実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

溝谷神社(みぞたにじんじゃ)は 社伝には 四道将軍の丹波道主命が神夢を受け 山麓の水口に新宮を建て天下泰平を祈念 この水の流れるところを溝谷と云う その子 大矢田宿禰〈神功皇后に使えた新羅の鎮守将軍〉が 帰朝の無事を素戔嗚尊の神徳に願い 帰朝後に新羅大明神として祀ったと云う 相殿には〈相殿 船木奈具神社〉を祀ります

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

溝谷神社(Mizotani shrine)〈相殿 船木奈具神社〉

通称名(Common name)

・新羅大明神(しんらだいみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市弥栄町溝谷フキノオカ46-2

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》新羅大明神(しらぎだいみょうじん)須佐之男命
   奈具大明神(なぐじんみょうじん)〈豊受気能比
   天照大神(あまてらすおほかみ)

 《相殿》船木奈具神社
《主》豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

溝谷神社 航海の安全を祈願

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『丹波・丹後』〈大正14年(1925)に記される内容

【抜粋意訳】

溝谷神社

祭神(三)素戔鳴尊(七)相殿に奈具神を配祀す。(五)須佐之男命

祭日 九月十七日
社格 村社

所在(一)(二)(七)溝谷村(三)(六)(八)谷村外村(四)丹波郡溝谷庄外村(五)外村字ひつい (竹野郡溝谷村大字溝谷)

【原文参照】

太田亮 著『丹波・丹後』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/982140

【由  (History)】

『丹後史料叢書』第5輯〈昭和2年(1927)〉に記される内容

式内社 奈具神社の比定についての 争いがあったことが詳細に語られています

【抜粋意訳】

奈具神社

〇【丹後國風土記】云 豊宇賀能賣命也

〇【諸社一覽】  今稱に天避社 〔加佐郡奈具社條下可見合〕丹波郷にあり丹後風土記云々 後到に竹野郡船木里云々 吾心奈具志久云々 竟留に居此處 因建社祭之所謂竹野奈具社坐 豊宇氣姫神也〔【和爾雅】同在竹野郡宇賀乃咩命〕

〇加佐郡に同名社あり 田志の奈具神社の事そこに記せり 田志なるは いづれのをいへる歟 田邊段を以て考ふべし

【豊】同上 竹野郡外村溝谷村よりの願書に 奈具神社 舟木村ヘ遷座に相成候得 共從來の氏子にて累代神恩を蒙り靈能難忘云々とみえ 嘉吉年中 大水の節 奈具村七村 其後 奈具神社は溝谷神社ヘ合殿相成 奈具村遺民十二戶は溝谷村十一戶は外村に流寓致シ候より 奈具村永く廢し申候 それ故 右奈具村の遺民子孫 申傳ヘ今に至て懷舊の情にたへず 尙更 奈具神社を敬慕罷在候由の處 明治六年 奈具神社 舟木村ヘ遷座相成 當時廿三戶の者 氏神無之に付遣憾の餘 今般別記差出候義に御座候

【道】船木村 奈具大明神と云 古事記云 神八井耳命者 伊勢船木直祖云々 丹波氷上郡船木郷あり

【式考】 此社は 舊奈具村にありしを 嘉吉年中 大洪水にて村家流廃後より 明浩六年三月まで外村鎭座の溝谷神社相殿にましして 此三月に舟木村へ遷座なりしは 私慾の爭より起りしにて歎 はじきこと也
 風土記に後老夫婦等謂天女日汝非吾兒暫借住耳宜早出去於是天女仰天哭悔俯地哀吟云々途去而至荒盤村云々亦至丹波里哭木村云。復至竹野郡船木里奈具村謂村人等日此處我心奈具志ス〔古事記平善者曰奈具志〕乃留居此村斯所謂竹野郡奈具社坐鬱宇賀能賣命也とありて
 奈具村に鎭まして 嘉吉年間の洪水にて田畑民屋多分流失て 残民廿三戸 外村と溝谷村と両村に散居し 又 奈具神社の靈璽も外村鎭座の溝谷神社に相殿に合祀り崇敬したるなり 扨て溝谷神社は 外村溝谷村等樂寺村舟木村の產土神なるを 天保三より爭起り 九年に訴ヘとなれり 其原由は両社の用費を舟木に出さしめ 氏子一般に其費出しながら 溝谷村とは宮本村也 舟木は山を隔てたる村にて客分同樣に取扱を受け 祭禮の出席は末席なるを窃に憤り費用を出さず 氏子をも分離せんと巧み 奈具神社遙拜所を設置〔百三十年許に舟木村の森野弥右衛門の発起なり〕
 天保三年 始て祭禮を行ひ 溝谷神社には勤めざりしにより事起り 天保九年に出訴となりし也 されど久美濱 山本甚左衛門より取調の上 堤村庄屋等を申付和談いたさせ候時 舟木村より産土神 外村社の祭禮古格相守るべきこと 相殿 奈具明神の神威を敬ひ 聊か輕忽に心得間敷事とる取替狀の一札にて 式內奈具神社は外村の溝谷神社の相殿に坐せしに疑なし〔外村神主の申立に奈具明神の儀は 往古 奈具村より引移し候 趣にて無木村なるは舊記證跡もなき由とあり〕
 さて天保九年より事も起らざりしに 王政新に舟木村は久美濱代官所なり 外村は宮津の私領なり 自然と威勢は舟木にあり 且つ郷長もありて 官員に手曼もあり 舟木を可きに申上によりて 神祇省より指令にて 明治六年三月舟木村の方勝となり 溝谷神社にありし靈石を引渡すべき由の沙汰あり 幽冥にます神は如何思しめすらん
 風土記至竹野郡舟木里奈具村とあるにつき 今の舟木村ぞ此奮跡なりと 種々杜撰の説を上申せしとみゆ 舟木里とは此邊總ての大名にて 舟木ばかりを云にあらず しかも船木里奈具村と村名も判然たり 奈具村の流出せしも 世人の知る所なり 又 溝谷神社相殿にまししも 普く人の知る所なり 然るに明治六年神祇省の沙汰文に船木村鎭座奈具神社の靈石同村ヘ還すべきもの也とありて いかにも其意を得がたき文なるを熟考るに舟木村より 悪るだくみに虚説を申上し故なるべし
 吉岡徳明曰 これに付 外村溝谷の両村にすめる元奈具村の人民 甚だ歎悲して止まず 評曰 外村の社費を出さしむるを厭はしくは舟木村に分社して 奈具神社を祭らんことを朝許あらば何かあらん 然るを舊奈具村鎭座の神社まで 其村の人民 外村溝谷村 両村に現在せるを 船木村一村の社の如く強て 神社の靈石を遷すは 何事ぞや 既に神慮に叶はざりけん 靈石を遷せし時 大風雨にて衆人恐怖をなせりと聞けりなれど廳命にて引移せし靈石は 引戾すこと難くとも 奈具神社の神體は 尙溝谷神社に殘れる由なれば 式內奈具神社の本社は 今も外村の溝谷神社と定むべき也といはれたり
 美能理云 明治六年の沙汰文に 溝谷神社合殿と定めて 舟本村は式外の奈具神社と見なしても條理は立に似たれども これは世人は許さず 且つ心も すまざれば式內奈具神社は 外村鎭座溝谷神社の相殿なりと御指令ありたし

溝谷神社

〇但馬國 水谷神社

〇在溝谷村

】溝谷庄外村
【明細】丹波郡外村 祭日九月十七日

【豊】竹野郡外村 祭神スサノヲ尊 祭日同上

【式考】同上 中古より新羅明神と云 丹後舊事記に牛頭天王 新羅國より帰朝を祭りて如號と見えたり 外村溝谷村等樂寺村舟本村四村の氏神なり

【原文参照】

『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358

『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈境内社〉

・大宇加神社《主》大宇加命、丹波道主命、大宮売命、奥津彦神、奥津姫命、天香山命
・柵機神社《主》柵機姫命、火産霊神
・市杵島神社《主》市杵島姫命
・布津主神社《主》布津主命

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉は 本殿と相殿が それぞれ延喜式内社の論社となっています

相殿 船木奈具神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)竹野郡 14座(大1座・小13座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 奈具神社
[ふ り が な ]なくの かみのやしろ
[Old Shrine name]Naku no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

②本殿 溝谷神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)竹野郡 14座(大1座・小13座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 溝谷神社
[ふ り が な ]みそたにの かみのやしろ
[Old Shrine name]Misotani no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

出雲国風土記和銅6年(713)の伝承にある「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみことの伝承について

出雲風土記大原郡  船岡山(funaoka yama) 記される伝承

『出雲国風土記』の伝承に「阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が山になったので「船岡」という」とあります

【抜粋意訳】

『 船岡山(funaoka yama)

郡家の東北16里の所にあります

阿波枳閉委奈佐比古命(awa kihe wanasa hiko no mikoto)が 曳いてこられて据えられた船が この山です だから 船岡といいます 』

原文参照

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲國風土記』https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『出雲国風土記』大原郡不在神祇官社船林社 (ふなはやし) (funahayashi no) yashiroの論社

・船林神社

一緒に読む
船林神社(雲南市大東町北村)〈船林社『出雲國風土記733 AD.』不在神祇官社〉

船林神社(ふなばやしじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「船林社(ふなはやし)のやしろ」の論社で 『出雲国風土記』には 鎮座する「船岡山」について 「阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)が 曳いてきて据えた船が 山になったので「船岡」という」伝承が記されます

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・貴船神社

一緒に読む
舩林神社・貴船神社(雲南市加茂町南加茂)〈船林社『出雲國風土記』不在神祇官社〉

舩林神社・貴船神社(ふなばやしじんじゃ・きふねじんじゃ)は 拝殿の扁額には「貴舩神社」と記されています 『出雲神社巡拝記(1833)』には゛南加茂村 貴船大明神は風土記に云 船岡山の麓にあり゛とし 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 不在神祇官社「船林社(ふなはやし)のやしろ」の論社としています

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船林社の祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへ わなさひこのみことについて

この「阿波(awa)」「和奈佐(wanasa)」の文字などから

『延喜式神名帳』の阿波国(awa no kuni)那賀郡に所載の社「和奈佐意富神社(wanasa ohoso no kamino yashiro)」があり この社との関連性が云われています

阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)の音をたどれば 阿波(あわ)来(き)辺(へ)委奈佐比古命 となります

阿波の辺〈海辺〉から来た委奈佐比古命 の意味でしょうか

延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の4つの論社

①和奈佐意富曽神社 徳島県海部郡海陽町大里松原32

《主》神功皇后(じんぐうこうこう)

諸説あります
『大日本史』《主》大麻比古神
『特撰神名牒』《主》大麻神
『式社略考』《主》〈和奈はワナとして〉鳥獣を取ることに長けた人々の祖神
『名神序頌』《主》日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)からオフスノ命・大碓命〈日本武尊の兄〉
『阿波志』《主》和奈佐居父祖として日本武尊
『下灘郷土讀本』《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命
『海部郡誌』《主》息長足姫命

一緒に読む
和奈佐意冨曽神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉

和奈佐意冨曽神社(わなさおうそじんじゃ)は 旧鎮座地の鞆浦の大宮山から 慶長九年(1605)大里松原の地〈本宮〉大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)に遷座し 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)の神名を伝えるため 明治時代に里人によって 八幡神社から中宮として遷座したものです

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➁大里八幡神社 徳島県海部郡海陽町大里松原1

《主》天照皇大神・誉田別命・天児屋根命

一緒に読む
大里八幡神社(海部郡海陽町大里松原)〈延喜式内社〉

大里八幡神社(おおさとはちまんじんじゃ)は 日本の「白砂青松百選」に選ばれた全長4kmにも及ぶ大里松原海岸に鎮座します 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)で 旧鎮座地は 鞆浦の大宮山で 慶長九年(1604)大里松原海岸に遷座し 明治時代まで鎮座したと伝わります

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➂蛭子神社 徳島県那賀郡那賀町和食町

《主》蛭子大神・天照皇大神・素盞嗚神

一緒に読む
蛭子神社(那賀郡那賀町和食字町)〈延喜式内社論社〉

蛭子神社(ひるこじんじゃ)は 御創立は古く不詳であるが 太龍寺縁起によれば「天長二年空海奉遷宮」とあり また延喜式神名帳に所載の阿波國 那賀郡 和奈佐意富曽神社(わなさ おふその かみのやしろ)は当社であるという伝承があります 鎮座地名は゛和食(わじき)゛古くは゛鷲敷社(わじきのやしろ)゛と呼ばれたと伝わります

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④羽浦神社に合祀された 和奈佐意富曾神社 徳島県阿南市羽ノ浦町中庄千田池32

《主》和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命

一緒に読む
羽浦神社(阿南市羽ノ浦町中庄千田池)〈二つの式内社・和耶神社・和奈佐意富曽神社〉

羽浦神社(はうらじんじゃ)は 明治四十三年(1890)阿波國 那賀郡の延喜式内社の二つの論社〈・和耶神社(わやの かみのやしろ)・和奈佐意富曽神社(わなさおふその かみのやしろ)〉を含んだ 旧中庄村 旧宮倉村に祀られていた23社の神社が合祀されました この時 村社 八幡神社から羽浦神社と改称し 式内論社となりました

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この4社の中で

④羽浦神社に合祀された(徳島県阿南市羽ノ浦町)和奈佐意富曾神社が 同一名の御祭神「和奈佐毘古命(wanasa hiko no mikoto)」を祀っています

同一名と云うのは 江戸期の『雲陽志(unyo shi)』よれば
船林神社(funabayashi jinja)の御祭神を「委奈佐比古命(wanasa hiko no mikoto)」としています

こうした際の留意点として 御祭神についての考証も より古い伝承から順にたどり観ていくようにすると見方も変わります

延喜式の成立は 927AD.であり 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』は733 AD.です
より古い出雲 風土記の伝承から追ってみます

古代出雲に「粟の耕作」の神が坐ます

これを奉じる里人の移住とともに この神が 出雲から 丹後へ 由良川を上り 加古川を下り そこから志染へ そして播磨から阿波へ 移られていくことは想像に難くありません

阿波の西海岸沿いには この神の他にも 出雲族の神々が 多く祀られています

出雲の人々が そこから紀伊半島 そして尾張へと さらに太平洋岸を東に移動して行ったのだとすると様々な事象と符合していくでしょう

但し 阿波の人々は 阿波が日本の発祥の地としていますので これとは逆説になります

出雲から阿波に至る道筋には 阿波枳閉委奈佐比古命(あわ きへ わなさひこのみこと)に関する 伝承が 風土記に記されています

丹後國風土記 逸文奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)゛の伝承

「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が 天女を欺いた話が記されています

【抜粋意訳】

丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社

丹後国風土記に云う

丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る

此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る

此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた

密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た

ここに老夫が 天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」
天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」
これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」
天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」
老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだ

ここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う

この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」
天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った

天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)らに曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った

「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」

遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う

また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です

【原文参照】

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

栗田寛 纂訂『古風土記逸文』上,大日本図書,1898. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/993824

天女が酒を造ったという伝承が残る 多久神社について

詳しくは別記事を参照ください

延喜式内社 丹後國 丹波郡 多久神社(たくの かみのやしろ)

・多久神社(京丹後市峰山町丹波)

一緒に読む
多久神社(京丹後市峰山町丹波小字涌田山)〈延喜式内社〉

多久神社(たくじんじゃ)は 『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に「天女よく酒を噛み造り その酒を一杯(ひとつき)飲めばすべての病が治る」「その酒を村人に分け与えると皆が吉兆の恵みとおかげを授かる」とある言い伝えに由来する神社です 社記に「いつも祭に酒を置いて縁起を祝う云々」と伝わり 後世に天酒大明神と称されています

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延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について

奈具社は現在 船木奈具に鎮座します その旧鎮座地は奈具村で 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって全村流失した〈遺跡地は未詳と伝えられ 奈具社祭神は 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)に移され 谷神社相殿 船木奈具神社が遷座されました
船木村が 天保三年 (1832)式内号 霊石〈靈爾〉の返還を求め 明治六年 (1873)返還命令が出され 奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)は 霊石を奉り現在地に再建されたものです

船木奈具神社の御神体は 現在も谷神社相殿に鎮座しています

・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)

一緒に読む
奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)〈播磨國風土記所載社・延喜式内社〉

奈具神社(なぐじんじゃ)は 嘉吉三年(1443)旧鎮座地 奈具村が大洪水により流失〈遺跡地は未詳〉した時 船木奈具神社は溝谷神社の相殿に遷座しました 天保三年(1832)船木村が霊石の返還を求め 返還命令が出され 明治六年(1873)延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)として再建されたものです

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・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

一緒に読む
溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉

溝谷神社(みぞたにじんじゃ)は 社伝には 四道将軍の丹波道主命が神夢を受け 山麓の水口に新宮を建て天下泰平を祈念 この水の流れるところを溝谷と云う その子 大矢田宿禰〈神功皇后に使えた新羅の鎮守将軍〉が 帰朝の無事を素戔嗚尊の神徳に願い 帰朝後に新羅大明神として祀ったと云う 相殿には〈相殿 船木奈具神社〉を祀ります

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延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社

・奈具神社(宮津市由良)

一緒に読む
奈具神社(宮津市由良宮ノ上)〈豊宇賀賣命を祀る延喜式内社〉

奈具神社(なぐじんじゃ)は 『丹後国風土記』にある天女の言葉「ここに来て わが心 奈具志久(なぐしく)なれり」とある この心が奈具(なぐ〈なごむ〉)が由来です 丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社゛が所載されますが 当社は 延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)です

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・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)

一緒に読む
八幡神社〈八幡大神市姫神社〉(舞鶴市市場)〈延喜式内社の論社〉

八幡大神市姫神社(はちまんおおかみ いちひめじんじゃ)は 古老の口伝には 創立の年代等不詳だが 白糸浜は北海鎮護の要港で 往昔 厳島より市杵姫大神 白糸浜の御碕に鎮座され 海鎮明神と尊称された 中世 市杵姫大神の御神託により 宇佐八幡大神を合殿に奉祀して いつしか諸人は 八幡神社と称するようになったと云う

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『播磨國風土記(Harimanokuni Fudoki)〈和銅6年(713年)〉』に記される゛阿波国の和那散(わなさ)゛の伝承

播磨国風土記美嚢郡の段に 履中天皇が 阿波国の和那散(わなさ)で食した信深貝(しじみがい)を見て 志深里(しじみのさと)と名付けたと記されています

【抜粋意訳】

美囊郡(みなぎのこほり)

 美囊(みなぎ)と号する所以 昔 大兄 伊射報和氣命〈履中天皇〉が 国境の時 志深里(しじみのさと)に到り 許曽社(こそのやしろ)で勅した「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 故に美囊(みなぎ)郡と号する

志深里(しじみのさと)土中中

 志深(しじみ)と号する所以 伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に  勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」 故に志深里(しじみ)と号する

【原文参照】

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

『播磨国風土記』,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2538170

延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)

志深里(しじみのさと)に鎮座する 式内論社

・御坂神社(三木市志染町御坂)

一緒に読む
御坂神社(三木市志染町御坂)〈播磨国風土記 三坂社の神・延喜式内社 御坂神社〉

御坂社(みさかしゃ)は 『播磨国風土記』「この土地の水流(みなが)は 甚だ美しい」と 履中天皇が許曽社で勅した故に美囊(みなぎ)となり 阿波国の和那散で食した信深貝(しじみがい)を見た故に 志深(しじみ)里となり 三坂社の神が坐すと記される 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の有力な論社です

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道宮豊線 峰山駅からR482号を竹野川に沿って北上 約6.4km 車で11分程度

参拝日は4月7日で 時間は19時頃 ですから すっかり陽は落ちて 辺りは真っ暗です

車のヘッドライトに参道入口の社号標を照らして 撮影しました

織田信長が 社殿を再興し 家臣の明智光秀が寄進したと言い伝えのある石灯篭があるとのこと

溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉に参着

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石段を上がると鳥居が建ちます

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石段を上がると 平地になり 石灯籠 鳥居 その先に神門が構えています

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神門は 一段高い境内地にあります

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神門の前に構えている狛犬は かなり古そうでした

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神門をくぐり抜けると 広い境内があり 右手には境内社〈複数〉と石灯籠〈社伝では明智光秀奉納と言い伝える石灯籠〉がありました

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目の前には 社殿に通じている かなり長い石段があります

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長い石段を上がると すぐ目の前に拝殿があり

拝殿にすすみます

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拝殿のすぐ後ろに 覆い屋の内に 本殿が祀られています

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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写真はかろうじて撮れていますが 真っ暗です

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社殿に一礼をして石段を戻ります

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帰りによく見ると 神門には 鈴尾もあり 割拝殿の役割も果たしていたようです

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ここから見た社殿になります

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神門を抜けて 参道に出ると 街明かりもあり 少し明るくなって一安心しました

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桜の花が満開でした

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 奈具神社について 所在は゛船木庄奈具村に在す゛〈現 奈具神社京丹後市弥栄町船木小字奈具〉と記しています

式内社 溝谷神社について 所在は゛溝谷庄外村に在す゛〈現 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

奈具神社

奈具は假字也

〇祭神 豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)〔舊事記〕

〇船木庄奈具村に在す〔舊事記〕

〇鎭坐本記云、和久産巢日神子 豊宇賀能賣命、丹波國竹野郡 奈具神社是也、

〇丹後國風土記云、〔元々集所引〕比沼山頂有井、其名・・・
※〈丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社の条が記されています

溝谷神社

溝谷は 美曾多爾と訓べし

〇素戔嗚尊

溝谷庄外村に在す〔舊事記〕

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 奈具神社について 所在は゛舊船木庄奈具村にありしを 後 外村 溝谷明神の相殿に合祭る゛〈現 奈具神社京丹後市弥栄町船木小字奈具にあったが 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉〉と記しています

式内社 溝谷神社について 所在は゛丹波郡 溝谷庄 外村にあり゛〈現 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

奈具(ナグノ)神社

舊船木庄奈具村にありしを 後 外村 溝谷明神の相殿に合祭る〔神社覈録、丹後國式社考、
〔〇按 嘉吉中 洪水に因りて、奈具七村 流亡せるを以て、神体を外村 溝谷社に移し、波村の民は外村二村に流寓せる事、世人の遍々知る所なり、附て考に備ふ、〕

豊宇賀能賣命を祀る〔〇按 神名秘書、鎮座本紀並云、此神は伊弉諾尊の子 和久産巢日神の子也、然れども古事記を考ふるに、和久産巢日神の子 豊宇氣昆賣神ありて、豊宇賀能賣命と云ふはみえず、恐らくは同神にあらざるべし、姑附て考を俟つ〕

昔 豊宇賀能賣命 丹波國に天降り坐て、竹野郡 船木里 奈具村に至り給時、吾心奈具志久なりぬと詔て、此の村に留まり坐き、〔仙覚萬葉鈔、元々集引丹後風土記〕

此の神 又よく酒を醸り給ひき、今 伊勢山田原 酒殿に坐神 即是也、〔丹後風土記、神名秘書、鎮座本紀〕

溝谷(ミゾタニノ)神社

今 丹波郡 溝谷庄 外村にあり、

凡 九月十七日を例祭とす、〔神社覈録、神社明細帳

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 奈具神社について 所在は゛此社を舟木村に在として 嘉吉年間山崩れの時 神體を外村なる溝谷神谷 新羅明神に合祀と云り゛と記し 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって奈具全村流失し 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉〉に合祀されたが その後 外村と舟木村で 産土神の所在について 争いが絶えなかったことが詳細に記されています 明治維新によって〈現 奈具神社京丹後市弥栄町船木小字奈具に遷座した と記しています

式内社 溝谷神社について 所在は゛外村〔字ひつい〕(竹野郡溝谷村大字溝谷)゛〈現 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〉と記しています

【抜粋意訳】

奈具(ナグノ)神社

祭神 豊宇賀之賣命

 今按 丹後國風土記に〔此神のことを云ひて〕至に竹野郡 船木ノ里奈具村 卽謂に村人等云 此ノ處に來て我心成りぬに奈具志久(ナグシク)〔古事に平善なる者を云に奈具志久〕乃留居に此村 斯所謂 竹野郡奈具社に坐す豊宇賀能賣ノ命也
また鎭座本紀に 和久産巢日ノ神の子 豊宇賀能賣命は丹波ノ國竹野ノ郡 奈具神社是也とあるにて祭神明らか也

祭日 九月朔日
社格

所在

 今按 式社道志流倍に 此社を舟木村に在として 嘉吉年間山崩れの時 神體を外村なる溝谷神谷 新羅明神に合祀と云り 又其時 村民も同村へ引移りて 今に其子孫あり 今にては神體をば船木村に帰し祀れるならむとみえ
 豊岡縣の注進に 明治六年 奈具神社 舟木村へ遷座相成しより 當時 村二十三戸の者 氏神なく遺憾なりとて願文を差出せるまゝ之を注申せり
 仍て丹後式社考を考ふるに 此社 奮奈具村にありしを 嘉吉中 洪水に村家廃絶より 明治六年三月まで外村溝谷神社相殿にましゝを 舟木村へ遷座なりしは 私欲の爭に起れり 式社をかくの如くするは畏きこと也 此社の奈具村にますこと丹後風土記に云々〔上に引るを合考へし〕とあるが如し さて嘉吉の洪水に残民二十三戸 外村と溝谷村と両村に散居し 本社の靈璽を溝谷神 社に合祀りき 此 溝谷神社は外村 及 溝谷等樂寺舟木奈具五村の産土神なるを 天保三年より舟木村にては 祭祀の費用を出さず 氏子をも分離せんと巧み 奈具神社遙拜所を建てし 以來三村より故障を申し出訴せしが 其時 溝谷神主の申立に 本社は五村産土神の處 禮修復勤來りしを 舟木村 其義相止め修覆入用をも不受 八十年前迄は無之舟木村に奈具神社の遙拜所を同村の彌右衞門 私に拵へ 六十年以前再建し 差支に相成云々と云ひ 船木村の申立には産土神を粗略にするの心得に非ずとの事にて
 藩廳の取捌に 外村の社の相殿に祭りある奈具明神は 往古奈具村より引移したる趣の處 舟木村奈具明神の義は 舊記證跡もなき申傳斗りにて 難取用と雖もー體奈具明神は船木里一圓土地因緣の神靈なれば 古代を慕ひ祭る事と見ゆれば猥りに故障を申し信心を妨ぐるも如何なれば 双方熟和すべきとのこ とに付 産土神 外村社の祭禮古格堅く相守り可申 船木村より産土神崇敬は不及申 相殿奈具明神の神感を敬ひ 聊軽忽に心得まじき事 舟木村奈具明神も是迄の通り信仰致し 勿論 外村神主より差構無之と双方證文を取替せたるなれば 式内奈具神社は 外村の溝谷神社相殿にます事 疑なしかくて 其後事も起らざりしに 王政維新の時 舟木は久美濱代官所となり 外村は宮津の私領となりしを以て 自ら舟木に威權もあり 又郷長もあり 官史に因緣もあるより 神祇省へ上申し 舟木村の方理ありとなし 溝谷社にありし靈石を引渡すべきの令あり 文明の御代にかかる處分あるは何事ぞやと云ひ 外村溝谷二村の民 元奈具村の民 悲歎して止まずと云るが如く 風土記に舟木里奈具村と云ふ明證ある上は 宜しく改正して奈具村を式内神社と定めらるべき也 尚よく考べし

溝谷(ミゾタニノ)神社

祭神 須佐之男(スサノヲノ)命

祭日 九月十七日
社格 村社

所在 外村〔字ひつい〕(竹野郡溝谷村大字溝谷)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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一緒に読む
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について

丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています