実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

瓺か神社〈みか神社〉(美里町広木)

神社〈みか神社〉みかじんじゃは 創建は不祥ですが 延喜式内社 武蔵国 那珂郡 神社(みかの かみのやしろ)であるとされています 江戸時代の享保年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ 宝暦年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とあります 古来 旧那珂郡の総社と称されています 

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

神社(Mika shrine)

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

埼玉県児玉郡美里町広木1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》櫛御野命(くしみけぬのみこと)
   玉命(くしみかたまのみこと)

明治37年(1904)合祀の5社
合祀 三島社大山咋命(おほやまくいのみこと)
合祀 稲荷社宇賀能御魂命(うかのみたまのみこと)
合祀 社宮司社
 天宇受女命(あめのうず゛めのみこと)佐田比古命(さたひこのみこと)
合祀 秋葉社迦具土命(かぐつちのみこと)
合祀 八坂社須佐之男命(すさのをのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

神社(みかじんじゃ)

所在地 児玉郡美里村大字広木

 神社の創立年代は不詳であるが、醍醐(だいご)天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命(くしみけぬのみこと)、櫛玉命(くしみかたまのみこと)の二神が祀られている。江戸時代の享保年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。現在の社殿は宝暦十三年に再建したもので、これを記した棟札(むなふだ)が残っている。

 社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(ミカ)(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる土師器(はじき)のミカが四個保存されている。

 例祭は、毎年十三日と十五日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒(どぶろく)を二瓶(びん)造り、これを神前に奉納して、その一つは翌年春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物(ごくもつ)として参拝者に分け与えている。
昭和五十八年三月 埼玉県

現地掲示より

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【由  (History)】

第62回伊勢神宮式年遷宮記念

みか神社神社 御由緒

御縁起(歴史) 美里町広木(ひろき)一

 武蔵国の北辺にあって上野(こうずけ)国と交流を持った郡の一つに那珂(なか)郡(中郡)がある。この郡は当初、賀美(かみ)郡(上郡)榛沢(はんざわ)郡(下郡)と共に栄え、当社はこのうち那珂郡総鎮守として祀られた神社である。鎮座地の広木は『和名秒(わみょうしょう)』の「那珂郡弘紀(ひろき)郷」の遺称地とされる。

 史料の初見は、『延喜式』神名帳の「神社」(ミカノ・ミカイノ)である。古代祭祀に関与した奉斎集団の古墳群は、身馴川に沿って分布する秋山古墳群・広木大町(ひろきおおまち)古墳群、後山王古墳群がある。これらは発掘によれば埴輪(はにわ)を持ったものが多い。また、これらの古墳に埴輪を供給したとされる埴輪窯として、近くに宇佐久保窯跡がある。更に、「神社前遣跡」は、六世記の竪穴住居跡で、埴輪が出土している。

 中世は、那珂郡一帯を武蔵七党猪俣(いのまた)党が本拠地としたことから、これら武士団の崇敬があったと思われる。また、行田市の長久寺に蔵する明応年(一四九八)月の年紀をもつ大般若経(だいはんにゃきょう)一一〇奥書に「児玉郡塩谷(しおや)郷阿那志県玉大明神宮」と当社のことが見える。

 明治初年に村社となるが、式内社であることをもって明治三十七年に県社に昇格した、同四十年には神饌幣帛料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社の指定を受け、三島社・稲荷社・秋葉社・八坂社・社宮司(しゃぐうじ)社の五社を合祀した。

御祭神

櫛御野命(くしみけぬのみこと)
玉命(くしみかたまのみこと)

御祭日
・祈  祭(二月十八日)・春の大祭(四月十三日)
・秋の大祭(十月十五日)・新嘗祭(十一月二十四日)

現地案内板より

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由緒

 当社の創立は詳かでないが 延喜式神名帳に所載の古社であって 古来 旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇六十代 後醍醐天皇の延喜の年代の頃 中央に於て 全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云い この書物に登載され居る社を式内社と云います。」
神階は 往古は不明であったけれども 享保8年 正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。
神領は 徳川幕府の時代に 地頭より除地四段八畝歩を寄附せられ 尊敬最も厚かった。
祭典は 春秋2季に行い 毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二・を造り之を撤し 其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し 何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって 往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが 現今は中止されて居る。
尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

古い由緒書き〈同文〉

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿・幣殿

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・拝殿・社殿

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〈覆屋に祀られる七社の境内社 

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〈向かって右から〉

産泰諏訪

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天満天神宮神明蚕影

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山王神社松尾

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〈立ち並ぶ7宇の石祠〉

古峯山、鹿島社、稲荷社、愛宕社、天手長社、大雷社、弁天社

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〈本殿の向かって左側〉

・社日社《主》天照大神,倉稲魂命,大己貴命,少彦名命,埴安姫命

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・神楽殿

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・手水舎

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・鳥居

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・社務所

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・社頭の社号標

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那珂郡 1座(小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 神社
[ふ り が な ]みかかみのやしろ)
[Old Shrine name]Mika no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

社号の 瓺みか゛について

「みか」は 漢字で「瓺(み)」+「(か)菱+玉〉と書きます

あるいは
「みかたま」と読み 漢字で「瓺(みか)」+「(たま)」とする場合もあります

(か)は 特殊で社號に使われている文字です

みかとは酒を造るために用いた大きな甕(ミカ)(かめ)のこととされ 神社には かつては 例祭で濁酒を作って供えるなどの祭祀があり 御神宝とされていたと思われる土師器(はじき)の甕(ミカ)が四個保存されています

甕星(みかぼし)と名の付く神゛天津甕星(あまつみかぼし)゛について

「天津甕星(amatsu mika boshi)」とも呼ばれて 日本神話では「唯一の星神」とされている異例な神です(太陽と月は除きます)

『日本書紀(nihon shoki)』出雲の国譲りの段に見える 最後まで天津神に従わなかった神様として゛天香香背男(あめのかがせお)゛と云う有名な神さま
別名を゛星神香香背男(ほしのかみかがせお)゛または゛天津甕星(あまつみかぼし)゛と云い 星の神様〈太陽神でも月神でもない〉で おそらくは縄文の神か? 妙見信仰などが渡来する以前からの 星を信仰するものとされます

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に゛天津甕星(あまつみかぼし)゛の記される伝承

 本文の「葦原中津国平定」の段において

大国主命(okuninushi no mikoto)が 国譲りを承諾された後 出雲国内の平定を推し進める 天津神(大和)に最後まで従わなかったので「星神・悪神」と記されます

【抜粋意訳】

日本書紀 出雲の國譲りの段

第九段本文

一説によれば

二神〈經津主神(futsunushi no kami)と武甕槌神(take mikazuchi no kami〉は ついに邪神や草木・石の類を誅伐して 皆すでに平定されました

唯一従わぬ者は 星の神・香香背男耳(kagaseo no mimi)だけとなりました

そこで 倭文神(shitori no kami)を派遣して 服従させました

そして 二神〈經津主神(futsunushi no kami)と武甕槌神(take mikazuchi no kami〉は 天に登って復命されました

倭文神 これを「斯圖梨俄未(shitorikami)」と云います

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

【抜粋意訳】

日本書紀 出雲の國譲りの段

第九段一書(第二)

別の言い伝え(第二)によると

天つ神は 經津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかつちのかみ)を葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定に遣わせた

そのとき 二柱の神は
「天に悪い神がいます その名を゛天津甕星(あまつみかほし)゛と云い またの名は゛天香香背男(あまのかかせお)゛と云う
まずこの神を除き それから天から降って 葦原中国を平定させて頂きたい」と言った

このとき 戦いの門出を祝う 斎主(いわいぬし)を斎大人(いわいのうし)と云った
この神は 今 東国(あづまのくに)檝取(かとり)〈香取神宮〉の地に在った

時に 二柱の神は 出雲(いずも)の五十田狭小汀(いさたのおばま)に降って 大己貴神(おほなむちのみこと)に
「あなたはこの国を天つ神に奉るかどうか」と問われました

大己貴神(おほなむちのみこと)は
「疑わしいのは おまえたち二神である 私は 元々ここに居た そこへ来たではないか 許すことは出来ぬ」と答えました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

星神゛天津甕星(あまつみかぼし)゛を封じ祀る神社について

『日本書紀』に記されるように 天津神である 二神〈経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかつちのかみ)〉は ゛天津甕星(あまつみかぼし)゛を封じ祀る神としての意味合いも持っているようです

 こうした伝承によるものか 当社も 社記に「武甕槌命ヲ祀レル所」とあり 祭神について゛武甕槌命゛とする説があります

 ゛天津甕星(あまつみかぼし)゛を封じ祀る神として 祀られている神社をみてみましょう

゛天津甕星(あまつみかぼし)゛の坐しました 出雲の地に祀られる神社

・那冨乃夜神社(八雲町東岩坂)

一緒に読む
那冨乃夜神社(八雲町東岩坂)

那冨乃夜神社は「星の神」が降臨されたという伝説のある山「星上山」に鎮座します 御祭神は『日本書紀』の「出雲の国譲り神話の舞台」で 大国主命(okuninushi no mikoto)が 国譲りを承諾された後 出雲国内の平定を推し進める 天津神(大和)に最後まで従わなかった神として 「星神・悪神」と記されています その国津神の名は「星神加加背尾命(hoshinokami kakaseo no mikoto)」を祀ります 合わせて祀られている神は 出雲に国譲りを迫った 2柱の天津神「經津主命・武甕槌命」です まるで「星の神」の復活を抑えるかの如く祀られていて まるで 東出雲を一望する山の頂きから 今でも古代出雲の中心地「意宇郡」を鎮めるかのように坐ます

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・〈市森神社に合祀 星宮大明神〉市森神社(出雲市稗原町)

一緒に読む
市森神社(出雲市稗原町)

市森神社(いちもりじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載・神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」・神門郡 不在神祇官社「加夜社(かや)のやしろ」の二つの論社の合祀社で かつて薭原両社とも称され一つの拝殿に御本殿は「星宮大明神」「市森大明神」の同形同大の二社であったと伝わります

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゛天津甕星(あまつみかぼし)゛を誅した 二神〈経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかつちのかみ)〉の地に祀られる神社

・大甕神社(日立市大みか町)
・甕星香々背男社(日立市大みか町)

・白河鹿嶋神社(白河市大鹿島)〈御神体山 甕の杜(みかのもり)〉
延喜式内社 陸奥國 白河郡 白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社

一緒に読む
鹿嶋神社(白河市大鹿島)

鹿嶋神社(かしまじんじゃ)は 社伝によれば 光仁天皇の御代 宝亀年間(770~780)この地に祭られ 弘仁2年(811)坂上田村麻呂が東夷征伐の際 改めて常陸国鹿島大明神を勧請した神社〈白河以北を守る武神〉とされます 延喜式内社 陸奥国 白河郡 白河神社(しらかはの かみのやしろ)の論社でもあります

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・側高神社(香取市大倉)〈香取神宮 第一摂社〉
〈四箇の甕〉

一緒に読む
側高神社(香取市大倉)

側高神社(そばたかじんじゃ)は 古来 御祭神は神秘として口にすることを許されず 俗に言わず語らずの神とのみ伝えられ 香取神宮の旧記には「起請することあれば必ずこの神に質(ただ)す」とあります 香取神宮の第一摂社ですが 創建は神宮と同じ「神武天皇十八年戊寅歳始建」とあり 造営についても 本宮と共に常に朝廷の造立されたと伝わります  

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・甕森神社(みかもりじんじゃ)(潮来市釜谷)

 その他゛甕゛神社

・甕宮神社(かめのみやじんじゃ)(鳥取市叶)

古老の伝に天文年中(1532~)より社殿があったと云う

・甕冠神社(筑紫野市山家)

鎮座年号はわからないが 寛永十一年(1671)の再建で平島与兵衛と刻した大甕を奉納これがため甕冠神社と称されるようになった

社号に゛みか゛「 瓺」「甕」などの文字の付く 延喜式内社について

延喜式内社 大和國 高市郡 波多甕井神社(大 月次 新嘗)(はたみかゐの かみのやしろ)の論社

・波多甕井神社(高取町羽内)《主》甕速日命(みかはやひのみこと)

延喜式内社 伊豆國 那賀郡 瓺玉命神社(みかたまのみことのかみのやしろ)の論社

・神明神社(伊豆市八木沢)

一緒に読む
神明神社(伊豆市八木沢)

神明神社(しんめいじんじゃ)は 一時廃頽し所在不明であった『伊豆国神階帳(1343年)』所載゛みかたま姫の明神゛『延喜式神名帳(927年)』所載の゛甕玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)゛の論社です 又 鎮座地の八木澤は 昔゛米澤゛の地名であったので式内社 稻宮命神社(いなみやのみことの かみのやしろ)との説もあり 現在 二つの式内社の論社となっています

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・山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)

一緒に読む
山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)

山神社〈山王神社〉(やまじんじゃ)は 創建年代などは不祥です かつて゛子ノ神を宇波明神゛゛山王を山神゛と称していたらしく 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の内一座とする説があります 又同じく式内社の瓺玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)の論社ともされています

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・山神社(西伊豆町大沢里宜ノ畑)

一緒に読む
山神社(西伊豆町大沢里禰宜ノ畑)

山神社(やまじんじゃ)は 西伊豆の大浜海岸の辺りから仁科川を溯り 天城連山に分け入る県道59号を進み 仁科の集落を抜けて さらに山道へ〈平家の落人伝説も残る山深い〉祢宜ノ畑の集落に鎮座します 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 瓺玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)の論社とされています

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延喜式内社 武蔵国 那珂郡 神社(みかの かみのやしろ)

(か)は 菱の右に玉〉

・瓺(みか)神社(美里町広木)

一緒に読む
瓺か神社〈みか神社〉(美里町広木)

瓺か神社〈みか神社〉(みかじんじゃ)は 創建は不祥ですが 延喜式内社 武蔵国 那珂郡 瓺神社(みかの かみのやしろ)であるとされています 江戸時代の享保八年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ 宝暦八年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とあります 古来 旧那珂郡の総社と称されています 

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR八高線 児玉駅から県道175号を南東へ約3.2km 車8分程度

R254号沿いに社号標が建ちます

神社〈みか神社〉美里町広木に参着

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参道を進むと 鳥居が建ちます

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一礼をして 鳥居をくぐると 手水舎があります

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参道は ここで直角に折れて ほぼ東に向いて建つ社殿に向かいます
参道の向かって 右手には゛神楽殿゛

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石灯籠が立ち並ぶ参道を
拝殿にすすみます

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拝殿の扁額には゛正一位 神社゛とあります

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が祀られています

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社殿の周囲には 境内社や石祠が祀られています

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境内社にお参りをして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 神社について 社名は゛みかたま゛ 所在は廣木村〈現 神社〈みか神社〉美里町広木〉とし 祭神については゛倭大物主櫛甕玉命゛とも゛甕速日神゛とも載せています

【抜粋意訳】

(ミカタマ)神社

「出雲国造神賀詞」大穴持命 和魂乎 倭大物主櫛甕玉命  名 称天

「式社考」廣木村 正一位 大明神 祭神 甕速日神

〇信友云 は 蕤の俗記 天武紀 大蕤娘(おおぬのいらつめ)旧叓記大蕤槍

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承

神社〈みか神社〉美里町広木ついて 祭神は 武甕槌命を祀る 式内社 神社であると記しています

【抜粋意訳】

新編武蔵風土記稿 巻之二百三十六 那賀郡巻之二

廣木 神社

当郡の鎮守なり 延喜式神名帳に載る所の神社にして 武甕槌命を祀れる所なりと云 させる記もなければ 其證跡を得がたけれど 郡中外に古社とおぼしきものも見えず 且社地の様 古木あまた生立て いかにも神さびて見ゆれば さもあるべし 今安ずるところの神像は 寛政年大興寺現住の寄附なり

末社 天王 稲荷

別當 正学院
修験 白石村 寶積院配下 本尊不動

〇愛宕社〇三島社〇諏訪社〇稲荷社二宇 已上 正學院持
〇天王社二宇〇秋葉社〇辨天社 已上 上福寺持
〇三狐子社 清統寺持
〇天神社二宇 村民持

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 神社について 社名は゛みかたま゛ 所在は廣木村〈現 神社〈みか神社〉美里町広木〉とし 祭神については゛武甕槌命゛とも゛甕速日神゛とも載せています

【抜粋意訳】

神社

 は美加多麻と訓べし

〇祭神 武甕槌命、地名記 又云、甕速日神、式社考

〇廣木村に在す、地名記、式社考

例祭 月 日

連胤云、舊事記、国造本紀、阿蘇国造、
神八井耳命 孫 速甕玉命、」出雲国造神賀詞、大穴持命、己命和魂乎、倭大物主櫛甕玉命  名 称天、とあるを考ふれば、地名記、式社考の説はいかがあらん、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 神社について 社名は゛みかたま゛ 所在は廣木村〈現 神社〈みか神社〉美里町広木〉とし 祭神については゛大物主櫛甕玉命゛と載せています

【抜粋意訳】

(ミカタマ)神社

今 廣木村に在り、大明神といふ、神名帳考土代、巡拝舊祠記、
蓋 大物主櫛甕玉命を祀る、延喜式大要

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社神社について 所在は廣木村〈現 神社〈みか神社〉美里町広木〉とし 祭神については゛延喜式内社 伊豆國 那賀郡 ���玉命神社゛と同じ祭神であると 記しています

【抜粋意訳】

神社

祭神
今按〈今考えるに〉
この祭神 武甕槌命と云ひ 又 甕速日命と云へど の字によりて云るなるべければ信じかたし
伊豆國 那賀郡 玉命神社ある此神社の祭神も同神なるべし

祭日
社格 村社
所在 廣木村

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

神社〈みか神社〉(美里町広木)について 式内社 瓺神社であると記しています

祭神については 社記「武甕槌命ヲ祀レル所」と記されています 

【抜粋意訳】

〇埼玉縣 武蔵國児玉郡松久村大字廣木

縣社 神社

祭神 櫛御氣野(クシミケヌノ)
   櫛(クシミカタマノ)

本社は古來 舊那賀郡の鎮守なり、創立年代詳ならずと雖も、郡中唯一の古社にして、延喜式の神社当社なりと、神祇志料 神社覈録 其他 当國式社考等 皆当社を以て式内社とす、然れども、

「サセル記モナケレバ、其跡ヲ得カタケレド、郡中外二古社トオボシキモノモ見エズ、且社地ノ様、古木アマタ生立テ、イカニモ神ナヒテ見ユレバ、サモアルベシ、」

と新編武藏風土記稿に見えたり、御神体は同記に「今安スルトコロノ神像ハ、寛政年、大興寺現住ノ寄附ナリ」と見えたるが、同御神像は明治維新大興寺に還附せりと、
神位は往古詳ならすと雖も、享保年正一位を授けられ、宝暦年建設の碑に「正一位みかの神社」と勒せり、神領は徳川幕府時代、地頭より除地四反八畝を寄附せり、
古來祭典は春秋二季に行ひ、秋季の例察には、新米を以て濁酒二甕を造りて之を神前に供へ、一は翌年春季の例祭に之を徹し、一は秋季に於て新酒と交換す、何れも神供と称し、祭事に與かる氏子等に分與するを以て例とせり、今尚ほ存す、
明治の初、村社に列せしが、三十七十六日一躍して縣社に列す。

社殿は本殿、拝殿、其他神樂殿等にして、境内は弐千二百三十六坪(官有地第一種)なり。

社祭神は社記「武甕槌命ヲ祀レル所」云々と称し、學者亦之れに随ふものありと雖も、近時此説甚だ振は
特選神名牒に辮して云く、

「コノ祭神武甕槌命ト云ヒ、又甕速目命卜云ヘド、甕ノ字ニョリテ云ルナルベケレバ信ガタシ」、

当杜に宝暦十三年本殿改造の棟札を藏せりと云ふ。

境内社 稲荷神社 鹿島神社 天手長神社 雷電神社 八坂神社 社日神社

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

神社〈みか神社〉美里町広木 (hai)」(90度のお辞儀)

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