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美談神社(出雲市美談町)

美談神社(みたみじんじゃ)は かつて『出雲國風土記』に御祭神「和加布都奴志命(Waka futsunushi no mikoto)」が祀られていた「彌太彌社(Mitami no) yashiro」として所載されていました 「彌太彌社(mitami no) yashiro」は全部で13社あったと記されています 現在の美談神社は その13社全てと 他の所載の論社と合わせて 風土記所載の論社が「16社」も境内に合祀されて坐ます

ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます

まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記』
次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳』
最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています

【約1300年前】About 1300 years ago

【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.

《 美談神社(midami shrine)》

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori) 条
    神祇官社(jingikan no yashiro )

【社名】 彌太彌社

【読み】(みたみ の)やしろ
【How to read】(mitami no) yashiro

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

《合祀られる社》同[美談]社比賣遲神社

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori) 条
    神祇官社(jingikan no yashiro )

【社名】 彌太彌社

【読み】(みたみ の)やしろ
【How to read】(mitami no) yashiro

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

【約1100年前】About 1100 years ago

【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.

《 美談神社(midami shrine)》

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori)

【社名】 美談神社

【読み】(みたみの かみのやしろ)
【How to read】(mitami no kamino yashiro)

《合祀られる社》同[美談]社 比賣遲神社

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori)

【社名】 同[美談]社 比賣遲神社

【読み】(おなじきやしろ ひめちのかみのやしろ)
【How to read】(onajikiyashiro himechi no kamino yashiro)

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用

【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine

【神社名】(shrine name) 

  美談神社(mitami shrine)
  (みたみじんじゃ)

【通称名】(Common name)

【鎮座地】(location)

 島根県出雲市美談町182

【地 図】(Google Map)

【御祭神】(God’s name to pray)

《主》経津主命(futsunushi no mikoto)
   息長足姫命(okinaga tarashi hime no mikoto)
   武甕槌命(take mikazuchi no mikoto)

《合》比売遅神(himechi no kami)
  ( 同[美談]社比賣遲神社(onajikiyashiro himechi no kamino yashiro) 

【御神格】(God’s great power)

氏子・地域の安全と繁栄

【格式】(Rules of dignity)

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』 所載社

【創建】(Beginning of history)

創祀年代は不詳

建長年間(1249~1256)八幡宮(息長足姫命)勧請合祀 正八幡宮と称す
明治初期 八幡宮から現社号に復称 明治5年(1872)村社に列した

【由緒】(history)

延喜式神名帳に 美談神社と記し、出雲風土記にも 彌太神社と記している。

又、天保4年(1833)の出雲神社巡拝記にも美談村の条に記に云う(風土記)彌談彌神社、式に云う(延喜式)美談神社とし「祭神はわかふつぬしの命なるべし」とある。

巡拝記によると
「建長年の頃(1249~1252)佐々木次郎左エ門泰清の七男 広田頼清のころ 八幡宮を勧請せらぬと聞きぬ」とあるので、当国守護職 塩冶氏の系累によって 勧請されたものであった。

されば 武家時代においては、その蔭に古代以来の在地の守護神が かくれたまうのも、またやむを得ぬことであった」と記されている。
つまり建長年間になって 彌談彌神社が うしろにかくれ、表面に八幡宮が出てきたのである。

明治5年に村社に列せられた。

寛永13年(1636)未曽有の洪水によって斐伊川が東流し、これによって美談郷が分断され、斐伊川の北側が 万治2年(1658)年以来 楯縫郡に属することとなり
明治22年市制、町村制によって国富村の一大字となり 昭和26年平田市と合体し、30年市制施行によって平田市美談町となった。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社】(Other deities within the precincts)

①本殿の向かって左 外側 境内社
【神社名】(shrine name) 印波神社(inha jinja)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》天手力雄命(ameno tajikarawo no mikoto)
         《主》太玉命(futodama no mikoto)
【由緒】(history)
    東谷に鎮座 印場明神と称し 明治42年(1909年)当社境内に遷座

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➁本殿の向かって左 内側 境内社 2社の合殿
【神社名】(shrine name) 県神社(agata shrine)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》天穂日命(ameno hohi no mikoto)
【由緒】(history)
   今在家の国長に鎮座 

   寛永年間(1624年-1645年)洪水により流失
   江戸時代中期 享保11年(1726)中田の地に再興

【神社名】(shrine name) 和加布都奴志神社(waka futsunushi shrine)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)
【由緒】(history)
   慶応3年(1867)当社境内に遷座 大正元年 県神社と合殿

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➂本殿の向かって右側 境内社 3社の合殿 向かって右から 弥陀弥神社 弥陀弥神社 小早川神社

【神社名】(shrine name)【御祭神】(God’s name to pray)

(右側)弥陀弥神社  《合》櫛御気野命( kushi mikenu no mikoto)
   (mitami shrine)《合》 大地主命 ( otokonushi no mikoto)

(中央)弥陀弥神社  《主》大山咋命( oyamakui no mikoto)
   (mitami shrine)《主》 木花咲耶姫命( konohanasakuya hime no mikoto)

(左側)小早川神社  《主》小早川正平公( kobayakawa masahira ko)
 (kobayakawa shrine)《主》 小早川隆景公( kobayakawa takakage ko)

【由緒】(history)
  右と中央の境内社
   「彌太彌社(midami no) yashiro」1社
   「同 彌陀彌社(onajiki midami no) yashiro」10社
   『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載の不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)の11社を合祀します

  左の境内社
    小早川隆景公( kobayakawa takakage ko)の勧請

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その他の境内社 ・天地の神・荒神さま・石祠 あり

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※境内社には 論社が 多数あります

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載の論社「16社」
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』 所載の論社「3社」

詳しくは《美談神社(midami shrine)の境内社》の記事をご覧ください

一緒に読む
美談神社(出雲市美談町)の境内社について

美談神社(出雲市美談町)の境内社は かつては御祭神「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」が祀られ『出雲國風土記』には「彌太彌社(mitami no) yashiro」が 13社あったと記され その全てと 他の所載も合わせて風土記論社「16社」が境内に合祀されて坐ます

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

『出雲國風土記(Izumo no kuni fudoki)』所載の
「彌太彌社(Mitami no) yashiro」の
御祭神「和加布都奴志命(Waka futsunushi no mikoto)」について

御祭神「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
「大国主大神(okuninushi no okami)」の御子神ともされていて
「出雲大社の御本殿の配祀神」として祀られています
出雲大社公式HPの写真で 御本殿の内側の様子です

出雲大社公式HPより写真

この写真の通り「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
御本殿の御扉を開けた時 その正面(南方向)を向いて御鎮座して 心御柱の後ろ 御神座「大国主大神(okuninushi no okami)」をお守りしておられます

主祭神の出雲の大神「大国主大神(okuninushi no okami)」の御神座は 西の方向を向き坐ます

しかし その目の前の「御客座」には 天津神の5柱の祖神が 正面(南方向)を向いて坐ます

この神々は『古事記( kojiki)』の中で一番最初に記されている
「この世の創成の神々」・「天地初発之時(ametsuchi no hajime no toki)の神々」です

・天之御中主神(ameno minakanushi no kami)
・高皇産霊神(takamimusuhi no kami)
・神皇産霊神(kami musubi no kami)
・宇麻志阿斯訶備比古遅神(umashi ashikabihikoji no kami)
・天之常立神(ameno tokotachi no kami)

「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」もやはり 出雲では「この世の創成の神」です

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』の中では
「天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち)天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました」としています

(※下記の【神社の伝承】を参照してください)
不可思議ではありますが ここまでは まだ なんとか理解できます

出雲大社の記事もご覧ください  

一緒に読む
出雲大社(出雲市)【前編】

出雲大社(いずも おおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(おほくにぬしのおほかみ)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(あまつかみ)」が 天日隅宮(あめのひすみのみや)を献上されたことに始まるとされています

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一緒に読む
出雲大社(出雲市)【後編】

出雲大社(いずものおおやしろ)は ”遠き神代に 国を譲られた”「大国主大神(okuninushi no okami)」の偉業と その誠に感謝なさって 「天神(amatsu kami)」が 天日隅宮(amenohisumi no miya)を献上されたことに始まるとされています

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御祭神について 音が同じであるから同一神とみなすという説あります

「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」
「経津主命      (futsunushi no mikoto)」は同一神であるとする説 

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』では
「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は《 所造天下大神 = 大国主大神(okuninushi no okami)》の御子神とされます

一方『日本書紀(nihon shoki)』では
「経津主命(futsunushi no mikoto)」は 武甕槌命(take mikazuchi no mikoto)とともに 出雲の国譲りを「大国主大神(okuninushi no okami)」に迫った神です

全く立場の違う神を同一神とみなしている訳ですが 不思議です

美談神社(mitami shrine)の御祭神は 現在なんと
「経津主命(futsunushi no mikoto)」と「武甕槌命(take mikazuchi no mikoto)」となっています

謎解きの一端として
研究機関 出雲市文化観光部文化財課のレポート『出曇における県(あがた)の歴史考古学的研究』によれば
「6世紀後半には、美談郷所在地近辺に上島古墳と中村1号墳が築かれた。これらの古墳は 石棺の型式や副葬品などに畿内との強い結びつきがうかがえる」としています

ここから推測するに
6世紀頃には 畿内の大和朝廷の勢力が扶植されていたようです その後 風土記編纂期(733 AD)の頃までには 物部氏をはじめとして 大和朝廷の勢力が奉ずる天津神々が 出雲在地の信仰の中に溶け込んでいったのは自然な流れだったのかもしれません

「経津主命(futsunushi no mikoto)」は その分身として「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」という「天の下造らしし大神の御子」に習合されていったのかもしれません

【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

一畑電車 美談駅から R431号を左折 500m 徒歩6分程度

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R431号沿いに こんもりとした小山の裾に鳥居が建っているのでわかります
美談神社(mitami shrine)に到着

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一礼して鳥居をくぐります
真っ直ぐで 比較的急な石段を登っていくと 社号標あります

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境内入口に狛犬が座します
正面に太い注連縄が張られた拝殿・奥に弊殿・流造の本殿が建立されています

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拝殿にすすみます 扁額には「美談神社」の御祭神や由緒が書かれているようなのですが 経年劣化で文字が良くわかりません

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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右手より御本殿を仰ぎます

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境内社にお詣りです

※境内社には 論社が 多数あります

出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載の論社「16社」
延喜式神名帳(engishiki jimmeicho) 所載の論社「3社」

詳しくは《 美談神社(midami shrine)の境内社》の記事をご覧ください

一緒に読む
美談神社(出雲市美談町)の境内社について

美談神社(出雲市美談町)の境内社は かつては御祭神「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」が祀られ『出雲國風土記』には「彌太彌社(mitami no) yashiro」が 13社あったと記され その全てと 他の所載も合わせて風土記論社「16社」が境内に合祀されて坐ます

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①本殿の向かって左 外側 境内社

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【神社名】(shrine name) 印波神社(inha jinja)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》天手力雄命(ameno tajikarawo no mikoto)
         《主》太玉命(futodama no mikoto)

【由緒】(history)
    東谷に鎮座 印場明神と称し 明治42年(1909年)当社境内に遷座

➁本殿の向かって左 内側 境内社 2社の合殿

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【神社名】(shrine name) 県神社(agata shrine)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》天穂日命(ameno hohi no mikoto)

【由緒】(history)
   今在家の国長に鎮座 

   寛永年間(1624年-1645年)洪水により流失
   江戸時代中期 享保11年(1726)中田の地に再興

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【神社名】(shrine name) 和加布都奴志神社(waka futsunushi shrine)

【御祭神】(God’s name to pray)
         《主》和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)

【由緒】(history)
   慶応3年(1867)当社境内に遷座
   大正元年 県神社と合殿

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➂本殿の向かって右側 境内社 3社の合殿 向かって右から

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【神社名】(shrine name)【御祭神】(God’s name to pray)

(右側)弥陀弥神社  《合》櫛御気野命( kushi mikenu no mikoto)
   (mitami shrine)《合》 大地主命 ( otokonushi no mikoto)

(中央)弥陀弥神社  《主》大山咋命( oyamakui no mikoto)
   (mitami shrine)《主》 木花咲耶姫命( konohanasakuya hime no mikoto)

(左側)小早川神社  《主》小早川正平公( kobayakawa masahira ko)
 (kobayakawa shrine)《主》 小早川隆景公( kobayakawa takakage ko)

【由緒】(history) 

  右と中央の境内社
   「彌太彌社(midami no) yashiro」1社
   「同 彌陀彌社(onajiki midami no) yashiro」10社
    『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載の不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)の11社を合祀します

  左の境内社
    小早川隆景公( kobayakawa takakage ko)の勧請

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その他の境内社 

・天地の神(3社の合殿の右隣

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・荒神さま・石祠 あり

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参道を戻ります

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鳥居をくぐり 振り返り一礼

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

それぞれの文献では 次のように伝承しています

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』出雲郡 条 美談郷 に記される「御祭神」の伝承について

『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』では

「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
《「所造天下大神の御子」=「大国主大神(okuninushi no okami)」》の御子神としています

一方 「出雲の美談(mita mi)」においては「この世の創成期の神」として
「天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち)天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました」とあります

このような立派な神であれば 出雲大社の御本殿に祀られるのもわかりますが
しかし 父神よりも遥か昔に坐ました神となってしまいます 謎多き神です

意訳
『 美談郷(mitami no sato)
  郡家の正北9里240歩の所にあります

天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち) 天の下所造らしし大神の御子 和加布都努志命(wakafutsunushi no mikoto)が 天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました

すなわち その神が郷の中に鎮座していらっしゃいます
ゆえに 三太三(mita mi)といいます 

神亀3年に字を美談と改めました この郷には正倉があります 』

『原文』参照 国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲國風土記』
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『雲陽志(unyo shi)』楯縫郡 美談(mitami) にある伝承

『雲陽志(unyo shi)』では
「美談神社(mitami shrine)」が「正八幡宮(sho hachiman gu)」として記されています

意訳
『 正八幡宮(sho hachiman gu)

神功皇后(jingu kogo)を祀れり
本社の大きさは 9尺に4方 南向き
拝殿      2間に3間

祭礼3月15日 御供神楽8月15日 相撲と神事
慶長8年(1603)造営の棟札あり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・ 』

※『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835] 『原文』参照 国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002424&ID=&TYPE=&NO=画像利用

『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)』出雲郡 にある伝承

意訳
『 美談神社(mitami no kamino yashiro)

風土記の「彌太彌社(mitami no) yashiro」とあり 東林木村より18町計 東にある美談村 美談神社(mitami no kamino yashiro)です
(現在は 楯縫郡に属します)

御祭神については未考です

風土記に『 美談郷(mitami no sato)
天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち) 天の下所造らしし大神の御子 和加布都努志命(wakafutsunushi no mikoto)が 天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました
すなわち その神が郷の中に鎮座していらっしゃいます
ゆえに 三太三(mita mi)といいます
神亀3年に字を美談と改めました 』とあります

和泉国大鳥郡に「美多弥神社(mitami no kamino yashiro)」があります

 同[美談]社 比賣遲神社(onajikiyashiro himechi no kamino yashiro)』

※『出雲国式社考((izumo no kuni shiki no yashiro ko))』[選者:千家梅舎/校訂者:岩政信比古]写本 ,明治02年(1906)
『原文』参照 国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国式社考』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040615&ID=&TYPE=&NO=画像利用

「彌太彌社(mitami no) yashiro」は13社あったと『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』に記されています 全てが境内に合祀されて坐ます

美談神社(mitami no kamino yashiro)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳(Jimmeicho)』に戻る

一緒に読む
『出雲國風土記(Izumo no kuni Fudoki)に所載の神名帳』399社

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

続きを見る

『出雲国 式内社 187座(大2座・小185座)について』に戻る

一緒に読む
出雲國 式内社 187座(大2座・小185座)について

出雲國の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている当時の官社です 出雲國には 187座(大2座・小185座)の神々が坐します 現在の論社についても掲載しています

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