高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
高良大社(Koura Taisya)
[通称名(Common name)]
・高良さん(こうらさん)
・高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)
【鎮座地 (Location) 】
福岡県久留米市御井町一番地
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
正殿《主》高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
左殿《配》八幡大神(はちまんおおかみ)
右殿《配》住吉大神(すみよしおおかみ)
御客座《合》豊比咩大神(とよひめおおかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・延命長寿・開運厄除・家内安全・商売繁盛など生活万般
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 筑後国一之宮
・ 旧 國幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
御祭神
左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
右殿 住吉大神御神徳
延命長寿・開運厄除・家内安全・商売繁盛など生活万般御由緒
高良の大神は、悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持して参りました筑後国一の宮であります。御社殿 御創建は履中天皇元年で西暦四00年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も篤く国幣大社に列せられ、古くは式内明神大社として勅使の御参向も始められました。江戸末期までは、神仏習合の思考のもと天台の僧徒多数奉仕し、山内に二十六ヶ寺三百六十坊もあったということです。国指定重要文化財
建造物 御本殿・拝殿(権現造・万治三年・西暦一六六〇)・石造大鳥居(明神鳥居)
史跡 高良山神籠石
書跡 紙本墨書・平家物語(覚一本)
天然記念物 高良山モウソウキンメイチク林福岡県指定文化財
高良大社所蔵文書一件 絹本着色高良大社縁起他
天然記念物 境内大樟高良大社
現地案内板より
【由 緒 (History)】
高良大社
筑後一の宮。延喜式内名神大社。旧国幣大社。
社地は高良山の西の山腹にあたり、「神籠石」の列石が周囲を囲んでいる。
祭神は高良玉垂命、八幡大神、住吉大神。履中天皇元年(400)の創建と伝わる。延歴14年(795)に従五位下に叙されてから、事あるごとに神階を進め、弘仁9年(818)名神に列し、寛平9年(897)には正一位を授けられた。
山下の石造り大鳥居は、承応4年(1655)二代藩主有馬忠頼公の寄進。本殿・幣殿・拝殿は万治3年(1660)三代藩主有馬頼利公の寄進で、社伝の紙本墨書平家物語(覚一本)と共に国の重要文化財。高良大社文書十巻一冊、絹本著色高良大牡縁起(画縁起)二幅は県指定文化財。社有地のほとんどは「史跡高良山神籠石」として国の史跡指定を受けている。久留米市
二の鳥居付近の案内板より
1600年以上の歴史-。古くは「高良玉垂宮(こうらたまたれぐう)」。
高良大社は、古くは「高良玉垂命神社」と呼ばれていました。大社に伝わる『絹本着色高良大社縁起』(福岡県指定文化財)によれば、今から1600年前、仲哀天皇の御世、異国の兵が筑紫(九州)に攻め込んできました。
酉に下った神功皇后(じんぐうこうごう)が追い返し、筑前国四王子嶺に登って神仏に助けを析られた時、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)という神が住吉の神と共に初めてご出現されたと伝わります。
歴代皇室のご尊崇者があつく、筑後国一の宮。
久留米市御井町に鎮座する高良大社は、筑後国-の宮です。-の宮(いちのみや)とは、国司赴任の時より第一に参拝した地域の中で最も格式の高いとされる神社のことです。高良大社は、平安中期の律令の施行細則である延喜式(えんぎしき)で、「筑後国一の宮、延喜式正一位」として地域筆頭の格式を朝廷からいただいてまいりました。
歴代皇室のご尊崇があつく、鎌倉時代まで、社殿などを建てることはすべて勅裁(天皇によるご裁可)によって行われ、筑後国一の宮と称えられてきました。
江戸時代、歴代久留米藩主も信仰。
江戸時代になると、戦乱などで荒廃した霊峰高良山の復興のため、歴代の久留米藩主の崇敬(すうけい)を集めました。第2代有馬忠頼(ただより)公は「石造大鳥居(おおとりい)」、第三代有馬頼利(よりとし)公は現在の御社殿、第7代頼憧公は中門・透塀をそれぞれ造営寄進しました。社殿や祭事の復活で、高良山信仰と文化が深く光を放つようになります。
その後、廃仏毀釈や大平洋戦争という時の流れに、多くの文化財や行事は失われましたが、「高良さんを後世に伝えたい」という熱い思いがふるさとで受け継がれ、信仰の輸が広がっています。
公式HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
境内案内図
・市恵比須社(いちえびすしゃ)《主》夫婦恵比須神
・印鑰神社(いんにゃくじんじゃ)《主》武内宿禰命
・神輿殿
・高良御子神社(こうらみこじんじゃ)《主》高良御子九柱神
第一王子 斯礼賀志命(しれがしのみこと)
第二王子 朝日豊盛命(あさひとよさかりのみこと)
第三王子 暮日豊盛命(くれひとよさかりのみこと)
第四王子 渕志命(ふちしのみこと)
第五王子 谿上命(たにがみのみこと)
第六王子 那男美命(なおみのみこと)
第七王子 坂本命(さかもとのみこと)
第八王子 安志奇命(あしきのみこと)
第九王子 安楽応宝秘命(あらおほびのみこと)
・真根子神社(まねこじんじゃ)《主》壱岐真根子〈壱岐直の祖〉
《合》五所八幡宮・八幡大神
《合》日吉神社・大山咋命
《合》風浪神社・少童神
・八葉石碑残欠
「八葉石(はちようせき)」とは髙良山における神籠石の古名、この碑には髙良山神籠石 由来と第五十世座主 寂源僧正によっての発掘、経緯が詳しく記されていた。貞享二年(1685)6月禅僧 法雲明洞(ほううんみょうどう)(小倉広寿山福聚寺第二世)が撰した髙良山八葉石記の全文を第五十七世座主 亮恩僧正が大石に刻ませて建てたもの。神籠石発掘の記念碑として日本考古学史上に重要な意義を持つ。もと参道入口、二の鳥居近くにあったが明治初年、神仏分離の際、破却され碑石は社頭 手水舎の大水盤に転用されている。
高良大社
参道(登山参道)に沿って
・石造大鳥居(一の鳥居)
・厳島神社(いつくしまじんじゃ)《主》市杵島姫命
・御手洗池(みたらいいけ)
・高樹神社(たかぎじんじゃ)〈高牟礼権現〉
高良山(こうらさん)は もともと高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていた〈高木神〈高御産巣日神or高牟礼神〉が鎮座していた為〉
そこへ 高良玉垂命が 一夜の宿として山を借りたいと申し出る 高木神が譲ったところ 玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説があります
高樹神社(たかきじんじゃ)は 伝承によれば 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 元々は高良山の山頂に地主神として鎮座されていたが 高良神(こうらのかみ)に一夜の宿を貸したところ 高良神が神籠石(こうごいし)を築いて結界の地としたため山上にもどれず ここ高良山の麓(ふもと)に鎮座するに至ったと伝わります 正史=六国史に名の現れる国史現在社(こくしげんざいしゃ)です
高樹神社(久留米市御井町)
・二の鳥居
・馬蹄石(ばていせき)
・伊勢天照御祖神社(いせみおやじんじゃ)〈高良大社 参道に鎮座〉
《主》伊勢天照御祖神
・『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 伊勢天照御祖神社
伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 中世に廃絶したとも云われます 室町時代末の『高良社画縁起』では 山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれていて 明和4年(1767)の府中大火を機として 現在地に遷座されたと伝わります
伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)
・鏡山神社(かがみやまじんじゃ)《主》高良玉垂命
・琴平神社(ことひらじんじゃ)《主》大物主神,崇徳天皇
車道に沿って
・愛宕神社(あたごじんじゃ)《主》火加具土神
・宮地嶽神社 《主》宮地嶽大神
・桃青霊神社(とうせいれいじんじゃ)《主》桃青霊神
・大学稲荷神社(だいがくいなりじんじゃ)《主》倉稲魂神
・三九郎稲荷神社《主》三九郎稲荷大神
・高良山神籠石
詳しくは 高良大社の参道 記事をご覧ください
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・高良大社奥宮(水分神社)《主》水分神
高良山の奥の谷に鎮座
古くは「高良廟」「御神廟」「語霊廟」と称し 武内宿禰〈高良玉垂命に比定されていた〉の葬所とされた
高良大社 奥宮〈奥の院〉(おくみや)は 白鳳七年(687)高良山に仏教を伝えた隆慶(りゅうけい)上人が 毘沙門天(高良神の本地)を感見して 天竺〈インド〉の無熱池(むねつち)の清涼な水を法力で招き寄せたとする清水に 毘沙門堂を建てた 高良山信仰の原点となる聖地です 江戸時代には 高良大明神の御廟所「高良廟」「御神廟」〈別墅(別所)〉と称されていました
高良大社奥宮〈奥の院〉(久留米市御井町)
・味水御井神社(うましみずみいじんじゃ)《主》水波能売神
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
①高良大社本殿
➁〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉
名神祭 二百八十五座
・・・・・・
髙良玉垂命神社(たからたまたれのみことの かみのやしろ) 一座
豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ) 巳上 筑後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
高良大社の本殿には 名神大社の豊比咩神社が合祀されています
①高良大社本殿
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 髙良玉垂命神社(名神大)
[ふ り が な ](たかんらのたまたれのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takanra no tamatare no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
➁〈昭和11年(1936)豊比咩神社は廃社 高良大社本殿に合祀〉
昭和11年(1936)に隣接地 ブリヂストン株式会社 石橋家の別荘「水明荘」の用地の一部となり 豊比咩神社は廃社されて 高良大社の本殿に合祀されました
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)筑後国 4座(大2座・小2座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)三井郡 3座(大2座・小1座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞・名神大)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の
筑後国 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)の4つの論社について
・豊姫神社〈天満宮境内〉(久留米市)
豊姫神社(ゆたひめじんじゃ)は 元々は東上村に鎮座していた社殿を大正十四年(1925)五月三日 本山天満宮(ほんざんてんまんぐう)に合祀して後日石祠を建立し 本山天満宮の境内に遷座したものです 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社となっています
豊姫神社〈天満宮境内〉&本山天満宮(久留米市上津町)
・豊比咩神社(久留米市北野町)
豊比咩神社〈豊姫神社〉(とよひめじんじゃ)は 由緖は不詳ですが 社説には天平年中(729~749年)の鎭座と云う古社です 江戸時代は゛宝満宮゛と称していたようで 明治六年(1873)には村社に定められた 延喜式内社 筑後國 三井郡 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)の論社です
豊比咩神社〈豊姫神社〉(久留米市北野町大城)&宮地嶽神社 玉垂御子神社
・赤司八幡宮(久留米市北野町)
赤司八幡神社(あかじはちまんじんじゃ)は 延長二年(924)十一月鎭座と云い 神社に伝わる『止誉咩(とよひめ)神社本跡縁起』には はじめ゛筑紫中津宮゛と呼ばれ 後に 延喜式内社として゛ 豊比咩神社(貞・名神大)(とよひめの かみのやしろ)゛になったとあります 止誉比咩は゛豊姫゛とも表記し神功皇后の妹ともされます 戦国時代に社号を八幡宮となり現在に至ります
赤司八幡神社(久留米市北野町赤司)
・高良大社本殿に合祀 豊比咩神社〈昭和11年(1936)廃社〉
高良大社(こうらたいしゃ)は 久留米の高良山に鎮座し 社殿は北東を向いて祀られ そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています 御祭神 高良玉垂命は 朝廷から正一位を賜る程の神ですが 記紀には記されぬ隠神で 古くから諸説あり正体は不明 かつて武内宿禰命とする説が有力でしたが 明治以降は特に比定はなく 謎の神とされます
高良大社(久留米市御井町)
高良大社本殿に合祀 豊比咩神社について
昭和11年(1936)に隣接地 ブリヂストン株式会社、石橋家の別荘「水明荘」の用地の一部となり 豊比咩神社は廃社されて 高良大社の本殿に合祀されました
三、高良山
水明荘
ブリヂストン株式会社、石橋家の別荘「水明荘」が高良山の麓、御井町高良山地区にある。石橋氏は別荘を建てようとして競輪場をはじめ数箇所探したが、白羽の矢を立てたのが高良山の現在地であった。
・・・・
さて久留米大学から高良山へ向かう道路角に、ブリヂストン・水明荘に縁の深い権藤麒麟太・熊次氏の兄弟の家がある、・・・・・・・
その後、その土地は石橋家が・・・購入して昭和十一年東郷平八郎の別荘だった建物を運んできて再建し、水明荘が出来たのである。高良山へ向かって御手洗橋を渡りはじめると、放生池の右手にこんもりと繁った小高い山がある。元は豊比咩神杜、絵馬堂、桃青霊社等があったが、この土地も高良大社から依頼されて、石橋家が購入し水明荘の一部となった。しかし桃青霊社については購入後も参詣の人々が絶えなかったので、宮地嶽へ移されたのである。
『御井町誌』シニアネット久留米デジタルアーカイブ研究会より抜粋
http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/1-3kourasan.html#03
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR久留米大学前駅から県道750号を東南へ 高良山を登り約4.1km 車15分程度
九州縦貫自動車道の手前に 石造大鳥居(一の鳥居)があり 軽く会釈しながら通過
暫らく進み 山にはいると直ぐに県道沿いに 二の鳥居が建ちます
ここ 二の鳥居から 高良山への石段参道が始まります
車道に沿って
・愛宕神社・宮地嶽神社・桃青霊神社・大学稲荷神社・三九郎稲荷神社・高良山神籠石が続きます
詳しくは 高良大社の参道 記事をご覧ください
内々神社(うつつじんじゃ)は 創建について 日本武尊が東征を終えて尾張國境の内津峠まで戻ると 副将軍 建稲種命(たけいなだねのみこと)の従者 久米八腹(くめのやはら)が早馬で駆けつけ 副将軍が駿河の海で水死されたと報告を受けた 尊は悲泣して「ああ現哉(うつつかな)々々」と嘆き その霊を祀られたので「うつつ」と云う
内々神社(春日井市内津町上町)〈日本武尊 東征の副将軍 建稻種命を祀る〉
途中 旧本参道だったとされる下向坂(げこうざか)の鳥居
現在の参道 本坂(ほんざか)に建つ 三の鳥居
高良大社(久留米市御井町)に参着
自然石の社号標には「高良大社」
鳥居に一礼をして 本坂の石段を上がります
扁額には「高良玉垂宮」と記されています
石段を上がりますると 正面には 中門(ちゅうもん)・透塀(すきべい)
すぐ横に手水舎があり 清めます
中門に進みます 賽銭箱が置かれています 一礼をして神域へと進みます
社殿は北東を向いて祀られています そのはるか先を望めば 玄界灘を渡り 壱岐と対馬を向いて 大陸へと通じています
拝殿にすすみ
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
透塀の北側には 通用口のような扉があります
社殿に一礼をして 中門から出ます
透塀の周りから 社殿を眺めます
拝殿の奥には 御本殿が鎮座します
境内社にお詣りをして 本坂の石段を戻ります
眼下には久留米の街が一望できます
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
御祭神の髙良玉垂命について「武内宿祢といふが旧説にして、さらに異論もなき」というように一体異名とされてきたが 同じ神ではないと強く主張しています
【抜粋意訳】
髙良玉垂命神社(名神大)
髙良は加波良と訓べし、
旧訓音読にして加宇良と読り、宣長は、高古冑に多くコの假字に用ひたれば、コラなるべしと云り、信友云、髙の音カウ也、筑前の郡名早良を、和名鈔に佐波良とあり、早の音サウなるて、うちわに用いたると同列にて、髙の音をカハに用いたるなるべしとしへり、今 この説に従う
〇玉垂は多麻多禮と訓べし
〇祭神 武内宿祢、八幡、住吉、旧説
〇高良山に在す、久留米志
〇式三、臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 筑後國 高良玉垂命神社一座、
〇当国一宮也 一宮記
〇頭注云、高良玉垂、武内宿祢也、人皇四十代天武天皇 白鳳二年二月八日、
高良神託云、譽田天皇御宇、・・・・・・・・神位
『日本紀略』延暦14年(795)5月6日(壬申)筑後國 髙良神 奉授に従五位下
『続日本後紀』承和7年(840)4月21日(丙寅)筑後國 従五位下 髙良玉垂命神 従五位上
『続日本後紀』承和8年(841)4月14日(甲寅)従五位上 筑後國 髙良玉垂命神 正五位下
『続日本後紀』嘉祥元年(848)11月2日(戊午)正五位下 筑後國 髙良玉垂命神 従四位下
『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月7日(辛亥)筑後國 髙良玉垂命神 従四位上
『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)3月2日(甲戌)加に筑後國 髙良玉垂命神 正四位下
『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)9月25日(甲午)進に筑後國 髙良玉垂命神 階加に 従三位
『日本文徳天皇実録』天安2年(858)5月14日(甲戌)先是 髙良玉垂命神 及 比咩神等 正殿遭に失火 位記皆被焼損 乃今日勘 旧文案 更命書之 玉垂神本位従三位 今授に 正三位
『日本三代実録』天安3年(859)1月27日(甲申)奉授に筑後國 正三位 髙良玉垂命神 従二位
『日本三代実録』貞観6年(864)7月27日(辛亥)進に筑後國 髙良玉垂命神 階加に 正二位
『日本三代実録』貞観12年(870年)2月15日 従一位名神
『日本紀略』弘仁九年十一月(丙午)筑後國 御井郡 髙良玉垂命神 為に名神封戸 位田
・・・・・・社職 把笏
・・・・・・焼亡
・・・・・・当社の祭神の事、
武内宿祢といふが旧説にして、さらに異論もなきを、今に至りて、臆噺を述むは、実に神慮の恐れあれど、年来心にかかりて迷い待りしを、こたび思ひ得たるまま、に愚考を遺さむとす、それ高良といふは、原よりの地名にて、加波良と読べし、その他は、肥前國風土記に、昔者 纏向日代宮 御宇天皇巡狩之時、御に筑後國 御井郡 高羅之行宮とあるにて著く、高良も香春も同名にて、髙字を加波良と読しは、日本紀 孝徳天皇巻に、・・・・さては 玉垂命といふこそ神号なれ、その玉垂命て御名、式の神名帳より外になく、武内宿祢の別名といふ事も、他の書に見えず、抑玉垂命と称へ奉る語勢、ただただ女神とのみ聞ゆるにはあらずや、諸社根元記諸神等には、高良者藤大臣連保之御事、神号 高良玉垂命、以干満両珠令奉行、故奉 号に玉垂、住吉明神之化身なり、
又、考証に、豊玉彦命歟といひ、次なる豊比咩神社の條に、高良乾涸名潮涸瓊為名歟、玉垂命 海神 豊玉彦命なり、称に武内宿祢者非ずなり、
さては、この玉垂命と申すは、比賣許曽神 亦曰く 下照姫に在て、高良山にては玉垂命と称へ、香春岑にては香春神として祭りしにこそあらめ、もとより相殿には八幡、住吉、竹内宿祢、荒木田襲津彦為に相殿とも見えたり、然るに武内宿祢を主神と成し来りしは、彼 蕃神てふ事を嫌ふ 中昔の時勢にて、比賣許曽神の主たるをかくして、武内と言ひ習ひたるが、公家に及ぼしたるなるべし、宿祢を主神と祟めしは、因幡國 宇部神社なり、かへすかへすも、武内宿祢と玉垂命と一体異名ならば、石清水を始め、處々の八幡宮の末社に、高良と宿祢とを別けて祭るべき由縁なかるべし、これ高良と宿祢とは、異なる証なり、かくて古来の説を破り、微考を主張せんとにはあらねど、いかにも疑い深ければ、思ままを書きつらねて、後勘の一助にせむとするのみ、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
御祭神の髙良玉垂命について 武内宿祢命とされているが 諸説ありよくよく考慮すべきと 記しています
【抜粋意訳】
髙良玉垂命神社(名神大)
祭神
今接〈今考えるに〉
本社祭神の事のものに見えたるは
一宮記に 高良玉垂神 武内宿爾
また神名帳頭註に 筑後三井郡 高良玉垂 武内宿禰也
人皇四十代 天武天皇 自鳳二年二月八日 高良記託云 譽田天皇 御宇為晨昏武略之健将云々などあるによりて云事なれぞ明証あるにあらねは信かたし
而るに或説に 武内大臣を高良玉垂命ご称へ奉るは 大臣の甲冑より起れるにやあらんと云るは 高良と甲(カウラ)と音の通ふより思ひよせしなるへけれど 肥前風土記によるに 景行天皇御世髙羅行宮の名みえたれは大臣を祭れるより起れる名にはあるへからす
叉 上代の甲冑は 玉を以て飾れる故に高良玉垂とつつけ云しならんと云るさもあるへけれと 大臣の功徳を称へ奉らんに唯甲冑は事をのみ云へき由なし
叉一説に 玉垂命は天津日髙日子穂々乎見命なるへし 其は干満雨珠の故事と后神 豊玉比咩命の赤玉は緒さへ光れと白玉の君か装ひし尊とくありけりと詠ませる御歌とによりて玉照姫と尊号を奉り 照垂訓読の通ふままに玉垂とは称へしなるへし
文徳実録 天安二年五月甲戌 高良玉垂命の事を云るの條 に彦神本位 従三位 今授正三位 比咩神本位従五位下 今授従四位下とある是 其証也と云れと 彦神とあれはとて争いてか彦火々出見尊とは定むへき
また 豊比賣命とあるのみにては 豊玉比咩命とは定め離けれは取らす 思ふにこの高良に豊玉比咩命まし豊前國 香春岑神に豊玉比咩神社あるとによるに 高良も香春も同義にて同神なるへく 肥前國 與止日咩命神の事を神名帳頭註に 與止姫神云々 一名豊姫一名淀姫 乾元二年云 淀姫大明神者八幡宗廟之叔母紳功皇后之妹也 三韓征伐之昔者得干満雨珠而浸異域城之凶徒於海底 文永弘安之今者旋風雨之神髪而 幾多之賊船於波濤云々河上大明神是也 とみえたる甚よしありて聞ゆ なほよく考へし神位
『日本紀略』延暦14年(795)5月6日(壬申)筑後國 髙良神 奉授に従五位下
『続日本後紀』承和7年(840)4月21日(丙寅)筑後國 従五位下 髙良玉垂命神 従五位上
『続日本後紀』承和8年(841)4月14日(甲寅)従五位上 筑後國 髙良玉垂命神 正五位下
『続日本後紀』嘉祥元年(848)11月2日(戊午)正五位下 筑後國 髙良玉垂命神 従四位下
『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月7日(辛亥)筑後國 髙良玉垂命神 従四位上
『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)3月2日(甲戌)加に筑後國 髙良玉垂命神 正四位下
『日本文徳天皇実録』仁寿元年(851)9月25日(甲午)進に筑後國 髙良玉垂命神 階加に 従三位
『日本文徳天皇実録』天安2年(858)5月14日(甲戌)先是 髙良玉垂命神 及 比咩神等 正殿遭に失火 位記皆被焼損 乃今日勘 旧文案 更命書之 玉垂神本位従三位 今授に 正三位
『日本三代実録』天安3年(859)1月27日(甲申)奉授に筑後國 正三位 髙良玉垂命神 従二位
『日本三代実録』貞観6年(864)7月27日(辛亥)進に筑後國 髙良玉垂命神 階加に 正二位
『日本三代実録』貞観12年(870年)2月15日 従一位
祭日 十月十三日
社格 國幣中社(國幣大社)
所在 高良山上(三井郡御井町高良山)
【原文参照】
高良大社(久留米市御井町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について に戻る
筑後国(ちくごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 筑後国(ちくごのくに) 4座(大2座・小2座)の神社です
筑後国 式内社 4座(大2座・小2座)について