御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
御食神社(Mike shrine)
【通称名(Common name)】
・辰の宮さん
・辰神さん
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市神社港(かみやしろこう)字南小路1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》水戸御饗都神(みなとのみけつかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・御饌(みけ)の神
・火難水難を除く
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
御食(みけ)神社(辰の宮)
外宮摂社であり、神社港の氏神です。
寛文3年(1664) 330年前に再興された。
貞享元年(1684) 310年前に氏神となった。祭神は速秋津比古命(はやあきつひこのみこと)
速秋津比売命(はやあきつひめのみこと)の二柱を祀る。
中世の龍神信仰に結びついて地元は「辰の宮さん」「辰神さん」と親しんでいる。
正月早々の辰のHに辰の井のお水を受ける信仰が残っている。火難水難を除くという初辰行事です。神社港(かみやしろこう)歷史散策ガイド
社頭の案内看板より
『神宮摂末社巡拝 下』に記される内容
【抜粋意訳】
御食神社(みけじんじゃ)
大湊の町を再び戻って神社町に行く。町の港口にあるのが、豊受大神宮の攝社御食(みけ)神社である。
御食神社といふ社名の意味は、この港口から大神宮に海産物の御料を調進する、御饌(みけ)の神を祭る神社であるからである。豊受大神宮延曆儀式帳に水戸御食都神社(みなとのみけつかみのやしろ)と見えてゐる神社がそれで、この當時既に官幣供進の社の一つに数へられてゐるから一千年以上の古社である。
水戸といふのは、水の入り込んでゐる港のことで、今の大湊から神社港の邊りの湾口を廣く稱したものと思はれる。
延喜大神宮式には、御食(みけ)社、同齋宮式には御饗(みけ)社、同神名帳には御食神社と見えてゐる。何れも同一の神社である。
倭姫命世紀によると、皇大神宮御遷幸の御とき、鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉ったので、その功績を賞して、水饗(みけ)社を定めたのが、本社の起源であると傳へてゐる。境内にある「辰の井」といふのが、そのときの清水であるといふのである。鎌倉時代には、一つの神道思想から、祓いの精神が重んぜられたゝめ、本社を水戸神(みなとのかみ)とし、これを速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)に宛ててゐる。これは大祓の言葉の中に見える水門を守る祓の神に宛てたものである。この社も戰國時代 社地湮滅に帰したのを、寛文三年この地に再興したものである。本社は現在神宮の攝社であると共に、神社町の 産土神として、神社町からも奉齋されてゐる。攝末社の元來の姿を示してゐるものとして注意さるべきものである。
神社港は山田の入口の港口として、海路から來る参宮者を以て最も賑合った所である。現在は各地から汽車の便がついたため、船路を利用するものが段々少くなって來たが、江戸時代から明治の初年にかけては、遠州・三州・尾張からの参宮道者は多く、ここに海路を利用して來たものである。ために、小さい町ではあるが、酒樓、旅館、劇場さへも設けられ、参宮道者の接待に當ったものである。
暮れかかる春の日射しは、港外の水をやはらかく照らしてゐる。朝熊山を望み、海路遠く伊勢湾を隔てゝ三河の知多半島を霞の中に眺めてゐると、今でも、伊勢音頭の唄を歌ひながら、道者船が上って來るのではないかと思はれるやうな、昔なつかしひ思い出の港である。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『大神宮叢書』に記される内容
旧鎮座地として゛大湊村と樫原村の界に舊地あり゛〈現 志宝屋神社(伊勢市大湊町)の辺り〉との説があることを記しています
【抜粋意訳】
外宮宮社 所攝神社 水戸御食津神社
此社は帳に水戸御食都神社、式に御食社とあり。(神名祕書に御饗社に作れり)
水戸は河より海へ流れ落る處をいふ。(今湊と云も水戸なり。)
御食都神の名義は上(大宮の條、)にいへり、又古事記に水戸神ませり。御食に故あれど此神とも定めがたし。(占事記に、於に出雲國之多藝志之小濱、造に天之御舎而、水戸神之孫 櫛八玉神為に膳夫、献に天御饗云々、と見え、また水戸神、速秋津日子、速秋津比賣二柱神もあり。よく考ふべし。)
此社地は神名祕書、また神境紀談に、箕曲郷大口村に在といへり。(大口村は今 神社村といふ。此村を神社といふも此神ある故といヘリ。寬文三年に此地に御食社を建たり。其時 大司精長朝臣より村正に書を賜へり。今に秘蔵すといへり。)
一説に、大湊村と樫原村の界に舊地ありともいへり。(水戸は海の落口なれば、今の神社村にては似つかはしからざれば、一説を傳へたるなるべし。今はいづれと定めがたし。)
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・辰の井(たつのい)
『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉ったので その功績を賞し 水饗(みけ)社を定めたのが本社の起源であると傳えている この「辰の井」が そのときの清水であると云い伝えられている
〈新年最初の辰の日に、地域住民が辰の井から汲み広げた水を参拝者に配る神事あり〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
御食神社は 豊受大神宮(外宮)の摂社です
・豊受大神宮(外宮)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭に並預゛と記されます
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 御食神社
[ふ り が な ](みけの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mike no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
現在の大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります
現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています
『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地
゛長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地湮滅して明かならず。
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にありとし、或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり
・長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?
・大水神社(伊勢市御薗町長屋)
・神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?
大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です
・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
・神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?
・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
船江上社(伊勢市船江)
・箕曲神社(伊勢市小木町)
〈箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です〉
箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています
箕曲神社(伊勢市小木町)
『大神宮叢書 前篇(1932年)』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地
゛今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしるし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神社といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故なり。上にいへる水戸御食都神社は神名秘書に、大口村に在て今の神社村なりとあれど、其條に論ふ如く、水戸の字神社村に似つかはしからず。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります
・水戸御食都神社(大口村)大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?
御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です
・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊勢市駅から県道201号経由で神社港方面に北上 約3.8km 車15分程度
私は二見町の御塩殿神社(伊勢市二見町荘)から 西へ神社港を目指しました
・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
御塩殿神社(みしおどのじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 元来 御酒殿神又は由貴御倉神と同じく 独立の神殿を設けず 御鹽殿内に奉祀されていました 後世に至り 別に神殿を造立し 現狀と為します 御塩殿(みしおどの)では 三角錐の土器型に荒鹽(あらしお)を入れ 忌火で焼き固めた堅鹽(かたしお)を作り これを御鹽(みしお)と云い 神宮に調進します
御鹽殿・御塩殿神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
五十鈴川を渡り 勢田川の河口に架かる一色大橋(いっしきおおはし)を渡るとすぐ下の方に見えてきます
一色大橋の右下にある建物は 神社小学校〈令和3年(2021)3月31日をもって閉校〉が見えるので その東側 勢田川沿いに鎮座します
境内は 高い生垣に囲まれています
生垣に沿って歩くと 鳥居が建ちます
御食神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に参着
一礼をして 鳥居をくぐり参道を進むと
左手〈境内の東側〉に 地を這うように龍のような大木があり
その下に井戸があり゛辰の井(たつのい)゛とあり
『倭姫命世紀』に 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている その清水の井戸とのこと
一番奥〈境内の東南〉に 何か石が祀られているので 近づいてみました
石の前には 小さな鳥居 その下に置かれている 急須のような注ぎ口の付いた土器のようなものが捧げられています なんだろうか?
ここから境内を見ると
南を向く社殿の前には゛玉垣に囲まれた木゛が祀られていて その手前には石垣で囲まれた池〈入り江の名残とされるお堀跡〉があります
私は 北側の参道〈社殿向かって右側〉から入りましたが
西側の入口〈社殿向かって左側〉が表参道のように見えます
水は入っていませんが 舟形をした石の手水鉢の置かれた手水舎があります
神宮の管轄ですが 賽銭箱が置かれていましたので 賽銭を納め
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 神域は玉垣が廻され 石垣で一段高い壇となっていて 中は覗けませんでしたので
社殿の隣に古殿地(こでんち)〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所〉は わかりませんでした
正殿の周囲にも玉垣はありましたので 二重の玉垣に囲まれていることとなります
社殿に一礼をして 表参道の方へ出てみます
表からの境内の様子です
車を止めた勢田川沿いに戻ると 防潮堤に狛犬や龍神の絵が描かれていましたので傍によって 見てみると卒業記念の絵なのだろうか 綺麗に書かれていて 心が和んだ記憶があります 敬意を表して゛2013.2.17 神社小6年 井村汐音 山羽雄斗 森龍馬 東川光華 長谷川礼 石橋啓介 中村笑夢 大西菜月 中村仁志゛神社小学校〈令和3年(2021)3月31日をもって閉校〉
ちょうどこの場所に 無数のトンボが飛んでいて この日(2015.6.28)のことはよく覚えています
防潮堤の出入り口が開いていて 河口へ出てみると 勢田川と五十鈴川の合流した広々とした河口があり 船着き場があります
明治以前の 伊勢神宮への参拝者は 船で伊勢湾を超えて この゛神社港゛について ここから五十鈴川を遡り 参拝をしていたとのこと
『神宮摂末社巡拝』
゛神社港は山田の入口の港口として、海路から來る参宮者を以て最も賑合った所である。現在は各地から汽車の便がついたため、船路を利用するものが段々少くなって來たが、江戸時代から明治の初年にかけては、遠州・三州・尾張からの参宮道者は多く、ここに海路を利用して來たものである。ために、小さい町ではあるが、酒樓、旅館、劇場さへも設けられ、参宮道者の接待に當ったものである。゛
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 御食神社について 所在は箕曲郷大口村 今云、神社村、に在す〈現 御食神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記されています
【抜粋意訳】
御食神社
御食は美氣と訓べし
○祭神 大御食津命
○箕曲郷大口村 今云、神社村、に在す、神名略記
○式四、伊勢大神宮 渡会宮所摂十六座の第十六に載す、
○倭姫世記云、爾老爾、何處吉水在問給支、其老以に寒御水御饗奉支、于時讃給、其水門爾、水饗神社定賜支、』
御鎮座本紀云、中臣祖大御食津命、坐に度相郡、號に御食社、』
外宮儀式帳云、水戸御食都社、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 御食神社について 所在は箕輪郷 神社村に在り〈現 御食神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記されています
【抜粋意訳】
御食神(ミケツカミノ)社
〇按 御食或は御饗に作
又 水戸御食都神社といふ、延暦儀式帳
今 箕輪郷 神社村に在り、神祇本源、神名秘書、、神名帳考証、神名略記、
水戸神 速秋津日子神を祀る、神祇本源、神名秘書、醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 御食神社について 所在は度會郡神社町大字神社港〈現 御食神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記されています
【抜粋意訳】
御食神社
祭神 御食都神
今按 齊宮式に御饗社儀式帳に水戸御食都神社 倭姫命世記に水饗社とあり
祭日 二月上亥日上子日
社格 外宮所攝 十五所之一 (外宮攝社 )所在 三重縣箕曲郷神社村 (度會郡神社町大字神社港)
【原文参照】
御食神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について