熊野忍蹈命(クマノオシホミノミコト)が生まれた
またの名を 熊野忍隅命(クマノオシクマノミコト)素戔鳴尊が 生んだ兒(ミコ)は 皆な男神であった
そこで日神は 素戔鳴尊が 元から赤心(キヨキココロ)であると知り すぐに六男神(ムツハシラノヒコカミ)を引き取り 日神の子として天原(アマノハラ)を治めさせました
そして 日神が生んだ三女神(ミハシラノヒメカミ)は 葦原中国(アシハラナカツクニ)の宇佐嶋(ウサノシマ)に降ろしました
今は 海北道中(うみのきたのミチナカ)に在り
號(ナヅケテ)道主貴(ミチヌシノムチ)と言います
筑紫の水沼君(ミヌマノキミ)などが祀る神が これです熯(セン)は干(カン)です これは「ひ」と云う
【原文参照】
宗像大社 沖津宮遥拝所(宗像市大島字伊東)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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