実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

箕曲神社(Minowa shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市小木町583

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天兒屋根命(あめのこやねのみこと)〈旧小木社 祭神〉

《配》箕曲神(みのわのかみ)旧今田社 祭神
   塩比乃御前神(しほひのみまえのかみ)〈旧曽禰社 祭神〉
   祭神不詳二座

箕曲神社

伊勢市小木町五百八十三番地

御祭神
天兒屋根命 旧小木社御祭神

 旧小木社は、現在の小木町墓地周辺に所在し、小木建置(小木の誕生)よりの奉祀の産土神 江戸時代に田尻との合祀管理であった

塩比乃御前神 旧曽祢社御祭神

 現在のこの箕曲神社の地が旧曽祢社跡地であり、大治年間(一一二六~)に既に曽祢村あり、その産土神
天明七年(一七八七年)曽祢村が絶家し小木の管理下となる

箕曲神 旧今田社御祭神

 旧今田社は、字今田(現西の地蔵尊周辺に鎮座 旧号 権現社で明治四年今田社に改称 神木を祭神としておった

八柱神 旧小木社と旧曽祢社の末社御祭神

 明治三十九年 小木社、曽祢社、今田社の三社を小木五百八十三番地(現・箕曲神社)に合祀して小木神社と称し奉る

明治四十一年、四十二年、一郷一社の合祀勧奨により竹ヶ鼻・大口神社、下野・日和神社、馬瀬神社を移遷合祀し、新たな神社名を箕曲神社と称し、小木、下野、馬瀬、竹ヶ鼻の産土神として奉る

昭和二十六年に馬瀬神社と竹ヶ鼻・大口神社が、昭和四十七年には下野・日和神社が各々の地に分祀し、箕曲神社は小木単独の産土神となり現在に至っている

拝殿内の掲示板より

Please do not reproduce without prior permission.

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

箕曲神社(小木町)– みのわじんじゃ –由 緒

 当社は明治39年、小木社・曽根社・今田社の三社を小木583番地に合祀して小木神社と奉る。 

 明治41年、42年1御1社合祀勧奨により、竹鼻大口神社、下野日和神社、馬瀬神社を移遷合祀し、新たな神社名を箕曲神社と称し小木・下野・馬瀬・竹鼻の産土神として奉る。

 昭和26年に馬瀬神社と竹鼻大口神社が、昭和47年には下野日和神社が各々の地に分祀し、箕曲神社に小木単独の産土神となり現在に至っている。

三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e7%ae%95%e6%9b%b2%e7%a5%9e%e7%a4%be%ef%bc%88%e5%b0%8f%e6%9c%a8%e7%94%ba%ef%bc%89/

【由  (History)】

由緒

 当社の創始は詳らかではないが、古来、小木社と称し、小木村の産土神として奉斎された神社であった。
 明治27年に実施された一郷一社制の神社合祀政策により、同41年4月17日に、小木社が新宮を御造営したのを契機に、馬瀬町鎮座の村社馬瀬神社(天忍穂耳命)、下野町鎮座の村社日和神社(八柱神)、竹ヶ鼻町鎮座の村社大口神社(速秋津彦命)、小木町鎮座の無格社曽根社(神名不詳)を合祀し、当時、この4ヶ町の郷名を箕曲郷と称したことから社名を箕曲神社と改称した。
 これにより当社は箕曲四ヶ町の産土神となり、祭祀尊敬されることとなったのである。
しかし、戦後になって宗教法人となると、各町の氏子の中に、旧社を復活させようとする声が高まり、昭和20年11月に竹ヶ鼻町の大口神社が、同24年に馬瀬町の馬瀬神社が、同50年には下野町の日和神社が分祀され、箕曲神社は小木町1町の産土神として奉斎されることになり、今日に至っている。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

右諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

箕曲神社は〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原淵神社
[ふ り が な ]かはらふちの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kaharafuchi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地について

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容

川原淵神社〈豊受大神宮(宮)摂社の旧鎮座地について
三つの説を紹介しています

①寛文三年再興檜木尻の社川原淵神社〈豊受大神宮(宮)摂社〉の現社地
今本社に接して村社 船江上社あり船江上社(伊勢市船江)
神社町大字小木(コギ)の曾禰社曽禰社(伊勢市小木)を合祀箕曲神社(伊勢市小木町)

【抜粋意訳】

攝社末社所管社 河原淵神社

鎭座地 宇治山田市大字船江町

殿舎
正  殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉  垣 連子板打・・・壹重
鳥  居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替

河原淵(カハラブチ)神社は 延喜大神宮式及び神名式にも見えたり。神名祕書及び社記に、祭神 澤姫(サハヒメ)神 箕曲郷勾村 河原社の南字鹽坪の向に坐せりとなす。
中世以來社地湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を宇治山田市の北部檜尻の地に再興したるも、固より正確なる根據ありてのことにあらず。
而も其の地 河涯にあり、洪水の患あるを以て、明治十一年十二月之を現地に移し奉る。
今本社に接して村社 船江上社あり、前に潴水あり、朧ケ池(オボロガイケ)と云ふ。依て両宮攝社参詣記には、本社の位置を此の處に擬す。
二宮管社沿革考には之を排して、神社町大字小木(コギ)の曾禰社を以て本社の舊跡と爲せり。

【原文参照】

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

神宮司庁 編『神宮要綱』,神宮司庁,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1189814

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社について

・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました

続きを見る

・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

続きを見る

・箕曲神社(伊勢市小木町)
〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

現在の大津神社〈豊受大神宮(宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります

現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています

・大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》葦原神(あしはらのかみ)

一緒に読む
大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉

大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています

続きを見る

『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社旧鎮座地の候補地

長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地滅して明かなら
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にあり或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり

長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?

大水神社(伊勢市御薗町長屋)

神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?

大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です

・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

一緒に読む
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)

大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます

続きを見る

神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?

・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀

一緒に読む
船江上社(伊勢市船江)

船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました

続きを見る

・箕曲神社(伊勢市小木町)
箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です

一緒に読む
箕曲神社(伊勢市小木町)

箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています

続きを見る

『大神宮叢書 前篇1932年』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地

今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故な。上いへる水戸御食都神社は神名秘書、大口村に在今の神社村なりとれど、其條に論ふ如く、水の字神社村に似しから。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります

水戸御食都神社大口村大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?

御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です

・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

一緒に読む
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉

御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます

続きを見る

候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR参宮線 近鉄 伊勢市駅から 県道201号経由で北上 約2.5km 車10分程度

イオンの駐車場に止めさせてもらうとすぐ隣

箕曲神社(伊勢市小木町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

東を向いている一の鳥居のすぐ脇に 南向きの木製鳥居があります

Please do not reproduce without prior permission.

この木製鳥居の先には 賽銭箱も置かれていて 石が祀られています
気になりますので 賽銭を納め お祈りをします 

Please do not reproduce without prior permission.

東を向いている一の鳥居をくぐり境内に進むと 参道は直角に曲がっていて 社殿と二の鳥居は 南を向いています

Please do not reproduce without prior permission.

南を向く二の鳥居には榊が祀られています
その先には 割拝殿 玉垣に囲まれて正殿が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

殿にすすみ 賽銭を納め お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

境内を囲むように小道がありますので 正殿の裏手の道より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原淵神社について 所在は今俗云 に在す〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵神社

川原は前に同じ、淵は不知と訓べし、

○祭神 澤女神、神名秘書

〇箕輪郷勾村川原社南塩坪向 今俗云 に在す、神名略記

〇式四、伊勢大神宮 度會宮所摂十六座の第十二に載す、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原淵神社について 所在は箕曲郷勾村 川原大社の南檜尻にあり〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵(カハラノフチノ)神社

今 箕曲郷勾村 川原大社の南檜尻にあり、神祇本源、神名秘書、神境紀談、神名略記、

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原淵神社について 所在は船江町檜尻〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています

その旧跡については 小木村地方にある曾禰社〈現 曾禰社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)〉と記しています

【抜粋意訳】

川原淵神社

祭神
祭日 六月九月十二月並十八日

社格 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)

所在 三重縣箕曲郷船江町檜尻 (宇治山田市大字船江町 )

今按るに檢録に今の地は元檜尻社と稲する小祠の在たる域内へ造立 りたるな り舊社は小木村地方にある曾禰社ならむ 其社の西北の川を淵川といふと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

箕曲神社(伊勢市小木町) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

続きを見る

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

一緒に読む
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について

伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です

続きを見る

 

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています