妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
〈寺院〉妻沼聖天山 歓喜院(Menumashodensan Kangiin)
【通称名(Common name)】
妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県熊谷市妻沼1627
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》聖天さま
〈大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・夫婦の縁をはじめとし、家内安全・商売繁盛・厄除け開運・交通安全・学業進学などのあらゆる良縁を結んでいただける
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
日本三大聖天の1つ・妻沼聖天山は 治承3年 (1179) 創建
平家物語等で義理人情に厚い人柄が称えられている斎藤別当実盛公が 治承三年 (1179) に日ごろから守護神として身近に置いた大聖歓喜天〈自らの守り本尊である大聖歓喜天〉を祀る聖天社を゛大我井の森゛に建立し 祀ったことに始まります
この゛大我井の森゛は 『延喜式神名帳』に登載された武蔵國 幡羅郡 四座の内の一座である白髪神社が祀られた鎮守の杜であったとされ 式内社 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興した 大我井神社(熊谷市妻沼)に受け継がれています
【由 緒 (History)】
妻沼聖天山ご案内
当山は治承三年(八百数十年前)この地方の庄司齊藤別当実盛公が本尊聖天さまを総鎮守としてお祀りし民衆の祈願所として開創されました。
本坊は実盛公の二男良応僧都が聖天行者の修行所として建立されました。
聖天さまは仏法の守護神でありますので、多くの密教寺院では、寺院を守るために祀られています。当山では直に祈願を篭める人を守る本尊さまとして祀られています。開運・厄除け・縁結びのご利益がいただけます。
聖天さまは秘仏でありますが、そのお姿は宇宙の真理、仏法の悟りをお示しになっておられます。信者は自らの信仰によって真理を体得すれば、心眼でお姿を拝することができます。聖天さまには次のような祈願を電めることが出来ます。
- 厄災消除 •良縁成就 •病気平癒
•受験合格 •交通安全 •旅行安全
•進学成就 •身上安全 •心願成就
•家内安全 •子宝満足 •就職成就
•商売繁盛 •安産守護 •身体健全
•結婚式 •誕生命名 •初宮参り
•十三参り •成人祝祷 •還暦祝祷現地案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈合祀していた伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社の遷座先〉
・大我井神社(熊谷市妻沼)
大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています
大我井神社(熊谷市妻沼)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社〈①白髪神社②楡山神社〉の論社となっている ゛大我井の森゛に祀られていた鎮守 白髪神社〈現 大我井神社〉の旧鎮座地です
①白髪神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 白髪神社
[ふ り が な ](しらかみのかみのやしろ)
[Old Shrine name](Shirakamino no kamino yashiro)
②楡山神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 楡山神社
[ふ り が な ](にれやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Nireyama no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載゛武蔵国 幡羅郡 白髪神社゛には 5つの論社があります
・白髪神社(熊谷市妻沼)
白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます
白髪神社(熊谷市妻沼)
・大我井神社(熊谷市妻沼)
大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています
大我井神社(熊谷市妻沼)
・妻沼聖天山歓喜院(熊谷市妻沼)
〈 ゛大我井の森゛に祀られていた鎮守 白髪神社〈現 大我井神社〉の旧鎮座地〉
妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています
妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)
・熊野大神社(深谷市)
熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります
熊野大神社(深谷市東方)
・東別府神社(熊谷市)
東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています
東別府神社(熊谷市東別府)
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載゛武蔵國 播羅郡 榆山神社゛には 4つの論社があります
『特選神名牒』『神社覈録』『武蔵国式内四十四座神社命附』などは いずれも楡山神社(深谷市原郷)を式内社としています
なお『式社考』が 妻沼の聖天社を『巡礼旧神詞記』が久保島村の山神大権現を それぞれ式内社楡山神社としています
・楡山神社(深谷市)
楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です
楡山神社(深谷市原郷)
・久保島大神社(熊谷市)
久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)は 明治42年(1909)政令により『一村一社』とする為 久保島村にあった 二柱神社 及び 神明社をはじめとする無格社7社をそれらの境内社と共に 村で規模が最も大きい 山神社 に合祀して 山神社を村社に昇格の上 改称して 久保島大神社が誕生しました この山神社は 式内社の参考論社でもあります
久保島大神社(熊谷市久保島)
・大我井神社(妻沼)
大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています
大我井神社(熊谷市妻沼)
・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)
〈 ゛大我井の森゛に祀られていた鎮守 白髪神社〈現 大我井神社〉の旧鎮座地〉
妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています
妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR熊谷駅から国道407号を北上 約12km 妻沼町まで車20分程度
桜の咲く゛中門゛
妻沼聖天山(熊谷市妻沼)に参着
゛中門゛をくぐると
かつて 神仏習合の証か゛仁王門゛の前には゛狛犬゛が座します
一礼をして゛仁王門゛をくぐります
参道の先には゛石舞台゛があり その先には゛拝殿゛が建ちます
境内には゛土俵゛もあります
土俵の奥にも゛狛犬゛が座します
゛拝殿゛にすすみます
お寺なので 線香を手向けます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 両手を合わせ祈ります
御本殿(国宝)は 奥殿・中殿・拝殿よりなる権現造
妻沼聖天山の本殿である゛歓喜院聖天堂゛は国宝です
猿が沢山彫られているのですが 中々見つからないのが゛手挟み(たばさみ)に居る猿゛
この奥殿南面高欄下右端の猿には゛鎖でつながれた猿゛の伝承があります
「この猿 毎夜抜け出しては田畑を荒らしたので 和尚様に鎖で繋がれてしまいました 後に 改心した猿は和尚様に許され 鎖をはずしてもらった」と云写真53
国宝 歓喜院聖天堂
妻沼聖天山は、治承三年(1179)、斎藤別当実盛公がこの地に大聖歓喜天を祀り開基したことに始まります。
その本殿である「歓喜院聖天堂」は、享保二〇年(1735)から宝暦一〇年(1760)に掛けて、林兵庫正清及び正信らによって建立されました。歓喜院聖天堂は、拝殿・中殿・奥殿を結ぶ権現造の建築様式であり、その各所に豪華絢爛な極彩色の彫刻が施されています。奥殿を中心に丸彫や透彫、地紋彫等の緻密な彫刻技法が用いられ、その上に漆塗りや極彩色が加わり、荘厳性を極致まで高めています。
日光東照宮の創建から百年あまり後、装飾建築の成熟期となった時代に、棟梁の統率の下、東照宮の修復にも参加した職人たちによって、優れた技術が惜しみなくつぎこまれた歓喜院聖天堂は、近世装飾建築の頂点であると言えます。そして、このような建物の建築が民衆の力や願いによって成し遂げられた点が、文化史上高い価値を有すると評価されています。
平成十五年から平成二十二年に掛けて歓喜院聖天堂の保存修理工事が実施され、極彩色の彫刻世界が蘇りました。
平成二十四年七月九日に、歓喜院聖天堂は、国宝に指定されました。この国宝指定は、埼玉県の建造物として初の栄誉です。平成二十六年三月 熊谷市教育委員会
現地案内板より
奥殿の奥には 境内社・三宝荒神社・五社神社・天満宮などが祭られています
そのほかにも
゛妻沼聖天山の国指定有形文化財(建造部)゛があります
平和の塔
境内を散策します
桜の花が見事な境内を戻ります
参道のさきには゛貴惣門゛
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
第22代 清寧天皇(セイネイテンノウ)〈在位480~484年〉は 子が無く 跡継ぎのいないことを憂いていた時の出来事として 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣したとあり
当神社の社伝にも「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭 白髪神社」とあります
このあと 同年冬11月に 後継ぎとして 市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の御子の億計(オケ)・弘計(オケ)を見つけました
【抜粋意訳】
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)
〈第22代 清寧天皇〉即位二年の春二月(キサラキ) の条
天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました 願わくは 遺跡を残し 後世(ノチノヨ)に伝えようとされました
【原文参照】
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
第九代 開化天皇の第三皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり」と記されていて この白髪王(シラガノミコ)を式内社 白髪神社の祭神とする説もあります
【抜粋意訳】
右第二巻 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条
軽我孫(カルノアビコ)
治田連(ハリタノムラジ)同祖
彦坐命(ヒコマスノミコト)
四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり初(ハジメ)彦坐命(ヒコマスノミコト)の末(スエ)
賜(タマイ)に 阿比古(アビコ)の姓(カバネ) 成務天皇の御代(ミヨ)賜(タマウ)軽地(カルノトコロ)を十千代(トチシロ)是(コレ)負(オウ)軽我孫(カルノアビコ)姓(カバネ)の由(ヨシ)なり
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 白髪神社の祭神を 第9代 開化天皇の第3皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)」もしくは 清寧天皇(セイネイテンノウ)とする説があると記しています
式内社 楡山神社の論社の所在として 妻沼の聖天宮 もしくは 幡羅村あると記しています
【抜粋意訳】
白髪(シラカ)神社
新撰姓氏録 彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)
式社考 女沼村 白髪大明神 祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)
社記曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭〈諸国に祭った〉白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり祭日 九月朔日
【抜粋意訳】
楡山(ニレヤマ)神社
字鏡 楡 称札
式考 女沼村 聖天宮 サルタヒコ 御朱印 五十石 或いは云う 幡羅村
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
稲荷社と白髪社の合殿で 寶蔵院の所管と記されています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿巻之二百二十九 幡羅郡之四 妻沼村
聖天社
當郡第一の大社にて 長井庄の總鎮守なり 社地に杉 及 槻の大樹繁茂して 其中に本社を立 拝殿共に銅瓦葺にて 荘厳を盡せり 社より鳥居迄三丁餘 神體 中央に歡喜天 左に辨財天 右に大黒天を安ず
縁起の略に云 當社は伊弉諾・伊弉册の二柱の御神鎮座の地なれば 今の女沼・男沼の村名遣りたり 然るに聖天宮と崇め奉る事は 往昔 平宗盛の臣 斎藤左衛門次郎眞直の嫡男 斎藤別當藤原眞盛 仁安年中 平相國清盛の指揮にて關東に下り 當國長井庄を領して爰に住居し 當社信仰の餘に治承三年修造を加へ 彼が曟(晨)祖利仁将軍 延暦三年 霊夢に依て 越前國武生の國府櫻澤地より探獲たる歡喜天を 金ヶ崎五幡の本城に鎮座せり 依て今 其苗裔なれば 當社をも聖天宮と崇め祀しとなり
其後 建久四年 賴朝 武蔵國入間野にて 追鳥狩せさせ賜ひ 直に下野國那須野へ趣賜ふとて 利根古戸の渡へ掛り 三月二十七日當社へ参詣の時 時の別當阿請阿闍梨請ひ奉て 東八ヶ國を勤化し 同き八年 宮社堂宇等悉落成し 聖天山歡喜院長楽寺と號す 又別に 本地堂を建て 東福寺と名付 同年四月八日宮道傔仗平國平 藤原氏人眞家同眞韓末に出せる寶物錫杖銘には 實家實幹に作る 託宣に依て 御正體錫杖 幷十一面観音の像を鋳造し奉る 斯て百三十餘年の星霜を經て 元弘 建武の頃より 海内大に亂れ 應仁 文永 大永の間 東國兵亂の爲 斎藤次朝仁は 由緒あるに依て 越州赤田の保に赴き 斎藤攝津守基雄 同所左衛門基英は 野州安蘇寒川に走り 其外一族從者他邦に離散し 或は近隣に隠れて農民となる かかりければ 當社の修造怠慢して衰敗せしを 忍の城主 式部大輔助高の末葉 成田下總守藤原長泰禅門蘆伯 同左衛門次郎氏長尊敬の餘 家人女沼の地頭 手嶋美作守平高吉に課して 天文二十一年修理を加へ 其後 御當代に至り 慶長九年 社領五十石の御朱印を付せられしと云々
又 社傳に云 寛永十五年二月大河内金兵衛當所の陣屋引拂の時 其地及村の沼地を開て供田に寄附せしより 遂に舊に復して 宮社の造營成しと 縁起に載る所の事蹟信じ難き事のみ多ければ 後人附會の説に出たるも知べからざれど 現に社寶として建久八年の銘ある錫杖 及 暦應二年の鰐口あり 又 天文二十一年 慶長九年 二度の棟札等傳へたれば 古社なることは論なし
又 古縁起に 武蔵國幡羅郡長井庄女沼郷 太我井森聖天宮とあるよりにや 近郷の村民 當所を古歌に詠ぜし名所なりと云 按に 夫木集 武蔵の名所の部 光俊卿の歌に 紅葉ちる太カ井の杜の夕たすき 又 めにかかる山の端もなし 左の言葉書に 此歌は 武蔵野を過けるに まことにやまはみえずして おほか井のもりといふ杜ばかり わづかに紅葉みえけるによめるとあり 是にや されど今唱る處は太我井森にて 光俊卿の歌には 大我井杜とみえたれば 是とは自ら別なるにや 總て田父野老の口碑に殘れるものは たゞ其唱呼のみなれば おほかたと誤り傳ふべきゆへなし 若くは後人 歌集を傳寫せる時 字様の相似たるより たまたまおほかゐと書しにや されど彼 大我井杜と云は 夫木集のみ 光俊卿の歌を引たれど 其餘考るものなければ いと浮たる説と云べし社寶
錫杖一
按 縁起 建久八年四月八日 宮道傔仗平國平等託宣に依て神體を鑄とあるもの是なり 然に此柄の文に 宮道國平氏とあるに據れば 國平の姓は宮道にて 平氏とあるは其妻室などにや
又 按 東鑑 建久二年十月一日丙子の條に 宮六傔仗平等 奥州幷越後國より 駿牛十五頭を召進し事見え 年代も同時なれば是と同人なるべし錦帷一布
長五尺二寸 幅二尺三寸六分 是 蜀紅錦にして裏面に明文もあれば 世に稀なる帷なりとて 享保十六年小出信濃守きこえ上て 台覧に入りしといへり 銘文左の如し
〈※銘文中略〉古鰐口一口
雉子畫一軸 常憲院殿の御筆と云仁王門
神楽殿
鐘 樓 寶暦十年新鑄の鐘を掛 銘文中に元和年中鈴木主税介鑄造せしを 再鑄する由を記す末社
荒神 天神 駒像 道祖神 神明 辨天(神明 稲荷 諏訪 護頂神井殿合社)本地堂 弘法大師作の彌陀を安置す
太子堂
神輿堂別當 歡喜院
古義眞言宗 太田村能護寺末 聖天山長楽寺と號す 建久年中僧良應起立す 其後 相州鎌倉郡鶴岡相承院より 當所を兼帯せしこともありしにや
相承院文書に
長井庄聖天堂別當職事 御領掌先以目出度候 彼所之事者亡父時より可進候之山披申候處 兎角令延引候背本意存候 於向後不可有相違候 親類一人爲身代官可進候之間 彼是□入存候 恐々謹言
寶徳二八月二十二日 大江持宗花押
謹言 相承院御房中此状全く當寺にあづかるべきものなり 本尊十一面観音を安ず 行基の作と云
社僧
寶蔵院 花蔵院 寶壽院 西方院 東蔵院 仲道坊 玉蔵坊 寶筺堂 社守修験三人 禰宜四人〇神明社 歡喜院持 下並びに同じ
〇富士浅間社
〇天王社〇稲荷白髪合社 寶蔵院持
〇稲荷社 赤子稲荷と號す 花蔵院持
〇辨天社 女體と唱ふ聖天社守覺善持
〇稲荷社 村民持
〇若宮八幡宮 持同上
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
式内社 白髪神社の祭神は 清寧天皇(セイネイテンノウ)を採用していますが 様々な説も紹介していて 東方村に在る「熊野権現」も論社としています
式内社 楡山神社の論社の所在として 幡羅村の原郷八日町に在るとしながらも 妻沼の聖天宮との説も記しています
【抜粋意訳】
白髪神社
白髪は 志良賀と訓べし
〇祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)式社考
〇地名記には 祭神 伊弉冉命(イザナミノミコト)素戔嗚尊(スサノヲノミコト)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)東方村に在す 今 熊野権現と云うといえるは 信用がたし
〇女沼村に在す 地名記例祭 月 日
〇日本書紀 清寧天皇二年 春二月の条 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされました〇社伝曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり
新撰姓氏録 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条 軽我孫(カルノアビコ)彦坐命(ヒコマスノミコト)四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり 云々
【抜粋意訳】
楡山神社
楡山は 爾禮夜萬と訓べし、和名鈔、草木部 楡、夜仁禮 新撰字鏡、木部 楡
〇祭神 伊弉冉尊、地名記
〇原郷八日町に座す、地名記
例祭 月 日
式社考に、女沼村 聖天宮、祭神 猿田彦大神と云り
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
式内社 白髪神社について 日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉とあり 即位2年 春2月の条に 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した際に 白髪部の人々に祀られた神社であろうと推測しています
式内社 楡山神社の論社の所在として 幡羅村の原郷に在ると記しています
【抜粋意訳】
白髪神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社記に 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭〈諸国に祭られた〉に白髪神社とあり
日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉即位二年 春二月の条に 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされましたとあるのを合わせ思うに この時の因縁によりて 白髪部の人の清寧天皇を祭り奉りしなるべし
祭日 九月一日
社格 無社格
所在 妻沼村 字 高岡(大里郡妻沼町大字妻沼)
【抜粋意訳】
楡山神社 称 熊野神
祭神
祭日社格 郷社
所在 原郷羅(大里郡幡羅村 大字 原郷)
【原文参照】
妻沼聖天山(熊谷市妻沼)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について