宮目神社(みやめじんじゃ)は 現在は 玉敷神社の境内摂社ですが 玉敷神社がこの地に遷座(一六二〇年頃)する迄は この社地の地主神として鎮座していたとされます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
宮目神社(Miyame shrine)
〈玉敷神社 境内摂社〉
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県加須市騎西 552-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大宮能賣神(おほみやめのかみ)
※江戸時代には゛山王様゛と呼ばれていたので
『新編武蔵風土記稿』には《主》大山祇命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・安産の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
摂社 宮目神社
一. 御祭神 大宮能売神(おおみやめのかみ)
一. 由 緒 社伝によると、玉敷神社がこの地に遷座される(一六二〇年頃)迄はこの社地の地主神として鎮座していたとされ、同名の「式内社」にも比定されている歴史のある古社である。
一. 御神徳 元来、家屋を守り、その安全平和を保つ神であるが地主神という由緒から山王信仰の影響を受けて「山王様」と称され、この地の守り神として尊ばれた。また、女神であることから「子守神」=安産の神としても信仰されている。
【由 緒 (History)】
( 摂社 )宮目神社
[ 御祭神 ]大宮能売神(おおみやのめのかみ)
[ 由緒 ]
社伝によると、玉敷神社がこの地に遷座される(1620年頃)迄はこの社地の地主神として鎮座し、「式内社」にも記されている歴史のある古社である。玉敷神社公式HPより
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈宮目神社(加須市騎西は 玉敷神社の境内摂社です)〉
・玉敷神社(加須市騎西)
玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡〈現 南北両埼玉郡〉の総鎮守・騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)とされます
玉敷神社(加須市騎西)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 宮目神社
[ふ り が な ](みやめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miyame no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社について
・宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)
宮目神社(みやめじんじゃ)は 現在は 玉敷神社の境内摂社ですが 玉敷神社がこの地に遷座(一六二〇年頃)する迄は この社地の地主神として鎮座していたとされます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社です
宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)
・高城神社(熊谷市高本)
高城神社(たかぎじんじゃ)は 二つの式内社の論社となっています 一つは 武蔵国 大里郡 髙城神社(たかきの かみのやしろ)とされ 又 別称を御霊の宮(ごれいのみや)と呼ばれ ここから武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされています 昭和45年に和田吉野川の河川改修に際して 現在地〈最初の鎮座地〉に遷座しました
髙城神社(熊谷市高本)
・姫宮神社(宮代町姫宮)
姫宮神社(ひめみやじんじゃ)は 社伝では 桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際 突然の病で亡くなったことを 後に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)がこの話を聞き 姫の霊を祀ったのが始まりと伝わり 又 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社ともされます
姫宮神社(宮代町姫宮)
・神明神社(菖蒲町上栢間)
神明神社(しんめいじんじゃ)は 社伝には 創建は第12代 景行天皇の御代〈71~130年頃〉と伝わり 江戸時代には栢間村を含めた5ヶ村(戸ヶ崎村・三箇村・新堀村・小林村)の総鎮守として厚い信仰を集めていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 宮目神社(みやめの かみのやしろ)の論社でもあります
神明神社(久喜市菖蒲町上栢間)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武伊勢崎線 加須駅から南西へ県道151号と旧国道122号を経由して約4kn 車10分程度 で玉敷神社に到着します
〈宮目神社(加須市騎西は 玉敷神社の境内摂社です)〉
・玉敷神社(加須市騎西)
玉敷神社(たましきじんじゃ)は かつては久伊豆大明神と呼ばれ元荒川流滅に数多く所在する久伊豆神社の本社的存在で 埼玉郡〈現 南北両埼玉郡〉の総鎮守・騎西領四十八箇村の総氏神として尊崇されていました 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)とされます
玉敷神社(加須市騎西)
玉敷神社配布の境内図をご覧ください
玉敷神社の本殿に向かって右奥 鳥居のある境内社になります
宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)に参着
一礼して鳥居をくぐり
社殿にすすみます
社殿には゛摂社 宮目神社゛の号札と由緒書きがあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目(ミヤメノ)神社
〇大宮賣神 太玉命子也
式内社考 柏間村 神明宮なり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
宮目神社〈玉敷神社 境内摂社〉(加須市騎西)について 久伊豆神社〈現 玉敷神社〉の末社として 祭神は大山祇命となっています
姫宮神社とともに式内社の宮目神社の論社として挙げていますが 共に確証がないとも記しています
【意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百八(埼玉郡之十一)騎西領 騎西町場
久伊豆神社
當社は 騎西領中の總鎮守にして古社なり
東鑑 建久五年六月晦日於武蔵國大河戸御厨久伊豆宮神人喧嘩出来云々と見えたるは、こゝの事なるべし
又 延喜式神名帳に載る所埼玉郡四座の内玉敷神社 祭神大己貴命とありて 今何れの社たるを傳へず
岩槻城内 久伊豆神社あり 其餘郡内所々に久伊豆社と唱ふるもの多くあれど 何れもさせる古社とも想はれざれば若くは式に見え東鑑にも沙汰あるは當社ならんか されど千百年の古へを後の世より論ずれば如何にともいひがたし 久伊豆と改めしは 騎西郡内にありて騎西伊の語路相通ずれば唱へ改めしといへど 是も附會の説とをぼしく社傳等には據なし
又 神主の傳へには 當社元正能村にありしが 上杉謙信當所へ發向の時兵火に罹彼正能村より飛て根古屋村に来り慶長年中當所へ移せりと
彼根古屋は現に城のありし地にして兵火もこの城を焼んが爲なれば殊更に火中の根古屋へ飛来りしと云は無稽の説と思はる
又 當社往古は根古屋村にありて夫より正能村に移り後此地に移りしならんに正能根古屋の兩村に今も古宮蹟と呼べる除地ありて當社神主の持なる由
又 傳へに當社は宣化天皇八代の後胤從五位上木工頭丹治貞成の靈社なり 貞成の子峰成私市黨の始祖なり後略して 私の黨と唱ふ此人の弟を貞峯と云 丹治黨の始祖なり略して丹の黨と云 此二黨の子孫分れて武州に多し 其子孫の居所多く此神社を祭れりとされば峯成の父貞成を祭れりと云こと所謂あるに似たり神宝猿田彦面一春日の作と云やつれたるさま古物なることは論なけれど銘はなし
獅子面一同作と云これも銘はなけれど普通のものには非ず古物なること論なし
末社 宮目神社
祭神 大山祇命 是も式内の神社にて 昔は免田もあり 當社後背の山林畑は則其免地なりしといへど 證とすべきことなし
又 百間村姫宮神社を式内宮目神社なりとも傳ふれど 是も據はなし猶百間村姫宮神社の條合せ見るべし伊勢宮 伊勢下宮 八幡香取合社 稲荷 松尾 三峯 五光権現 牛頭天王 辨天 元宮 伊豆権現
神主河野隠岐社地の内に居れり藤原姓にして吉田家の配下なり先祖周防守より當代に至るまで十七代といへど舊記等更になければ此外のこと知るべからず
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
宮目は美夜女と訓べし
○祭神 大山咋命、(地名記)
○騎西町に在す、(同上)
例祭 月 日、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 宮目神社については 社名のみ記されています
【抜粋意訳】
宮目(みやめの)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 宮目神社の所在について 百聞村字姫宮〈現 姫宮神社(宮代町姫宮)〉として その他に2説・騎西町〈現 宮目神社〈玉敷神社 境内社〉(加須市騎西)〉と・柏間村〈現 神明神社(菖蒲町上栢間)〉を記しています
【抜粋意訳】
宮目神社
祭神 大宮賣神
今按〈今考えるに〉
注進状に祭神未詳 一説に多紀理姫命 多紀津姫命とあれど こは中古 姫宮と云より唱出たる説にて信がたけれど 大宮賣神を祭れるを後には姫神とも唱へて 遂に祭神の名を失ひ 姫宮と云より三女神と訛れるなるべし 故今訂して記せり祭日
社格 (明細帳に姫宮とあり 村社)
所在 百間村 字姫宮(南埼玉郡百間村大字百聞西原字姫宮)
今按〈今考えるに〉
一説 騎西町にあり 又 柏間村 神明宮とも云へど
騎西町なるは 祭神 大山祇命と云も疑わしく旧記等の證とすべきものなし
柏間村なるは 社地に宮原と云小名あるのみにて證あるに非ざれば信じがたし
百間村なるは 姫宮神社と云ひ土人も宮目社と云伝へ 祭神は三女神と云ひ 應永年中鰐日に太田庄南方百間姫宮と銘あるも一證とするに足れり故今之に従へり
【原文参照】
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について