実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)〈『三代實録』熊野神『延喜式』熊野神社〉

熊野神社(くまのじんじゃ)は 『丹後旧事記』に「四道將軍の一人 丹波通主命 河上の麻須の女を娶り五女を授かり 五人の娘たちが 垂仁天皇皇后・妃になったことを喜び祝い 丹波道主命が熊野の神を勧請 河上の麻須によって 兜山の山頂に建立した」と云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡  熊野神社(くまのの かみのやしろ)です

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

[cot]

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

熊野神社(Kumano shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市久美浜町大字神野  兜山山頂

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊邪那美命(いざなみのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・ 国史見在社(こくしげんざいしゃ)
 〈六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇録』『日本三代録』)に記載されている神社〉

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

熊野神社(くまのじんじゃ)

 熊野神社は、『延喜式』神名帳に記載され、熊野郡の名称の由来にもなった神社と伝えられています。

平安時代の歴史書『日本三代実録』貞観十年(八六八)九月二十一日条に「丹後国正六位上熊野神」に「従五位下」を授ける記事があり、これは当社のことと思われます。

そもそも鎮座している甲山には祭祀遺跡もあり、「甲山」は「神山」が転じたものという説もあることから、山全体が信仰の対象となっていたのではないかと考えられています。

『丹後旧事記』など江戸時代の地誌類には、丹波道主命の勧請、川上麻須郎の造立と伝えられています。

また『熊野郡誌』には、養蚕農家が境内の小石を借り受け、家に祀るとネズミの害を逃れるという風習があったことが記されています。

 現在の社殿の建立年代は不詳ですが、昭和二年(一九二七)の丹後大震災により被害を受け上屋を再建した際の棟札が残されています。
京丹後市教育委員会

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『式内社調査報告第十巻』昭和59年に記される内容

熊野神社(A)・熊野若宮三神社(B)・熊野新宮神社(C) 三社が比定されるので、以下A・B・C社別に述べると記されています

【抜粋】

丹後國 熊野郡

熊野神社

延喜式吉田家本に「クマノ」と訓まれる式内社 熊野神社には、京都府熊野郡久美濱町にある現 熊野神社(A)・熊野若宮三神社(B)・熊野新宮神社(C) 三社が比定されるので、以下A・B・C社別に記述する。

A 熊野神社
【社名】

 丹哥府志』に「熊野神社、今 熊野権現と称す」とあり。現在 熊野神社と称する。

【所在】

 京都府熊野郡久美濱町大字神崎、同大字甲山(こうやま)、大字久美濱第三地區境界となつてゐるカブト山(甲山(こうやま)とも兜山(かぶとやま)とも)頂上に鎮座す。甲山はもと(こうやま)であつたのを後世 甲山と記したとの説あり。兩部神道の盛んであつたころ熊野権現と唱へてきたので今なほこの山を権現山とも言ってゐる。大字神崎にコクンバラといふ地があるが、大字浦明ではここを古熊野と云ひ この社の元社地であるとの傳承があるが確證はない(『熊野郡誌』)。国鉄宮津線兜山より約三キロメートル。

【祭神】

 『熊野郡誌』・『久美濱町誌』ともに祭神を伊弉冊命としてゐるし神官も同意見である。ところが『丹哥府志』・『丹後事記』ともに天神七代、地神五代熊野四十八王子とし、後者はほかに大膳職豐字氣持命、同宇賀能咋命を祀るとしてゐる。また『特選神名牒』は祭神は素戔嗚尊なりとして曰く「今按 神名式に出雲國意宇郡熊野二坐ス神社二座〔名神大〕 出雲國造神壽詞に出雲乃青垣内爾 石根 宮柱敷立 高天ノ原爾 千木高リ坐ス 伊邪那岐乃日 眞名子加夫呂伎 熊野大神 櫛御氣野命云々とみえたる同神にて 素盞鳴尊にませり此神鎭りますが故に郡名を熊野といふなるべく熊野郡に熊野神社あるは必ず出雲の熊野神を遷し祭れにやあらむ」と述べてゐる。

【由緒】

 崇神天皇の御代、四道將軍の一人 丹波通主命は、丹後(たにわ)川上(現 熊野川上)の豪族、河上の麻須の(いらつめ)娶り五女を挙げ給うたが、子女長じては皆 垂仁天皇皇妃となりしを祝つてこの神を勧請し、社殿は河上麻須の造立である、と『丹後事記』・『熊野郡誌』・『久美濱町誌』ともにこの説を掲げ、『郡誌』はさらにけて「もとより信を措くに足らない」と附記し、また「維新前郡中の雨乞等をする時は必ず當神社で行ったものである。兜山の頂上に鎮座し、熊野郡の総社であつて熊野の郡名は富富に由来すると傳えられている」とし、『大日本地辭書』も「熊野の名は出雲の熊野神を此に移し祭れるより起るか」と言つてゐる。三代實錄貞観十二年(八七〇)の條に「授 丹後國正六位上 熊野神 從五位下」とあり。

【祭祀】

 例祭日は四月二十三日。久美濱町大字久美濱、同大字神崎、大字甲山の三地區から氏子総代はじめ部落民参集して執行される。例祭だけでなく社殿の改築管理等、一切が三地區の責任において行なはれる。氏子および崇敬者は約六五〇人。現在の職は熊野郡久美町字久美濱 神谷神社 宮司佐治正が兼務してゐる。

【境内地・社殿】

 境内坪數七五〇坪。境内は久美濱灣に臨む権現山(兜山とも)の頂上にあり、久美濱灣は足下に、小橋から日本海、そして熊野部の山々を一に見渡せる

景勝の地であつて古くより繪に歌に有名である。近時展望臺が設けられ、登山道は舗装もされてをり、冬以外は登山する者が多い。社殿上屋は一棟きりで梁行二間、桁行二間、銅板葺の至つて質素な造りである。

【追記】

 『熊野郡誌』は當社の記事末に意見を附し、「且つ熊野神社は本宮、新宮、若宮の三社あるを普通とす。熊野郡内の字河梨に在るを新宮といひ、字品田(ほんで)に在るを若宮といひ、當社その本宮たり」と述べてゐるが、紀州の熊野三社も 素佐之男命の亡くなった出雲の熊野の地名をとつて三社とも熊野を冠し熊野々神社としてゐる。全國に所在する多くの熊野神社もまた本宮、若宮、新宮の三社が祀られてるのが通例のやうになつてゐる。當 熊野郡内の熊野神社も三社あつて何れも延喜式内をし、『熊野誌』また三社とも式内社と記してゐる。延喜式に録上されてる熊野神社とは本宮だけを指したものか、それとも三社を一括して熊野神社と扱はれたものかについて諸説がある。よつてここにはA B Cを附し三社を一掲げることにする。

 江戸時代より昭和初年に至るまで養蚕隆盛期には、お猫さまと稱し、この社の境内の小石を借り受け持ち歸つて祭ると、の害を免れることができる。そしてその石を返済するときは位數にして持って行くといふ習慣があつたが、現在はすたれてゐる。

 前内大臣廣幡公の歌に
  甲嶺
 過きしの雨も志られて朝またき尾上に残る雲の一すじ

 京都の某公卿による久美濱八景の一節
  甲山秋月
 さし向ふ月こそかかみかぶと山動かぬよの秋を見せけ

B 熊野若宮三(クマノワカミヤサン)神社

・・・
・・・〈略 詳細は 熊野若宮三神社の記事を参照〉
・・・

C 熊野新宮(クマノシングウ)神社

・・・
・・・〈略 詳細は 熊野新宮神社の記事を参照〉
・・・

(井上正一)

【原文】

『式内社調査報告第十八巻』著者 式内社研究会編纂.刊行年.昭和59年.出版社 皇学館大学出版部より

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

熊野神社 本殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

熊野神社 拝殿〈本殿覆い屋〉

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈遥拝所〉熊野神社 遥拝所鳥居(雲晴神社 境内)

雲晴神社(くんばらじんじゃ)〈熊野神社の旧鎮座地とも云う〉

大字神崎にコクンバラといふ地があるが、大字浦明ではここを古熊野と云ひ この社の元社地であるとの傳承があるが確證はない(『熊野郡誌』)

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

熊野神」に 神階の奉授が記されています

【抜粋意訳】

卷十五貞觀十年(八六八)九月廿一日辛亥

○廿一日辛亥

くに

丹後國 正六位上 熊野神
出雲國 正六位上 智位神 斐伊神 温沼神 從五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)熊野郡 11座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 熊野神社
[ふ り が な ](くまのの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kumano no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

延喜式内社 丹後國 熊野郡  熊野神社(くまのの かみのやしろ)の比定社は3社あります

熊野神社(くまのの かみのやしろ)

・熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)

一緒に読む
熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)〈『三代實録』熊野神『延喜式』熊野神社〉

熊野神社(くまのじんじゃ)は 『丹後旧事記』に「四道將軍の一人 丹波通主命が 河上の麻須の郎女を娶り五女を授かり 五人の娘たちが皆 垂仁天皇の皇后・妃になったことを喜び祝い 丹波道主命が熊野の神を勧請 河上の麻須によって 兜山の山頂に建立した」と云う 延喜式内社 丹後國 熊野郡  熊野神社(くまのの かみのやしろ)です

続きを見る

・熊野若宮三社神社(京丹後市久美浜町品田)

・熊野新宮神社(京丹後市久美浜町河梨大谷)

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 丹後國 熊野郡  熊野神社(くまのの かみのやしろ)の創建について

『丹後史料叢書』第1輯〈『丹後舊事紀』巻之九〉に記される内容

第11代 垂仁天皇の時代〈皇紀632年~皇紀730年〉道主命によって勧請 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)の造立と記されています

【抜粋意訳】

『丹後舊事紀』卷之九

熊野郡 十一座 延喜式

熊野神社 川上庄甲山村

祭神
 天神七代地神五代 熊野四十八王子
 職豊宇氣持命 宇賀能咋命

 當社は崇神天皇十年癸巳九月勧請 國土形里國府に定り 道主命 下向ましまして當郡 川上麻須郎の女を娶り給ふ 是に四柱の女君有て五十狭茅尊〈垂仁天皇〉の皇后 次妃と成のよろこびのあまり 將軍道主命の勧請にて寶殿は川上麻須郎造立し玉 此時 日間岳野邊を神戸に定め玉ふとなりと風土記に見えたり 今も神戸大明神の 殘れりと順記にあり。

【原文参照】

『丹後史料叢書』第1輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175321

『丹後舊事紀』に記される「川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)」について

【抜粋意訳】

丹後舊事紀(たんごきゅうじき)巻一

川上摩須郎(カハカミノマスラ)

當国 熊野郡 川上の庄 須郎の庄に館を造る 開化天皇より崇神 垂仁の朝に至る

古事記に曰く 旦波道主命 川上摩須郎の女を娶て 生ませる御子 比婆須媛(ひばすひめ)渟葉田瓊入媛(ぬはたのにいりひめ)真砥野媛(まとのひめ)薊瓊入媛(あざみのにいりひめ)朝廷別王 以上五柱

川上摩須郎は 将軍道主の命と共に 當国に有て 熊野郡川上の庄に 伊豆志禰神社 丸田神社 矢田神社 三嶋田神社を祭る

【原文参照】

『丹後旧事紀』(国文学研究資料館所蔵)出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200017524

古代 丹波國〈川上摩須郎女と丹波道主命〉について

一緒に読む
古代 丹後國 熊野郡〈川上摩須郎女と丹波道主命に関わる〉延喜式内社について

古代 丹波國 熊野郡の延喜式内社の多くは 丹波之河上之摩須郎女(たんばの かわかみのますのいらつめ)による勧請と伝わります 例えば 兜山の山頂に鎮座する延喜式内社 熊野神社は「娘たちが皇后になったことを喜び祝い 丹波道主命が熊野の神を勧請 河上の麻須によって 兜山の山頂に建立した」と云う

続きを見る

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道宮豊線 久美浜駅からR178号経由で久美浜湾沿いに北東方面に約5km 車での所要時間8~10分程度で かぶと山の太子堂まで 数台分の駐車スペース有 そこから徒歩で1km程の山を上がります 徒歩時間15分~25分程度

R178号を網野方面に向けて進みます
道路の正面に見えている山が かぶと山です

Please do not reproduce without prior permission.

R178号沿いの久美浜湾内から見える かぶと山です

Please do not reproduce without prior permission.

かぶと山公園の案内板があります
登山道を楽しみたい方は ここを曲がり かぶと山公園の駐車場近くから 登山道があります

Please do not reproduce without prior permission.

私は かぶと山公園の案内板から R178号をさらに北へ200m程進んだ所から車で山へと上がりました
但し「道幅狭し」車での進入は御遠慮下さいと書かれた看板がありました

Please do not reproduce without prior permission.

平日の日中で 幸い対向車もなく 上がって行きました

Please do not reproduce without prior permission.

太子堂のある所で 先程と同じ看板「道幅狭し」車での進入は御遠慮下さいと書かれた看板があり 今度は 道路が封鎖されています

Please do not reproduce without prior permission.

数台分の駐車スペースにレンタカーを停めて 車道を歩いて上ります

Please do not reproduce without prior permission.

地図で見ると 山頂まで残り1km弱の上りです

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

木々に囲まれた道で視界は 道路上だけで 疲れ始めた頃でしたが 突然木の無い場所から 久美浜湾を一望できる絶景があり 元気になります

Please do not reproduce without prior permission.

道路脇に電柱があり「神野」とあります 神社の案内には「字 神野と字 甲山の境界にある」と書かれていたのを想い出しながら さらに上に向います

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

すると「かぶと山園地」の案内図があり もうすぐ山頂です

Please do not reproduce without prior permission.

右手の真下から階段が続いています
「かぶと山園地」の案内図を見ると かぶと山公園のキャンプ場辺りからの登山道がここで合流しています

Please do not reproduce without prior permission.

道路の左手に建屋があります

熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

石段を数段上がって境内に入り

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

社殿に一礼をして 来た道を戻ろうとしました

Please do not reproduce without prior permission.

しかし 反対側に遊歩道があり その先に案内板が見えています

Please do not reproduce without prior permission.

案内板の場所は 展望台となっていました

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

兜(かぶと)山 KABUTOYAMA

 久美浜町の兜山は久美浜湾の南東部に位置する、標高191.7mの独立した山です。 この山は硬くて風化しにくい岩石(流紋岩 りゅうもんがん)できているため、周囲の侵食から取り残されたものと考えられます。
山頂部の展望台からは、久美浜湾や小天橋(しょうてんきょう)の姿が一望でき、市内でも有数の景勝地となっています。 久美浜公園から見えるきれいな円錐形の山体は、この地域のランドマークとして親しまれており、 毎年8月9日の千日絵(せんにちえ)には南斜面で大文字焼きが行われています。

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

展望台からは 久美浜湾や小天橋(しょうてんきょう)の姿が一望できる絶景です

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

京都府選定文化的景観

文化財の名称 京丹後市久美浜湾カキの養殖景観

選定年月日  平成二十年三月二十一日

所 在 地  京丹後市久美浜町
区   域  京丹後市久美浜町河内、湊宮、久美浜一区の各一部
面   積  約四七〇ヘクタール

 久美浜湾は日本海の内湾にあたり、湾の周回は約二十八キロメートルに及ぶ。久美浜町を流れる多くの河川を受け入れ、水戸口と呼ばれる部分で日本海に注いでいる。

 この湾口は幅三十メートル、深さ三メートル、長さ三百メートルと狭小であることから湾内は日本海の荒波を受けにくく、一年中波は穏やかである。

 日本海に面した潟湖は、原始・古代を通じて、大陸からの文物や高度な技術の導入をはかる上で欠かせない天然の良港であったため海上交通の基点となった。隣接している函石浜遺跡から中国「新」の時代に鋳造された「貨泉」が出土していることから当時の交流の様子がうかがえる。その後、こうした潟湖は、河川による土砂堆積により姿を消したものも多いが、久美浜湾は現在まで潟湖が残る数少ない事例であり、現代では新たな生業の場として活用されている。

 湾内の波が穏やかなことに注目した地元有志は、昭和十二年に試験養殖に成功し、昭和二十五年頃からカキ棚を作って養殖を開始した。
 その後養殖拡大方法の研究がなされ、昭和三十四年には久美浜湾に適した養殖技術が完成した。
 現在湾内四箇所でカキ棚が敷設され総数は合計三百基を超える。 特に河内湾は海底までの深さが数メートルと浅いこともあり、海面から杭を打ち込み、それに棚を敷設する昔ながらの方法が残っており、当地の文化的景観を特徴づける大きな構成要素となっている。
 波穏やかな久美浜湾内にカキの養殖筏が列をなして浮かぶ風景は、京都府北部を特徴づける良好な文化的景観となっている。

京丹後市教育委員会 

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

山を下ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

通行止めの位置まで戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 熊野神社について 所在は゛久美郷久美濱村、川上郷神崎村、甲山村、三村立合所 權現山に在す、〈現 熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)〉と記しています

【抜粋意訳】

熊野神社

熊野は郡名に同じ

○祭神詳ならず

〇久美郷久美濱村、川上郷神崎村、甲山村、三村立合所 權現山に在す、〔式社考〕〔〇舊事記に、甲山村とのみ云るは踈漏也とぞ

類社
 近江國高島郡 熊野神社の條見合すべし

神位
 三代實錄、貞觀十年九月廿一日辛亥、授丹後國正六位上熊野神從五位下、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 熊野神社について 所在は゛ 品田ホンデン)村字大宮にあり、若宮三社といふ、゛〈現 熊野若宮三社神社(京丹後市久美浜町品田)〉と記しています

【抜粋意訳】

○熊野郡十一座、

熊野(クマヌノ)神社、

 品田ホンデン)村字大宮にあり、若宮三社といふ、〔考案記、神社道志流倍、 

盖 熊野大神 櫛御氣野命を祭る、櫛御氣野命は即 素戔嗚尊也、〔出雲國造神壽詞

清和天皇 貞觀十年九月廿一日辛亥、授丹後國正六位上熊野神從五位下を授けく、〔三代実録〕

凡 其祭九月九日を用ふ、〔豊岡縣神社取調帳〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 熊野神社について 所在は 三社を挙げています

品田村鎭座若宮三社゛〈現 熊野若宮三社神社(京丹後市久美浜町品田)〉
河梨村の熊野社゛〈現 熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂)〉
久美口久美濱村 川上郷神崎村 甲山村 三ヶ村立合の權現山にあり゛〈現 熊野新宮神社(京丹後市久美浜町河梨大谷)〉

【抜粋意訳】

熊野(クマヌノ)神社

祭神 素盞鳴尊

今按 神名式に出雲國意宇郡熊野ニ坐ス神社二座〔名神大〕 出雲國造神壽詞に出雲乃靑垣山内 下津石根 宮柱太數立 高天原 千木高知 伊射那伎乃 名子加夫呂伎熊野大神 櫛御氣野命云々とみえたる同神にて 素盞鳴尊にませり此神鎭りますが故に郡名を熊野といふなるべく熊野郡に熊野神社あるは必ず出雲の熊野神を遷し祭れにやあらむ

神位
清和天皇 貞觀十年九月二十一日辛亥授 丹後國 正六位上 熊野神 従五位上

祭日 九月九日
社格

所在

 今按 丹後道志流倍に品田村鎭座若宮三社と云是也 已れ此神社に若宮三社と云額を揭げたるをもて さきに新たに祭れる證なれば河梨村の熊野社ならんと思ひたれど能考るに品田ノ方證跡多く社地大なり 當村の名寄帳に禰宜屋敷 宮田 鳥居崎 御子谷 西明寺 屋敷地 藏田など皆當社につきたる字なりと云り 又 土人 此社を大宮と云もの據とすべしと云ひ
 丹後式社考には熊野村と定め 神社覈録に久美口久美濱村 川上郷神崎村 甲山村 三ヶ村立合の權現山にありとし 豊岡縣注進狀には品田村河梨村甲山村と記して三村とも確證なし唯 品田村には古く地頭へ差出したる守札に式内熊野神社と記し來り社地形勢も宜しければ品田村と決定可然とあれど未だ明證なきを以て決めがたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

熊野神社(京丹後市久美浜町 兜山山頂) (Thai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る

一緒に読む
丹後國 式内社 65座(大7座・小58座)について

丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います

続きを見る

  • B!

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています