妙見社(みょうけんしゃ)・妙見寺(みょうけんじ)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この花園里に祀られた妙見神が〈息災寺小祝明神〉です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
妙見寺(Miyokenji temple)
妙見社(Miyokenji shrine)
【通称名(Common name)】
・妙見社(みょうけんしゃ)〈息災寺小祝明神〉
【鎮座地 (Location) 】
群馬県高崎市引間町213
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》妙見様(みょうけんさま)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考〉
【創 建 (Beginning of history)】
妙見社及び妙見寺
妙見寺の草創に関しては、拠るべき史料が無い、花園星神記と言うものがあり、和同七年秋上野大掾忠明と言う人が妙見寺に来て一宿夜半目覚めて庭へ出、四方を見渡したところ、乾の方に光明が立ちのぼり、不思議に思って侍臣を遣して調べると、現在の冷水村小祝池からと判った、そこで水練に達者な者に水底をさぐらせたところ、目が赤く首の白い不思議な亀を得た。忠明は早速侍臣を遣し時の帝に献じたが帝は大変嬉ばれ和同七年九月二日年号を霊亀と改えされたと言うことになっている。
続日本記に宝亀八年八月上野国群馬郡の戸五十煙、美作国勝田郡の戸五十煙を、河内国石川郡春日村の妙見寺に朝廷より施入されたとの記録があり、当地の妙見寺が如何に由緒ある寺院であるかを證明している、この外には東国分出土の応永十七年の梵鐘や妙見社裏にある奉書写大乗妙典一千部読誦供養塔(享保十二年)の応永三年銘台石から、応永の頃非常に栄えた事、又総社長尾氏の厚い尊信と庇護を得た事などを知り得るのみである。大山美雄氏所蔵寛永十二年引間村帳末尾には尚妙見寺とあり、その後に於て一方では寺に、他方では神社として祀ったものと察せられる、現在西の建物が神社であり、東のものは寺院である事は誰もよく知るところである。天慶三年将門の乱の後、平良文は武刕村岡へ奉遷し、次に秩父の妙見様として崇敬され、鎌倉時代には平良文の子孫千葉氏により房総の各地へ或は神社に又は寺院として勧請されているのは尽く当地の妙見様なのである。最近岐阜県郡上大和村より その地の妙見社が当地より勧請されたものとして調査に来られ驚いたのである。花園の妙見寺とは昔萩が沢山植えられ萩の名所として聞えそれから名を得たものであった撰文住谷修 昭和五十二年八月 妙見寺護持会
現地案内板より
【由 緒 (History)】
妙見社殿改修工事の記
当妙見寺の創建は霊亀年間から天平年間(七一五 ~ 七三〇)頃 河内国天白山妙見寺より勧請されたと伝えられ、これが現在ほぼ定説となっている。続日本記三四巻によれば宝亀八年に上野国引間の五十烟を妙見寺に施すとある。此のように古い歴史のある妙見社はその後、 西の法淨院、南の貴法院及び現在の三鈷山 吉祥院 妙見寺の三寺院を別当寺として近隣の信仰を集めて繁栄して来た。今回改修工事を行った本殿及び拝殿は創建以来 再三の戦禍により被害を被り、ついに文化四年(一八〇七)には大火のため全焼したが、熱心な檀信徒の熱意により長い年月を経て苦難の末天保十年(一八三九)に完成したのが現在の建物である。
此のように、永い間歴史の狭間に翻弄されながら栄えてきた社殿も老朽化が進み平成十年春の大雪と秋の台風により倒木や雪なだれによる甚大な被害を受けたが、檀信徒各位の熱い復元改修の願いと、群馬町教育委員会より文化財保護事業として二百万円の多額の助成を頂戴し、今回見事に旧倍の風格無双の霊堂として復興されたのである。平成十一年七月二十日
天台宗 三鈷山 吉祥院 妙見寺
住職 第二十世 稲岡慈順 記
境内石碑より
日本三妙見・
三鈷山吉祥院妙見寺本寺は東日本における妙見信仰の発祥地となった寺院です。古くは七星山息災寺と称し、起源は不詳ですが、『続日本記』の宝亀八年(七七七)の条に当寺の創建に悶する記事があります。八代(やしろ)妙見(熊本県)、勝田妙見(岡山県)と共に「日本三妙見」(諸説あり)と伝承され、秩父妙見や千葉妙見もここから勧請されたものだと伝えられています。
本尊の妙見大菩薩は北極星と北斗七星とを神格化した菩薩で、尊星王あるいは北辰菩薩とも呼ばれます。国土を守り、災いを除き、人の福寿を増すとされ木彫の童形二腎立像、亀の上に立ちその足元に白蛇を配した姿で表されます。普段は拝観することはできませんが、年に二回、初詣と夏祭には公開されます。
本殿は天保十四年(一六四三)に再建されたもので、建物彫刻は名工長谷川源太郎(武州熊谷宿の人)の手になるものです。
現地立札より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・金刀比羅社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
霊亀元年(七一五)八月丁丑〈廿八〉の条は 霊亀が献上されたことにより年号を霊亀に改元した記事で「左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星」とあり 北斗七星〈妙見信仰〉と通じています
宝亀八年(七七七)八月癸巳〈十五〉の条は 河内妙見寺に・上野国群馬郡・美作国勝田郡よりそれぞれ50戸の封戸を施入したとあり この封戸施入が契機となって上野国にも妙見信仰の 花園妙見寺〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉が創建されたと推測されます
【抜粋意訳】
霊亀元年(七一五)八月丁丑〈廿八〉の条
○丁丑
左京人大初位下 高田首久比麻呂
献 霊亀 長七寸 闊六寸 左眼白 右眼赤 頸著三公 背負七星 前脚並有離卦 後脚並有一爻 腹下赤白両点 相次八字宝亀八年(七七七)八月癸巳〈十五〉の条
○癸巳
授 無位 坂上女王 従五位下
上野国 群馬郡戸五十煙
美作国 勝田郡五十煙捨 妙見寺
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
上野國の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉の条
○廿五日戊寅
授に
上野國
正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城沼神 伊賀保神 並に從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神 並に正五位上
勲十二等從五位上 賀茂神 美和神 並に正五位下勲十二等
正六位上 稲褁地神 從五位下勳十二等内藏寮置寮掌二員を 其の衣粮以て 藏部の料内を 給之に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野國 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)片岡郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 小祝神社
[ふ り が な ](をはふりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Wohafuri no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『上野国神名帳(kozuke no kuni jimmeicho)』〈寛政5年(1793)〉には三つの゛小祝明神゛が記されています
三ヶ所の小祝明神は
①正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉
➁従三位 息災寺小祝明神〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉
➂従四位上 小祝明神〈現 冷水 小祝神社(高崎市冷水町)〉
が記載されています
【原文参照】
上野国神名帳 上埜国捴五百七十九座
鎮守十二社 正一位 抜鉾大明神 赤城大明神 伊香保大明神 榛名大明神 甲波宿祢大明神 小祝大明神 火雷大明神・・・・・・・
【原文参照】
群馬郡百四十六座
従四位上 放光明神 小祝明神 止々呂明神 若伊香保明神・・・・・・・
【原文参照】
群馬郡西郡百六十九座
正三位 宮姫明神
従三位 大奈知明神 小奈知明神 息災寺小祝明神 尾張明神・・・・
『群馬県群馬郡誌(Gunmaken gunmagunshi)』〈大正14年(1925)〉に記される伝承
星山妙見寺址(国府村)の旧跡「大字引間の東字花園に舊址」〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉〈息災寺小祝明神〉について 記しています
【抜粋意訳】
二○。星山妙見寺址(國府村)
大字引間の東字花園に舊址を存す。相傅ふ天正九年聖武天皇の御建立にして同十八年火災に罹り焼失し後千葉氏再建すと。
續日本紀に曰く賓亀八年(光仁天皇朝)八月癸巳上野國群馬郡戸五十煙、美作國勝田郡戸五十煙捨妙見寺とありて、古は由緒正しき霊場なりしと見ゆ。
元は國府村にありしにや、後上野志に國分村より引移すと見え、其後千葉氏の信仰する處となり、下総國千葉に移せしか相馬日記に北斗山妙見寺に千葉氏が代々渇仰せし妙見菩薩立せ玉ふ、もとは上野國の花園と云ふ所より移し參らせし御佛也といへり云々とあり。
後上野志にも千葉妙見縁起に妙見大菩薩は初は上州群馬郡花園に鎮坐とありと見えたり。憶ふに千葉氏嘗て總社の地を領せしことありとの傅虎あれば或は然るやも知れず、去りながら其の移転の年代は不詳なり。(日本名蹟圖誌)
【原文参照】
『上毛花園星神縁記』〈東京都台東区 長国寺蔵本〉に記される゛小祝の信仰゛について
※長国寺蔵本『上毛花園星神縁記』は 和田山村(現・高崎市箕郷町和田山)の松本兵右衛門平常正が千葉妙見寺に奉納したもの
※『上毛花園星神縁記』は大島由紀夫『神道縁起物語(二)』(伝承文学資料集成第六輯、三弥井書店、平成十四年)に翻刻
小祝の信仰と妙見信仰との関わりについて 記されています
【抜粋意訳】
元正天皇の御宇 管領上野大掾藤原忠明卿が 花園村の乾に当たる小祝の池に北斗七星が天から降ったのを見る 池を浚わせると霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光を放つ亀〉が見つかったので 萩の花園に祠を作ってそこに置いた
その後朝廷に献上し 年号が和銅から霊亀に改元された 再び忠明卿は関東下向の勅命を蒙り 霊亀を元の池に納めた聖武天皇天平元年(七二九)三月二十二日の夜半 小祝の池が鳴動し 亀は光り輝きながら天に昇り北斗七星に入った このことが都へ伝えられ 占いの結果「あの亀は 神使いです 背中には 北斗七星の化身 妙見菩薩があり 菩薩のせて 今 天上に昇っていったのです これは 妙見堂を建立せよという神のお告げ」とあり 妙見社が建立され 七星山息災寺と号した また国分寺も建立された 本尊は七仏薬師如来
承平二年(九三二)桓武天皇の曾孫 鎮守府将軍村岡陸奥守平良文が勅命を受け 常陸大橡国香を征伐すべく 上野国群馬郡の染谷川で対戦した 良文は妙見菩薩の加護により勝利した 妙見は星の神の化身であると名乗った
良文は星の宮を里人に尋ね 相馬小次郎将門 村岡小五郎資通 陸奥権介忠頼 鎌倉中将忠光 上野介良時 栗飯原文次郎常時等の七騎で向かい 七番の小笠懸を射て奉った 良文の家臣 栗飯原文次郎は山伏姿となって息災寺に留まり 謀を以って妙見尊像一体を持ち出し 上野国平井で一宿した後 良文の領地である武蔵国藤田に社を立てて神楽を奉納した その後 鎌倉の村岡に寺を建立して妙見尊を安置し 平家千葉の守護神として祀った
良文の母が北斗七星に祈ると 七星の化身の童子が現れ 良文を授けた それゆえ良文は北斗の神の守護を受けた
武蔵国秩父の妙見は 良文の四代孫秩父三郎武基(忠常の甥)が勧請した処である 武基の父将常は兄忠常の謀叛に与して討死し 武基は佐渡に流され亡くなった 武基の嫡子武綱は本領を召し上げられて螢居していたが 妙見に祈請し 満願の夜に霊夢を見た その霊夢に従い 源義家の先陣を務めて 武衡家衡の反逆を征伐した その功によって秩父の庄を賜り 従五位下伊予守に任ぜられた
上総の仁見・植野・大椎・下総の大友・千葉郷の妙見も すべて上野国花園妙見社を移し奉ったものである その内で千葉の妙見尊は 千葉介平常重が勧請したもので 数度の合戦で御利益を被った
中でも源頼朝が安房国に逃れたとき 千葉介常胤と嫡子胤正は一族郎党率いて馳せ向かった しかし遅れて出立しようとした嫡孫成胤を千田判官親政が襲った 多勢に無勢のところを 成胤は妙見に祈ることで勝利することができた これを聞いた頼朝は大いに感じて妙見社に参詣した
堀川院の寛治七年(一〇九三)、下総の千葉常将の二男相満丸が 学問の為に上野国船尾山に登ったが 行方不明になった 寺の仕業であると恨んだ常将は兵を率いて馳せ登り 一山を焼き滅ぼした この時 息災寺妙見社等が類焼した 霊像は白雲に乗って天に帰った
天平より寛治まで 三百六十余年を経た諸堂玉殿は常将の怒りによって灰燈となった 常将の嫡子常長は父の過ちを悔い その昔忠明卿が霊亀を篭め置いた萩の花園の跡に妙見堂を再造営した 往古の広大な寺の跡は今も残っていて 大きな履石や焼崩れた布目瓦が残されている
宝暦四年(一七五四)小祝池のほとりに石祠が建立
①正一位 小祝大明神〈現 小祝神社(高崎市石原町)〉について
小祝神社(おぼりじんじゃ)は 創建は不詳ですが 大和朝廷の六国史『日本三代實録』元慶四年(880)の条に゛小祝神 正五位上゛と見え 『延喜式神名帳927 AD.』所載 上野國 片岡郡 小祝神社(をはふりの かみのやしろ)〈 上野國の式内社 上野十二社の第七社〉に比定さる古社です ご祭神は 医薬及び穀霊神 少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ります
小祝神社(高崎市石原町)
➁従三位 息災寺小祝明神〈現 引間妙見寺(高崎市引間町)〉について
〈参考〉・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉
妙見社(みょうけんしゃ)・妙見寺(みょうけんじ)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この花園里に祀られた妙見神が〈息災寺小祝明神〉です
妙見社・妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉
➂群馬県高崎市冷水町字川窪 鎮座 従四位上小祝明神について
〈参考〉・小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)
小祝様の旧跡(おぼりさまのきゅうせき)は 妙見寺縁起『花園星神記』の故事に 和銅7年(714)秋 管領が花園里に宿泊 北西の方角〈小祝池〉に北斗七星が天から降った 池から霊亀〈首が赤く甲羅が真白で金色の光明を放つ亀〉を得たので吉兆なり 時の帝(みかど)に献上し 年号が和銅から霊亀(れいき)に改元されたと伝 この小祝池の辺に祀られる石祠が 冷水 小祝神社です
小祝様の旧跡〈冷水 小祝神社〉(高崎市冷水町)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR上越線 新前橋駅から染谷川沿いに遡上〈北西へ〉約4.7km 車12分程度
染谷川の北岸 上野国分寺跡 のすぐ西隣になります
妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉に参着
石段を上がると 鉄パイプに燈籠が下がる参道を進みます
参道の正面が神社〈西側〉 右手〈東側〉が寺院です
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
屋根には 御神紋
拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています
神社〈妙見社〉の向かって右側〈東側〉には寺院〈妙見寺〉があります
寺院〈妙見寺〉のお堂の奥には 本殿があり
この本殿は 天保十四年(一六四三)に再建されたもの 建物彫刻は名工長谷川源太郎(武州熊谷宿の人)の手になるもの
こちらの方が 神社の本殿のような造りに見えます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『前橋市史 第一巻』〈昭和46年2月1日発行 前橋市〉
第一節 私寺の建立
・・・
次に『上野国神名帳』(総社本)の群馬郡之内、西郡之分に「従三位息災寺小祝明神」とある。小祝明神は『延喜式』の神名の部(神名帳)の上野国の片岡郡の項に「小祝神社」とあるので、片岡郡に存在した神社であり、片岡郡に居住の氏族の杞った神社である。
それが息災寺の鎮守として分杞されたのが、息災寺小祝明神と考えられる。
これが群馬郡の西郡にあげてあるのは、国府近くに位置していたものであろう。
国府推定地から西北三、五キロメートルのところに冷水(群馬郡群馬町)という地があるが、ここに小祝神社が現存している。「小祝」という特殊な名であり、他に例が見えないので、息災寺小祝明神の残存と見られる。したがって、息災寺は小祝明神を氏神とした氏族の氏寺であうたと見られよう。
妙見寺(高崎市引間町)〈息災寺小祝明神〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
上野国 式内社 12座(大3座・小9座)について に戻る
上野国(かみつけのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 上野国には 12座(大3座・小9座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
上野國 式内社 12座(大3座・小9座)について