國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
國片主神社(Kunikatanushi shrine)
[通称名(Common name)]
国分天満宮(こくぶてんまんぐう)
【鎮座地(Location)】
長崎県壱岐市芦辺町国分東触766
[地図(Google Map)]
【御祭神(God's name to pray)】
《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
《配》菅贈相国(かんぞうじょうこく)〈菅原道真公〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・國造り・病を治す神・学力向上・豊作祈願・厄除け・健康長寿
【格式(Rules of dignity)】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)927 AD.』所載社
【創建(Beginning of history)】
國片主(くにかたぬし)神社 由緒沿革
旧 号 國分天満宮 國分天神
祭 神 少彦名命(すくなひこなのみこと)(國造り、病を治す神)
相 殿 菅贈相國(かんぞうじょうこく)(学問の神)
例祭日 旧八月二十五日
由緒沿革
当社は延喜式内二十四座の内なり。壱岐島大七社の一ツなり。國片主と名付けられたのは、遠き神代に於いて少彦名命が大國主命(おおくにぬしのみこと)と共に國土を二分して経営され給うに依る。又 古来 國分天満宮、國分天神と称するのは 学問の神 菅原道真公を祀るが故なり。
嵯峨天皇弘仁二年(八一二年)十月朔日、日輪の神勅を承けて鎮り給う。朝廷より神階を進められ給う。
(千百年前)即ち文徳天皇 仁寿元年 正六位上(千百年前)後九代の各天皇より九回に亘り次々各一階づつ増し奉らる。一、永禄 五年、宝殿再建、波多藤童丸(一五六二年)
一、慶安 四年、宝殿再建、松浦肥前守鎮信(一六五一年)
一、承應 三年、拝殿造替、大宮司長田十太夫(一六五三年)
一、寛文 三年、宝殿造替、大宮司長田(榊原)式部(一六六三年)
一、延宝 四年、木鏡、石額奉献、國主 源鎮信(一六七六年)
一、元禄十四年、石鳥居造替、(一七〇一年)
一、宝永 六年、御殿造替、(一七〇九年)
一、天和 三年、神輿造替、(社記)に依れば当社古くより朝廷の崇敬厚く毎年祈年祭には幣帛料(へいはくりょう)を奉られ平戸領主 壱岐を領有後 益々崇敬加わり國主直参社となり名代参向せり。
一、明治七年五月村社に列せらる。
一、大正元年十一月神饌幣帛料供神社に指定せらる。昭和六十三年四月宮司就任記念 榊原 伸
境内案内板より
【由緒(History)】
由緒
「壱岐神社明細帳」に「平戸藩崇敬全国七社の其一なり、但式内氏子134戸」「但勧請年月不詳、社地3反1畝1歩、無税」、「壱岐国神社田畑帳」に「国片主神社、宗廟、社領高2石祭米6升6合」とある。
延喜式巻十には「国片主神社」は壱岐嶋24座の内、名神小となっている。「神社帳」は「当社は人皇52代嵯峨天皇弘仁2年之草創期而60代醍醐天皇延喜5年之勧請也」とし、更に社名についても「壱岐石田二郡之境故号国片主神」と記している。
しかし、永禄5年(1562)12月波多藤童丸押字の宝殿再建の棟札に「奉造立天満宮御宝殿壱宇云々」、また寛文3年(1663)6月松浦鎮信押字の宝殿再建の棟札に「奉建立天満天神御宝殿一宇云々」とあるように、祭神から国分天神と呼ばれていた。
「続風土記」は壱岐廻を引いて「国分村の惣廟前は、天満宮と申延宝の御改の時、延喜式24座の内にて国片主神社となる。此以前は中山の近所の中島にあり、何れの時か此処に御勧請あり壱陽七社の其一なり」と。
藩主の崇敬が厚く、社殿再建の都度に白銀7枚を寄進され、藩主直参の社として、例祭には城代の参向があった。明治7年(1874)5月村社となり、大正元年(1812)11月神饌幣帛料供進神社に指定された。
なお、「国分天神は当初式内名神大、天手長姫神社として延喜式に登録され給い、次いで天満宮との錯覚によりて国分天満宮と称せられ、下りて延宝4年の査定に小神国片主神社の社号を冠せられ給いしも、而も上下の崇敬は名神大7社の実質を傷つくる事なく其体面を保持し給いしものとすべき也」と、「壱岐神社誌」は記している。
例祭は旧8月25日である。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【境内社(Other deities within the precincts)】
・六社権現〈本殿向かって左〉
・稲荷社〈本殿向かって右〉
・祇園社・干支神社
・なで恵比寿さま なで大黒さま
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
天手長男神 天手長比咩神の両神を 官社に列しています
【抜粋意訳】
巻二 嘉祥三年(八五〇)十月丁卯〈廿三日〉の条
○丁卯
屈七十僧於東宮。轉讀大般若經。別請七僧於清凉殿。修法印呪。並限三日。爲國祈也。詔以テ 壹岐嶋天ノ手長男天ノ手長比咩兩神ヲ 列ス於官社ニ
〈詔を以て 壹岐嶋(いきのしま)天手長男(あまのたなかを)天手長比咩(あまのたなかひめ)の両神(もろかみ)を 官社に列す〉
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則全50巻』〈平安時代中期朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には国家的事変が起こりまたはその発生が予想される際にその解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・・・・
天手長男 (あまのたなかをの) 神社一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則全50巻』〈平安時代中期朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
三つの式内社の論社です
①壱伎郡 國片主神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國片主神社
[ふ り が な ](くにかたぬしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunikatanushi no kamino yashiro)
➁壱伎郡 手長比賣神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 手長比賣神社
[ふ り が な ](てなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tenakahime no kamino yashiro)
➂石田郡 天手長比売神社(名神大)
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 天手長比売神社(名神大)
[ふ り が な ](あまのたなかひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Amanotanakahime no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
國片主神社(壱岐市芦辺町)の関連する 三つの式内社について
國片主神社の鎮座地 國分村(現 壱岐市芦辺町)は 郡の境に位置していて 昔は 壱岐郡であったかもしれないと考えられていて 複数の式内社の論社になっています
壹岐郡(いきの こおり)國片主神社(くにかたぬしの かみのやしろ)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
・〈大正五年八月 爾自神社に合祀された 國像社〉爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)
爾自神社(にしじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 壱岐の島まで軍を進め〈対馬へと渡る為には東風が不可欠〉風待ち停泊した時 東風石(こちいし)と呼ばれている巨石に東風の順風祈願をした すると石が二つに割れて さわやかな東風が吹きおこり 順調に三韓に渡航して戦勝した 帰朝の際 ここに風の神を祀られたと伝わります
爾自神社(壱岐市郷ノ浦町有安触)
・長峰天満神社(壱岐市郷ノ浦町長峰本村触)〈安村にあった國片大明神を相殿に合祀〉
壹岐郡(いきの こおり)手長比賣神社(てなかひめの かみのやしろ)
・手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
手長比賣神社(たながひめじんじゃ)は 鎮座地 棚河(たなごう)は呼称の通り 海に向かって棚田が続く絶景の地で 更にその砂浜の先に見える島は「手長島(たながしま)」と呼ばれ かつては棚河大明神(たなごうだいみょうじん)と呼ばれていましたが 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 式内社 壹岐郡 手長比賣神社とされたものです
手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
石田郡(いしたの こおり)天手長比賣神社(名神大)(あめのたなかひめの かみのやしろ)
・天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
天手長男神社(あまのたながおじんじゃ)は 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶し 所在も不明となっていた天手長男神社を 延宝4年(1676)平戸藩主の命により藩の国学者 橘三喜が 現地の地名「たながお(たなかを)」から推定し比定したものです それ以前は 櫻江村 若宮と云って式外社で 天手長男神社の由緒を存するものではないとされていました
天手長男神社(壱岐市郷ノ浦町)
・天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
天手長比賣神社跡(あまのたながひめじんじゃあと)は 延宝4年(1676)平戸藩命で式内社調査を国学者の橘三喜が行い 鎌倉時代の元寇により荒廃し その後廃絶 所在不明だった天手長比賣神社を 物部邑の五所姫大明神幡宮・姫大明神と呼ばれていた当社に推定し比定したもので〈昭和40年(1965)天手長男神社に合祀〉され 現在は跡地です
天手長比売神社跡(壱岐市郷ノ浦町)
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
・長峰天満神社(壱岐市郷ノ浦町長峰本村触)
國片主神社(壱岐市芦辺町)は 壱岐七社のひとつ
現在の國片主神社(壱岐市芦辺町)は 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 式内社 國主片神社に比定されたが その理由は示されず当社が國片主神社である証拠は何処にもない
しかし壱岐七社・民間大七社の一社であり古来より崇敬の大社であったことは確かでいずれかの式内社であったとしても不思議ではないとされます
゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について
壱岐の人々には お正月に初詣に・豊作・大漁・家内安全・健康長寿 等を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです
壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈旧平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です
1.白沙八幡宮
〈 延喜式内社 海神社(大)の論社〉
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
白沙八幡神社(はくさはちまんじんじゃ)は 本来の式内社 石田郡 海神社(大)だとされています 社記に延暦6年(787)神殿を辰(東南東)向きに建立とあり 八幡勧請以前は ”管城社” と呼ばれ 壱岐国大七社の一社で 例祭時には国主参拝の神社として特別扱いされていたが 延寶の調〈延宝四年(1676)平戸藩の国学者 橘三喜の式内社調査〉の際 ”八幡宮” の称号であった為 誤査定となった とあります
白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
2.興神社
〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)の論社〉
・興神社(壱岐市芦辺町)
興神社(ko shrine)は 壱岐国が王制の時代であった頃の 一支国(壱岐国)の王都の跡「原の辻遺跡」のすぐ傍に鎮座します 官庫の鑰(かぎ)や国府政所の印かんを納める所として「印鑰大明神」の社号で呼ばれ 格式高い由緒を伝えます 里人の通称名は「一の宮」です 現在では 本来の式内名神大社「天手長男神社」で「壱岐国一之宮」は当社「興神社」とする説が有力です
興神社(壱岐市芦辺町)〈壱岐国一之宮〉(元印鑰宮)
3.住吉神社
〈延喜式内社 住吉神社(名神大)の論社〉
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 社伝によれば 神功皇后が住吉神の護神により三韓を征伐し 凱旋の時〈郷ノ浦に上陸 足形を石面に残した時〉住吉三神を祀られたと云う 後に 住吉神の神託により「波の音の聞こえぬ地」をお選びになり 現在地に遷座したと云う 式内社 住吉神社(名神大)(すみよしの かみのやしろ)で 住吉神社 発祥の地と伝えています
住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
4.本宮八幡宮
〈延喜式内社 兵主神社(名神大)の論社〉
・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
5.箱崎八幡宮
〈延喜式内社 月讀神社(名神大)の論社〉
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
箱崎八幡神社(はこざきはちまんじんじゃ)は 相殿に天月神命と高皇産霊神が祀られます 式内社・月讀神社(名神大)・高御祖神社の両社は 同じ所に鎮座したと伝わり 当社がそれとされます 故に祭神 天月神命(あめのつきかみのみこと)は『日本書紀』顕宗天皇三年の段に記される壱岐の「月神」〈高皇産霊命を祀れと憑依神勅をした〉であると伝わります
箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
6.國片主神社
〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)の論社〉
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
國片主神社(くにかたぬしじんじゃ)は 古来 唐土から石舟に乗り来た唐田天神を祀り 国分天神と呼ばれ 式内社 天手長比賣神社に比定されます 又 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉では 証拠は何処にもありませんでしたが 式内社 國主片神社に比定されました 国分天神の呼び名は 天満宮との混同により国分天満宮となりました
國片主神社(壱岐市芦辺町)
7.聖母宮
〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)の論社〉
・聖母宮(壱岐市勝本町)
聖母宮(しょうもぐう)は 神功皇后〈仲哀天皇9年(200)10月〉が壱岐に着き 順風を待たれたこの地を「風本・かざもと」と名付けられ三韓へ出兵された 三韓からの帰路再び立ち寄られ〈同12月〉出兵の勝利を祝い「勝本・かつもと」と改められたと社伝にあります 壹岐郡の二つの式内社〈・中津神社(名神大)・手長比賣神社〉の論社となっています
聖母宮(壱岐市勝本町勝本浦)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
壱岐島の ほぼ中央部 県道174号沿いに鎮座します
島西部の湯ノ本港からは 約4km 車6分程度
島東部の芦辺港からは 約4.5km 車6分程度
島北部の勝本港からは 約8.3km 車10分程度
島南部の郷ノ浦港からは 約8km 車12分程度
この辺りの島の中央部は「壱岐風土記の丘」と命名されていて 太古から栄えていたようで 多くの古墳が残っています
掛木古墳(かけぎこふん)
鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)
国史跡 壱岐古墳群
長崎県壱岐市芦辺町・勝本町[国分・亀石地区一帯]
壱岐島内には、長崎県全体の6割にあたる280基の古墳があり、そのうち200基以上の古墳は6世紀後半から7世紀前半[今から約1400年前]にかけて築造されています。
中でも、双六古墳、笹塚古墳、兵瀬古墳、鬼の窟古墳、対馬塚古墳、掛木古墳の6基の首長墓が「壱岐古墳群」として国の史跡に指定されています。
6基の首長墓の石室内からは、中国大陸や朝鮮半島の国々から認められていたことを物語る遺物が多数発見されており、海外の国々に精通した有力者が島内に存在していたことを窺い知ることができます。現地案内板より
この辺りが壱岐の島の真ん中と示すように 壱岐の中心を表す標石「へそ石」が傍に有ります
史跡 へそ石
この石は、江戸時代に書かれた壱岐名勝図誌に「女夫石」として記載があり、壱岐の中心を表す標石として、往来する人々の道しるべとなっていました。
本来は、道路を隔てた南側にありましたが、道路工事の時に現在の位置に移され、「へそ石」の愛称で呼ばれています。
平成28年12月 壱岐市教育委員会現地説明板より
県道沿いに 鳥居が建ちます
國片主神社(壱岐市芦辺町)に参着
道路沿いにある駐車場は 牛馬繋ぎ所(駐車場)とあり ちょっとウキウキ
社頭には笠木のかけだし(先端にかけて反り返る部分)が大きな反りをみせて外方に跳ね上がる肥前鳥居が建ちます
参道を進むとミニ鳥居〈淡島様(少彦名神)を祀る神社には祀られることがある〉願掛け鳥居となっています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿本殿が祀られています
横から眺めるととても大きな社殿になっています
社殿に一礼をして参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 國片主神社の論社として 國片主神社(壱岐市芦辺町)の他に異説として〈石田郡有 爾自神社 末社 國像社〉を紹介しています
式内社 壹岐郡手長比賣神社の所在について本宮村〈現 手長比賣神社(壱岐市勝本町本宮)〉と記しています
【抜粋意訳】
國片主神社
國片主は 久爾加多奴之と訓べし
〇祭神詳ならず 考証、押見宿祢といふ、今従わず
〇國分村に在す 今 天満天神と称す 式社考一宮神主松本重足云、今 石田郡有 爾自神社 末社に、國像社と称するあり、此社 大己貴命、少彦名命を祭れり、是 國片主神社ならんか、当村郡界なれば、昔は壱岐郡ならんもはかり難し、此辺りに國分嶽ありと云り、今はまづ略誌に従ふ、尚考ふへし、
称に按るに、國片主と申すは、一柱の神号にして、國ツ神にもやあらん、日本紀、崇神天皇皇女に、國片姫と申すも坐は、斯く思へるにこそ、これも再考すべし壱岐郡 手長比賣神社
手長は多奈賀と訓べし、比賣は假字也
〇祭神明らかなり 考証 大食都姫 式内考 栲幡千千姫命といふ 共に今従わず〇本宮村に在す
〇当国 石田郡 天手長比賣神社あり怪異
扶桑略記、延喜十八年十月十五日.太宰府解、壹岐鳥言上、手長比賣明神社、住吉明神社如ニ太鼓 鳴動、御體美石出 宝殿 在ニ地上、高御祖神社内乱肇、炎光照耀、指レ東飛去、卜部等申云、彼島内疾兵革、寮云兵賊驚者、石田郡 天手長比賣神社
天手長は前に同じ、比賣は假字なり
〇祭神明らかなり 頭注云 思兼命子なり〇考證 式社考 前に同じ 今従わず
〇物部村 元名 深江村と云う に在す、今 八幡宮と称す 式社考
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 壱岐島 天手長比賣神社一座官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 國片主神社の所在について 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で「壱岐石田両郡の両郡の境 國分と称する名を以て國片主神社とす」とあり
別説として 安村にあった國分大明神は 式内社 國片主神社の旧社地でありその後 長峯邑の宋社 天満宮〈現 長峰天満神社〉に遷座したとの説を記しています
【抜粋意訳】
國片主神社
祭神
祭日 八月二十五日
社格所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記には 国府村とあれと神社考に國分郷の惣社 壱岐石田両郡の境 天満天神を両郡の境 國分と称する名を以て 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に國片主神社とす
然れども其社の間近き坤方〈南西〉に古 國分大明神と称して社はなけれど祭りは九月十三日に行ふ 今 里人ケノカタと呼ぶとみえ 式社所名微に有 安村 壱岐廿四座記 式社略考 とし長峯邑とす式社沿革考に有 安なる國片大明神は 國片主神社の旧社地にて同村 宋社 天満宮に遷座せしならん歟 延寶〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前はこの天満宮を式内と称せりと云る如く 國片大明神と云へる甚由ありて聞ゆれば尚よく正し考へべきなり壱岐郡 手長比賣神社
祭神 栲幡千千姫命
天押穂耳命祭日 九月二十九日
社格 (無社格)
所在 本宮村(壱岐郡鯨伏村本宮)
今按〈今考えるに〉
神社考に 本宮巴崩の山神の地名タナカウと云によりて延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に手長と思ひて式内社としつれと農人 種子籾なかす河なるより 種子河と云るなれば 手長社に由なし
手長比賣神社は 勝本浦 聖母大明神ならんと云り
然るに 式社沿革考に 勝本浦なるは中津神社にて手長社にあらず 手長比賣神社は 承應社記に中通とある如く 郡は異なれども物部邑中通の神社なるへしと云り 姑附て考に備ふ石田郡 天手長比賣神社(名神大)
祭神
今按〈今考えるに〉
本社祭神 旧説に神功皇后とあるを延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に 栲幡千千姫命 稚日女尊 木花開耶姫 豊玉姫命 玉依姫命を祭れりとるは 神社考に物部邑 五所姫大明神幡宮を当社なりとし 姫大明神と称するを以て 栲幡千千姫命なと云るならんと云るが如くなるべし 又 同書に毎年 住吉神社 軍越の神事に当社に幣帛を納め神酒を献じ社邊にて 異国降伏の開肇を挙れば 神功皇后に拠ある歟とあれど 其祭式によりて皇后を祭ると云るも信じがたし故 今 式文によりて記せり
官社
文徳実録 嘉祥三年十月丁卯 詔以 壱岐島 天手長比賣神 列於官社祭日 九月十三日
社格 村社所在
今按〈今考えるに〉
式社沿革考に 承應記に当社を国分村と記せしや正しからむ
然らば 村の宋社 国片主神社の近き所に古 国分明神と云るあり 是 当社の旧社地にして 今の国片主神社に遷座し奉れるかと云れど 証拠明らかならねば従がたし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 國片主神社の論社として 國片主神社(壱岐市芦辺町)として その他に土地の伝えとして〈南西方向にある安村にあった國片大明神〈大正五年八月 爾自神社に合祀された 國像社〉は 式内社 國片主神社の旧社地であり その後 長峯邑の天満宮の相殿〈現 長峰天満神社〉に遷座したとの説〉を紹介しています
【抜粋意訳】
國片主(クニカタヌシノ)神社
今、國分村に在り、天満天神と云、一宮巡詣記、壱陽略志、壱岐式社沿革考
〇按 天満社地の坤方〈南西〉に國分明神と云傳ふるあり、長峯邑森と云所に國片大明神とて社あり、例祭九月十三日に祭らるとあり、胸形とも書りと云り、かられは此 國片大明神は、其の舊社地にして、後 天満社内に遷し、又 相殿に祭られしものなるへし、蓋 大己貴神 少彦名神を祭る
上古 二神力を併せて葦原中国を造り堅め成給ひき、其の神功威烈尤大也、
〇按 國片主神は、國堅主神の義にして、二神の功烈を称奉れる神名と思しく、但し 土人の説も拠あるに似たり、姑附て考に備ふ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
往古毎年2月祈年祭には朝廷より幣帛を奉られ江戸時代には 平戸城主松浦氏によって名代参向がありその様子として64人馬3頭 その行列の様子が記されています
【抜粋意訳】
那賀村ノ部
村社 國片主神社(旧號 國分天満宮、国分天神
鎭座地 那賀村大字國分東触
祭神 少彦名命、菅贈相國
例祭日 11月25日 神幸式、大神楽、流鏑馬
境内地 1091坪〔由緒沿革〕
一、当社ハ延喜第十神名帳ノ下ニ所載壱岐島壱岐郡國片主神社是也。〔神名記〕ニ本地少彦名命以前ハ天満天神ト云
又式内〔神社帳〕ニ國片主神社小神廿四座ノ内有宝殿拝殿定祭8月25日神主榊原出雲古來號天満天神七社十七社ノ内也。
〔社記〕ニ古來天満宮ト称シ奉リテ式内大七社ノ一也、又式ニ曰山城国ニ於テハ五條ノ天神ト號シ当国ニテハ国片主神社ト號ス亦國分天神トモ名附ク所謂國片主トハ國分ノ理句儀アリ、爰ニ神代大己貴神ト少彦名神ト共ニ国土ヲ経営サルゝ事相平半宛ナリ故ニ之ヲ称シテ國片主神ト號ス、又國分トモ名ヅク大己貴神ト少彦名神ト天下ヲ二分シ片々宛領有セラレ給フ所以也。
〔壱岐巡〕云、國分村ノ宗廟前ハ天満宮ト申シ延宝詮議ノ時延喜式廿四座ノ内改メテ國片主神社ト號ス。此以前ハ中山ノ近ク中島ニアリ何レノ御時力今ノ地ニ勧請セラレタルナリ。
壱岐七社ノ其ノ一ナリ。
嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔日平旦直ニ日輪ノ神勅ヲ承ケテ神代ノ霊璽ヲ写シ奉リ眞ノ神躰ニ象リ移シ奉ル、
一、文徳天皇仁寿元年正月正六位上ニ叙セラレ、以下神階ヲ進メラレ給フ事式内大社ノ例ニ依レリ。
一、永禄5年壬戊12月宝殿再建其ノ棟札ニ天満宮波多藤童丸花押。
一、慶安4年辛卯12月宝殿再建棟札ニ天満宮松浦肥前守源臣鎮信花押。
一、承応3年甲子 9月拝殿造替棟札ニ石田郡國分村天満宮松浦肥前守源朝臣鎭信花押。大宮司長田拾太夫
一、寛文3年癸卯宝殿造替棟札ニ天満天神松浦肥前守源朝臣鎭信押字、大宮司長田式部
一、延宝4年丙辰6月朔日國主源鎭信木鏡及石額ヲ奉献セラル、
一、元緑14年己巳5月石鳥居造替アリ其銘云
國片主神社。
乃平國修榮寿感至徳
優々而武運自長久
奉営建鳥居一宇氏子中家門安全子孫繁昌処也
元禄14己巳歳5月吉祥日
右烏居ノ柱三ツ遺レリ其銘云、中ノ郷國分村黒崎村住吉村半城村
一、宝永6年己丑8月12日御殿造替アリ其上棟ノ文云、國片主神社奉再建宝殿一字從五位下松浦壱岐守源朝臣棟押字
天和3年癸亥神輿造営アリ。
当神社ハ國主ヨリノ崇敬厚ク社殿再建ノ都度白銀七枚寄進セラレ又神領二斗ヲ奇進セラル。
元和3年12月28日國主隆信朝臣
寛永20年正月11日國主鎮信朝臣
元禄9年正月26日国主任朝臣
享保7年4月朔日國主篤信朝臣
寛延2年11月18日國主誠信朝臣
以上神領寄進状五通毎歳8月24日夜大神樂奉奏、25日國主名代社参アリ当日ハ神幸式流鏑馬等アリ、遠近ヨリノ参拝者群ヲナセリ。
〔社記〕ニ往古ハ朝廷ノ御崇敬厚ク毎年2月祈年祭ニハ幣帛ヲ奉ラレ又國司ヨリモ奉幣アリテ最厳粛ニ祭祀行ハレシガ武家ノ檀権ニ依リ此風斬ク衰へ応仁ノ大乱以後全ク廃レタリ。降リテ平戸城主松浦氏壱岐ヲ領有スルニ及ビ崇敬益々加ハリ当社ヲ各社ノ首班ニ位シ国主直参ノ社トシテ七社ノ中ニ数ヘラレハ毎年定祭ニハ名代参向アリ兵器ノ献納奉幣祈願等ノ犠アリ。今参考ノ為ソノ代参ノ行列ヲ記サバ
先足軽二人警固
指頭一人案内
道具頭二人
足軽二人警固
鉄砲五挺五人
長柄槍五本五人
乗馬二人
指頭城代案内一人
庄屋国分中野郷二人
徒士三人
若党四人
名代籠昇八人
足軽二人警固
草履取一人
手槍持一人
挟箱持一人
合羽籠二荷二人
馬一匹口取二人
襷箱一人
書役二人
草履取二人
目付一人
供人一人
代官供人一人
熨斗箱持一人
長櫃壹間物持六人
足軽二人警固
以上64人馬3頭 其行列ノ威儀想フベキナリ。又 毎年五穀成就米三斗二升 領内安穏祈祷料三斗二升ヲ国守ヨリ献納セラル、等実ニ崇敬厚キ御社ナリ。神領ノ事
一、正平4年7月28日附記載ノ神領図ニ曰、国分六十四町塩津留領
一、明治7年5月村社ニ列セラル。
一、大正元年11月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
國片主神社(壱岐市芦辺町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る
壱岐島(いきのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 壹岐嶋 24座(大7座・小17座)の神社です
壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について