熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
熊野大神社(Kumanodai Shrine)
(くまのだいじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県深谷市東方1709
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》伊弉冉命(Izanami no mikoto)
速玉男命(Hayatamao no mikoto)
事解男命(Kotosakanoo no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
社伝によれば 延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建てたと伝
熊野大神社 深谷市東方1708-1
当地は古くから開かれた土地であり、地内は家型埴輪が出土した古墳期の森末古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡などが知られています。
当社の創建について、社記に-延長5年(西暦927年)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す-とあります。
御祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱です。
現在の本殿は上野台の領主 萩元但馬守景朝、その子 秋元越中守長朝が、当社が館の東北にあたっている事から城の守り神として崇敬し、天正年間(西暦1573年~92年)に当社に社殿を寄進したものであり、本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されております。
文政2年と平成11年の大修理を経て今日にいたっております。本殿は昭和34年11月3日に深谷市の指定文化財に指定されました。
中仙道から一の鳥居をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された39基の石灯籠が続き 二の鳥居を過ぎ452本の玉垣に囲まれた境内地に進むと右側に樹齢350年のご神木の大欅がそびえています。 三の鳥居をくぐり本殿西側を進むと、氏子の皆様に献木していただいた450本のヅツジ林があります、更に歩くと北に上毛三山を一望出来る大パノラマが開けます。
主な祭事は春の大祭(4月15日)・秋の例大祭(10月15日)です。
幡羅小学校児童による浦安の舞いの奉納・入木節の奉納など次代を担う人々の参加は心強いものがあります。又、初詣は年ごとに参拝者が増えており大変な賑わいです、大晦日に「おたきあげ」の火を囲んで甘酒を戴きながら新年を祝う人々の輪は、平和のありがたさを実感させる美しい光景です。元旦は社務所で初釜を催しております、気取らない茶席です新年はぜひおいで下さい。
当社の氏子数は850戸、また崇敬者は2000人位です。平成15年 9月 宮司 栗原時雄
神社配布資料より
【由 緒 (History)】
熊野大神社
古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました。天文(てんぶん)(1532~55)の頃、深谷 上杉三宿老 皿沼城主 岡谷加賀守 清英(きよひで)がこの地方を領し 熊野大神社を深く崇拝(すうはい)し、社領を寄進し、今でも熊野免(くまのめん)という年貢を免除した土地があります。同じく三宿老の一人、上野台領主 秋元但馬守 景朝(かげとも)、その子越中守 長朝(おさとも)は、当社が上野台の館の東北にあたっているので、城の守りとして崇敬(すうけい)し、天正年間(1573~92)に当社の社殿を造り、現在 本殿正面の桁(けた)に家紋が彫刻されてあります。天正18年(1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守 康長(やすなが)が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を免除しています。
昭和8年1月 深谷上杉顕彰会
境内案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・伊奈利神社《主》倉稲魂命
・八坂神社《主》素盞嗚命
・大杉神社《主》大国主命
・手長男神社《主》天手長男命
・浅間神社《主》木花咲夜姫命
・八坂神社《主》素盞嗚命
・諏訪神社《主》建御名方命
・鹽竈神社
・神明神社《主》天照大神
・大宰府神社
・鬼林稲荷神社《主》倉稲魂命
・八幡神社《主》応神天皇
・小御嶽神社
・阿夫利神社《主》大山祇大神
・八坂神社《主》素盞嗚命
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)播羅郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 白髪神社
[ふ り が な ](しらかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Shirakamino no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の5つの論社について
・白髪神社(妻沼)
白髪神社(しらかみじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社です 社伝によれば「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあります 又 第22代 清寧天皇〈即位480~484年頃〉の白髪部との係わりがあるとされます
白髪神社(熊谷市妻沼)
・大我井神社(妻沼)
大我井神社(おおがいじんじゃ)は 明治維新の神仏分離令により 聖天様より新たに分離独立した伊弊諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を 太古に白髪神社を祀ったとされる゛大我井の杜゛と呼ばれる現在地に再興したものです 古くは聖天宮(妻沼聖天山)に合祀されていたと伝わる 二つの延喜式内社〈・白髪神社(しらかみの かみのやしろ)・楡山神社(にれやまの かみのやしろ)〉の論社となっています
大我井神社(熊谷市妻沼)
・妻沼聖天山歓喜院(妻沼)〈大我井神社の旧 鎮座地〉
妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざん かんぎいん)は 治承3年 (1179) 斎藤別当実盛公が 守護神としていた歓喜天を『延喜式神名帳』所載 武蔵國 幡羅郡 白髪神社が祀られていた鎮守の杜゛大我井の森゛に祀り創建されました その後 白髪神社は 聖天社に合祀され 明治維新後 独立分離し 大我井神社として再興しています
妻沼聖天山 歓喜院(熊谷市妻沼)
・熊野大神社(深谷市)
熊野大神社(くまのだいじんじゃ)は 深谷市東方(ヒガシガタ)に鎮座します この地域は7世紀後半から10世紀前半まで武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)が存在した地域です さらに古代には その地名の由来として「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」とあります 延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社でもあります
熊野大神社(深谷市東方)
・東別府神社(熊谷市)
東別府神社(ひがしべっぶじんじゃ) は 創建年代等は不詳です 鎮座地 別府の地名由来は 平安末期頃 国府の支庁である別府が置かれていた為 又は 別府小太郎清重の在名から名付けられた地名とも云われ 居城の東別府城には 別府氏(藤原氏)の氏神 奈良の春日大社から分祀し 天正18年(1590)の落城まで 城の鎮守であったと伝わります 跡地には 明治42年に埋鳥の村社 榛名神社を合祀して 東別府神社と改称しました『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社とされています
東別府神社(熊谷市東別府)
『埼玉の神社』埼玉県神社庁神社調査団 編 埼玉県神社庁1986年発行より
当社の鎮座する深谷市東方(ヒガシガタ)は 7世紀後半から10世紀前半まで存在した武蔵国(ムサシノクニ)幡羅郡(ハラノコオリ)の郡衙(郡役所)があった地域と推定されていて 東方地区には幡羅遺跡が眠っています
その地名「東方(ヒガシガタ)」の由来は さらに古代で「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」と『明細帳』を引用しています
延喜式内社「武蔵国 幡羅郡 白髪神社」の論社であるとの論争について詳しく記していますので 掲載します
熊野大神社<深谷市東方一七〇八-一(東方字杉町)>
当地は、JR高崎線籠原駅の北西二キロメートル、櫛挽台地の北端にある。
東方の地名について、『明細帳』は「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」と記し、
また、境内の「東方熊野社碑」には、日本武尊が、蝦夷を平らげての帰途、群馬県碓井峠に差し掛かった時、弟橘援を偲ばれて、東南を望み、三嘆して「吾妻はや」と言われ、これから当国を東国と呼ぶようになり、また「国の東にある当地を東方と呼ぶのもこの時に起こる」とある。
いずれにしても、当地は古くから開かれた所であり、地内には、家形埴輪が出土した古墳期の森吉古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡がある。
当社の創建について、社記に「延長五年(九二七)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て、上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し、東方村と号す」がある。当社創建にからむ問題として、当社が式内社白髪神社ではなかったかとする説が『大日本地名辞書』などにある。この説は古くからあったらしく、『風土記稿』は、当社を「熊野社 村の鎮守なり、或説に当社は祭神伊弉冊尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて、延喜式内白髪神社なるを、いつしか熊野社と時を改めしなどいへど、社伝には其沙汰なく且土人の口碑にも残らざれば、いかがはあらん」と記している。このほかに『武蔵国式内四十四座神社命附』が、当社を式内社としている。
この問題は、明治・大正になっても続き、行政文書、大正五年七月二十九日に、埼玉県にあてた内務大臣一木喜太郎の「熊野大神社社号変更並祭神増加の件聴届難し」がある。これは、当地が清寧天皇の御名代白髪部にかかわると論証し、当社を延喜式の古訓による白髪神社と改称したい。更に、祭神に白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)を増加したいと、大正五年五月十日付で社掌栗原逸作が提出した願書に対するものである。
また、この時、埼玉県神職会が、県知事昌谷彰の諮問に答え、祭神は清寧天皇か、又は『新撰姓氏録』に見える白髪王ではないかとの見解を呈し、白髪主は開化天皇の皇子彦坐王四世の孫であり、彦坐王の子孫は東国と深い関係がある、としている。
更にこの式内社としての社名変更の発端を思わせる「幣帛」が、内陣に置かれている。これは「延喜式内白髪神社幣帛、神祇管領」と記され、これを納める筥には「惣鎮守白髪神社・熊野大神幣帛、幡羅郡大社東方村、明治三庚午年十二月改、天児屋根命末孫当社神主藤原朝臣青木興美」と墨書されている。
なお、吉田東伍『白髪神社擬定私考』に、「熊野の肩額二面あり、一は熊野大神と正面に刻し、右肩に白髪神社と細刻す、造立年代不詳なれど、百年は経たものである。一は正一位熊野大権現と題す」とあるが、現在確認できない。
今日では、この式内社白髪神社は妻沼の聖天山歓喜院説が有力である。当社が白髪神社であったか否かはさておき、棟木に枇杷の木を使った伝説や当地開発を考えると当社の創建もかなり古く設定できる。
享保九年(一七二四)の「正一位熊野大権現」の宗源宣旨と、同祝詞が
先の『擬定私考』に残されている。
この祝詞には「尊神の御嫌物と伝て御氏子等の中に黍を作り食する事を悪賜ふと是定て往昔禁賜ふ故有む然とも今極位を捧奉る神徳に依て後今以往此事を免賜ひ」とあり、往時、当地に黍に対する禁忌があったことをうかがわせる。
当社の社殿造営は、前述したように、延長五年(九二七)との社伝があり、更に、深谷城上杉氏の家臣秋之景朝・長朝父子により、天正年間(一五七三-九二)に造営が行われたとも伝えている。現在の社殿の造営は、内陣に納められた旧神鏡の台裏に「本ハ安氷七(一七七八)春青木大和守本穏代造之、後破損再興文政二己卯年(一八一九)十月下旬、神主青木大和守源信網代口口」の墨書があり、更に、本殿の扉金具に「安永九年庚子(一七〇)十二月吉日、金物施主川下り柴崎六之助」と刻まれているところから、安永七年から九年にかけて建立され、文政二年に修理が行われたものであろう。
明治四十二年に地内の五社を合祀し、大正十三年郷社となった。『埼玉の神社』埼玉県神社庁神社調査団 編 埼玉県神社庁1986年発行より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
深谷駅から 旧中山道経由 東に約3.5km 車10分程度
旧中山道を熊谷方向に進み 幡羅郵便局の斜め前に 参道入り口 一の鳥居と社号標「郷社 熊野大神社」が建ちます
鳥居をくぐると石積みの土台の上に 大きな石灯篭があり 住宅街の中を真っ直ぐに参道が続いています
参道は途中から 車道が歩道と分かれて並行しています 歩道の参道は植え込みの中を続いていて 二の鳥居が建ちます 夜には燈籠に明かりが入ります
さらに参道を進むと 広い通りが前面を横切っていて 道路沿いに玉垣があり 社頭に朱色の鳥居が建っています
奉納された玉垣と照井の扁額には「熊野大神社」と記され 樹齢350年のご神木の大欅が生えています
熊野大神社(Kumanodai Shrine)に参着
すぐ左手は手水舎があり 清めます 更に左手には神楽殿があります
拝殿は瓦屋根で 社殿のすぐ前に狛犬が座しています
拝殿にすすみます 扁額には「熊野大神」とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿向かって右側から 奥手の本殿へは透塀が ぐるりと廻さていて奥行きがあります
現在の本殿は 上野台の領主 萩元但馬守景朝 その子 秋元越中守長朝が 当社が館の東北にあたっている事から城の守り神として崇敬し 天正年間(西暦1573年~92年)に当社に社殿を寄進したもので 本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されています
この社殿を取り囲むように 境内社が立ち並んで鎮座していまので お詣りをします 石碑「東方 熊野社碑」が立てら 日本武尊命にまつわる東方の地名由来 社記が刻まれています
ぐるりと一回りして 社殿に再び一礼をします
鳥居の先に真っ直ぐに参道が延びていることが改めてわかります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)』〈養老4年(720)編纂〉に記される伝承
清寧天皇(セイネイテンノウ)には子が無く跡継ぎのいないことを憂いていた時の出来事として 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣したとあり
当神社の社伝にも「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭 白髪神社」とあります
このあと 同年冬11月に 後継ぎとして 市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)の御子の億計(オケ)・弘計(オケ)を見つけました
【意訳】
白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)〈第22代 清寧天皇〉即位2年 春2月 の条
天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされました
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用
『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』〈815年(弘仁6年)〉に記される伝承
第9代 開化天皇の第3皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり」と記されていて この白髪王(シラガノミコ)を当神社の祭神とする説もあります
【意訳】
右第二巻 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条
軽我孫(カルノアビコ)
治田連(ハリタノムラジ)同祖
彦坐命(ヒコマスノミコト)
四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり初(ハジメ)彦坐命(ヒコマスノミコト)の末(スエ)
賜(タマイ)に 阿比古(アビコ)の姓(カバネ) 成務天皇の御代(ミヨ)賜(タマウ)軽地(カルノトコロ)を十千代(トチシロ)是(コレ)負(オウ)軽我孫(カルノアビコ)姓(カバネ)の由(ヨシ)なり
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000038380&ID=M2017051017170432508&TYPE=&NO=画像利用
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
祭神を 第9代 開化天皇の第3皇子「彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)」もしくは 清寧天皇(セイネイテンノウ)とする説があると記しています
【意訳】
白髪(シラカ)神社
新撰姓氏録 彦坐命の四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)
式社考 女沼村 白髪大明神 祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)
社記曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり祭日 9月朔日
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
式内社の白髪神社の論社とされているが 兎に角定かではない と記しています
【意訳】
巻之229 幡羅郡之2 東方村の条
〇熊野社
村の鎮守なり 或説に 當社は 祭神 伊弉册尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて 延喜式内 白髪神社なるを いつしか熊野社と唱え改めしなどいへど 社傳には 其沙汰なく 且 土人の口碑にも殘らざれば いかがはあらん
又 式内神社考には 東別府村 春日社を式内 白髪神社と載たれど 外に據なければこれもいかがはあらん 兎に角 定かならず
末社 稲荷 天王 大杉明神 鐘樓 寛文二年の鋰をかく
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)著者:間宮士信 [旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局 活版 ,明治17年
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002820&ID=M2017051812110439332&TYPE=&NO=
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
祭神は 清寧天皇(セイネイテンノウ)を採用していますが 様々な説も紹介していて 東方村に在る「熊野権現」も論社としています
【意訳】
白髪神社
白髪は 志良賀と訓ずべし
〇祭神 清寧天皇(セイネイテンノウ)式社考
〇地名記には 祭神 伊弉冉命(イザナミノミコト)素戔嗚尊(スサノヲノミコト)猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)東方村に在す 今 熊野権現と云うといえるは 信用がたし
〇女沼村に在す
〇日本書紀 清寧天皇2年 春2月の条 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされました〇社伝曰く 継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社 皇后者 吉備稚姫命なり
新撰姓氏録 左京(ヒダリノミサトノ)皇別下 の条 軽我孫(カルノアビコ)彦坐命(ヒコマスノミコト)四世孫(ヨツギノヒコ)白髪王(シラガノミコ)の後(スエ)なり 云々
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉とあり 即位2年 春2月の条に 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した際に 白髪部の人々に祀られた神社であろうと推測しています
所在は 妻沼を比定して 記しています
【意訳】
白髪神社
祭神
今 按〈考えるに〉
「継体天皇(ケイタイテンノウ)勅し 大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)而して 毎州祭に白髪神社」とあり
日本書紀 清寧巻に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)云々 生而白髪〈生まれながらの白髪〉即位2年 春2月の条に 天皇は 子が無いことを恨みて
大伴室屋大連(オオトモノムロヤオオムラジ)を諸国に派遣した
白髪部舎人(シラカベノトネリ)白髮部膳夫(シラカベノカシワデ)白髮部靫負(シラカベノユケイ)〈靫は矢を入れる筒・靫負は警備者〉を設置しました願わくは 遺跡を残し 後世に伝えようとされましたとあるのを合わせ思うに この時の因縁によりて 白髪部の人の清寧天皇を祭り奉りしなるべし
祭日 9月1日
社格 無社格
所在 妻沼村 字 高岡(大里郡妻沼町大字妻沼
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
熊野大神社(Kumanodai Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
武蔵国 式内社 44座(大2座・小42座)について に戻る
武蔵国(むさしのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 武蔵国には 44座(大2座・小42座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
武蔵國 式内社 44座(大2座・小42座)について