御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
御田八幡神社(Mitahachiman shrine)
【通称名(Common name)】
八幡さま(はちまんさま)
【鎮座地 (Location) 】
東京都港区三田3丁目7番16号
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》誉田別尊(ほんだわけのみこと)
《配》天児屋根命(あめのこやねのみこと)
武内宿禰命(たけしうちすくねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
和銅二年(709)東国鎮護の神として鎮祀され延喜式内稗田神社と伝えられる。何度かの遷座を経て寛永五年(1628)現在地に鎮座した。明治三十年御田八幡神社と改称。
東京都神社庁HPより
【由 緒 (History)】
由緒
古くは 稗田神社(延喜式所載)御田八幡宮、三田八幡、箕田八幡宮等称したのを 慶応元年6月稗田神社と神祗官より改称され、さらに明治五年には社号を三田八幡神社と改め郷社に列格された。
明治30年に三田の冠称を御田の古称に復したのである。
祭神 天之児屋根命、誉田別尊(応神天皇)、武内宿禰命、
創立 和同2年八月
由緒⇒初め 東国鎮護の神として 牟佐志国牧岡の地に祀られ(白銀三田)後に一条天皇 寛弘2年 武蔵国御田郷、即ち後の麻布領窪三田の地に遷座した(三田1丁目)その後 徳川氏入国に際し奇瑞があったところから、応長12年 現鎮座地たる荏原郡上高輪村海岸を開拓して造営の工を起した。
そして細川、井伊諸大名の奉仕によって社殿その他建物等も竣工が完うし寛文2年8月に正遷宮が行なわれた。
しかるに行年も経ぬ寛文8年2月に江戸大火のため社殿炎上の厄に遇いことごとく烏有になった。しばらく仮殿は伊皿子坂薬師寺に置かれたこのとき篤信の細川綱利公は摂津四天王寺住大工藤原家継に工事を監督させて寛文12年8月に正遷宮を挙げた。爾来幾星霜諸人の崇敬するところである。先年戦災に炎上した社殿が当時の建築物であった。
現社殿は氏子各位の協力によって昭和29年に復興したものである。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・五光稲荷神社と御嶽神社
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・旧鎮座地
・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
官社に列した 蒲田(カマタノ)神が 薭田神社だとされています
【抜粋意訳】
巻九 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉の条
○十四日戊辰
詔の以て
美作國 從四位下 仲山(チウサンノ)大神武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)荏原郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 薭田神社
[ふ り が な ](ひえたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hieta no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社について
・薭田神社(大田区蒲田)
薭田神社(ひえだじんじゃ)は 社伝によると和銅2年(709)僧行基が天照・八幡・春日の三体神を造り本社に安置し その後 弘安5年(1282)この三体は日蓮によって開眼されたと伝わっています 『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とされています
薭田神社(大田区蒲田)
・御田八幡神社(港区三田)
御田八幡神社(みたはちまんじんじゃ)は 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年〈三田八幡宮 古跡石碑〉に遷座し 寛永五年(1628)現在地に鎮座したとあり 古くは稗田神社とも云われたと伝わり 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社となっています
御田八幡神社(港区三田)
・三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
三田八幡宮 古跡石碑(みたはちまんじんじゃ こせき)は 御田八幡神社の旧鎮座地です 社伝によれば 和銅二年(709)東国鎮護の神として 白金三田 界隈に鎮祀 その後 1011年 窪三田に遷座〈三田八幡宮 古跡石碑〉 寛永五年(1628)現在地〈御田八幡神社(港区三田)〉に鎮座したとあります
三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)
・六郷神社(大田区東六郷)
六郷神社(ろくごうじんじゃ)は 源頼朝公・徳川家康公も崇敬した神社で 古くから 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社とする説があります しかし社伝には 天喜五年(1057)源頼義・義家が武運長久を祈願し勝利を収めて創建したとあり 当社も式内社を主張していません
六郷神社(大田区東六郷)
・鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
鵜ノ木八幡神社(うのきはちまんじんじゃ)は 社伝に 延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子 五郎右衛門光虎が 下野国〈栃木県〉より当地に移った際に 一族の守護神として八幡大神をおまつりした とあるが 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社ともなっています
鵜ノ木八幡神社(大田区南久が原)
・久が原東部八幡神社(大田区久が原)
久が原東部八幡神社(くがはらとうぶ はちまんじんじゃ)は 社記に天平神護元年(765)豊前 宇佐八幡宮より御分霊を勧請し 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎と伝えられ 江戸時代に 久が原が二分される時 馬込領 久が原村の鎮守とされ崇敬を受けてきました 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
久が原東部 八幡神社(大田区久が原)
・久が原西部八幡神社(大田区久が原)
久が原西部八幡神社(くがはらにしのはちまんじんじゃ)は 社記には 天平神護元年(765)豊前の宇佐八幡宮より御分霊を勧請 武蔵野の南端 久が原台地一番の高所に奉斎されたと伝えられ 久が原が二分される時 六郷領 久が原村の鎮守とされた 延喜式内社 武蔵国 荏原郡 薭田神社(ひえたの かみのやしろ)の論社でもあります
久が原西部八幡神社(大田区久が原)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR田町駅から第一京浜を品川方面へ約800m 徒歩12分程度
第一京浜沿い 周囲にはオフィスビルが建ち並び ビルの壁面に「御田八幡神社」という巨大な文字 この右隣に御田八幡神社の鳥居があります
御田八幡神社(港区三田)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を登ります
江戸時代の観光名所を載せた『江戸名所圖會〈1834~1836〉』に当時の様子が描かれていますが 境内にこれに着色を施したものが掲示されています
今立っている位置は 鳥居を越えた石段の下になります
石段を登ると正面に社殿があります
拝殿にすすみます 扁額には 御田八幡宮と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の背後の高台には 古墳のある亀塚公園があり 遊歩道が続いています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
御田八幡神社(港区三田)について 土地の言い伝えでは 式内社の薭田神社とされている と記しています
【抜粋意訳】
三田八幡宮(みたはちまんくう)
芝田町七丁目にあり 三田の惣鎮守にして祭る所 山城男山八幡宮と同くして 後一条帝の寛仁年間草創といひ傳ふ
旧地は窪三田にあり(土人云 当社ハ延喜式の神名記及ひ武蔵風土記等の書に載る所の薭田神社是なり 今も其旧地に一社あり 窪三田八幡宮と称す)
正保年間 今の地へ移し奉るといへり 此地後は山林ありて 前ハ東海を臨む風光秀美なり 別当は天台宗にして 眺海山無量院と号す 祭礼は隔年八月十五日で修行を放生会なり延喜式神名帳云 武蔵国荏原郡御田郷 薭田八幡
武蔵風土記残篇云 荏原郡御田郷 薭田八幡
圭田五十八束三字田
所祭 應神天皇也 宿祢 荒木田襲津彦等也 和銅二年己酉八月十五日始行 神体有 神戸巫戸等
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 他に江戸三田小山 薭田八幡宮〈現 御田八幡神社(港区三田)〉との説も挙げています
【抜粋意訳】
薭田神社
薭田は 比恵多と訓べし、
〇祭神詳ならず
〇蒲田村に在す又云、江戸三田小山 薭田八幡宮
〇惣國風土記七十七残岟云、蒲田郷云々、薭田神社、圭田六十二束、所祭園韓神、少彦名命也、依 雄略天皇十一年之勅、而始行 神體有 神家巫戸 祈病災莫不験、祈田毛莫不寶」
又同一本云、御田郷云々 稗田八幡、圭田五十八束三字田、所祭応神天皇也、武内宿禰、葛木襲津彦等也、和銅2年己酉8月15日、始行神礼、有神戸巫戸等」按るに、当社は蒲田神社にして、三田なる薭田八幡宮は、別社なるべきか、考ふべし、
官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 薭田神社の名称について 薭は蒲の誤りと記して 蒲田(カマタノ)神社としています
所在については 蒲田村の東大森村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉と記しています
【抜粋意訳】
蒲田(カマタノ)神社
〇按本書、蒲を薭に作る「恐らくは、誤れり、今 三代実録、倭名鈔に據て之を訂す、」
今 蒲田村の東大森村にあり、
清和天皇 貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に 三代実録
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 薭田神社の所在について 北蒲田村〈現 薭田神社(大田区蒲田)〉として 薭田は蒲田の訛であろうと推論しています
【抜粋意訳】
薭田神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 経津主命 武内宿禰 應神天皇 荒木田襲津彦とあるは 惣國風土記 荏原郡 薭田八幡云々 所祭 應神天皇也 武内宿禰 荒木田襲津彦等也とみえたるに據れるものなれば信じがたし 此祭神も八幡と云よりの説なるべく 荒木田は葛木の誤なるべし 又按 薭田 諸本にヒエタとありされど 惣國風土記に蒲田郡 蒲田神社とみえ 和名鈔に蒲田郷あり 三代実録に蒲田神と記し 今所在の地名も蒲田村なるを思ふに 薭田は蒲田の訛なること著し 姑附て後考に備ふ官社
貞觀六年(八六四)八月十四日〈戊辰〉、詔以、武藏國 從五位下 蒲田(カマタノ)神を 並に列す官社に祭日 一月八月 十五日
社格 郷社
所在 北蒲田村(荏原郡蒲田村大字北蒲田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
御田八幡神社(港区三田)について 「昔は窪三田に在り、今も其処に小祠をのこす」〈現 三田八幡宮 古跡石碑(港区三田)〉と旧鎮座地についても記されています
【抜粋意訳】
〇東京府 武蔵國 東京市 芝區田町七丁目
郷社 三田八幡(ミタハチマン)神社
祭神 應神(オウジン)天皇 武内宿禰(タケシウチスクネ)
襲津彦(ソツヒコノ)命 倉稻魂(ウカノミタマノ)命社傳に 和銅年間の鎮座なりといへと確かならず、
近世の偽書 當国風土記残篇に「荏原郡御田郷、稗田八幡、所祭 応神天皇、武内宿禰、荒木田襲津彦等也、和銅二年八月始行神禮、云々」と見えたれど、稗は蒲の古体なる稗を誤れるものにて、延喜式の稗田神社を当社に充てたるものなるべし、
江戸砂子云、「三田八幡は田町九丁、其外十三丁の鎮守なり、別当を眺海山無量院と云ひ、昔は窪三田に在り、今も其処に小祠をのこす云々」と見えたり、
蓋し社記に云く 寛永五年芝田町七丁目へ遷座せりと、土人 其山に祠を建て、旧八幡 又は 網八幡と称す とあるに符合す、
田町は初め 上高輪町といひしが、いつの頃よりか芝の田町と改めしなり、
江戸名所圖曾に、「三田の総鎮守にして、祭る所山城男山八幡宮と同じく、後一條帝寛仁年間草創すと云傅ふ、旧地は窪三田に在り、正保年間今の地へ移し奉る、此地後ば山林にして、前は海湾に臨む、故に風光秀美なり云々」
と見ゆる是れなり、
明治五年十月十八日郷社に列す。
社殿は本殿、幣殿、拝殿等を具備し、境内は301坪4合3勺(官有地第一種)にして、山に寄り海に面し、風景殊に宜し、古来祭礼には、放生会を行へりと云ふ。境内神社 春日(カスガノ)神社 八耳(ヤツミミノ)神社
【原文参照】
御田八幡神社(港区三田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について