美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は 神功皇后の熊襲゛羽白熊鷲(はしろくまわし)゛平定を創始の由来とします『六国史』にも貞觀元年(八五九)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記される由緒ある古社です 『延喜式神名帳(927 AD.)』に所載される 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)の論社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
美奈宜神社(Minagi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県朝倉市荷原(いないばる)2417-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
《配》住吉大神(すみよしのおほかみ)
春日大神(かすがのおほかみ)
《合》神功皇后(じんぐうこうごう)
武内宿禰(たけのうちのすくね)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
式内 美奈宜神社
祭神
天照皇大神 住吉大明神 春日大明神
相殿 神宮皇后 武内宿祢 を併せ祭る
由緒
第14代仲哀天皇は〔(古処)白髪山(しらがみやま)〕を本城とする敵、「羽白熊鷲(はしろくまわし)」を討っため軍を進められていたが途中病気で急逝。しかし神功皇后は喪(も)を秘して武内宿祢等を從えて喰那尾山(くいなおやま)頂(ここから北西200m)の地で陣をしき謀議(ぼうぎ)の末 賊を討たれた。これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神功皇后の孫)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」と云う。遷宮
1.大宝元年旧九月二十二日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ。
2.元弘三年(西暦1333年)大宮谷(ここから100M上)へ。
3.天正二年十一月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ。
神領5 0町 神官、社僧36人仕えていた。社格
貞観元年正月廿七日(西暦859年)「從五位上」と云う位を給う。
之は「三代実録」の文中に見える。又延喜式十巻〔神名帳〕(西暦920年頃の書)(こ「筑前国下座郡美奈宜神社三座〔名神大〕」と記載あり祭礼
十月二十二日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が今なほ行はれている
現地案内板より
【由 緒 (History)】
美奈宜神社(荷原)
神功皇后の熊襲平定を創始の由来とする神社。
当時、熊襲がこの地を本拠としていましたが、神功皇后は栗尾山に陣を敷き、これを討ちます。その後、三奈木川のほとり「池辺」にヒモロギを立て戦勝を奉告したといいます。
後に、仁徳天皇の勅願により「池辺」に創祀。天平勝宝3年(751)旧暦9月22日喰那尾山頂の陣跡へ遷座。元弘3年(1333)大宮谷へ遷座し、天正2年(1574)11月領主秋月種実の頃、現地へ遷座しました。
朝倉市HPより
https://www.city.asakura.lg.jp/www/contents/1346898923750/index.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿・幣殿
・拝殿
・本殿奥の10宇の石祠群
〈筑前國の式内社十一社の内 美奈宜神社を除く十社〉
・〈本殿向かって右奥〉・大神宮・宮地嶽神社
・〈本殿向かって左奥〉・高木神社・龍神社・厳島社
・手水鉢
・臥牛像
・〈池の淵に並ぶ〉石祠群
・お堂
・神門・注連柱
・社務所
・三の鳥居
・二の鳥居
・美奈宜神社 大銀杏
美奈宜神社大銀杏
平成四年九月十四日指定
この大銀杏は寛永十六年(一六三九年)黒田美作一成(三奈木初代の殿様)が社殿再興の記念として植樹したと伝えられ樹齢は約三五〇年余を経ており、高さ約二十六米余、周囲六米余で樹勢旺盛で、住民の目を楽しませ、シンボルとして親しまれています。
平成五年三月 三奈木全員協議会現地案内板より
・社頭・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈創建の地〉美奈宜川上の池邊
〈仁徳天皇の御宇 美奈宜川上の池邊といへる所に始めて創祀〉
・飧那尾神社〈美奈宜神社上宮跡〉(喰那尾山頂)
〈文武天皇 大宝元年旧九月二十二日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡 遷座の地〉
・美奈宜神社 中宮跡
〈元弘三年(西暦1333年)大宮谷(美奈宜神社から100M上)へ遷宮した場所〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道ノ諸ノ神に 進階(クライ)を及ひ 新に叙つ 惣て二百六十七社なり
奉授に淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉都彦命二品
・・・
・・・筑前國
正三位勳八等 田心姫神 湍津姫神 市杵嶋姫神 並從二位
正五位下 竈門神 從五位下 筑紫神 並從四位下
從五位下 織幡神 志賀海神 美奈宜神(ミナキノカミ)に 並に從五位上
无位 住吉神 從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・志加海神社三座 住吉神社三座 宗像神社三座 八幡神社一座 筑紫神社一座 竈門神社一座 美奈宜神社三座〈已上筑前国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑前國 19座(大16座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)下座郡 3座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 美奈宜神社 三座(並名神大)
[ふ り が な ](みなきの かみのやしろ みくら)
[Old Shrine name](Minaki no kaminoyashiro mikura)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)には 二つの論社があります
『筑前地誌略』には 美奈宜神社は二ヶ所と記しています
゛美奈宜神社 二所あり、一は荷原村、一は林田村に在り、共に郷社たり、・・゛
【原文参照】
・美奈宜神社(朝倉市林田)
美奈宜神社 (みなぎじんじゃ)は 社説に゛今から千八百年前 神功皇后が三韓征伐の御時 冥助あり 此所に祭り給い゛と云え 『六国史』にも貞觀元年(859)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記される由緒ある古社です 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)の論社です
美奈宜神社(朝倉市林田)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉
・美奈宜神社(朝倉市荷原)
美奈宜神社(みなぎじんじゃ)は 創始について 神功皇后の 熊襲゛羽白熊鷲(はしろくまわし)の平定゛に由来します 『六国史』には 貞觀元年(八五九)美奈宜神(ミナキノカミ)として 神階の奉授が記され 延喜式内社 筑前國 下座郡 美奈宜神社三座(名神大)(みなきの かみのやしろ みくら)とされます
美奈宜神社(朝倉市荷原)〈延喜式内社 名神大社 美奈宜神社〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
甘木鉄道 甘木駅から東へ約7.8km 車15分程度
境内の南を流れる佐田川には二つの橋が架かり 鳥居に向かう寺内橋を渡ります
美奈宜神社(朝倉市荷原)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり 参道を進みます
二の鳥居 三の鳥居と続き 山の麓へと参道が伸びています
美奈宜神社の後ろにある山が 神功皇后がの熊襲平定の陣を築いた゛喰那尾山(栗尾山)゛です
その後 注連柱 神門と禊が続きます
これ程の結界が張られているのは やはり゛羽白熊鷲(はしろくまわし)゛に対するものなのでしょうか?
神門の横にはお堂が祀られています
参道の石段を上がります
中段には 池があり 神橋が架かり 再び゛禊゛があります
石段を上がり
拝殿にすすみます
拝殿の脇には 清冽な水が豊富に流れる 手水があり 清めます
天井にあるのは゛干支恵方盤(えとえほうばん)゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿内には 絵馬が奉納されていました
社殿に一礼をして 参道を戻ります
一の鳥居は 南を向いていて その先には゛寺内橋゛があります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛林田村、美奈宜村 両所に、飡那尾大明神と称す社あり、共に美奈宜神社と云り゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田) ②美奈宜神社(朝倉市荷原)〉の二ヶ所を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社
美奈宜は假字也、〔和名鈔、郷名部、水城、美那木〕
〇祭神 詳ならず
〇林田村、美奈宜村 両所に、飡那尾大明神と称す社あり、共に美奈宜神社と云り、
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕筑前國 美奈宜神社三座、
續風土記、
林田村神社の所に、社家の説には、此社則 延喜式に、所載筑前十九神の内 美奈木神祉なりと、昔より云傳ふ、祭る所の神、中間は大己貴命、東間は素戔嗚尊、西間は事代主命と云、〔中略〕社家又傳て曰、此れ神功皇后三韓を退治し給ふ時、冥助在に依て、比所に祭給ふと云、事代主の神霊告在し事は、日本紀に見え侍ればさもありなん、宗像神社の綠起には、神功皇后此所に河貝子(ミチコ)を集て城とし、熊襲を欺き亡し給ひし所なれば、蜷城(ミナキ)と云と見えたり、長田、八重津、徳淵、上畑、中村、片延、鵜木、林田、八村を宮郷と號し、此御社を産霊に祭りぬ、〔中略〕昔は此宮所の境内方九町といへども、今は田と成て廣からず、往昔の惣門は、上畑村に有しと云、」
今猶其名のみ残りぬ、御社より三町計隔て鳥居の立し跡あり云々、』
又此郡 美奈宜村栗尾〔喰那尾とも云〕明神の社人は、栗尾社を以て美奈宜神社と云、今美奈宜と云里より林田までは遠ければ、林田の社を美奈宜の社と謂し事妄説なるべしと云い、〔中略〕且林田の社の方古き證據有様に明ゆれど云々、又明決にして不暗昧、且古今の故實を能考で知れる人ならでは、聞分つ事成難かるべし、
また栗尾明神の件に、祭る所の神三座、第一殿住吉明神、第二殿神功皇后、第三殿竹内宿禰なり、此社始は三奈木村の川上に在、其後栗尾山の頂に鎭坐し給ふ、然れども其所風雨烈しければ、下の方に遷し奉る云々といへり、
連胤按るに、かかるたぐひ外にもあり、山城國許波多神社 此水城ノ説ニ既ニ神名帳考証ニ伴氏ガ學タルヨリ爰ニモ誤來レリ元水城ハ御笠郡也 美奈宜ハ下座郡也 其間五六里ヲ隔ツ 此等實地ヲ踏ズシテ机上論ノ弊ヘナリ斯ルコト諸国ニ多シ 古典ト地圖トヲ照準シテ勘フベキコト也 即左ニ圖ヲ示ス・・・・
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛今 林田村に在り、宮郷八村の産土神と云゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田)〉を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社三座
今 林田村に在り、宮郷八村の産土神と云、〔筑前續風土記、和爾雅、神名帳考証〕
蓋 大己貴命、素戔嗚尊、事代主命を祀る、〔美奈宜社傳、参取土人傳説〕
清和天皇 貞観元年正月甲申、從五位下美奈宜神に從五位上を授け、〔三代実録〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕凡 其祭三月九月廿一日六月晦を用ふ、〔福岡縣管内神社考証〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 美奈宜神社 三座について 所在について゛林田村 (朝倉郡蜷城村大字林田)゛と記し〈現 ①美奈宜神社(朝倉市林田)〉を示しています
【抜粋意訳】
美奈宜神社三座(並名神大)
祭神 素戔嗚尊 大己貴命 事代主命
今按 福岡縣神社考證書に 綠起に神功皇后異國退治の時 富社の三神形を現し玉ひて 干珠を以て海中に投入 蜷を集めて山を築き城を構へて 異賊を待玉へば異賊彼蜷城に登りし時 満珠を以て海中に投入玉へば 鹽もとの如くに湛て異賊は海の藻屑と流行けり 故に御帰朝の後 此所に社壇を築き三神を崇祭る因て 蜷城大明神と稱すと云る 蜷城の事は美奈宜と蜷城と音通ふよりの付会なれど 三神の威霊を顕して征韓の事を助け玉へるによりて祭られたる事著し姑く附て考に備ふ
祭日 三月九月廿一日六月晦日
社格 郷社所在 林田村 (朝倉郡蜷城村大字林田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
美奈宜神社(朝倉市荷原)について 式内社 美奈宜神社三座(並名神大)としています
但し 式内社 美奈宜神社の論社は 二つあり〈①朝倉市林田 ②朝倉市荷原〉あり その論点を記し 決定は出来ないとも記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 筑前國 鞍手郡頓野(トンノ)村字内ケ磯
縣社 美奈宜(ミナギノ)神社
祭神 天照皇大神 住吉大神 春日大神
仁徳天皇の御宇、美奈宜川上の池邊といへる所に始めて創祀せしを、
文武天皇大宝元年三月神託ありて、同年九月二十二日栗尾山に遷座し給ふ、
然るに其社地たるや、山の絶頂にして、暴風の憂あるが故に、中世山の麓なる大宮谷に移りまします、
其後 領主秋月長門守種美、其子駿河守種長父子、深く此神を尊敬し、大宮谷は通路険岨なるを以て、天正二甲戌年十一月当地へ移さる、
其後 国主黒田甲斐守長政の家臣、黒田美作一成当郡三原木村に居住し、寛永十六卯年九月再建ありたり、今の社殿即ち是也、
三代実録に、貞観元年正月、筑前國從五位下美奈宜神に、従五位上を授け奉られたる事見えたり、
明治五年村社に定まり、同十二年郷社に列し、同三十四年縣社に昇格す。社殿は本殿、渡殿、拝殿、神輿庫、神門、石鳥居、社務所を具備し、境内千百四十坪、(官有地第一種)を有志、老木欝蒼として頗る神寂たり。
因に云ふ、當 美奈木神社は、同郡蜷城村字林田にある社と社名同一なるを以て、古來その正偽に関し、學者両派に分れて論ある社なりとす、
今当社に關する論拠の資料を挙ぐれば、
今当社に関する有力なる史料の、實着なる研究をなせるものは、國人末永虚舟氏の筑前霊鑑、及筑前績風土記拾遺、太宰管内志、筑陽記等此の國の地誌書は、貝原氏の續風土記を除くの外は 大方荷原村栗尾神社に左担せざるなし、又美奈宜村舊事覚帳にも此由委しく論じたり、
今其等の諸説の要点を摘録すれば、
- 本社は往古より式内美奈宜神社と云ひ伝へたり、然るに喰那尾山に御鎮座ありしより、喰那尾明神とも、栗尾明神ともいへり。
- 本社は三奈木村にあらずして、其隣村なる荷原村にあり、よりて美奈宜神杜にあらずと云ふものあれど、荷原は三奈木の支村なること、續風土記拾遺等に詳なれば、往古は三奈木の内なりしこと明也、且三奈木の隣村なる城、矢野竹、山見、田代等の諸村は、何れも三奈木の支村なりしを、慶長七年に分れて別村となれること明なれば、本村も又三奈木の内なりしことを證するに足る。
- 往古より三奈木、城、矢野竹、山見、田代、屋形原、柿原、堤、板尾、及び荷原の十村は、栗尾明神を以て産土神とし、就中本社の祭典を、主として三奈木村より執行す、これ美奈宜神社たる一證なり。
- 舊領主秋月家よりの社領寄進状に、美奈宜神社とあり、是亦一の確証也。
- 九州軍記に見えにる美奈木彌平次の宅跡は、今の荷原の内字石松といふ所にあり、亦以て荷原の美奈木の内なりしを證するに足れり。
- 本社に美奈木郷中の大社にして、往古は社具甚多く、社殿壮麗にして、神人社僧多かりしが、秋月種實氏移封の後大に衰頽せり、然れども今日に至る迄一郷の大社たり、亦以て傍證とするに足れり。
- 本社の大社にして、領地多かりしことは、土地の字に、御供田、燈寵田、僧都田等、其他種々の名称の存するにても明也、
と云ふにあり、
荷原村、栗尾明神社の方も、林田村と同じく、古書の徴證とすべきもの多からざれど、林田神社にして既に美奈宜神社ならずとせば、美嚢の郷中に求めざるべからず、然るに三奈木近傍には他に類社なく、かつ往古より今日に至る迄、三奈木外九村の産土神としつつあるによれば、栗尾明神は、まことの式内美奈宜神社なりと思はる、されども今確かに當社なりと断定を下すを得ず暫き記して以て参考に質する而巳。境内神社
高木神社 龍神社 大神宮 嚴島社 琴昆羅社
宮地嶽神社 宗像神社 織幡神社 箱崎神社 住吉神社
志賀神社 志度神社 筑紫神社 寶満神社 麻氏良布神社
彌永神社
【原文参照】
美奈宜神社(朝倉市荷原)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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筑前国(ちくぜんのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 筑前国(ちくぜんのくに)には 19座(大16座・小3座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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