楠村神社(くすむらじんじゃ)は 社伝に「創祀については詳らかにし難い」とあり 楠城址の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区に鎮座しています 明治42年(1909)楠郷総社に合祀されたが 昭和2年(1927)再び現在地に分祀されたものです 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 川神社(かはの かみのやしろ)の参考論社です
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
楠村神社(Kusumura shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県四日市市楠町本郷 830-1
〈旧住所 三重郡楠町大字本郷830-1〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
《合》品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
天之菩卑能命(あめのほひのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社〈参考〉
【創 建 (Beginning of history)】
楠村神社(くすむらじんじゃ)
ここは楠城址の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区にあり、城主一族から崇められていたといわれる。
残されている棟札(むねふだ)で、最古のものは慶長二〇年(一六一五年)と記されており「・・・楠名草村安穩(くすなぐさむらあんのん)・・・」と書
かれている。
現地棟札より
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【由 緒 (History)】
由緒
当社の創祀については詳らかにし難い。社伝及び現存する棟札によれば慶長二〇年(一六一五)の年号と楠村名草村の名および八幡大菩薩の祭神名が窺え、戦国時代以前より近郷の人々の崇敬を受けていたことが判る。
近世には、天王社として信仰されていた。
明治四二年(一九〇九)一二月一七日現在の楠郷総社に合祀されたが、氏子崇敬者の熱意により昭和二年(一九二七)四月一四日再び分祀された。
同二一年宗教法人として届け出現在に至っている。
特殊神事:湯の花神事(春の御桑祭・秋の祭)皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63285
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・楠村神社 社殿・向かって右横 境内社
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・楠村神社 拝殿
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〈湯の花神事〉参拝日2019/10/14
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楠村神社 湯の花神事
湯の花神事の由来は、不明であるが、神事に用いる大釜に、天明四年(一七八四)六月吉日楠本郷氏子中 と、銘せられている。
天明元年頃より全国的冷害が続き、此の地方では、天明三年が大飢饉となり、直後の天明四年の大祭より、五穀豊穣家内安全を祈願のため、始められたと考えられる。釜番三人(交替で奉仕)が、拝殿前に竈(くど)を作り大釜をすえ、水を入れ湯を沸かす。神職は大釜の前にて祝詞を上げ、御幣にて湯をかきまわし引きぬく、湯けむりの中に小さな湯の玉が、花の如くとびちる様子を見て、五穀豊穣の吉凶を占った。
神職は湯桶に湯を汲み、神前に供える。其の後、若衆により笹で湯をかきまわし、四方を清めてから一般参拝者に湯をふりかけて、無病息災を祈る。
湯の花神事は、春 秋 の祭礼式典のなかで、行われる。
釜番三人は伊勢神宮に、氏子の代表として代参をする。(田中明 氏談)天明の大飢饉
天明二年~八年(一七八二~一七八八)江戸時代に起きた、日本史上で最大の飢饉
安永年間(天明の七〇年ほど前)より天候不良や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた。こうした中、天明三年岩木山、浅間山が噴火し各地に大量の火山灰を降らせる。同年アイスランドの二つの火山が大噴火、おびただしい量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は北半球を覆い、低温化 冷害を引起し、天明の大飢饉の原因となった可能性がある。飢餓と共に疫病も流行し、死者数は全国で五〇万人とも推定されている。拝殿の額文より
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・境内参道
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・〈境内社〉山神
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・鳥居
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・参道 石燈籠
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・社頭
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・鎮守の杜
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈社頭の案内板〉楠城と信長、秀吉の関わり
楠城と信長、秀吉の関わり
楠城はどんな城
楠城は、国司北島氏のもと、多くの国人の対立抗争の続く中、延文3年(1358年)に築かれた。楠城は、平地に築かれた中世城であって、城というよりも屋敷を塀や土塁、浅い堀で囲む簡単なものであったと考えられる。城跡は、楠の主色であり、陸化が最も早く進んだ本郷にあり、現在の集落の南方で小字名が風呂屋の地域が中心と推定できる。河川と海に囲まれた平地の要害の地であった。
鈴鹿川に沿って西を見ると、同じ中世城の高岡城が約2kmの地点にある。高岡城は丘陵の先端にあって、三方は急な崖となり、山地に続く西方は空堀を掘り要害の地としている。そして楠、高岡に連なる神戸城が近い距離にあり、人的にも縁が深い関係にあった。
初代楠城主現る
楠十郎正信が延文3年(1358年)信州より来て、楠城を築き初代城主となる。楠十郎正信は、楠木正成の妾腹の子と伝えられる。正成が湊川の合戦で討ち死にするが、このとき妾女は懐妊5カ月であったという。信州へ落ち、上諏訪の地で無事誕生し、元服して諏訪十郎正信と号した由。
将軍足利義詮の許状により上洛、伊勢の国中島に四郷を与えられ、百騎の大将として楠本郷に城を築き、初代城主となった。
楠城、信長と戦う
織田信長は、美濃を攻めとると、天下布武を目指して上洛を考えるようになる。そのためには足元の北伊勢を平定する必要があった。永禄10年(1567年)8月、信長は美濃、尾張数万の軍兵を率いて、北伊勢へ侵攻、楠城にも押し寄せてきた。楠家に防戦するもかなわず、織田軍に降参を請いさきがけの案内者となった。
次に信長は、神戸家の山路弾正の守る高岡城に攻め寄せた。このときは美濃表に不穏な動きがあり、岐阜へ引き上げた。永禄11年2月、信長は4万余の軍兵を率い、再び北伊勢に発向、重ねて高岡城を囲み攻めた。神戸家は神戸城も共に一戦を遂げようとするが、信長提案で子息信孝を養子とすることで和睦し、信長の幕下となった。
楠城主、秀吉と戦う
本能寺の変後、羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を下し、次いで同盟者の織田信孝を排除すると、織田信雄と徳川家康連合軍と対峙するようになる。世にいう小牧・長久手の戦いである。このころ楠郷は信雄の所領となっていた。秀吉軍に攻められて信雄軍の峰城が陥落すると、神戸氏と共に楠氏も美濃の国加賀野井城に移動した。
天正12年(1584年)5月、そこへ秀吉軍の総攻撃があり、北勢地方の有力地侍と共に楠十郎も討ち死にすることになった。時に楠十郎は16歳であったという。
これにより楠木正成に連なる楠家も絶えることになった。
新編 楠町史より抜粋 平成二十八年八月吉日
楠地区まちづくり協議会
鈴鹿川たんけんクラブ現地案内板より
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・〈社頭の東130m〉楠城跡
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楠城跡とその由来
楊成は、もと楠山城とし伊勢国司 北畠顕泰が 正平二十四年(一三六九)に築城、命じて諏訪十郎正信に拠らしめた。ここは、中島四郷のうち本郷風呂屋往時、名草の浦とも呼び
浦つたふ朝も名草の浜千鳥
タ汐みちて空になくなり(千載集)とあり「東は海に他の三方は高岡川、内部川、南部川の三川に囲まれ、中島の称の如く平地に城を築くに、最適の要害の地」(南山遺響)であった。
諏訪氏三代の後、楠氏一族が城を継ぐが天正十二年(一五八四)秀吉の覇力に抗して落城した。
城主八代二百十有余年の間には、多くの忠誠勇武の士が壮烈に戦ったと伝えられる。
哀老を伝えて、「松樹一株を存したりしが明治四十年伐採して、樟一本を植え付けたり」と記録されている。ここに郷党とともに往時を偲ぶ次第である。
四日市市
現地案内板より
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・楠郷総社神明社(四日市市楠町北五味塚)
楠村神社(四日市市楠町本郷)は 明治四二年(一九〇九)一二月一七日現在の楠郷総社に合祀されたが 氏子崇敬者の熱意により昭和二年(一九二七)四月一四日再び 現在地に分祀されました
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称
・『日本書紀』養老4年(720)完成
・『續日本紀』延暦16年(797)完成
・『日本後紀』承和7年(840)完成
・『續日本後紀』貞観11年(869)完成
・『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
・『日本三代實録』延喜元年(901)完成
〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川神社
[ふ り が な ](かはの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kaha no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 河曲郡 川神社(かはの かみのやしろ)の論社
・川神社(鈴鹿市河田町)
・楠郷総社神明社(四日市市楠町北五味塚)
〈参考〉・楠村神社(四日市市楠町本郷)
楠村神社(くすむらじんじゃ)は 社伝に「創祀については詳らかにし難い」とあり 楠城址の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区に鎮座しています 明治42年(1909)楠郷総社に合祀されたが 昭和2年(1927)再び現在地に分祀されたものです 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 川神社(かはの かみのやしろ)の参考論社です
楠村神社(四日市市楠町本郷)〈参考論社『延喜式』川神社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄名古屋線 北楠駅から西方向へ約1.7km 車での所要時間は5~6分程度
JR関西本線 河原田駅から鈴鹿川を渡り 東へ約3.4km 車での所要時間は8~10分程度
鈴鹿川の土手を進みます
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社頭は東を向いています
楠村神社(四日市市楠町本郷)に参着
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参道を進むと 境内入り口に楠の巨木が生えています
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楠村神社の案内立札があります
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石燈籠 石鳥居があります
一礼をしてから鳥居をくぐり抜けます
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鳥居をくぐり抜けると すぐに手水舎があり清めます
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参道をすすむと 拝殿の前に 煙 ? 湯気 ? のようなものが立ち上がっています
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近づいて見ると 竈があり 湯気が立ち上がっていることがわかります
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おそらく何かの神事〈献湯祭のような神事〉であろうと想い 近づて一回りしてみます
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拝殿の向かって右手には 社務所 兼 参集所があり 氏子さん達が談笑をしていました 間違いなく神事にあわせて皆さんが参集しているのです 何かの神事〈献湯祭のような神事〉に違いありません
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何人かの人が 見ず知らずの私に気が付かれたので 会釈をしてから
拝殿にすすみます
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やはり拝殿内には 沢山の奉献酒があり 拝殿も開け放たれていて これから神事があるようです
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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拝殿の中に本日〈参拝日2019/10/14〉の神事について 五穀豊穣家内安全を祈願の「湯の花神事」とあり その由緒について記されています
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「湯の花神事」は まだ始っていませんが 湯釜から立ち上がる湯気が とても美しい様子でしたので 動画撮影をしました
拝殿の奥には 幣殿 覆い屋の中に本殿が祀られています
幣殿の向かって左側には 玉垣に囲まれて境内社が祀られています
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社殿に一礼をして 参道を戻ります
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境内地は「楠城址の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区にあり」
この社頭の東側130m程の所に楠城跡があります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 川神社について 所在は゛河田村に在す、゛〈現 川神社(鈴鹿市河田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
川神社
川は加波と訓べし
○祭神 高龗神、〔考證、俚諺〕
○河田村に在す、〔考證、俚諺〕
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 川神社について 所在 祭神などは未記入です
【抜粋意訳】
河曲郡廿座 並小
川(カハノ)神社、
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 川神社について 所在について考証しています
他の説としては
゛河田村 河田八王子宮゛〈現 川神社(鈴鹿市河田町)〉
゛總産神社 北五味塚村にあり゛〈現 楠郷総社神明社(四日市市楠町北五味塚)〉
【抜粋意訳】
川神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに傍注考證等 川原田村此乎とあれど 三重郡の屬邑なれは受かたし
案内記以後は 河田村に配す其社の棟札に奉再造河田八王子宮 慶長九〔甲辰〕年三月二十九日とあれと社地新く見えて 千古の舊祠とは謂かたし 殊に河田邑高岡川の南岸の地に在る水田の名にて田は主川は客なる稱號を取て本社の川神社に牽强するは證たり
本社の川は倭名鈔本郡の内に川部とある郷名の川にて古事記ニ男淺間若子天皇爲大后之弟田井申比賣 御名代定ニ 阿部とある其 川部郷内に在るへし 然して其 川部郷は今 三重郡に属し 私に楠郷と稱する本郷 名草 北五味塚 吉崎 北一色 小倉等の六村を謂ふなるべし 其六村の總産神社 北五味塚村にありて 舊祠なり 是や本社の遺存なるへき明證を索めて判定すへし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
楠村神社(四日市市楠町本郷)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る
伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
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