実践和學 Cultural Japan heritage

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物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・延喜式内社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流謫居二十年の間 物部氏の祖神゛宇麻志麻治命を小祠に祀り祈り続けたのが創建と云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

物部神社(Mononobe shrine

通称名(Common name)

・〈江戸時代までは〉住吉大明神・住吉さん

【鎮座地 (Location) 

新潟県佐渡市小倉乙618番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)

昭和三十二年1957小倉地内の四神社統合の議が成立 八幡神社及び二つの白山神社を当社に合祀

《合》応神天皇神功皇后菊理媛命伊弉冊尊

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

物部神社

 当社は 延喜式九社の第一に挙げられ、かつ延暦十年(791)県下で最初に神階(従五位下)を授けられた旧県社である。

 創建は 穂積朝臣(ほずみあそみ)の老(あゆ)が養老年(722)佐渡配流、謫居二十年の間 物部氏の先祖「宇麻志麻治命」を祠り小祠を建立。

 清和天皇御遷幸あらされし際、当社に御幸遊ばされる。また天和年間 (1681~)小倉大納言実起 此里に居を占めて、崇敬斜めならずと言う。

 今も住吉さんなる別称で呼ばれている。これは当地が往古 水運の国府川の上流に在り 船材の主産地であったことに由来し 航海安全の守護神であったことをも象徴している。
 現に日蓮上人の住吉大明神なる木札もある。

 昭和三十二年、小倉地内の四神社統合の議が成立、八幡神社及び二つの白山神社を当社に合祀し今日に至る。

佐渡市・畑野観光協会

現地案内板より

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【由  (History)】

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される内容

【抜粋意訳】

〇新潟縣 佐渡國 佐渡郡畑野村大字小倉

縣社 物部(モノノベノ)神社

祭神 宇麻志麻治(ウマシマヂノ)

創祀年月詳ならず、神祇志料に•物部神社 今小倉村にあり、桓武天皇延暦十年九月甲子從五位下を授く、(續日本紀)凡八月五日を例祭とす(神社覈録)とあり、
醍醐天皇 延喜の制小社に列す、其後の沿革詳ならず、明治七年縣社に列す、當村の内上組の産土神たり、此地を小倉といへるは、此神の鎮りませる小倉のありしより起れる名なるペし、境内三千四十五坪 (官有地第一種 )本殿・拜殿を備ふ。

【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』上,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088244

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・物部神社 社殿

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・物部神社 本殿

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・物部神社 拝殿

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・〈拝殿の向かって左 境内社〉藤源神社

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境内社 藤源神社

 佐渡代官 藤沼源左衛門を祭神とし、嘉永五年六月十六日小倉村全村の崇敬の象徴として旧八幡社の境内に創立、爾来六月十六日(現在七月十六日)の祭日には近隣の村々からの参拝の老若男女村人に加わり、神殿前は位置をなすほどの賑わいを見せていた。

 大正十一(1922)年十一月、老朽化の為 旧真野宮本殿を譲り受け、移転改築、さらに昭和三十二年の四社統合によりここに遷宮現在に至る。

 藤沼源左衛門時房は佐渡代官として、宝暦三年(1753)八月来島、就任当時の全島不作に続き、五年六年には当地と猿八村は凶作の様相を呈するほどで餓死者続出の窮状にあえぐにいたる。諸説あれども、一説には、「小倉村三百軒中、餓死者三百余人死絶百二軒」とある。

この惨状に心痛めた藤沼氏は佐渡奉行 石谷備後守清昌に願い出て幕府に請い租税減免の措置をとり貧民の救済に専念する。

また飢渇人の田地植付人足を全島の村々より集めて耕作地の維持に努め、宝暦九年その職を辞するまで救援は続行された。その恩情を偲ぶ村人の慕情が当社の建立となった所以である。なお、餓死者供養の為に立てた二百万遍塔が近くの小倉川河畔に在り毎年供養が続けられている。

 この本殿が旧真野宮の本殿であった大正五年皇太子であらせられた昭和天皇が佐渡(行啓)の砌(みぎり)参拝された由緒ある建造物である。

同年皇族朝香宮殿下も参拝される。小倉の地に移築後の昭和二年には新潟県知事 藤沼在平氏も佐渡巡視の折り日程を繰り延べて当地へ訪れ参拝祭粢を献じている。

佐渡市・畑野観光協会

現地案内板より

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万葉歌碑

「万葉歌人 穂積朝臣老邸跡

 天地を歎き乞ひ禱み幸くあらば
  また還り見む志賀の唐崎」

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万葉歌人 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)歌碑

 万葉歌人 穂積朝臣老の歌は、四首(長歌一首、短歌三首)が万葉集に収められている。そのうち巻十四・三二〇番(長歌)と三二四一番(反歌)とは、流罪になった佐渡で詠まれたと書かれている。
 その穂積朝臣老が住んでいたという畑野小倉の物部(もののべ)神社の近くに、歌碑が建立されることになった。

 天地を嘆き乞ひ祷(の)み幸(さき)くあらば
また還(かへ)り見む志賀の唐崎(三二四一番)

 穂積朝臣老は養老六年 (七二二)に元正天皇を直接非難した罪で斬刑されるところを、首(おびと)皇太子(聖武天皇)の奏上によって、死一等を減じて佐渡島に配流になった。

 穂積老は大和から京を経て、志賀の唐崎を琵琶湖沿いに通り北陸道を行き、渡戸(わたりへ)の水駅から佐渡の国津である松崎駅に上陸した。そして峠を越えて、高原地帯の小倉の里に十八年間もの長い間住んだ。この小倉の里は、大和滝蔵神社がある大和高原に似ており、事実さらに下方の平地への降り口には北豊山長谷寺(豊山派)がある。

 穂積老は祖神である物部神社の小祠を建てて、朝夕に無事生還を祈り続けた。その間の心境を、佐渡配流の時に通過した近江国の志賀の唐崎へ再び戻りたいと詠んだのが、この歌である。

 穂積朝臣老はその後 天平十二年(七四〇)に赦され、再び志賀の唐崎を通って無事 都への帰還を果たし、大蔵大輔に任命されて、正五位上に進み、天平勝宝元年(七四九)八月二十六日に没した。

 なお、物部神社は式内社である。

新潟県佐渡市畑野小倉乙七〇四番地 物部神社 宮司 加東瑞穂 構文
平成二十九年十二月吉日 加藤チヨイ奉納

拝殿内の案内板より

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・〈境内向かって右手〉参集所

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・西参道・両部鳥居

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・神橋

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・南参道・石鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承

物部天神と称しています 神位 従五位下を奉記されています

【抜粋意訳】

延暦十年(七九一)九月甲子〈六〉

○甲子

に 佐渡国 物部天神 従五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『続日本紀』延暦16年(797)選者:菅野真道 写本 慶長19年[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000045548&ID=M2014100619504988793&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)佐渡國 9座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)雑太郡 5座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 物部神社
[ふ り が な ]もののへの かみのやしろ
[Old Shrine name]Mononohe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載 「物部神社」の名称を持つ式内社の論社について

太古の大和朝廷では 物部氏は 神道を奉じ軍事を司る氏族として「八十物部(やそのもののべ)」と云われ 絶大な勢力を保持していました
その後 神道を奉じる物部氏の宗家〈物部守屋大連〉は 仏教を信奉する蘇我氏〈蘇我馬子 大臣〉と戦い敗れ〈用命天皇2年(587)〉 物部氏は徐々に衰退をして行く事になります

『延喜式(Engishiki)』(927年12月編纂)の時代となっても かつての物部氏の勢力の大きさを示すように 広範囲に物部の神社は分布しています

東海道

「伊勢國 飯高郡 物部神社」 

・伊勢寺神社(松阪市伊勢寺町)〈合祀〉

「伊勢國 壹志郡 物部神社」 

・物部神社(津市新家町)〈山辺の行宮〉

「尾張國 春日部郡 物部神社」 

・味美白山神社(春日井市二子町)〈合祀〉

・味美二子山古墳(春日井市二子町)〈旧鎮座地〉 

・諸大明神社(春日井市松本町)

・八所神社(豊山町豊場木戸)

「尾張國 愛智郡 物部神社」 

・物部神社(名古屋市東区筒井)

・御器所八幡宮(名古屋市昭和区)

「甲斐國 山梨郡 物部神社」 

・物部神社(笛吹市石和町)

・御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉

・大石神社(山梨市西)

・大石神社(甲州市塩山赤尾)

・白山建岡神社(山梨市上栗原)

「武蔵國 入間郡 物部天神社」 

・北野天神社(所沢市小手指元町) 

一緒に読む
北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉

北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました

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東山道

「美濃國 厚見郡 物部神社」 

・伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)

・伊奈波神社 旧跡(岐阜市赤ケ洞)

・岩戸八幡神社(岐阜市長森岩戸)

・岩戸神社(岐阜市長森岩戸)〈参考論社〉

北陸道

「越中國 射水郡 物部神社」 

・物部神社(高岡市東海老坂)

「越後國 頸城郡 物部神社」 

・物部神社(上越市清里区)

一緒に読む
物部神社(上越市清里区南田中)〈延喜式内社 物部神社(もののへの かみのやしろ)〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社「越後國 頸城郡 物部神社」です かつては 武士(もののふ)村に鎮座し 山王権現〈日吉神〉と呼ばれていました その後 田中村新田に遷座 昭和46年4月 圃場整備事業のため現在地〈南田中〉に遷座しました

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「越後國 三嶋郡 物部神社」 

・二田物部神社(柏崎市西山町)

「佐渡國 雑太郡 物部神社」 

・物部神社(佐渡市小倉)

一緒に読む
物部神社(佐渡市小倉)〈『續日本紀』物部天神・延喜式内社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が養老二年(722)佐渡配流の謫居二十年の間 小祠に物部氏の祖神゛宇麻志麻治命゛を祀り 祈り続けたと云う 『續日本紀』〈延暦10年(791)物部天神 従五位下〉と神位の奉叙が記されている 延喜式内社 佐渡國 雑太郡 物部神社(もののべのかみのやしろ)です

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山陰道

「丹後國 與謝郡 物部神社」 

・物部神社(与謝野町石川)

一緒に読む
物部神社(与謝野町石川物部)〈延喜式内社 物部神社〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 『朝野群載』承暦四年(1080)に 御卜〈天皇の身体を亀甲で卜い 卜兆に現れたところを奏上する儀式〉にて゛丹後國 物部神の神祟あるを以て社司に中祓を科す゛と記されており 神威ある神社でした 延喜式内社 丹後國 與謝郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)です

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「但馬國 城崎郡 物部神社」 

・韓國神社(豊岡市城崎町)

「石見國 安濃郡 物部神社」 

・物部神社(大田市)石見国一之宮

一緒に読む
物部神社(大田市)〈延喜式内社・石見國一之宮〉

物部神社(もののべじんじゃ)は 大和朝廷が出雲の勢力を牽制するために 御祭神の宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が 大和の地から物部氏の一族をひきいて尾張・美濃・越国を平定され さらに播磨・丹波を経て石見国に入り この地に宮居を築かれ 祖神として祀られたものと伝わります

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山陽道

「播磨國 明石郡 物部神社」 

・可美真手命神社(押部谷町細田)

・惣社(神戸市西区伊川谷町)

西海道

「壱岐島 石田郡 物部布都神社」 

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉

一緒に読む
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

佐渡 両津港 佐渡汽船ターミナルから南へ約18.9km 車25~30分程度

西参道から向かうと 朱色の両部鳥居が建ちます 

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物部神社(佐渡市小倉)に参着

先ずは正面の社頭へと進みます 西参道と表参道の交わるところが社頭になります

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社頭には 由緒書きがあります

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式内縣社 物部神社〈大正七年十一月〉と刻字された社号標 石鳥居が建ちます

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鳥居をくぐると狛犬 石灯籠 御神橋があり 橋を渡ると少し高い位置に境内があり 社殿が建てられています

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御神橋を渡ります

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石段を上がり

拝殿にすすみます

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賽銭箱の先に 物部神社の創建者である万葉歌人 穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)歌碑 について 説明書きが置かれています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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石見國一之宮 物部神社の御神紋「ひおい鶴」と同じであるならば 鶴の背後の丸は 朱色のハズです

石見國一之宮 物部神社の御神紋「ひおい鶴」

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拝殿の奥には幣殿 本殿の覆い屋が一体となっています

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その左手には  佐渡代官 藤沼源左衛門を祭神とする境内社 藤源神社があり お詣りをします

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藤源神社の西側には 西参道の鳥居があります

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社殿に一礼をして境内から 表参道へと戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛小倉村に在す、゛〈現 物部神社(佐渡市小倉)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

物部は 毛乃々倍と訓べし

〇祭神 宇麻志麻治命 〔舊説〕

〇小倉村に在す、〔略風土記〕
例祭 八月五日、

類社
 伊勢國飯高郡 物部神社の條 見合すべし

神位
 續日本紀、延曆十年九月甲子、叙に佐渡國物部天神從五位下、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 物部神社について 所在は゛今 小倉村にあり、゛〈現 物部神社(佐渡市小倉)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部(モノベノ)神社

今 小倉村にあり、〔佐渡風土記、神明帳考、〕〔〇按 舊事本紀、疋田物部あり、今 本社と引田部神社と並挙たるは、由縁あるに似て考に備ふ、

桓武天皇 延暦十年九月甲子、物部天神に從五位下を授く、〔續日本紀〕

凡 八月五日を例祭とす、〔神社覈録

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 物部神社について 所在は゛小倉村(佐渡郡畑野村大字小倉)゛〈現 物部神社(佐渡市小倉)〉と記しています

【抜粋意訳】

物部神社

祭神 宇麻志麻治命

神位 桓武天皇 延暦十年九月甲子、物部天神に從五位下

祭日 八月五日
社格 郷社

所在 小倉村(佐渡郡畑野村大字小倉)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

物部神社(佐渡市小倉) (hai)」(90度のお辞儀)

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佐渡国 式内社 9座(並小)について に戻る

一緒に読む
佐渡國(さどのくに)の 式内社 9座(並小)について

佐渡国(さどのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社の一覧表です 佐渡国には 9座(並小)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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  • B!

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています