櫛玉比賣命神社(くしたまのひめのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に勅令を奉じ 物部阿佐理命が風早の国造となり 天道姫命及び御炊屋姫命を奉齋したとされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 國津比古命神社が鎮座します
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
櫛玉比賣命神社(Kushitama no hime no mikoto shrine)
【通称名(Common name)】
・風早宮大氏神〈国津比古命神社と櫛玉比賣命神社を合わせた総称〉
【鎮座地 (Location) 】
愛媛県松山市高田甲702-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天道日女命(あめのみちひめのみこと)
《配》御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣、家内安全、商売繁昌、交通安全、学業成就、身体健全、病気平癒、安産、厄除
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 風早地方(旧北条市)の総鎮守
【創 建 (Beginning of history)】
國津比古命神社 由緒
応神天皇の御代に勅令を奉じ物部阿佐理命が風早の国造となり、天道姫命及び御炊屋姫命を奉齋せられ、 公の崇敬厚く延喜式内神明帳に列せられた由緒深い御社です。
中昔までは実に壮大な御構えの神社でありました。天正年間度々の兵乱により廃頽し社殿宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築した。 寛保元年に松平隠岐守は、毎年代官をして参拝する制度を定められました。斎衡元年三月、従五位下を賜り、中古は祓座(はらいにます)大明神とも称せられましたが、寛永年間に官命を受けて南方の小山の頂きより現在の地に奉遷され、亨保年中に旧号に復しました。
天道姫命は大国主命の御子であられ、 御炊屋姫命 (登美夜毘賣とも称す) は大和国鳥見の豪族の長髓彦 (登美毘古)の妹君で、 宇摩志麻治命の母君にあらせられます。 古来、地方豪族の氏神として代々崇敬せられ、明治二十九年に社格が「郷社」となりました。
拝殿前方の小山は前方後円墳の一部分であります。
愛媛県神社庁公式HPより
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=8382
〈國津比古命神社と櫛玉比賣命神社は 同じ境内に鎮座しますので 案内板も両社について 記しています〉
国津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)のいわれ
主神(しゅしん)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊神(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしだまにぎはやひのみこと)
相殿神(あいどの)
宇麻志麻治命神(うましまじのみこと)
物部阿佐利命(もののべのありさのみこと)
誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)国津比古命神社は 古墳の上にお祭りされています。昔、むかし風早の郷に魂を感じた人たちがいました。その人たちはこの魂を国魂(くにたま)として素朴にお祭りしていました。
やがて、日本の国をひとつにまとめるときがきました。大和朝廷は 氏姓制度のなかに国造などを定めました。
風早の郷には 物部阿佐利という方があてられ、この方は、もともと風早にまつられていた国魂を敬い、なおかつ、
自分の祖先である神様をも合わせておまつりし、櫛玉饒速日命神社(くしだまにぎはやひのみことじんじゃ)と呼ばれるようになりました。後に、物部阿佐利命をいっしょにおまつりし、国津比古命神社と元の社名になりました。頭日八幡宮(かぐひはちまんぐう)と呼ばれた時期もありましたが、享保年間(1716~1736)に、元の社名にもどりました。物部氏・風早氏の氏神として発展し、河野家の崇拝厚く、戦火により焼失した社殿が再建されました。
寛保元年(1741)松山藩主の松平定喬は 毎年代官を参拝させました。渇水のため、雨乞いの神事が行われ、その折、奉納された扁額が現存しています。明治四二年、社格が県社になり、現在の拝殿内部は昭和四六年に改修され、昭和六二年に境内地拡張・斎館の整備などが行われました。
櫛玉比賣命神社(くしだまひめのみことじんじゃ)のいわれ
主神 天道日女命(あめのみちひめのみこと)
相殿 御炊屋姫命(みかしじやひめのみこと)
国津比古命神社の主神であるクシダマニギハヤヒノミコトの后神(奥様)をおまつりしているのが櫛玉比売神社です。
櫛玉は、ニギハヤヒノミコトを形容することばです。その方の比売神ですから「櫛玉の比売の命の神社」です。風早の先人が 国津比古命神社にこの郷の国魂をまつり、のちに、物部阿佐利命が この国魂も敬い、合わせて祖神であるニギハヤヒノミコトをおまつりしたおり、現在地より南方の小山に后神をおまつりしたと考えられます。
社伝によると、寛永年問(1611~1629)に前方後円墳のそはに遷されました。このことから考えると、動座祭からの一連の神事は 最大限ここまでさかのぼることができます。櫛玉比売命神社は「祓座大明神(はらいにますだいみょうじん)」ともいわれました。
これは当社が 国津比古命神社の祓いをつかさどったなごりだと考えられます。動座祭に限り、櫛玉比売命神社から始まるのもこのためです。
享保年間、元の社名にもどりました。特殊神事として動座祭のあと「宵の明星(よいのみょうじょう)」があります。
明治四二年、社格が郷社になり、現在の社殿は昭和六二年に新築されました。両社とも風早の大氏神として多くの老若男女に厚く崇敬されています。特に、秋祭りに行われる「風早の火事祭」での動座祭から神輿落としにいたる一連の神事・行事には両社の特性がよくあらわれています。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
風早宮大氏神 延喜式内社 國津比古命神社 櫛玉比賣命神社 略縁起
式内社とは、延喜年間(901年-922)に編纂された「延喜式」『神名帳』に記録されている神社のことをいいます。全国に2861社(3132座)あり、愛媛県内には当社を含めて24社あります。
風早(風速)の名称は承平年間(931年-938)につくられた「和名類従抄」『国郡部』に初めて見られます。この地は「國造」である『物部阿佐利』により開拓され、支配されていました。この物部阿佐利命の祖神をお祭しているのが「國津比古命神社」です。
祭神 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(以下、『櫛玉饒速日尊』といいます。)
相神 宇摩志麻治命、物部阿佐利命、誉田別尊(応神天皇)、そして 櫛玉饒速日尊の妃神(櫛玉の比賣)をお祭しているのが「櫛玉比賣命神社」です。
祭神 御炊屋姫命、天道姫命。
神社創設の時期は明確ではありませんが、
日 式内社であること
月 歴史地理的条件
火 環境風土の形態から考えて、いまから1500年以上前と考えられます。國津比古命神社
國津比古命神社は応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。
後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約270年前)に國津比古命神社と旧号にもどりました。
天正年間(1573年-1591)、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。
明治4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。
昭和26年『八脚門』県指定有形文化財。昭和43年中殿・拝殿改築。昭和60年社殿屋根葺替・境内地拡張補強。櫛玉比賣命神社
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神』ともいわれました。
寛永年間(約360年前)官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。
古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。史跡 境内 前方後円墳。
昭和43年中殿改築。昭和60年社殿改築・境内地拡張補強。ご両社はご夫婦なかよく向かいあってお祭りされ,私どもをやさしく見守っていただいております。これが家族円満,夫婦円満(一願成就)の神社であるといわれる所以です。
祓い
人々は春には豊かな実りを祈り,秋には感謝の誠を捧げるために祭をします。祭をする者は「きよらか」でなければならないので,お祓いなどをして心身を清めます。祭に使う道具なども新調します。(当社の場合は神輿を新調します。)
祈り
日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。顕斎とは「そこに神様がおられるようにお仕えすること」です。櫛玉饒速日尊のご神徳は「一願成就」です。國津社の神輿の前で祭を行っている時に櫛玉社のおしのびの渡御(宵の明星の神事)があります。人々の幸福(一願成就)を祈ります。
神人一体
なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)
月 祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
日 祭の期間は「きよらかな期間」なので,それの終わりを告げる行事としてこれがある。
月 当社の場合,毎年神輿を新調しますが、伊勢神宮では平成5年10月に式年遷宮(20年に一度すべてを作りかえる)が斎行されます。感謝
米を作るということを通じて,自然の恵みに感謝する。
結び(よりよく生きる)
日 好き,嫌いなく食べる(元気な体)。げんきの「き」の字は「氣」・「気」?生活の中から米をしめ(メ)出していませんか?
月 言動を正す(正しい言葉づかい)言霊(ことだま・・・言葉の魂)
火 豊かな自然とご先祖様に生かされていることに感謝する。神詣で(風早の火事祭)
日 総論 俗に、半鐘と太鼓をたたきながら、賑やかにだんじりをかくので、「かじまつり」などといわれておりますが、『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係があります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。
月 別火 秋祭の始まる3日前から神職は斎館に参籠して,潔斎を行います。調理に使う火は鑚りおこします。また,秋季動座祭においては此の鑚火により調理した「鮒のいずみや」と「一夜酒」が特殊神饌としてお供えされます。
火 動座祭(宵の明星・・・顕斎の再現)日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。当社の動座祭には,この顕斎の神事の再現がなされます。
動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭祀が始まります。御動座は祭式次第の最後に斎行します。これに対し,男神である『國津比古命神社』では御動座は祭式次第の最初に斎行し神輿の前で祭祀をします。
ちょうどその御動座祭の時(祝詞奏上の時)『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が斎行されます。これが『顕斎の神事』の概略であります。
水 解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか40段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)月祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
木 一願成就 私どもは『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとしけるもの』はすべて『火』のおかげをこうむっております。一願成就の「一願」とは「一つの願事」が叶うということよりも,それぞれの人の願事がかなうことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」の所以であります。風早の秋祭 「ひのことのまつり」
俗に,半鐘と太鼓をたたきながら,賑やかにだんじりをかくので,「かじまつり」などといわれておりますが,『火事祭』は「ひのことのまつり」と読みます。
日 そのいわれは國津比古命神社にお祭りされている神様の名前に関係あります。お祭りされている神様は『天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(天火明命)』と申します。なぜ「ひのことのまつり」なのでしょう。
月 動座祭(宵の明星・・・顕斎の姿)「動座祭」は分霊を本殿から神輿にお移しするお祭です。日本書紀の『神武天皇紀』に「顕斎」の記事が書かれております。時に道臣命に勅したまはく,いま高皇産霊命を以ちて,朕,親ら顕斎を作さむ。汝を以ちて,斎主となして,授くるに,厳姫の號を以てせむと。動座祭には,この顕斎の「姿」があります。動座祭に限って女神である『櫛玉比賣命神社』から祭が始まります。櫛玉社のご動座は祭式次第の最後に行います。これに対し,男神である『國津比古命神社』ではご動座を祭式次第の最初にします。國津社のご動座のおり(祝詞奏上の頃),『櫛玉の比売』の『宵の明星』の渡御(おしのびの渡御)が始まります。これが『顕斎の神事』の概略であります。
火 解斎の神事 各地区での渡御を終えた四体の神輿は神社にかえり,大勢の氏子崇敬者の見守るなか40段の石段のうえから真っ逆さまに投げ落とし分霊が表れるまで壊されます。なぜ,神輿を壊してしまうのでしょうか。
日 祭の物忌を解くためであります(解斎の行為)
月 祭具の清浄さを保つためであります(神威の更新)
水 一願成就 私どもは『天火明命』の御神徳を一願成就と説いております。『生きとし生けるもの』はすべて『日(火)』のおかげをこうむっております。一願成就とは,一つの願事が叶うという意味ではなく,人々の願事が叶うことによって「世の中の人がみんな幸福になること」であります。これが「ひのことのまつり」のいわれであります。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・國津比古命神社
櫛玉比賣命神社は 國津比古命神社と同じ境内に鎮座しています
國津比古命神社は 別記事を参照ください
・國津比古命神社(松山市八反地)
・櫛玉比賣命神社 社殿・〈境内社〉素鵞神社〔社殿の向かって右祠〕
・〈境内に設けられた〉夏越祭大祓の祭壇
・和霊神社〔櫛玉比賣命神社への参道向かって左側〕
・櫛玉比賣命神社への参道入口
・國津比古命神社の社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
854年に 伊豫國 櫛玉姫神と表記されて 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷六 齊衡元年(八五四)三月壬辰〈八〉
○壬辰
授に 伊豫國 櫛玉姫神 從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豫國 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)風早郡 2座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 櫛玉比賣命神社
[ふ り が な ](くしたまひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kushitamahime no mikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)に祀られる 御祭神について
主祭神 天道日女命(あめのみちひめのみこと)について
天火明命(あめのほあかりのみこと)〈別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)〉の妻神で
その御子神は 天香山命(あめのかごやまのみこと)〈尾張氏等の祖神〉です
天道日女命を祀る 二つの延喜式内社について
延喜式内社 尾張國 愛智郡 青衾神社(あをふすま かみのやしろ)
・青衾神社(名古屋市熱田区白鳥)
〈熱田神宮の境外摂社〉
青衾神社(あおぶすまじんじゃ)は 古来 熱田神宮の海藏門の外にあると伝えられる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 青衾神社(あをふすま かみのやしろ)です 熱田神宮には 本宮をはじめ・別宮1社・摂社8社・末社19社が祀られ 境外には 摂社4社・末社12社が祀られており その境外摂社4社の内の一つです
青衾神社(名古屋市熱田区白鳥)〈熱田神宮の境外摂社〉
延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)
・櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)
櫛玉比賣命神社(くしたまのひめのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に勅令を奉じ 物部阿佐理命が風早の国造となり 天道姫命及び御炊屋姫命を奉齋したとされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 國津比古命神社が鎮座します
櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〈延喜式内社〉
配祀神 御炊屋姫命(みかしきやひめのみこと)について
『古事記』 では・登美夜毘売(とみやびめ)
『日本書紀』では・三炊屋媛・鳥見屋媛・長髄媛(ながすねびめ)
その他・御炊屋姫・櫛玉姫命・櫛玉比女命・櫛玉比売命などとも云う
那賀須泥毘古〈長髄彦〉(ながすねひこ)の妹 邇芸速日命(にぎはやひのみこと)の妻
邇芸速日命との間に生んだ子は 宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)〈物部氏 穂積氏らの祖神〉がある
御炊屋姫命を祀る 延喜式内社について
延喜式内社 大和國 添下郡 矢田坐久志玉比古神社二座 並大(やたのまします くしたまひこの かみのやしろ ふたくら)
・矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)
矢田坐久志玉比古神社(やたにいます くしたまひこ じんじゃ)は 延喜式内社です『先代舊事本紀』故事由来には 物部氏の祖神 櫛玉饒速日命が 天神御祖の詔により天孫降臨をされた時 天磐舩(あまのいわふね)に乗り 射放たれた三本の天乃羽羽矢(あめのははや)が この地〈矢田〉に落ちたので゛矢落社(やおちしゃ)゛と称されます
矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市矢田町)〈延喜式内社〉
延喜式内社 大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)
・櫛玉比女命神社(広陵町弁財天)
櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことじんじゃ)は 本殿が前方後円墳の後円部に鎮座するという古墳信仰に基づく古代祭祀の遺跡とされ 古墳は 聖徳太子の築造とも伝わります 延喜式内社 大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)の論社です
櫛玉比女命神社(広陵町弁財天)
・廣瀬大社(河合町川合)
〈相殿に祀られる 櫛玉比女命神〉
廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 創建は崇神天皇9年(前89)゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり 大和川は 鎮座地から 龍田を抜け奈良盆地を下り流れる 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます
廣瀬大社(北葛城郡河合町川合)〈崇神天皇九年(前八九)鎮座の式内社〉
延喜式内社 河内國 石川郡 鴨習太神社(かもならひたの かみのやしろ)
・磐船大神社(河南町平石)
延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)
・櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)
櫛玉比賣命神社(くしたまのひめのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に勅令を奉じ 物部阿佐理命が風早の国造となり 天道姫命及び御炊屋姫命を奉齋したとされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 國津比古命神社が鎮座します
櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〈延喜式内社〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR予讃線 伊予北条記から東へ約3.1km 車6分程度
國津比古命神社の社頭に参着
櫛玉比賣命神社は 國津比古命神社と同じ境内に鎮座しています
鳥居をくぐり抜けて 石段を上がると広場があります ここで國津比古命神社と櫛玉比賣命神社への参道がわかれています
右手には 國津比古命神社の神門があります
國津比古命神社は 別記事を参照ください
・國津比古命神社(松山市八反地)
左手には 櫛玉比賣命神社への参道があります
大きな自然石に社号が刻されています
゛延喜式内社
國津比古命神社
櫛玉比賣命神社゛
櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)に参着
延喜式内社 櫛玉比賣命神社 とある 参道の石段をあがります
櫛玉比賣命神社が鎮座する丘は 愛媛県下でも有数の規模を持つ前方後円墳〈全長約75m〉
ちなみに 国津比古命神社の丘も前方後円墳〈全長約50m〉です
白地に紅の文字で゛風早宮大氏神゛とあります
これは 国津比古命神社と櫛玉比賣命神社を合わせた総称です
櫛玉比賣命神社への参道の両脇には 奉納玉垣が 隙間なく立ち並び 奉納の壁の様になっています いかに近隣の民からの信仰が篤いかを物語っています
櫛玉比賣命神社への参道向かって左側に社屋があります
和霊神社です
和霊神社(宇和島市和霊町)の分祀でしょうか だとすると〈神となった家老 山家清兵衛公〉を祀る神社となります
境内社の案内がありませんが とのような経緯でここに祀られるのかはわかりません
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
櫛玉比賣命神社への参道に戻り 右手には手水舎があり 清めます
参拝日は 2016/07/31でしたが 夏越祭大祓 祭日であったようです
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
夏越祭大祓は 入口と出口が決められていて その作法の通り進みます
入口から 出口にある茅の輪の間には 祭壇が設けられていて 通路は注連縄で決められています
全国の色々な神社の夏越祭に参列していますが こちらは なんとも厳粛な印象を受け 背を正し 一礼をしてから進みます
祭壇の下には 青草が敷き詰められていて 立派な祭壇です
人形納箱が中央に置かれています 再拝とあり 賽銭を納め二礼二拍手 拝礼
向かって右側に張られている半紙が三枚あり 十二支と神名が記されています
初めて見る内容で 興味深いです
「子と午は 大己貴神 丑と未は 素戔嗚神」
「寅申は 道の御祖の猿田彦 巳と亥は 少彦名とぞ知れ」
「辰戌は 迦遇突智神 卯酉を 愛宕なり 守る月読の神」
夏越祭大祓の出口にある 青々とした茅の輪に進みます
茅の輪をくぐり抜けると 人型に文言が記されています
゛罪穢祓 夏越祭大祓 祟咎除゛
人型の裏面に記される文言は
゛思うこと つみつきねとも 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかも
みる月の夏越の 祓する人は 与年のいのちのぶというなり゛
なんとも 清々しき心となり 社殿と茅の輪に一礼をします
参道を戻ります
参道の石段を下っていると 正面に見えているのが 同じ境内にある國津比古命神社です
境内の広場から 社頭を眺めると 西の方へと参道が伸びています
西へ通じている参道の先にみえている 円錐形の山は 山ではなく島です
伊予北条の瀬戸内海に浮かぶ゛鹿島゛です
國津比古命神社 櫛玉比賣命神社は まるで この鹿島を遥拝しているかの如く祀られているのが気になります
古代には 芸豫諸島と高縄半島は 古代海上交通路の重要拠点で 鹿島は 早くから 歴史に登場する風早地方の要塞地であったとされます
古代 風早地方の支配者であった物部(もののべ)氏は 軍事氏族と云われ 藤原氏の氏神で武神の鹿島神社が この鹿島に祀られているのは 偶然なのでしょうか
鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)については 別記事を参照ください
・鹿島神社(松山市北条辻 鹿島)
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 櫛玉比賣命神社について 所在は゛八反地村 國津彦命神社と同處に在す゛〈現 櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〉と記し 國津比古命神社と同じ所にあると記しています
【抜粋意訳】
櫛玉比賣命神社
櫛玉に久志多萬と訓べし、比賣には假字也、
〇祭神明か也
〇八反地村國津彦命神社と同處に在す
類社
大和國 廣瀨郡 櫛玉比女命神社神位
文徳實錄、齊衡元年三月壬辰、授に伊豫國 櫛玉姫神 從五位下、前件両社は、彦姫の両神に坐て、國津彦と稱するは 櫛玉彦〔饒速日命の別名〕なるべし、さるは社頭も同所にて、即ち國造 物部連等が氏神なれば也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 櫛玉比賣命神社について 所在は゛今 國津比古命神社 同所に在り、゛〈現 櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〉と記し 國津比古命神社と同じ所にあると記しています
【抜粋意訳】
櫛玉比賣命(クシタマヒメノミコトノ)神社
今 國津比古命神社 同所に在り、〔愛媛面影、愛媛縣社取調帳〕
盖 櫛玉饒速日命の妃神也、〔卙酌舊事本紀、延喜式大要、〕
文徳天皇 齊衡元年三月壬辰、櫛玉姫神に從五位下を授く〔文徳実録〕
凡 其祭日 國津比古命の神に同じ、〔愛媛面影〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 櫛玉比賣命神社について 所在は゛八反地村 (溫泉郡正岡村大字八反地)゛〈現 櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〉と記し 祭神について 風速國造とは関係なく 良く考えるべきである と記しています
【抜粋意訳】
櫛玉比賣命神社
祭神
今按 明細帳 注進狀 共に祭神 饒速日命の妃 天道日女命 三炊屋姫命とある
天道日女命は 舊事紀によるに天香語山命の御母にして 風速國造によしなし 然るをかく云るは 尾張連 物部連 共に同祖と云る傳説によれるなればとらず神位
文徳天皇 齊衡元年三月壬辰 授に伊豫國 櫛玉姫神 從五位下祭日 九月三日
社格 村社所在 八反地村 (溫泉郡正岡村大字八反地)
【原文参照】
櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊豫国(いよのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 伊豫國 24座(大7座・小17座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
伊豫國 式内社 24座(大7座・小17座)について