実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 日本武尊当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称した伝わります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

上蒔田 椋神社(Muku shrine)

通称名(Common name)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ

【鎮座地 (Location) 

埼玉県秩父市蒔田2842埼玉県秩父市蒔田字宮原

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大己貴命(おほなむちのみこと)

《配》猿田彦命(さるたひこのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

社伝によれば
景行天皇の皇子 日本武尊 東征の際 矛を杖にして山路を越えると 矛が光を放飛んでいった 尊は不思議に思って光が止まったところまで行 井の辺のムクの木陰から猿田彦命が現れ道案内をしたという 当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称した

【由  (History)】

指定無形民族文化財
椋神社(むくじんじゃ)御田植(おたうえさい)

 上蒔田(かみまいたに伝わる御田植春の農作業に先だち、三月第一日曜日(旧暦の頃は二月三日平成二十五年度までは三月三日)、その年の稲の豊祈願して稲作り仕事を模擬的行う行事です境内にしめ縄を張りめぐらして御田代(みたしろ)と呼ばれる神田に見立て、鳥居の外には、わらで龍をかたどった 水口(みなくち)が設けられます。
 毎年氏子の中から十二人が選ばれ、その中の二人が作家老(さんがろう)とな行事の主役となります十二人衆のいでたちは、烏帽子(えぼし)に白装束で、手には鍬(すき)を模した竹製の農具をもって演じます。
 当日は拝殿にて坪割(四方固め)をを行った後、続いて水乞(みずこ)いに丹生神社まで参り水乞い終わると(みずぬさ)と呼ぶ御幣(ごへい)先頭に帰ります。水口張られた縄を切り麻が斎場御田代立てられる、 田仕事が始まります。
 田仕事は、苗代つくりから種子き、本田の耕起から掻(しろか)き、田植までの実際の農耕順序に従って演じられます。田の掻きでは御神馬(ごしんめ)二頭が登場し、御田代駆け回ります「御代の永田に手に手をそろえて いそげや早苗手に手をそろえて」と田植唄をうたいながら演じる所作は、多くの古風な習俗を伝承しています。

平成二十六年三月 秩父市教育委員会

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

二十 貞觀十三年(八七一)十一月十日壬午〉の条

○十日壬午
に 武藏國

正五位上勳七等 (チチフノカミ)に 從四位下。
從五位下 椋神(ムクノカミ)に 從五位上。

飛騨國 正五位下 水無神 正五位上。
出雲國 正五位上 湯神。佐往神 並從四位下。
從五位上 能義神。佐草神。揖屋神。女月神。御譯神。阿式神並 正五位下。
從五位下 斐伊神。智伊神。温沼神。
越中國 從五位下 楯桙神 並從五位上。

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)秩父郡 2座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 椋神社
[ふ り が な ]むくかみのやしろ)
[Old Shrine name]Muku no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)論社について

明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定ありました

・井椋塚(秩父市下吉田)椋神社の社殿が焼失〈永禄十二年(1569)兵火〉以前の旧社地

一緒に読む
井椋塚(秩父市下吉田)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉

井椋塚(いくらづか)〈吉田 椋神社の旧鎮座地〉は 永禄十二年(1569)の兵火〈武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ち〉で吉田 椋神社の社殿が消失する迄の旧社地とされます 天正三年(1575)に鉢形城主 北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建したと伝わります

続きを見る

・吉田 椋神社 奥宮(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田椋神社奥宮(秩父市下吉田)

吉田椋神社 奥宮(よしだ むくじんじゃ おくみや)は 龍勢を打ち上げる龍勢櫓のある芦田山の中腹に鎮座します 御祭神は本社と同じですが 祭典は御犬様を祀る祭りとされて ゛延喜式内 椋神社 服従神犬 秩父吉田郷五峯山鎮゛と伝わります

続きを見る

・吉田 椋神社(秩父市下吉田)

一緒に読む
吉田 椋神社(秩父市下吉田)

吉田 椋神社(よしだ むくじんじゃ)は 日本武尊が道に迷われ時 鉾の先から一条の光が走り大きな椋の木の根元近くに猿田彦大神が顕われ導かれた この鉾を神体として大神を祀ったのが創始とされ 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の有力論社とされます

続きを見る

・上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

上蒔田 椋神社(かみまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 日本武尊が 当地の椋の大樹の根元に 大己貴命を奉祭し 椋大神と称したと伝わります

続きを見る

・中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

一緒に読む
中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)

中蒔田 椋神社(なかまいた むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました 祭神は秩父国造の祖である天下春命を主祭神として大己貴命・猿田彦命を祀ります

続きを見る

・野巻 椋神社(皆野町野巻)

一緒に読む
野巻 椋神社(皆野町野巻)

野巻 椋神社(のまき むくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 明治初期 秩父郷に5つある椋神社の間に式内社論争が起こり 五社を合わせて式内社とする知事の裁定がありました「野巻」という地名は「野牧」とも書かれ 昔 当地に牧〈大和朝廷の牧場〉があったとされます

続きを見る

・皆野 椋神社(皆野町皆野)

一緒に読む
皆野 椋神社(皆野町皆野)

皆野 椋神社(みなのむくじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 秩父郡 椋神社(むくの かみのやしろ)の5つある論社の一つです 社記には 景行天皇四十年日本武尊が知知夫国を巡見した折 この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・ 八意思兼命を鎮祭したことを創祀としています

続きを見る

・井椋神社(深谷市畠山)〈参考 井椋五所宮 秩父市下吉田にある椋神社の分祀

一緒に読む
井椋神社(深谷市畠山)〈境内社の白旗八幡社は式内社〉

井椋神社(いぐらじんじゃ)は 男衾郡 畠山の地に進出した 秩父郡吉田(旧・吉田町、現・秩父市)を本拠地とする秩父氏の嫡流の畠山氏が 守護神として祀っていた 井椋五所宮〈現 秩父市下吉田にある椋神社(式内社)〉を 秩父権守 重綱公が 畠山の地に勧請(分祀)したのが始まりと伝えられています 又 境内社「白旗八幡社」は 式内社「武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社」の論社にもなっています

続きを見る

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

秩父鉄道 秩父駅から 県道208経由 西北へ約5.6km 車12分程度

国道299号沿いに社頭の鳥居と 社号標「延喜式内 椋神社」が建ちます

上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進むと 境内入口には・狛犬・石灯籠・二の鳥居が建ちます

Please do not reproduce without prior permission.

参道 境内 社殿は東南を向いていて 裏手には丘陵のような小山があり その麓に石垣が組まれた 少し高い檀に社殿が鎮座しています

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の扁額には 椋神社記されています

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

Please do not reproduce without prior permission.

社殿から境内を見下ろすと 御田植祭の時の御神馬(ごしんめ)二頭の厩舎があります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 椋神社所在について 下吉田〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています 

【抜粋意訳】

(ムク)神社

三代実録 貞観十三十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上

〇在 下吉田郷

式社考 芦田村 井椋大明神と云う 祭神 天ノコヤネノ命

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

蒔田に鎮座する二つの椋神社ついて 村の鎮守と記しています

【意訳】

二百五十七 秩父郡十二 蒔田村

椋神社〈上蒔田〉

祭神 大己貴命
例祭 正月廿八日 二月三日 九廿八 村の鎮守なり 村民持
春日社 稲荷社

椋神社〈中蒔田〉

祭神 大己貴命
例祭 二月三日 八月十五日 十一月十五日
此社も村の鎮守なり 村民持 椋神社〈中蒔田〉
八幡 稲荷社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 椋神社所在について 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉と記しています

【抜粋意訳】

椋神社

椋は久良と訓べし
〇祭神 猿田彦大神、(地名記〇式社考には、祭神天児屋命と云り、)
○矢田庄下吉田村に在す、(同上)今井椋 五社明神と称す、
例祭月日、

神位
三代實録、貞観十三十一月十日壬午、授武藏國從五位下椋神從五位上、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

近隣に椋神社4か所あったが
明治政府に於いて 式内社 椋神社所在について 大社であるが故に 矢田庄下吉田村〈現 皆野 椋神社(皆野町皆野)〉が定められた しかし 蒔田村の氏子等訴訟などで 其の他の3社・蒔田村上組上〈現 上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉・吉田村立會〈現 野巻 椋神社(皆野町野巻)〉・吉田村中組〈現 中蒔田 椋神社(秩父市蒔田)〉も式内社の論社とされた と記しています

【抜粋意訳】

椋神社

神位
清和天皇 貞観十三十一月十日壬午 授武藏國從五位下椋神從五位上

所在
今按〈今考えるに〉
本社所在 蒔田村上組上 吉田村立會にて祭る椋神社と云あり
又 吉田村中組にも椋神社あり 下吉田村にも椋神社あり
此の三村の内に就いて 下吉田村は大社にて氏子戸数も多く 人民崇敬の神社なるを以て 郷社に定められし處 蒔田村の氏子等訴訟のことあるを以て 姑く三社を以て一社と見做し 式社と定め置るるの指令あり 尚よく確証を得て 後に定むべきなり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

上蒔田 椋神社(秩父市蒔田)に (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る       

一緒に読む
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について

武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています