櫛田神社(くしだじんじゃ)は 『倭姫命世紀』垂仁天皇22年 倭姫命が 当地で櫛が落ち゛櫛田社゛と定めた古社 廃絶後 享保年間(1716~36年)再興 明治41年 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)に合祀 昭和8年(1933)櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に旧須賀神社の跡地〈現在地〉に分祀され 櫛田神社となり現在に至ります
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1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
櫛田神社(Kushida shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県松阪市櫛田町724番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
合祀された神社(9社 祭神6柱)
《主祭神》〈櫛田大社〉大若子命(おほわぐこのみこと)
〈外宮代々の禰宜であった度会氏の祖先神〉
《合祀神》〈櫛田社〉櫛玉命(くしたまのみこと)
《合祀神》〈櫛田槻本社〉櫛玉姫命(くしたまひめのみこと)
《合祀神》〈池上神社〉市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
《合祀神》〈宇気比神社〉天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
《合祀神》〈宇気比神社〉天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
《合祀神》〈須賀神社〉須佐之男命(すさのをのみこと)
《合祀神》〈古櫛田神社〉天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
《合祀神》〈別 宮〉熊野大神(くまののおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・家内繁栄 諸病平癒 諸難祓除 願望成就
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
一 由緒
人皇第十一代垂仁天皇の二十二年皇女倭姫命が皇祖天照大神御鎮座の地を求められて当地にお成りの節御案内役として顕著なお働きをされた大若子命を当地の守護神としてお祀りする様御下命になりました
之が櫛田神社の起源であり 今から約二千年も前の事です 当社の社格は高く皇太神宮の所管で宮七院社十二社の巻頭三位に位置し櫛田の西方に櫛田大社として鎮座されました
今も此の地を社と呼びます長い歴史の中で幾多の変遷がありましたが明治四十一年十二月神社統合令により一時 神山神社に合祀されました
然し敬神深き氏子民の願望により昭和八年二月三日当野中垣内七二四番地にお迎えし鎮座されましたのであります
一 祭神
大若子命(櫛田神社 櫛田総氏子)
市杵島姫命(池上神社 西出南組)
天忍穂耳命(宇気比神社 田寺組)
天忍穂耳命(古櫛田神社 西出北組)
櫛玉命(槻本神社 南櫛田組)
須佐之男命(須賀神社 雨寺組)
天忍穂耳命(宇気比神社 中宮組)
熊野大神(別宮 中宮組)一 神徳
家内繁栄 諸病平癒 諸難祓除 願望成就にして御分霊は遠く九州・本陸・東北にもお祀りされております
現地石碑文より
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【由 緒 (History)】
祭神記
三重縣伊勢國飯南郡柳田村大字櫛田字社
一 村社 式内櫛田神社
祭神
大若子命
櫛玉命
須佐之男命
天忍穂耳命
市杵島姫命本社は延喜式所載の神社にして祭神、大若子命(或る二三・古書に櫛玉命ともあり)里俗大社と号す
創建の年代を尋ぬるに人皇十一代垂仁天皇御世二十二年癸丑年皇女倭姫命天照大神を奉載せられ此所に行幸の節大若子命に汝の國名を何問賜白佐久百張蘇我ノ國五百枝刺竹田之國止白支其時倭姫命湯津爪櫛を川に落し給い流れ行くを大若子命に早く取揚よと宣ひ大若子命馬を早め馳付き櫛を取揚奉る倭姫命最喜悦給い茲に櫛田神社を定めて其の處を櫛田と改称し其川を櫛田川と号け其瀬を早馬瀬と仰せ玉いしとあり
故に往古は内宮の所管にして大神宮御造替の年毎に使判宮主典各壱人を遣し神税を以て修造し玉えり則ち近暦儀式帳に見える如く宮七院社十二社とある其の一なれば大神宮所摂神社の中にも取別け尊き神社たり故に古来は社地頗る廣く大に其体載定まりしか物変り星移りて今の形に至りしなり其証は今に本社の周囲の耕地等皆な字を社と云えり右遷座式 二十一年目 旧正月廿五日
例祭 正月十一日
拝殿内説明板より
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由 緒
人皇第11代 垂仁天皇の御代22年(紀元前8年)皇女倭姫命が 天照大神 を奉戴され、ご鎮座の地を探し求めて行幸された時、津あたりから伊勢志摩方面までを当地に在りし大若子命が道案内をされ、伊勢にご鎮座されるまで倭姫命の手となり足となって働かれました。
同25年(紀元前5年)倭姫命は飯野高宮に居られましたが、ある時、田の中に櫛を落され、大若子命が拾ってさし上げました。倭姫命はその地を櫛田と名付けられ、櫛田の社を定められました。
その後も大若子命は武人として数々の功績を残され、倭姫命は大若子命を櫛田神社のご祭神としてお祀りするようご命じになりました。大若子命は後に大幡主命と改名されております。当社は皇大神宮所管で、宮七院・社十二の内巻頭第三位の格式を持ち、当時は櫛田大社と呼ばれておりました。
時代が移り明治41年12月、時の政府の一村一社制の司令により、飯野高宮神山神社に統合されましたが、敬神の念厚き氏子の運動により、昭和8年2月3日現在の地に再建されました。
三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be%ef%bc%88%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%94%ba%ef%bc%89/
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
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・拝殿
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・御神木
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・参道
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・社頭
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・社号標
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・櫛の碑
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櫛まつり
古伝承によれば垂仁天皇の25年丙辰の年の3月、斎宮で在られた倭姫命は飯野高宮に行幸されました。その折、当時は百張蘇我国千五百枝竹田国と呼ばれていた当地で御櫛を落とされ、それが当社の御祭神となっている。大若子命が御櫛を拾って差し上げました。倭姫命は、大若子命に当地を「櫛」にちなんで「櫛田」と名付ける事、又この所に「櫛田の社」を置く事を定めた。これが当神社の由緒となっている(倭姫命世記・二所皇太神遷幸要略)三重県美容業生活衛生同業組合(組合員1700名)は、前記の由来に基づき、美容業の魂とも言える「櫛に」感謝の意を捧げるべく、平成8年より毎年9月4日(くし)に近い月曜日に、組合員百数10人が当神社に古くなった櫛を持ち寄り、焼納して供養しているのである。 その儀、祭場の四隅に忌竹を立て、注連縄を引き廻らして、中央に火炉を設置しておき、本殿でのお祭の後、組合理事長と宮司が大きな櫛の模型を火炉で焼納する。続いて組合員の皆様方が持ち寄られた櫛を焼納してお祭りは終了する。 今年で15回目(平成23年)となるが、平成18年には神社横の広場に「櫛の碑」も建立された。
祭典日 9月4日に近い月曜日
三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be%ef%bc%88%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%94%ba%ef%bc%89/
・鎮守の杜
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町字社)
江戸時代の明暦頃には 社も絶ヘ失せ所在不詳〈廃絶〉となつていたものを享保年中(1716~1736年)に再興され 櫛田大社と呼ばれた旧鎮座地
道路脇の水田の中に「式内大櫛田社 奉合祀神山神社明治41年」の石碑あり
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現在地の西北約750m程の飯野郡櫛田村字社
明治41年2月11日 神山神社〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〉に合祀の為 移転
昭和8年(1933)旧須賀神社の跡地である現在地に 櫛田槻本神社と共に分祀されて現在に至ります
・飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈旧櫛田神社跡を合祀〉
旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)は 明治41年2月11日 神山神社〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〉に合祀されました
昭和八年(1933)旧須賀神社の跡地である現在地に 櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に分祀されて櫛田神社(櫛田)となって現在に至ります
飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)は 『倭姫命世紀』には 垂仁天皇22年 倭姫命が天照大神の宮処を求めて遷られた゛飯野の高宮゛と載り 『延喜式』には伊勢國 飯野郡 神山神社(かむやまの かみのやしろ)と所載の古社 明治期に〈櫛田神社・流田神社・櫛田槻本神社・大櫛神社〉の4つの式内論社を合祀しました
飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈『倭姫命世紀』飯野の高宮〉
・櫛田神社(福岡市博多区上川端町)
博多の総鎮守櫛田神社は 当社 櫛田神社(松阪市櫛田町)の分社と記しています
櫛田神社(櫛田町) – くしだじんじゃ –
博多の総鎮守櫛田神社は 当社の分社で 平成19年に創建1250年祭が執り行われました 当社では恒例祭典の他 毎年9月に倭姫命の櫛に因んで三重県美容業生活衛生同業組合主催の「櫛まつり」を 特殊神事として執り行っています
三重県神社庁教化委員会HPより
http://kyoka.mie-jinjacho.or.jp/shrine/%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%a5%9e%e7%a4%be%ef%bc%88%e6%ab%9b%e7%94%b0%e7%94%ba%ef%bc%89/
・櫛田神社(福岡市博多区上川端町)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
櫛田神社(松阪市櫛田町)は 二つの式内社の論社です
昭和八年(1933)旧須賀神社の跡地である現在地に 櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に分祀されて現在に至ります
①(伊勢國多氣郡 櫛田神社)〈櫛田神社(松阪市櫛田町)〉
②(伊勢國多氣郡 櫛田槻本神社)〈合祀 櫛田神社(松阪市櫛田町)〉
①(伊勢國多氣郡 櫛田神社)〈櫛田神社(松阪市櫛田町)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 櫛田神社
[ふ り が な ](くしたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kushita no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
②(伊勢國多氣郡 櫛田槻本神社)〈合祀 櫛田神社(松阪市櫛田町)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 櫛田槻本神社
[ふ り が な ](くしたつきもとの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kushitatsukimoto no kaminoyashiro)
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
『倭姫命世紀(Yamatohime no mikoto seiki)』〈平安初期806~906年頃の成立〉に記される伝承
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 櫛田神社(くしたの かみのやしろ)について
垂仁天皇二十二年 皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉り 飯野の高宮より五十鈴川上に行幸された時 大若子命に「汝が國の名は何そと」問ひ賜い 曰く「百張蘇我(モモハルソカ)乃国 五百枝刺(イホエサス)竹田之國」と申上げた その所に御櫛(オクシ)を落(オトシ)給(タマ)われたので その所を櫛田(クシタ)と号(ヨバレ)給(タマ)われたので 櫛田社を定め賜れたと記されます
その他 飯野高宮・櫛田社・魚見社・眞名胡神社・佐々牟江社・大與度社・礒ノ宮の創建について記されています
【抜粋意訳】
二十二年 癸丑
飯野の高宮に遷りて 四箇年奉斎す この時 飯高ノ縣造(サトツクリ)の祖 乙加豆知(ヲトカツチノ)命に「汝が国の名は何そと」と問ふ賜ふと「意須比(イスヒ)飯高國」と申上げて 神田と並び神戸を進る 倭姫命は「飯高 志止(シト)白す事 貴(キイナリ)し」と悦び賜われた
次に、佐奈(佐那)縣造(サトツクリ)の祖 弥志呂(ミシロノ)宿祢命に「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「許母理(コモリ)國 志多備(シタヒ)之国 眞久佐牟(マクサム)毛久佐(ケクサ)向國(ムカウクニ)」と申上げて 神田 又 神戸を進る
又 大若子命に「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「百張蘇我(モモハルソカ)乃国 五百枝刺(イホエサス)竹田之國」と申上げた その所に御櫛(オクシ)を落(オトシ)給(タマ)われたので その所を櫛田(クシタ)と号(ヨバレ)給(タマ)われたので 櫛田社を定め賜れた
その所から御船に乗り給い幸行(ミユキナリタマフ)と 河後の江に到り坐(マシマス)る時に 魚(マナ)が自然に集り出て 御船に参乗(トヒノリ)ました 倭姫命は それを見て悦び給い その所に魚見社を定め賜れた
その幸行に従うと 御饗(ミアヘ)を奉(タテマツル)神(カミ)が参(マヒ)り 相支(アヒタテマツリ)「汝が國の名は何そと」問ひ賜ふと 曰く「白濱(シラハマ)眞名胡(マナコノ)國」と申された その所に眞名胡神社を定め賜れた
又 乙若子(ヲトワカコノ)命を以て 麻神草霊(ヌサクサ ヒトカタ)等を進に 倭姫命が祓解(ハラヘ)を令(メイジ)及に 陪従之人(シタカヘノヒト)に弓剱(ユミ ツルギ)を留めるに 兵器を共に入り座(マシマス)に 飯野高宮を遂に得たまへり 五十鈴宮に向かう それ以来 天皇之太子(ミカドノミコ)は 斎宮(イツキミヤ)驛使(ムマノツカヒ)國司人等に至るまで 川辺で祓解(ハラヘ)をし 鈴声を止む これその儀の所縁
その幸行に従うと 佐々牟江(ササムエ)に御船を泊め給い その所に 佐々牟江宮を造(ツクリ)令(シメ)坐(マシマ)し給われた 大若子命は「白鳥之眞野國」と國保伎(クニホギ)〈寿き〉曰く その所に佐々牟江社を定め賜れた
その幸行に従う間に 風浪は無く 海盬(ウミノシオ)は 大與度(ヲヲヨト)〈大淀〉に淀み 御船が幸行できた その時 倭姫命は 悦び給い その濱に大與度社を定め賜れた
〔天照太神 誨を〈教へ賜い〉倭姫命に曰く「これ神風 伊勢国は 即ち常世の浪の重浪(シキナミ)帰(ヨスル)國なり 傍国(カタヘノクニ)可怜(ウマシ)國なり この國に居(ヲラント)と欲ふ」と 太神の教への其の祠を伊勢國に因って立てるに 斎宮を五十鈴河上に興す これを礒ノ宮といふ 天照太神の始めて天より降りし處なり〕
【原文参照】
国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
国立公文書館デジタルアーカイブ 『倭姫命世紀』写本(1275~1288) 校訂者 渡会行忠[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038473&ID=&TYPE=画像利用
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 櫛田神社(くしたの かみのやしろ)の論社
・旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)
・櫛田神社(松阪市櫛田町)
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 『倭姫命世紀』垂仁天皇22年 倭姫命が 当地で櫛が落ち゛櫛田社゛と定めた古社 廃絶後 享保年間(1716~36年)再興 明治41年 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)に合祀 昭和8年(1933)櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に旧須賀神社の跡地〈現在地〉に分祀され 櫛田神社となり現在に至ります
櫛田神社(松阪市櫛田町)〈『延喜式』櫛田神社・櫛田槻本神社〉
・飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈旧櫛田神社跡を合祀〉
旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)は 明治41年2月11日 神山神社〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〉に合祀されました
昭和八年(1933)旧須賀神社の跡地である現在地に 櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に分祀されて現在に至ります
飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)は 『倭姫命世紀』には 垂仁天皇22年 倭姫命が天照大神の宮処を求めて遷られた゛飯野の高宮゛と載り 『延喜式』には伊勢國 飯野郡 神山神社(かむやまの かみのやしろ)と所載の古社 明治期に〈櫛田神社・流田神社・櫛田槻本神社・大櫛神社〉の4つの式内論社を合祀しました
飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈『倭姫命世紀』飯野の高宮〉
延喜式内社 伊勢國 多氣郡 櫛田槻本神社(くしたつきもとの かみのやしろ)の論社
・旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)
・櫛田神社(松阪市櫛田町)
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 『倭姫命世紀』垂仁天皇22年 倭姫命が 当地で櫛が落ち゛櫛田社゛と定めた古社 廃絶後 享保年間(1716~36年)再興 明治41年 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)に合祀 昭和8年(1933)櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に旧須賀神社の跡地〈現在地〉に分祀され 櫛田神社となり現在に至ります
櫛田神社(松阪市櫛田町)〈『延喜式』櫛田神社・櫛田槻本神社〉
・飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈旧櫛田神社跡を合祀〉
旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)は 明治41年2月11日 神山神社〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〉に合祀されました
昭和八年(1933)旧須賀神社の跡地である現在地に 櫛田神社と櫛田槻本神社は 共に分祀されて現在に至ります
飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)は 『倭姫命世紀』には 垂仁天皇22年 倭姫命が天照大神の宮処を求めて遷られた゛飯野の高宮゛と載り 『延喜式』には伊勢國 飯野郡 神山神社(かむやまの かみのやしろ)と所載の古社 明治期に〈櫛田神社・流田神社・櫛田槻本神社・大櫛神社〉の4つの式内論社を合祀しました
飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈『倭姫命世紀』飯野の高宮〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄山田線 櫛田駅から東方向へ約700m 徒歩で10分程度
櫛田川の西岸の櫛田町の田の中に鎮守の杜があります
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櫛田神社(松阪市櫛田町)に参着
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一礼をしてから鳥居をくぐり 正中に゛神の道゛と記された参道を進みます
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拝殿にすすみます
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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 櫛田神社について 所在は゛櫛田村に在す、゛〈現 櫛田神社(松阪市櫛田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
櫛田神社
櫛田は久之多と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕櫛田、〔假字上の如し〕
○祭神 櫛玉命
○櫛田村に在す、〔考証〕今飯野郡に属す、〔儀式解、俚諺〕
○式四、〔伊勢大神宮〕凡大神宮年限満應に修造者、遣使〔中略〕孟冬始作之、神宮七院、社十二處、櫛田社、
〇倭姫世記云、大若子命爾、汝國名何問賜、〔中略〕其処爾 御櫛落給支、其處乎 櫛田止號給、櫛田社定賜支、」
又云、出雲神子 出雲建子命、一名 伊勢都彦神、一名 神櫛玉命、』
儀式帳、〔神宮院行事條〕多氣佐々牟延宮坐支、彼時 竹首吉比古乎、汝國名何問賜支、〔中略〕即 櫛田根椋神 御田進支、伴信友云、清在神主云、井口村ノ長云、古ノ櫛田社 今ハ絶タリ、然シテ字ニ櫛田ト號スル處アリ、近邊ニ小祠七ツアリ、皆 櫛田社ト称ス、
〔連胤〕按るに、然らば櫛田村なるを以て、暫く式内社として可也、
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
式内社 櫛田槻本神社について 所在は゛豊原村に在す゛と記しています
【抜粋意訳】
櫛田槻本神社
櫛田は前に同じ、槻本は都岐毛登と訓べし、
○祭神詳ならず
〇豊原村に在す、〔考証、俚諺、〕今 飯野郡に属す、
○神鳳抄云、槻本御園、
類社
越前國大野郡 槻本神社
【原文参照】
鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 櫛田神社について 所在は゛飯野郡 櫛田郷 櫛田川の西、大櫛田村にあり、゛〈現 櫛田神社(松阪市櫛田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
櫛田(クシタノ)神社
今 飯野郡 櫛田郷 櫛田川の西、大櫛田村にあり、〔神鏡紀談、延暦儀式解、〕
【原文参照】
栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495
式内社 櫛田槻本神社について 所在は゛今 飯野郡 櫛田村にあり、槻本御櫛社といふ゛〈現 旧櫛田神社跡(松阪市櫛田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
櫛田槻本(クシタノツキモトノ)神社
今 飯野郡 櫛田村にあり、槻本御櫛社といふ、〔神名帳検録、勢陽雑記、式内社検録、〕
【原文参照】
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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 櫛田神社について 所在は゛三重縣今飯野郡櫛田郷櫛田村(飯南郡櫛田村 郷社 神山神社に合併)゛〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈櫛田神社を合祀〉〉と記しています
【抜粋意訳】
櫛田神社
祭神
祭日
社格 村社所在 三重縣今飯野郡櫛田郷櫛田村(飯南郡櫛田村 郷社 神山神社に合併)
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
式内社 櫛田槻本神社について 所在は゛三重縣飯野郡櫛田村 (飯南郡 櫛田村 郷社 神山神社に合併)゛〈現 飯野高宮神山神社(松阪市山添町)〈櫛田神社を合祀〉〉と記しています
【抜粋意訳】
櫛田槻本神社
祭神
祭日 正月十一日
社格 (覈録に豊原村にありとあり就て明細帳 豊原村には当社なし 櫛田村には櫛田神社とありて村社なり 式社とせり 槻本神社 別に一社となれり 字南出なり 今決め難し)所在 三重縣飯野郡櫛田村 (飯南郡 櫛田村 郷社 神山神社に合併)
今按 檢錄にこの社 本村南出の産神にして 南東の畠中に在り 槻木御櫛社と唱ふ 神鳳抄に槻本御園池上と傍注せる地にして 池上と稱する地も社北に存すと云ひ 式社調に村の南槻本の森と云ひ 其邊の田ノ字をつきもとと云ふとあるもの證とすべし
【原文参照】
教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
櫛田神社(松阪市櫛田町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について