呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
呉服神社(Kureha Shrine)
(くれはじんじゃ)
[通称名(Common name)]
下の宮さん
【鎮座地 (Location) 】
大阪府池田市室町7-4
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》呉服大明神(Kureha daimyojin)〈呉服(Kure hatori)〉
仁徳天皇(Nintoku tenno)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・衣服の神 God of clothes
・機織・染色・裁縫の上達 Pray for improvement in weaving, dyeing and sewing techniques
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
【創 建 (Beginning of history)】
・人皇第16代 仁徳天皇77年(389年頃)
呉服神社の御縁起
大阪府呉服里(くれはのさと)池田市にかしこくも鎮座まします。
日本最初「繊維」の祖神 呉服(くれは)大神 の御由緒を左に申述べます。人皇第15代 応神天皇 の御代に猪名津彦命(イナツヒコノミコト)を中国の呉(ご)の国に遣わし機織裁縫(はたおりたちぬい)の工匠をお需めになりました。その時 久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に趣き呉王に乞うて 呉服(くれはとり)・綾織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4人を伴い渡来する事となりました。
帰路九州の築紫潟に着きましたが 兄媛は 胸形(むなかた)明神の御望みにて この地にお留りになり 他の媛は 摂津の国 武庫(むこ)の浦にお着きになりましたので 猪名(いな)の港(今の唐船ヶ渕)に機殿(はたどの)を建て呉服媛(くれはとりのひめ)をお迎え致しました。
呉服の神女は昼夜怠りなく布帛を織り少しも倦み給う事がなかったと申します。この時より 機織裁縫染色の技術が 我国に伝わり 男女寒暑の服装の別が定まりました。尚 四季には上妙(うはたえ)の衣服を天子に献し 下は万民に施されました。
仁徳天皇 の76年(385)9月18日 呉服(くれは)の大神は 御齢139才という人生に倍する御長寿を以てお隠れになり、その御遺体を今にその跡を残す梅室、姫室にお納め申し上げました。その翌年 仁徳天皇が勅令を以て 御神祠をお建てになりました。
この大神が 糸を様々にお染め分けになった所を 添殿井(そめどのい)と称し その糸を掛け晒しになりました松を 絹掛松(きぬかけまつ)と名付けその跡は今も残って居ります
大神の御託宣に「我は衣服(ころも)の神となり 人をして 寒暑の憂なく養蚕機織 絹布裁縫の道を守護し 且つ 船路遙かにこの日本に帰化せし故 海上の難おも無からしめん」とあります。代々の帝 殊に崇敬篤く、円融天皇 御代には鎮守府将軍 源満仲公が社祠を修復、又 下って御陽成天皇の御代には豊臣秀頼公が 片桐且元を奉行に命じて 再建の事があり、文政二年には有栖川宮殿下の御祈願所となりました。近年になって昭和44年、新拝殿の御造営が相なりました。
因みに呉服(くれは)大明神の御名は 後醍醐天皇より賜りました御宸翰より起り、又 これにより、我国にて絹布の類をすべて「呉服(ごふく)」と称する事となりました。
省みまするに 五穀を作るすべを授け万民に飢餓の憂の無い事は 天照大神の御神徳であると等しく 機織裁縫の道を教えて寒暑の憂なきはこの大神の
御遺徳に他ならずと信じます。
この故を以て 衣服の業に従い 並びに その産物を商うものはおしなべて その祖神たる呉服(くれは)大神を崇敬すべき事は 論を俟たぬ事であり、古来より 健康長寿家業繁栄、文化、経済手芸上達り神徳があるといわれています。呉服神社 主例祭行事
本社
夏越祭 7月18日
秋季大祭 10月18日
末社
1月9・10・11日 恵美寿祭
1月25日 天満宮祭呉服神社 関連史跡
・染殿井 市内満寿美町ダイエー南下る
・衣懸松 市内畑町五月山の一部
・唐船ヶ渕 呉服橋と絹延橋との中間点
・星の宮 市内池田町池田中学校門前
・呉服分霊社 市内下渋谷町郷土史学館横
・姫室猪名津彦塚 当神社境内地摂津池田 下の宮 呉服神社々務所
境内案内板より
【由 緒 (history)】
呉服神社の御縁起(略)
応神天皇の御代に呉の国よりこの地に渡来し、織物、染色の技術を我が国に伝えたとされている呉服(くれはとり)をお祀りしております。
応神天皇の御代に阿知使主(あちのおみ)都加使主(つかのおみ)親子を中国の呉国に遣わし機織裁縫の工女を求められました。長い旅の末、呉の国に趣き呉王に乞うて呉服(くれはとり)綾羽(あやはとり)の姉妹を伴い渡来することとなりました。姉妹はこの地に渡来した後、昼夜怠ることなく布帛(ふはく)を織り続け(暗夜には星が降りてきては白昼のように手元をてらしたと伝承があります)我が国に機織裁縫の技術が伝わり男女季節階級に応じた衣服が広まったと言われております。呉服(くれはとり)は仁徳天皇の76年9月18日に御隠れになり御身体を姫室に、翌年仁徳天皇がその功績を称え御神祠(当神社)を建てられ御霊をお祀りすることとなりました。
呉服神社 天正6年(1579)伊丹城主 荒木村重の乱により焼亡
慶長9年(1604) 再興(現在の本殿)
豊臣 秀頼公が片桐 且元に奉行を命じ再建 現在に至る御祭神 仁徳天皇 呉服(くれはとり) ※呉織(紀)
大 祭 10月18日※呉(くれ)、服(はとり)(約まって「くれは」と呼ばれるようになる)
公式HPよりhttps://kureha-shrine.com/about/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・天萬宮(テンマングウ)《主》菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
・伊勢神宮(イセジングウ)
《主》天照皇太神(アマテラススメオオミカミ)
豊受大神(トヨウケノオオカミ)
・稲荷社(イナリノヤシロ)
《主》瓢箪山稲荷大明神(ヒョウタンヤマイナリダイミョウジン)
初瀬稲荷大明神(ハツセノイナリダイミョウジン)
・六神社(ロクジンジャ)
《主》市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)
大物主命(オオモリヌシノミコト)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
素盞嗚命(スサノヲノミコト)
国常立命(クニトコタチノミコト)
猿田彦命(サルタヒコノミコト)
・祓戸社(ハラヘドノヤシロ)《主》気吹戸主命(イブキドヌシノミコト)
・恵美寿神社(エビスジンジャ)《主》事代主命(コトシロヌシノミコト)
阪急沿線 西国七福神めぐり
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
池田市に鎮座する「上の宮」「下の宮」について
①「下の宮」呉服神社(Kureha Shrine)〈大阪府池田市室町7-4〉
➁「上の宮」伊居太神社(Ikeda Shrine)〈大阪府池田市綾羽2-4-5〉
『日本書紀(nihon shoki)(720年)』にある「呉織(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされたの伝承を持つ神社です
①「下の宮」(Kureha Shrine)
姉の呉織(クレハトリ)と仁徳天皇(ニントクテンノウ)が祀られている 呉服神社は 里に鎮座するため「下の宮」と呼びます
呉服と書いて「クレハ」と読みます
呉服神社(池田市)の記事をご覧ください〈当社〉
呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています
呉服神社(池田市室町)
➁「上の宮」伊居太神社(Ikeda Shrine)
妹の穴織(アヤハトリ)と「応神天皇(オウジンテンノウ)」「仁徳天皇(ニントクテンノウ)」が祀られている 伊居太(イケダ)神社は 五月山(かつては池田山と呼ばれ絹掛松(キヌカケノマツ)があった場所)の山麓に鎮座するので「上の宮」と呼びます
別名を穴織(アヤハ)社と呼びます
伊居太(イケダ)神社(池田市)の記事をご覧ください
絹布類を「呉服(ゴフク)」と呼ぶ由来について
境内にある 案内板を読むと良くわかります
謡曲「呉羽(くれは)」と呉羽(くれは)神社
謡曲「呉服」は、
時の帝に仕える臣下が 西宮に参詣の途次「呉服(くれは)の里」の松蔭で、一人は機(はた)を織(お)り、他の一人が絲を引いている二人の女を見て 不思議に思い、素性を尋ねると、自分たちは応神天皇の御代に御衣を織った呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の姉妹で、昔 呉国から勅使に従って渡来した織女であると名乗り、当時の様を物語った。やがて、明方の頃、呉織(くれはとり)が 天女の姿となって現れ、君が代を祝って舞を舞い、綾錦(あやにしき)を織って献上する という荘重で気品高い曲である。
呉服神社は 仁徳天皇の御代に没した 呉服(ごふく)の祖神を祀る神社である。
その遺体を伊居太神社(上の宮)の梅室に、形見の三面神鏡を境内(下の宮)の姫室に納め、翌年 神祠を建てて呉服神社とされた。
以来、我が国での絹布類をすべて「呉服(ごふく)」と呼ぶようになった。謡曲史跡保存会
境内案内立札より
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大酒神社(Oosake Shrine)(京都 太秦)に合祀される
「呉織(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」の神
秦氏(ハタウジ)の本拠 京都太秦(ウズマサ)に鎮座する大酒神社(Oosake Shrine)の相殿に合祀される神は
《配》兄媛命(Ehime no mikoto) - 呉服女(kurehatori me)
弟媛命(Otohime no mikoto)- 漢織女(ayahatori me)
その由緒には
※明暦年中(1655~1658年)に社が破壊したため合祀したとあります
数多の絹綾を織出したる 呉服漢織の神霊を祀りし社(やしろ)を 大酒神社の側にありしが 明暦年中 破壊に及びしを以て 当社に合祭す
大酒神社(京都 太秦)の記事をご覧ください
大酒神社(おおさけじんじゃ)は 元の神社名称は「大避(おおさけ)」あるいは「大闢(ダイビャク)」とされていて この「大闢」は 中国(China)ではキリスト教の「ダビデ」を意味するとも伝わります 祭神はなんと 秦始皇帝(シンノシコウテイ)です 秦氏に纏わる諸説がある謎多き神社となっています 京都 太秦(うずまさ)の土地神で 元々は 広隆寺の寺内に鎮座していましたが 明治の神仏分離政策で現在地に遷座しています
大酒神社(京都 太秦)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
阪急宝塚線 池田駅から 北西へ線路沿いに約250m 徒歩3~4分程度
高架線路沿いの道路に 一の鳥居が建ちます 扁額には「呉服神社」
神社への参道が左折〈西へ〉 そこには横断幕「秋季大祭」と張られていました
参道の左手には 社号標「呉服神社」と由緒の案内板が設置されています
神門も見えています
呉服神社(Kureha Shrine)に参着
神門の中央には 大きく「呉服」とあり
柱には「呉服神社」「西国七福神 恵比寿大神」と掲げられています
参拝日が10月17日でしたが
翌日 18日は 秋季大祭で 拝殿の前には「湯立神楽」の準備が整っています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって右側には 西国七福神めぐり
・恵美寿神社(エビスジンジャ)《主》事代主命(コトシロヌシノミコト)
お詣りをします
本殿と拝殿は 東を向いて建っています
恵比寿神社は 南を向いて建っています
慶長9年(1604年)豊臣秀頼により再建された本殿
境内社にお詣りをして 神門を抜けて 振り返り一礼をします
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(nihon shoki)(720年)』「応神天皇37年春2月1日の条」・「応神天皇41年春2月15日の条」に記される伝承
呉服神社(Kureha Shrine)由緒記とされる話が 記されています
第15代 応神天皇〈推定在位270~310〉の時代に
縫製技術者を求めて呉国〈中国の江南地方〉へ向かい
相殿の祭神 兄媛命(Ehime no mikoto) - 呉服女(kurehatori me)
弟媛命(Otohime no mikoto)- 漢織女(ayahatori me)
を連れて戻るが 第15代 応神天皇〈推定在位270~310〉が崩御されて 第16代 仁徳天皇に奉ったと記されています
意訳
37年春2月1日 阿知使主(アチノオミ)都加使主(ツカノオミ)を呉(ゴ)に遣わし 縫工女を求めさせた
阿知使主(アチノオミ)等らは 高麗国(コマノクニ)に渡り 呉(ゴ)に達しようと欲していた
しかし 高麗(コマ)に至ったが 道を知らず 道を知る者を高麗(コマ)に乞うた
高麗王(コマノオウ)は 久礼波(クレハ)と久礼志(クレシ)の2人を導き者としたので これによって呉(ゴ)にいたることが得られました呉王(ゴノオウ)は 工女(ヌイメ)を与えた
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)の
四夫女(ヨタリヲムナラ)〈4人の婦人〉です
41年春2月15日 天皇は明宮(アカリノミヤ)で崩御(ホウギョ)
時に歳110歳
一説には 大隅宮(オオスミノミヤ)で崩御(ホウギョ)
この月に 阿知使主(アチノオミ)等らは 呉(ゴ)から筑紫(チクシ)に至り
その時に 旨形大神(ムナカタノオオカミ)〈宗像大社の神〉が 工女(ヌイメ)等を乞われたゆえ 兄媛(エヒメ)を胸形大神(ムナカタノオオカミ)に奉(タテマツ)ったこれがすなわち 今の 筑紫国(チクシノクニ)にある御使君(ミツカイノキミ)の祖(オヤ)なり
あとの三婦人を連れて 津国(ツノクニ)に至り 武庫(ムコ)に及んだときに 天皇が崩御され ついに間に合わなかった 大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)〈仁徳天皇〉に奉(タテマツ)った
この女人等(オナゴドモ)の後〈子孫〉は 今の呉衣縫(クレノキスヒ)蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)これなり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『日本書紀(nihon shoki)(720年)』雄略天皇14年春正月の条に記される伝承
『日本書紀(nihon shoki)』は 兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ) について
「応神(オウジン)天皇の条」と「雄略(ユウリャク)天皇の条」の両方の天皇記に いずれも機織り技術をもった織女について 二つの渡来伝承を記しています
二つの渡来伝承とも 呉から日本に招いた工女で 四婦人の名は ほぼ同じです
「応神天皇の条」
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)
「雄略天皇の条」
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)漢織(アヤハトリ)
また 兄媛(エヒメ)は 双方の伝承で 同じように神に捧げられ
「応神天皇」で〈宗像大社の神〉に 「雄略天皇」で〈大神神社の神〉に
第21代 雄略天皇〈推定在位456~479〉
雄略天皇14年春正月の条に記されます
意訳
14年春1月13日
身狭村主青(ムサノスグリアオ)等らは 呉国(ゴノクニ)に共に使わした 呉(ゴ)の献じた手末才伎(テナスエノテヒト)漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)と衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)等を帰国させ 住吉津(スミノエノツ)〈住吉大社〉に泊めた
この月に 呉(ゴ)の来客の道を 磯歯津路(しはつのみち)に通じさせた
これを呉坂(クレサカ)と名づけた
3月 臣連(オミノムラジ)に命じ 呉(ゴ)の使者を迎えた
その呉人(ゴノヒト)を桧隈野(ヒノクマノ)に於いて〈あって〉それで呉原(クレハラ)と名づけた衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)を大三輪神(オオミワノカミ)〈大神神社の神〉に奉(タテマツ)った
弟媛(オトヒメ)を以って 漢(アヤ)の衣縫部(キヌヌイベ)とする漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)の衣縫(キヌヌイ)は 飛鳥衣縫部(アスカノキヌヌイベ)伊勢衣縫(イセノキヌヌイベ)の先(サキ)〈先祖〉なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『摂津名所図会(Settsu meisho zue)』〈寛政8年(1796)~寛政10年(1798)刊行〉に記される伝承
上の図絵「池田(いけだ)呉羽社(くれはのやしろ)」では 寛政年間頃の様子が窺えます 社殿の建つ様は現在とほぼ同じです
意訳
呉羽神社(クレハノジンジャ)
池田の町 南の端にあり この地の生土神(ウブスナカミ)なり
例祭9月18日
社門に 猪名津彦の祠(ヤシロ)影向石(ヨウゴウセキ)あり
末社5社 観音堂あり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『攝津名所圖會』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 12冊 [書誌事項]刊本 ,寛政08年 ~ 刊本 ,寛政10年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003086&ID=M2018050709193628387&TYPE=&NO=
『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』明治45年(1912)に記される伝承
意訳
郷社 呉服(クレハトリノ)神社
祭神 呉服比賣(クレハトリヒメノ)神
仁徳天皇(ニントクテンノウ)呉服比賣は 呉国より 来朝せし工女なり
『日本書紀(nihon shoki)』応神天皇巻に
「37年春2月1日 阿知使主(アチノオミ)都加使主(ツカノオミ)を呉(ゴ)に遣わし 縫工女を求めさせた
阿知使主(アチノオミ)等らは 高麗国(コマノクニ)に渡り 呉(ゴ)に達しようと欲していた
しかし 高麗(コマ)に至ったが 道を知らず 道を知る者を高麗(コマ)に乞うた
高麗王(コマノオウ)は 久禮波(クレハ)と久禮志(クレシ)の2人を導き者としたので これによって呉(ゴ)にいたることが得られました
呉王(ゴノオウ)は 工女(ヌイメ)を与えた
兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)の
四夫女(ヨタリヲムナラ)〈4人の婦人〉です 」
とあるこれなり呉を久禮(クレ)と訓ずるのは 久禮波(クレハ)と久禮志(クレシ)の2人の名にちなむ(摂津微書)
かくて41年春
阿知使主(アチノオミ)等らは 呉(ゴ)から筑紫(チクシ)に至り
その時に 旨形大神(ムナカタノオオカミ)〈宗像大社の神〉が 工女(ヌイメ)等を乞われたゆえ 兄媛(エヒメ)を胸形大神(ムナカタノオオカミ)に奉(タテマツ)ったあとの三婦人を連れて 津国(ツノクニ)に至り
呉織穴織の2女は 呉服里に居り 兄媛は居る所をしらず
2女に光明あり 100余才の間 油燭の事を費やさず 鍼(ハリ)を執り 紐(ヒモ)を織る 事 叡聞に入り貴威 窮(キワマリ)なし仁徳天皇76年9月17日18日 2女相次いで死す
その後 神となりて託宣す 曰く
我 この土に降臨し 呉服神となりて 人をして 寒暑の憂なく これに於いて状を具して 以聞す仁徳天皇は勅して 両社を建立し 万世以って奉祀す(摂津微書 所載の呉織穴織大明神 縁起による)
穴織神社は当町内に在りて 当社より10町程をへだてたりと云う(摂津群談による)
かくて神領 若干を附せられしが 醍醐天皇 延長年中 兵火にあいて これを失い 僅かに封3戸となる
円融天皇 天録年中 源満仲の再興あり 又 源頼正も社殿を修営せり(社記)御陽成天皇 慶長9年甲辰 豊臣秀頼公が 片桐且元を奉行に命じて 造営せしむ(摂津微書 所載の棟札記による)
その後 池田氏も修補をなしたりと(社記)
桜町天皇 明和2年火災に逢い 祠官 河北重房経 営 惨憺(サンタン)漸く(ヨウヤク)にして成る(摂津微書 所載の棟札記による)
仁孝天皇 文政2年2月 有栖川宮の御祈願あり
又 旧領主 九条家の崇敬深く 御供米として 毎年 現米1石の寄進あり明治5年 村社に列し 9年4月郷社に列す
御神体は 木座像なり
境内 987坪(官有地第一種)
社殿は 本殿 拝殿 その他 廊下 神輿庫 等の建物を備え四周平坦の田園の中に社地はやや高く 風致清爽 望絶佳なり
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【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2
呉服神社(Kureha Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)