神坐日向神社(みわにます ひむかい じんじゃ)は 大神神社の境外摂社です 「御子森」と呼ばれる小高い地〈大神神社の南 約250m〉に祀られています 太陽信仰とされる式内社 神坐日向神社の論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
神坐日向神社(Miwanimasu himukai shrine)
[通称名(Common name)]
日向神社(ひむかいじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市三輪123-1(奈良県桜井市三輪町字御子ノ宮 109)
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
大神神社 神主の祖神を祀ります
〈大物主神の御子神〉
《主》櫛御方命(くしみかたのみこと)
〈櫛御方命の御子神〉
《主》飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)
〈飯肩巣見命の御子神〉
《主》建甕槌命(たけみかづちのみこと)
〈建甕槌命の御子神は 大田田根子命(初代神主)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 大和国一之宮 大神神社 摂社
【創 建 (Beginning of history)】
創建年代不詳
【由 緒 (History)】
大神神社摂社 神坐日向(みわにます ひむかい)神社
御祭神
櫛御方命(くしみかたのみこと)
飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)御例祭 五月九日
(御由緒)
大神神社の御祭神 大物主大神の御子神の櫛御方命をはじめ、ご子孫の神々をお祀りします。
平安時代の『延喜式(えんぎしき)』神名帳(じんみょうちょう)にも記される古社で、御子神を祀ることから神社の古絵図に「御子宮(みこのみや)」として描かれます。社殿が神社建築では珍しく北向きとなっています。
現地立札より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
神坐日向神社(桜井市三輪)は 大和国一之宮の大神神社の摂社になります
・大神神社(桜井市三輪)
大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)上城上郡 35座(大15座・小20座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 神坐日向神社 大 月次新嘗
[ふ り が な ](みわにます ひむかひの かみのやしろ)(だいつきなめにいなめ)
[Old Shrine name](Miwanimasu Himukahi no kamino yashiro)(dai Tsukiname Niiname)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻15 内蔵寮 諸祭幣帛
大神祭(おほみわのまつり)
夏祭料
・・・・
緋帛二丈 日向王子(ひむかひみこ)の幣料盛筥一合
・・・
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の
大和国 上城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗 の所在について
諸書〈『大和志』『大和名所図会』『大和志料』『神名帳考証』『神社覈録』下段参照〉によれば
式内社 神坐日向神社は「神峰(こうのみね)に坐(ましま)す」〈三輪山の山頂に鎮座〉とされています
ここで ややこしいのは 三輪山の麓(ふもと)に在る 大神神社の宮司家・高宮氏の邸宅の隣に 高宮社(こうのみや)が祀られていた
明治維新の時に この山頂「神峰(こうのみね)に坐(ましま)す 式内社 神坐日向神社」と山麓の「高宮社(こうのみや)」が入れ替わって登録をされてしまったらしい
明治十八年(1885)九月 大神神社 松原貴遠 宮司が 日本政府〈山県有朋 内務卿〉に対して 二つ社の名称が入替り誤っていると意見書を提出しています
「摂社 神坐日向神社ト 摂社 高宮神社ト 名称 互ニ 誤謬ニ付 訂正御届」
しかし 明治政府の回答は 変更にあたらず とされ 大神神社も表面上 これを受け入れて現在に至ります
当時 明治政府としては 天照大御神〈日神〉を中心とした国家神道を統制していました
国津神を代表する「大神神社(おほみわじんじゃ)」の神体山「三輪山の山頂」に 日神が祀られるのは 色々と不都合であったとの説もあります
現在では 山頂に鎮座するのが 高宮社(こうのみや のやしろ)とされ 山麓に鎮座するのが 神坐日向神社(みわにます ひむかひの かみのやしろ)とされます
しかし 本来は 三輪山山頂の神峯(こうのみね)鎮座の高宮社が 神坐日向神社であり 三輪山山麓の神坐日向神社は 高宮社であると考えられています
従って現在 式内社 神坐日向神社の論社は 二つになります
・高宮神社(三輪山 山頂)
※禁足地 語らずの山〈三輪山〉に鎮座するの為 詳細は書けません
・高宮神社(こうのみや)
《主》日向御子神(ひむかのみこのかみ)
大神神社のご神体である「三輪山」は 太古のより 神さまの鎮まる神聖なお山とされ 禁足の山として 入山が厳しく制限されてきました
現在は 禁足地の中でも特別に登拝が許され 三輪山登拝には 摂社「狭井神社」での受付が必要〈撮影も飲食も禁止 何も持ち帰ってはならない〉
山中のことは他言無用 語らずの山であり すなわち 山中のことは おのれの御心にとどめるのみ
・神坐日向神社(桜井市三輪)
神坐日向神社(みわにます ひむかい じんじゃ)は 大神神社の境外摂社です 「御子森」と呼ばれる小高い地〈大神神社の南 約250m〉に祀られています 太陽信仰とされる式内社 神坐日向神社の論社となっています
神坐日向神社(桜井市三輪)
三輪山の東麓の地域には 元伊勢の始まりの地「檜原神社(ひばらじんじゃ)」もあり 祀られていたのは 神籬(ひもろぎ)に天照大御神〈日神〉でしたが 三輪山を向いて三つ鳥居があります
・檜原神社(桜井市三輪)
檜原神社(ひばらじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の御代 それまで皇居で祀られていた「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」を 皇女 豊鍬入姫命に託し ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷し お祀りした〈元伊勢〉とされます 式内社 大和国 城上郡 巻向坐若御魂神社(大 月次相嘗新嘗)の論社でもあります
檜原神社(桜井市三輪)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の 日向(ひむか)神社 について
一般に 日向(ひむか)とは“日に向かう”“日を迎える”“日を拝する”を意味すると云われ 太陽信仰とされます
日向神社は 日神を祭祀する社と考えられていて『延喜式神名帳』には 四社載せられています
① 山城國 宇治郡 日向神社
・日向大神宮(京都市山科区)
➁大和國添上郡 大和日向神社 鍬靫
・本宮神社(奈良市春日野町)〈春日大社 境内摂社 一般参拝不可〉
➂大和国 上城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗
・高宮神社(三輪山 山頂) ※禁足地 語らずの山〈三輪山〉に鎮座
・神坐日向神社(桜井市三輪)
神坐日向神社(みわにます ひむかい じんじゃ)は 大神神社の境外摂社です 「御子森」と呼ばれる小高い地〈大神神社の南 約250m〉に祀られています 太陽信仰とされる式内社 神坐日向神社の論社となっています
神坐日向神社(桜井市三輪)
④近江國 犬上郡 日向神社
・日向神社(多賀町多賀)〈多賀大社 境内〉
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大神神社から 山辺の道を南へ 約250m 徒歩3分程度
ちょうど 夕日が沈む頃合いに
神坐日向神社(桜井市三輪)に参着
社は南向きに建っていて 参道は西へと進みますので 眩しいほどの明るさの中 日向〈夕日に向かって〉歩むので 何故か 緊張をしました
本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』〈延喜元年(901年)成立〉に記される伝承
京畿七道の諸神276社と共に 神階の奉授が 記されています
【抜粋意訳】
第二巻 貞観元年(859)正月二十七日(甲申)の条
京畿七道の諸神に進階 及び 新叙 惣(すべて)二百六十七社なり
奉り授くに
・・・・・・神坐日向神社 巻向若御魂神・・・並びに 従五位上
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在は 三輪山の山嶺にある高宮 と記しています
【抜粋意訳】
神坐日向(みわにます ひむかひの)神社(大月次新嘗)
三実 貞観元年正月二十七日 坐に日向神 従五位上
〇 今号 三輪若宮
内職式 大神祭 夏祭料の中に 緋帛二丈 日向王子の幣料 盛筥一合
旧事記 大神君祖 天日方奇日方命
姓 氏 大物主命 櫛日方命
〇 一説 三輪山嶺に在る 今称す高宮
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
祭神を 大物主神幸魂奇魂(おほものぬしのかみ さきみたま くしみたま)とし 所在について 三輪山山嶺に在す 今 高宮と称す と記しています
【抜粋意訳】
神坐日向神社 大月次新嘗
神 は 美和と訓べし
日向は 比牟加比と讀り〇祭神 大物主神 幸魂奇魂(おほものぬしのかみ さきみたま くしみたま)
〇三輪山山嶺に在す、今 高宮と称す 大和志 大和名所図絵平宣長云、古事記に、東山とあるに依りて、この神社の日向をも、比牟加志と読べし、旧名のたまたま この神社に存(のこ)れるなり、日の出る方を東といふも、即 日向の意なり、といへり
類社
大和國 添上郡 大和日向神社 鍬靫
山城國 宇治郡、近江國 犬上郡 日向神社 各一座神位
三代実録 貞観元年正月二十七日 神坐に日向神 従五位上鎮座
古事記 神代段
大穴牟遅と少名毘古那の二神は 相並び此国を作られた 少名毘古那神は 常世に渡られてしまい 中略大国主神(おほくにぬしのかみ)は 心(こころ)憂(うれ)い言われた
「わたしは 一人で どうように この国を作ればよいだろうか
どの神と共に わたしは この国を作りましょうか」この時 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいました その神の言うには
「私を丁寧に祀りなさい わたしが あなたと共に 国を作りましょう もしそうでなければ 国が成るのは難しいでしょう」大国主神(おほくにぬしのかみ)が
「それならば どのように 祀り奉(たてまつ)ればよいでしょう」と言うと「私を 大和国(やまとのくに)を 青々と取り囲んでいる山々 その東の山上に斎(いつ)き 祀れ」と答えられた
これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神なり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
祭神について この幸魂〈大物主幸魂(おほものぬしさきみたま)〉を云るなるべし と記しています
【抜粋意訳】
神坐日向(みわにます ひむかひの)神社 大月次新嘗
祭神 大物主幸魂(おほものぬしさきみたま)
今按〈今考えるに〉
古事記 神代段に
「大穴牟遅と少名毘古那の二神は 相並び此国を作られた 少名毘古那神は 常世に渡られてしまい 中略大国主神(おほくにぬしのかみ)は 心(こころ)憂(うれ)い言われた
「わたしは 一人で どうように この国を作ればよいだろうか
どの神と共に わたしは この国を作りましょうか」この時 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいました その神の言うには
「私を丁寧に祀りなさい わたしが あなたと共に 国を作りましょう もしそうでなければ 国が成るのは難しいでしょう」大国主神(おほくにぬしのかみ)が
「それならば どのように 祀り奉(たてまつ)ればよいでしょう」と言うと「私を 大和国(やまとのくに)を 青々と取り囲んでいる山々 その東の山上に斎(いつ)き 祀れ」と答えられた
これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神なり」とあるを日本紀 神代巻に
于時、神光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此国乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」是時、大己貴神問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」大己貴神曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。」對曰「吾欲住於日本国之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之神也 と云り上に青垣東山とあるを古事記伝に この神社の日向をも、比牟加志と読べし、旧名のたまたま この神社に存(のこ)れるなり、日の出る方を東といふも、即 日向の意なり と云るが如くなるを紀に大三輪之神とあるに因りて大神大物主神社と混らはしく聞ゆれど必ず この幸魂を云るなるべし
神位 清和天皇 貞観元年正月二十七日 神坐日向神 従五位上
祭日 四月十二日
社格 大神に社 境外摂社
所在 三輪村
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
高峰社〈三輪山山頂鎮座〉を以って式内 日向社となせり と記しています
【抜粋意訳】
御子宮(みこのみや)神社
「みこのみや」にあり、西村氏旧蔵 三輪山古図には 神子宮に作れり。
延喜式神名帳に「神坐日向神社 大 月次新嘗」
延喜式内蔵寮に「大神夏祭・・緋帛二丈 日向王子の幣料 盛筥一合」とあるは当社なるべし、
元要記に「日向社 第一王子 天日方奇日方命」と見ゆ。
即ち 大物主の子 天日方命を祭れり。神子宮の称蓋しここに因れり。
但し 大神崇秘書、大神分身類社鈔には 高峰社〈三輪山山頂鎮座〉を以って式内 日向社となせり
【原文参照】
神坐日向神社(桜井市三輪)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉゛大神神社(おほみわじんじゃ)゛奈良県桜井市三輪に鎮座は 日本で最も古い神社の一つで 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)の数も非常に多く 本社域と参道の南北に分けて表示して 分かりやすいように記載しています 各々の記事をクリックすると 各神社の詳細が確認できます
大神神社(桜井市三輪)摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・別宮(べつぐう)巡り
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)