三島神社(みしまじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 奈良時代初期 越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(今治市大三島町)に参詣していた 年老いて毎月の参詣が出来なくなり 養老4年(720)大山祇神社の神霊を〈現在地〉に勧請したのが始まりとします しかし境内には 二千年以上前の磐座(いわくら)〈古代祭祀の遺跡〉があります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
三島神社(Mishima shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県四国中央市三島宮川1-1-53〈旧市名(伊予三島市)〉
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大山祇神(おほやまつみのかみ)
《配》上津比咩神(かみつひめのかみ)
下津比咩神(しもつひめのかみ)
雷神(いかづちのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・養老4年(720)に大山祇神社の神霊を〈現在地〉に勧請したのが始まり
【創 建 (Beginning of history)】
三島神社略記
御祭神 大山祇神
雷神 上津比咩神 下津比咩神 高龗神例大祭 十月二十一日 十月二十三日
御由緒
奈良時代の初期 越智玉澄 宇摩の大領に任ぜられ 今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが 年老い 毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので 養老4年旧8月23日大三島宮より奉遷し 八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び奉斎したのが始であり それより此の地を三島と云う様になった平成二十五年一月吉日 石川柏洲謹書 再献 井原和彦
現地案内板より
史跡 其他
盤 座 古代祭祀の遺跡で磐境二千年以前のもの
石燈籠 元亀二年(一五七一)福島正則 奉納
旧本殿 延徳二年(一四九〇)四月 再建の建物
御神像 鎌倉後期室町前期の御神像二十体奉斉
神 門 文政四年(一八二一)二月 完成
龍宝石 豫讃境の海中にあった大石で伝説が多い平成十七年六月吉日 石川柏洲謹書 再献 森川泰幸
現地案内板より
【由 緒 (History)】
三島神社小誌
一、主祭神 大山祇神
タカオカミノカミ
カミツヒメノカミ
シモツヒメノカミ
イカヅチ ノカミ二、由緒
奈良時代の初期 越智玉澄 宇摩の大領に任ぜられ 今の上柏町御所の地に新館を建て宇摩郡を経営したが 年老い 毎月の大三島宮参籠も出来なくなったので 養老4年旧8月23日大三島宮より奉遷し 八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地を選び奉斎したのが始であり それより此の地を三島と云う様になった三、祭礼、行事
例大祭(秋祭。大小多数の太鼓台が町を練り歩き、十三日には大人太鼓台が境内参入する。)
氏子初詣祭(ウジミセ)十月二十一日 午後三時より午後八時まで随時受付
・新しく生まれた子の氏子入りを御神前に奉告し身体健康開運長寿を析る。
・絵馬を奉納し、拝殿内で神札(産土神守護)、御幣(ごへい)等をいただく。
幣帛供進式(例祭)十月二十三日 午前九時
神幸祭(神輿渡御)十月二十三日 午前十時半出御(おたち)午後三時頃入御(おいり)
・初詣した子が御幣を持ち、拝殿前で榊の枝の玉串を受取り御旅所祭に参列する。
・御旅所(当社北東二百米。大三島宮より此処の海岸に神様が初めて上陸されたという)では琵琶の谷(宮川上流、旧 雨宝(うほう)浄水場の谷)の水を奉る御旅所祭が行われる。
・御神輿は御旅所祭後、上町神事場(しんじば)を経て氏子区域をくまなく巡る。
七五三子供まつり 十一月十五日 午前十時より午後五時まで一時間おきに計八回受付
・三歳(男女)五歳(男)七歳(女)の成長の節目を報告し健やかな成長を析る。
厄除算賀祭 二月一日(太郎ついたち)午前九時より午後五時まで一時聞おきに計九回受付
・三十三歳(女)四十二歳(男)等の厄年の祓。
・六十一歳(還暦)七十歳(古稀)七十七才(喜寿)八十歳(傘寿)八十八歳(米寿)九十歳(卒寿、鳩寿)九十九歳(白寿)等の年賀の祝。
春祭(春日神社例祭) 五月一日
・紙業繁盛の祭。例年、三島相撲協会により北広場土俵で相撲が奉納される。
夏越大祓(わごし) 六月三十日 夕刻より
・あらかじめ氏子総代を通じて各戸に配布された形代(かたしろ)に年前半の罪穢を託し、拝殿前に設けられた茅の輪(ちのわ)をくぐる。
天神祭 七月二十五日
・学問の神様の祭。例年、三鳥港で市観光協会により花火大会が開かれる。
(産祷あけ初宮詣) 生後一か月から百日までの間の適当な日時
・家族が増えたことを氏神様に報告して健康長寿を祈り、絵馬等を受け取る。四、境内社、文化財等
旧本殿(諸山祇神社、十六社。隋神門から拝殿へ向かう石畳参道東脇の鳥居の奥の大きな建物)
明治三五年に現在の本殿が出来るまでは氏神様はこの建初にお杷りされていた。
延徳二年(一四九〇)再建と伝わる市内最古の木造建築。伊予三島市指定文化財。現在は諸山祗十六神社がお祀(まつ)りされている。
随神門(南入口正門)の大きな門・二層二階・文政四年建立。伊予三島市指定文化財)
門守神(かどもりのかみ・豊石窓神(とよいわまどのかみ)櫛石窓神(くしいわまどのかみ)を祀る。
磐 座(いわくら。大石神社、ろっかく。拝殿前、西側の石囲)
社殿成立以前の祭祀の面影を偲ばせる祭祀遺跡として伊予三島市指定史跡。
大地震の津波に金子岬三津名岬が海没した際に大明神が小川山崩石より投げ入れて潮を引かせた岩であると伝えられ、現在は境内の土地の神様とされている。
石灯篭 伝福島正則奉献(磐座内に一対あるうちの西側の一基)
元亀二年(一五七一)年奉献と伝わる桃山様式の石灯寵。伊予三島市指定文化財。
天神社(天満宮。てんじんさん。本殿西。新しい鳥居の奥の祠。)
菅原道真(すがわらのみちざね)公をお祀りする学問の神様。鹿島神社を併祀。
春日(かすが)神社(境内南東隅の大きな御社。紙業繁盛の神様)
天照皇太神宮(おいせやさん。西鳥居南の祠。豊受大神宮、出雲大社、宇佐八幡宮を併祀)
笑子(えびす)神社、住吉神社(北参道西の北側鳥居の奥。漁業繁盛、海上安全の神様)
合祀(ごうし)社宮(北参道西にある鳥居のうち南側の鳥居の奥。旧春日神社拝殿等。)
旧三島町内の各地より境内にお遷しされていた八幡神社、荒神社、幸神社、など、多くの神社を一箇所にまとめてお祀り(合祀)した御社。
目神社(めがみさん。笑子神社北にある南向きの小祠。金子町よりお遷しした眼病平癒の神様。)
龍宝石(鯛寄石、銀杏石、二見石。旧本殿北側の玉垣内)
もと予讃国境近くの海中にあり鯛の棲処となっていた奇岩を江戸時代に中曽根庄屋今村家が引き上げて庭石とし、毎日海水を浜から運んで中央の二つのくぼみに献っていたが、明治に入り、怪異を畏れて氏神様の境内に遷したもの。
自然科学の上からも、太古、瀬戸内海が陸地であった事を示す貴重な標本という。
一茶句碑(拝殿前) 冥加あれや日本の花総鎮守 一茶
寛政七年(一七九五)小林一茶が当社を参詣した折の句。一茶の自筆を拡大し石刻。現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
明治三十五年(1902)の境内図〈随神門に掲示〉
・諸山祇神社(十六社)
旧本殿(諸山祇神社)
この建物は市内最古の建造物です.延徳二年(一四九〇年)再建と伝えられ其後何回も修繕葺替が行われています
その度毎の棟札は明治初年神仏分離代官所廃止の時に処分されその写しが現存します
明治三十五年現在の本殿が建立されるまで氏神様は此処に祭られていました
現在は十六社と申され諸山祇神十六神ずお祭りされています現地案内板より
・合祀社宮(八幡神社、荒神社、幸神社、斎霊神社、外 を合祀)
・天神社《主》菅原大神,《配》鹿島神,香取大神
・天照皇太神宮(豊受大神宮、出雲大社、宇佐八幡宮 を併祀)
・笑子(えびす)神社
・目神社
・春日神社《主》春日大神
・その他の境内社
・随神門〈門守神(かどもりのかみ・豊石窓神(とよいわまどのかみ)櫛石窓神(くしいわまどのかみ)〉
随神門に奉納されている絵馬「石鎚大権現御神体 捧持記念」&扁額
・磐座遺跡〈大石神社〉
磐座(いわくら) ( 二千年以前のもの )
この地方には大昔から人が住んでいた事は 破魔殿跡から弥生式土器が出た事によってもわかります この磐座は古代の祀礼の遺跡です 石の配置等は大昔そのままです 現在は境内の屋敷の神様だと申されておりますくろがねもち跡
此所に天然記念物に指定されていた大樹 くろがねもち がありましたが昭和四十一年に枯損し倒れました現地案内板より
・龍宝石〈鯛寄石〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈本宮 大三島〉大山祇神社(今治市大三島町)
・大山祇神社(今治市大三島町)
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
境内には 磐座(いわくら) 古代祭祀の遺跡で磐境二千年以前のもの があります
社伝によれば 創建は
奈良時代初期 越智玉澄公(おちたまずみ こう)が宇摩の大領に任じられ 上柏町御所に新館を建て住し 毎月 大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)に参詣していた
しかし 年老い出来なくなったので 養老4年(720)旧8月23日に大山祇神社の神霊を八綱浦三津名岬加茂川上冠岡の地〈現在地〉に勧請したのが始まりとする
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 創建した もう一つの三島神社
別宮大山祇神社(今治市別宮町)は
大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 伊豫国一之宮 大三島鎮座・大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)〉として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります
〈島外地の別宮〉・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)は 社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 伊豫国一之宮 大三島鎮座・大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)〉として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります
別宮大山祇神社(今治市別宮町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR予讃線 伊予三島駅から県道125号 と 県道123号 経由で 北東へ約900m 徒歩10分程度
県道は石畳参道となっています
縣社と刻まれた社号標があり 青銅製の鳥居が建ちます
三島神社(四国中央市三島宮川)に参着
一礼をして鳥居をくぐり抜けます 扁額には 三島神社
鳥居の先 右手には手水舎 正面には 随神門が建ちます
随神門は 二層二階・文政四年建立です
随神門を抜けて 参道の右手には神馬像 正面には 拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって左手の参道を北側へ進みます 拝殿の奥には 本殿が鎮座します
本殿の横には 天満宮が鎮座しています
本殿の千木について 説明がありました
本殿旧堅魚木(鰹木)及び千木
昭和51(1976)年、本殿の屋根が桧皮(ひわだ)から銅版に葺き替えられた際に交換された堅魚木(かつおぎ)と千木(ちぎ)の芯材(屋根の上に在る時は銅版が施されていました)です。
拝殿は明治33(1900)年、本殿は明治35円(1902)年、氏子の総力を挙げて建立されたもので、磐座(いわくらJ瑞垣に刻まれた造営誌には三島・中曽根・松柏のみならす、屯田兵として北海道に渡った方々や|日今冶藩主久松公などの御名前も記されています。
其後、本殿屋根は昭和20(1945)年、拝殿屋根は昭和47(1972)年にも葺き替えられ、現在に至っています。現地説明書きより
本殿の背面は 木々に覆われていて 拝所にもなっています
境内には 大三島の本宮や 今治の別宮と同じように 楠の大木があります
さらに拝殿の向かって左手の参道を北側へ進みます
北参道の入口にも鳥居が建ちます
北参道の入口には 社号標には 日本總鎮守 大山積大明神 と刻まれ 大きな常夜灯が立ち 参道が続いています
社殿の横を抜けながら 隋神門に向かいますが
再度 社殿に一礼をして 隋神門に向かいます
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
「龍宝石」〈鯛寄せの石〉の伝承
竜宝石 ( 鯛寄せの石 )
今から約三百年ほど前、中曽根の庄屋さんの家に毎日大きな鯛を売りに来る漁師がいました。
ふしぎに思った庄屋さんは 「その鯛はどこでとってくるのか 」と尋ねたところ「余木崎の沖あいに竜宮のようなめずらしい石があり毎朝2匹の鯛が現れます。」とこたえました。
庄屋さんはこのふしぎな石がほしくなりました。海に漁師をもぐらせ石に網をしばりつけ、潮のみちてくるのをまってもち上げました。
浜から中曽根の家までの間にまっすぐな道をつくり、ころを敷きつめ、役夫二千人を使い四ヶ月もかけて庭に運びました。
「めずらしい竜宝石だ」というのでたくさんの人が見物にきました。ところが、そのご庄屋さんの家に不幸が続きました。おがんでもらったところ、「 毎日きれいな海水をくんで石にかけ、海の神さまをおまつりしなさい。」とのおつげがありました。庄屋さんはそれ以来、雨の日も風の日も、海まで海水をくみに行かせたということです。今もこの道を潮汲道(しょうこみち)とよんでいます。
明治になり庄屋が廃止されました。子孫の今村さんはこの石を三島神社に寄付しました。
注) 竜宝石の中の丸いくぼみは、川の浸食(しんしょく)によってつくられた欧穴(おうけつ)とよばれているめずらしい穴です。
今から数百万年以前の古代には瀬戸内海が陸地となりその中に、大きな河川が流れていたことを示す貴重な証拠品です。
寄贈 社団法人 伊予三島青年会議所
現地解説板より
「教育勅語(きょういく ちょくご)」明治23年(1890)〈随神門に掲示〉について
随神門に掲げられていました「教育勅語(きょういく ちょくご)」とは 明治23年(1890)に発表された「教育ニ関スル勅語」で
天皇自らが 先祖崇拝・親孝行などの「道徳」を尊重するよう国民に語りかける勅語(ちょくご)で 第2次世界大戦前の日本の道徳教育の根幹であった
【意訳】〈文部省による正式な現代語訳〉
朕が思うに、我が御祖先の方々が国をお肇めになったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして代々美風をつくりあげて来た。これは我が国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。
汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合い、朋友互に信義を以って交わり、へりくだって気随気儘の振舞いをせず、人々に対して慈愛を及すようにし、学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かようにすることは、ただ朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなおさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらわすことになる。
ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共々にしたがい守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違いがなく、又我が国はもとより外国でとり用いても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。
明治二十三年十月三十日
睦仁
【原文ふりがな】
朕(ちん)惟フニ(おもうに)我カ(わが)皇祖皇宗(こうそ こうそう)國ヲ(くにを)肇ムルコト(はじむること)宏遠ニ(こうえんに)德ヲ樹ツルコト(たつること)深厚ナリ(しんこうなり)
我カ(わが)臣民(しんみん)克ク(よく)忠ニ(ちゅうに)克ク(よく)孝ニ(こうに)億兆(おくちょう)心ヲ一ニシテ(こころをいつにして)世世(よよ)厥ノ(その)美ヲ(びを)濟セルハ(なせるは)此レ(これ)我カ國體(こくたい)ノ精華ニシテ敎育ノ淵源(えんげん)亦(また)實ニ(じつに)此ニ(ここに)存ス(ぞんす)
爾(なんじ)臣民(しんみん)父母ニ孝ニ(ふぼに こうに)兄弟ニ友ニ(けいていに ゆうに)夫婦相和シ(ふうふ あいわし)朋友相信シ(ほうゆう あいしんじ)恭儉(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ博愛(はくあい)衆(しゅう)ニ及(およ)ホシ學(がく)ヲ修(おさ)メ業(ぎょう)ヲ習(なら)ヒ以(もっ)テ智能(ちのう)ヲ啓發(けいはつ)シ德器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ進(すすん)テ公益(こうえき)ヲ廣(ひろ)メ世務(せむ/せいむ)ヲ開(ひら)キ 常(つね)ニ國憲(こっけん)ヲ重(おもん)シ國法(こくほう)ニ遵(したが)ヒ一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公(ぎゆうこう)ニ奉(ほう)シ以(もっ)テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘシ
是ノ如キハ(かくのごときは)獨リ(ひとり)朕(ちん)カ忠良(ちゅうりょう)ノ臣民(しんみん)タルノミナラス又(また)以テ(もって)爾(なんじ)祖先(そせん)ノ遺風(いふう)ヲ顯彰(けんしょう)スルニ足ラン
斯ノ(この)道(みち)ハ實ニ(じつに)我カ皇祖皇宗ノ遺訓(いくん)ニシテ子孫臣民ノ倶ニ(ともに)遵守スヘキ(じゅんしゅすべき)所(ところ)
之ヲ古今ニ通シテ謬(あやま)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス(もとらず)朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ咸(みな)其德ヲ(そのとくを)一ニセンコトヲ庶幾フ(こいねがう)明治二十三年十月三十日
睦仁
【原文】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛媛縣 伊豫國 宇摩郡三島町大字三島
縣社 三島(ミシマ)神社
祭神 大山祇(オホヤマツミノ)命
上津姫(ウハツヒメノ)神
下津姫(シタツヒメノ)神相殿 大雷(オホイカヅチノ)神
高龗(タカオカミノ)神社蔵文書に云く、
「大三島記云、伊豫國 宇摩郡 大山積神社者、養老四庚申年四月、国司越智玉澄、依 思願 奉 還祭所也云々、御璽安産口訣、興 大三島宮 無異、従養老四庚申、至於今年庚子、寶星霜千六十一年、祭祀無断絶、寶祚無窮、国家安全之懇願、無 怠慢所也、今社務 越智貞住任所望寄一紙所如件
干時 安永九庚子年三月三日 大祝 越智宿祢安躬
宮崎遠江殿
と、蓋、元正天皇 養老四年の勧請か、
古来神領若干を有し、得能弾正少尉通時の二男 高倉右京克越智通道の子孫世々社職たり、乱世に當り社領を失ひしと雖も、神殿改替なく今に勤務せりと、愛媛面影に云く「人家盛にして富家多し、神の恩頼によるなるべし」と、
明治十五年縣社に列す。
社殿は本殿、幣殿、中殿、拝殿、其他神門、井覆家、神輿庫などあり、社殿林立す、境内は千九百四坪あり、老樹四境を掩う。境内神社 諸山積神社・・・・・・・
例祭日 十月四日
【原文参照】
三島神社(四国中央市三島宮川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
〈本宮 大三島〉大山祇神社(今治市大三島町)
・大山祇神社(今治市大三島町)
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は 社号を日本総鎮守・三島大明神・大三島宮と称し 歴代朝廷の尊崇篤く 延喜式 名神大社に列し 伊予国一之宮とされ 全国津々浦々に御分社が奉斎される四国唯一の大社 創建は 神武天皇御東征の時 祭神の子孫 乎知命(おちのみこと)が 瀬戸内海 芸予海峡の要衝 御島(大三島)に鎮祭したと云う
大山祇神社(今治市大三島町宮浦)〈伊豫国一之宮〉
〈島外地の別宮〉・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
・別宮大山祇神社(今治市別宮町)
別宮大山祇神社(べっくおおやまずみじんじゃ)は 社伝によれば 大宝3年(703)第42代文武天皇の勅命により 和銅5年(712)大領の越智玉澄公(おちたまずみ こう)が 日本総鎮守 伊豫国一之宮 大三島鎮座・大山祇神社の別宮〈地御前(ちごぜん)〉として 越智郡日吉郷に勧請創建したことに始まります
別宮大山祇神社(今治市別宮町)