実践和學 Cultural Japan heritage

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國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈延喜式神名帳927 AD.所載 壱岐石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)津神社(つの かみのやしろ)物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神成る」との伝説があります

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

國津神社(Kunitsu shrine)

 [通称名(Common name)]

〈旧社号〉荒波加大明神阿良波加大明神〉(あらはかだいみょうじん)

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良浦1148

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》脚摩乳あしなづちのみこと
   摩乳てなづちのみこと
   奇稲田姫命くしなだひめのみこと

《配》甕槌神たけみかづちのかみ

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (History)】

郷ノ浦町指定文化財・史跡

村社(そんしゃ)国津神社(くにつじんじゃ)

指定年月日 平成十二年十月一日
所 在 地 壱岐郡郷ノ浦町渡良浦一一四八番地
所 有 者 国津神社

国津神社は『延喜式神名帳』登載の神社である。祭神は脚摩乳命(あしなづちのみこと)、手摩乳命(てなづちのみこと)、奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) 配祀は建甕槌神(たけみかづちのかみ)である。式内社は壱岐郡に二十四座が鎮座し、そのうち郷ノ浦町には十座が鎮座する。

指定面積 1.320㎡

延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)
 天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(757)施行の養老律令(ようろうりつりょう)の施行細則(しこうさいそく)を集大成した法典を『延喜式』といい、延喜五年(905)、醍醐(だいご)天皇の命により藤原時平(ふじわらのときひら)らが編纂(へんさん)を開始し、康保(こうほう)四年(967)施行した。
 第九・十巻には、全国 五畿七道(ごきしちどう)・国郡別の3132座の神名が記されていることから、これらの巻を「延喜式神名帳」という。「延喜式神名帳」に登載された神社を「延喜式内社」略して「式内社」といい、壱岐には24座あり、由緒高い神社である。

平成十四年十月 郷ノ浦町教育委員会
現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

・小祠 石祠が祀られています

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)は 三つの式内社〈・国津神社・津神社・物部布都神社〉の論社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)対馬島 29座(大6座・小23座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社


[旧 神社 名称 ] 国津神社
[ふ り が な ]くにつかみのやしろ)
[Old Shrine name]Kunitsukamino yashiro)


[旧 神社 名称 ] 津神社

[ふ り が な ]つの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Tsu no kamino yashiro)


[旧 神社 名称 ] 物部布都神社(貞)
[ふ り が な ]もののへのふつの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Mononohe no futsuno kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)は 三つの式内社の論社です

①石田郡(いしたの こおり)國津神社(くにつかみのやしろ)

・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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・津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

一緒に読む
津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

津之宮神社(つのみやじんじゃ)は かつて神坂津宮大明神と称され 国府に近く 壱岐国の津〈現 印通寺港〉であったこの鎮座地は 地名も津宮と呼ばれる程の大社であったとされます 故に二つの式内社・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)の論社とされています

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・志々岐神社(壱岐市石田町南触)〈参考〉

一緒に読む
志々岐神社(壱岐市石田町南触)

志々岐神社(ししきじんじゃ)は 『壱岐国神社誌』に鎮座地名 印通寺(いんどうじ)の由来が記されます「昔 神功皇后が三韓征伐の為 西海に赴いた時 十城別王(ときわけのみこ)〈日本武尊の御子〉が臆して退いたので 歎いた皇后が矢を手にとり投げて十城別王の背中を射通した その射通し(ヰトホシ)が訛り 印通寺(いんどうじ)と云う」

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➁石田郡(いしたの こおり)津神社(つの かみのやしろ)

・津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)

一緒に読む
津神社(壱岐市郷ノ浦町牛方触)

津神社(つじんじゃ)は 社伝に「嵯峨天皇 弘仁二年(811)の草創 延喜式内 壱岐国 廿四座の一なり」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 石田郡 津神社(つの かみのやしろ)の論社です 郷ノ浦町牛方触(うしかたふれ)の津ノ上山(つのかみさん)〈角上山〉は 壱岐郡と石田郡の郡境にあり  式内社 壱岐郡 角上神社(つのへの かみのやしろ)ともされます

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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・津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

一緒に読む
津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)

津之宮神社(つのみやじんじゃ)は かつて神坂津宮大明神と称され 国府に近く 壱岐国の津〈現 印通寺港〉であったこの鎮座地は 地名も津宮と呼ばれる程の大社であったとされます 故に二つの式内社・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)の論社とされています

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➂石田郡(いしたの こおり)物部布都神社(貞)(もののへのふつの かみのやしろ)

・物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)〈旧鎮座地〉 

一緒に読む
物部布都神社跡(壱岐市郷ノ浦町田)

物部布都神社跡(もののべふつじんじゃ あと)は 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社と比定された物部村に鎮座していた布都ノ宮〈物部布都神社〉の跡地です 昭和40年(1965)5月 天手長男神社に合祀されました

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・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)〈物部布都神社を合祀〉 

一緒に読む
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町田中触)〈壱岐嶋一之宮〉

天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃 その後廃絶し 所在も不明となっていました 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たなかを」から(たながお)推定し比定したものです それ以前は 天手長男神社の由緒は無いとされていた 櫻江村 若宮と云われた式外社でした

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・國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

一緒に読む
國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〈延喜式内社〉

國津神社(くにつじんじゃ)は 三つの式内社の論社〈『延喜式神名帳927 AD.』所載 壱岐嶋 石田郡・国津神社(くにつかみのやしろ)・津神社(つの かみのやしろ)・物部布都神社(もののへのふつの かみのやしろ)〉とされます 神功皇后が「異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神と成る」との伝説があります

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

郷ノ浦から県道175号を北西へ5.3km 車8分程度
道路に 鳥居と一の鳥居が建ちます

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立派な鳥居なので車から降りて確認をすると 扁額には 國津神社とありますが 周囲に神社は無く かつての参道が今の道路で 鳥居が道路に取り残されているような感じです
一礼をして 一の鳥居をくぐります

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社頭には 幹のよじれた大木があり その横に鳥居再建の寄付者名簿碑

國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)に参着

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一礼をして 二の鳥居をくぐり 石段を上がります

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味わいのある狛犬が座します

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥は 高くなった檀上に本殿が祀られています

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その高い檀の手前には 仏像のような石像〈神像〉があります

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本殿前には 天を向いて砲弾が置かれています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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境内南側には 日本庭園あり「かわらけ」(土師器)発見されていて
発見者の博物館 河合副館長によれば「日常的に使われたものでなく 一括で捨てられており 祭祀に関わることで間違いない」話されています

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 國津神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)
式内社 津神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)
式内社 物部布都神社は 物部村〈現 物部布都神社跡

と記しています

【抜粋意訳】

國津神(クニツカミノ)社

略志 渡良村にあり

津(ツノ)神社

姓氏 津宿祢菅野朝臣同祖百済国都基王之後塩君男番侶君之後也
書紀 津臣
略志 渡良村にあり

物部布都(モノノヘノフツノ)神社

和抄 物部
〇今 物部村にあり

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承

巻14 渡良村之部に 幾つかの伝説〈・神功皇后三韓征伐・鹿島大明神・伊豆半右衛門という者の遠祖〉が記されています

【抜粋意訳】

巻14 渡良村之部

國津神社

祭神 武甕槌神 奇稻田姫命 左 脚摩乳 右 摩乳

宝殿 上屋 祝詞屋 拝殿 御食殿 石鳥居

風土記
往昔 神功皇后三韓征伐の時 常陸國鹿島大神四十八隻の兵舩の梶取となり
此村の神の崎に着舩ましまして 鹿の嶺に上り給ひ 西の海を見て荒れ狂いなり 故に 縄碇(なわいかり)を土俗乞い給ふといえども 出来ず 神功皇后は 異国退治して無事帰朝せれば この所の守護神成る 速やかに縄碇を尽くせし 時の神のなり 速やか縄碇を献上賜い 神の崎 御出帆有り 三韓退治ましまして 難なく帰朝しに依り 鹿の嶺に社殿を建て祭れり

〇又曰 昔 志賀御宇天皇為誅伐異国 阿倍鳥海二氏 則二氏率 八万余艘舟先着 此津祈誓云得誅伐異国可 奉鹿島神則三韓無事・・・・・

〇社伝曰 鹿島大明神 三韓征伐の時 四十八艘の兵舩毎小舩梶取二人完に化身し都合九十六人の化身なり 故に祭礼に騎馬九十六疋立て 即近郷九十六町の田地より出・・・・・・

〇古伝云 むかし 伊豆半右衛門という者の遠祖 (神田浦)といふ所に至りし時 より一つの甕が寄り 沖に突き出したれば 又寄せ来る
この これは 甕が人ある浦に流れ着いた神様であるのだろうと思
則 今この神は田浦寄来るものとなり 時の人々十二月の神田をなり 依って此浦を神田といふ

その甕を今 この神殿の右の傍らに埋め その上に石を置く 名づくに甕石とい
延宝四年丙辰 橘三喜が この甕を掘らせ 菊花石など その中にあり
幾千年経るに 全く曇りがな
三喜は これを神殿に納む その甕は元のに埋め置く 其れ  宝殿の右傍にあり 上に石を置いて 甕石大明神と称す 三種の品は今 神宝となり

宝物 神鏡 神矛 菊花石
・・・・・・

【原文参照】

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

国立公文書館『壱岐名勝図誌』

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 國津神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)

式内社 津神社は 半城〈現 津神社壱岐市郷ノ浦町牛方触〉石田村〈現 津之宮神社壱岐市石田町池田西触
式内社 物部布都神社は 物部村〈現 物部布都神社跡

と記しています

【抜粋意訳】

國津神社

國津は久爾都と訓べし
祭神詳ならず
渡良村に在す 土俗 青波賀明神と称す 式社考

類社 伊勢国 飯高郡 久爾都神社

神社

津は假字なり
〇津宿禰祖神歟
〇半城村に在す 土俗明神称す
姓氏録 津宿祢 菅野朝臣同祖 塩君男番侶君之後也
又 菅野朝臣同祖 百済国都基王十世後 貴首王之後也

重足云 津上明神は壱岐郡角上神社なるべし 当郡石田村 宇津宮に津宮明神といふ社あり この津神社なりといへり されど今は略誌に従う 事 角上神社に同じ 尚考ふべし

物部布都神社

物部は毛乃々倍と訓べし 和名鈔 物部、布都は假字
〇祭神 師霊歟
物部村 元名 深江村と云う に在す、今 布都神社 

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社の國津神社について 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)〉とされるが 石田邑の印通寺浦〈現 志々岐神社壱岐市石田町南触〉と云う説もある

式内社の津神社について 半城〈現 津神社壱岐市郷ノ浦町牛方触〉とされているが 石田邑の境に昔より津宮大明神と称する小社〈現 津之宮神社(壱岐市石田町池田西触)〉との説もある

式内社の物部布都神社について 所在を物部邑であるとした 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉には 疑問があり物部布都神社は 渡良村〈現 國津神社(壱岐市郷ノ浦町)

【抜粋意訳】

國津神社

祭神
祭日 九月十日
社格 村社

所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に渡良村とす されど神社考に波浦村の蓮宮を国津神社とせしは甚非なり こは物部布都神社にして国津神社にあらずとみえ 式社沿革考に石田邑の印通寺浦は往昔 筑前大宰府の管内なりしときは 当浦 宮津にて年貢運送公用の津と伝えるは 国津神社はその邑なる志自岐大明神なるべし 当社 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査以前は式社と称し 右の浦にも近くませりと云る 據あるに似たれど国津を官津とせるは疑わしければとらず

津神社

祭神
祭日 九月十日
社格 村社

所在 半城村 字津上岳(石田郡柳田村大字半城)
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記ともに半城村 津上岳とす 然るに神社考に半城村角上大明神を延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に津神社定めしは津岳とあるを以て 津神社見たるよりの誤なるべし
石田邑の境に昔より津宮大明神と称する小社 神坂にあり 是 式社ならんとみえ 式社沿革考に壱岐廿四座記承慶記 神社考等にも石田村とあれば その村の神坂津宮大明神は津神社の旧地にして石田池田両村の宗社天満宮に遷座奉れる歟 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査以前 当社式内称し 又 宮津云傳ふる印通寺浦も甚近ければ由ありと云えり 姑附て後考を俟つ

物部布都神社

祭神 布都主命

祭日 九月十六日

所在
今按〈今考えるに〉
明細帳式内社記に物部邑とあれど 神社考に此村 大屋の野中の辻に社もなかりしを 延寶の時〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉石社木鏡を安置しし 新たに勧請し 布都神社と定めたるは 古に所謂 物部郷は物部武水水渡浦三邑にて 渡浦村 蓮宮則式内の物部布都神社なる事を考へず 偏るに 当社は物部邑にあるべき社と見たる故也と見え 式社沿革考に壱岐24座記 承應社記 吉野公光記 神社考 式社略考の五書にも 物部布都神社は 渡良村と待しは 此渡良村を国津神社と云は 社号の混乱なりと云るに従いて この所在を定むべきなり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

式内社の國津神社であると記しています

【抜粋意訳】

渡良村ノ部

村社 國津神社(旧號 荒波加大明神)

鎮座地 渡良村南触字宮之浦
 神 足名槌命、手名槌命、奇稻田姫命
 祀 武甕槌命


例祭日 十一月十日 神幸式、流鏑馬、大神楽奉秦
境内地 六百四十五

〔由緒沿革〕
当社ハ 渡良村ノ氏神ニシテ 延喜式神明帳所載 石田郡 國津神社 是ナリ 壱岐二十四座ノ一 同十七社ノ其ノ一也。
社記曰、往昔 神功皇后三韓御征伐ノ時 当村漉之辻ニ 瑞奇ノ霊験アリテ 神殿ヲ設ケタリト、後世ニ至リテ 現在ノ地ニ 宮殿ヲ遷セリト伝フ。
当社ハ 嵯峨天皇 弘仁二年ノ草創ニシテ 文徳天皇 仁寿元年詔シテ 正六位上ニ叙シ奉ラセ給ヒシヨリ神階ヲ進メ奉ラルゝ事次ノ如シ。
一、陽成天皇 元慶元年 使中臣忌部両氏 班幣依 大嘗曾供奉也。
一、同八年 大中臣氏人参向依所行大嘗會也。
一、朱雀天皇天慶3年所奉増一階。
一、白河天皇 永保元年 同。
一、崇徳天皇 永治元年 同。
一、高倉天皇 治承4年 同。
一、後島羽天皇 元暦元年同増位 平家追討之御祈祷也。
一、当社ハ 從前祠官二名ヲ置ケリ 即チ川瀬氏三冨氏是ナリ 明治維新神社改制ノ際迄並立セシ者也。
一、当社例祭ニ鳥居ニ将ヲ結ビ 公文ノ参向ノ時 将ヲ解キ 夫レヨリ祭事ヲ始メシ者也、此儀式 明治初年迄行ハレタリ。
一、延宝四年六月 國主ヨリ 木鏡ノ神体及島居ノ石額ヲ奉献セラル。
一、当社ハ 藩主ノ崇敬篤ク 例祭日ハ 代参トシテ馬廻衆参向アリ 新御造営ノ節白銀五枚ヲ献ゼラルヲ例トセリ。
一、明治四十年七月 神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

國津神社(壱岐市郷ノ浦町渡良浦)に (hai)」(90度のお辞儀)

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る

一緒に読む
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について

壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています