実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神です「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と江戸時代に始り今でも全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖 天照大御神゛御神体皇位のしるし三種の神器の一゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

皇大神宮(Kotai jingu)

通称名(Common name)

・内宮(ないくう)
・伊勢神宮 内宮(いせじんぐう ないくう)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市宇治館町1

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天照坐皇大御神(あまてらします すめおほみかみ)

相殿神二座
《配》天手力男神 (あめのたぢからのかみ)
   万幡豊秋津姫命 (よろづはたとよあきつひめのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・国家の守護神

正宮は 本来は〈幣帛を奉らる事のみ〉 公の祈願〈国家の祈願〉祭祀するところ
人々は 感謝の気持ちを天照大御神にお伝え奉るのが 江戸時代頃からの習わし

【格  (Rules of dignity) 

・ 日本の総氏神
・『
延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

伊勢の神宮

 神宮は、皇大神宮(こうたいじんぐう) (内宮 ないくう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう) (外宮 げくう)の両正宮(しょうぐう)を中心として、十四所の別宮(べつぐう)を数える摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)・所管社(しょかんしゃ)からなりたっている。

皇大神宮(内宮)

皇大神宮には 日本国民の皇祖 天照大御神(あまてらすおおみかみ)をおまつり申し上げる。天照大御神をおまつり申し上げる。天照大御神は、歴代の天皇のおそば近くにおまつり申し上げていたが、第十代崇神(すじん)天皇の御代に、はじめて皇居をおでましになり、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)におまつり申し上げた。ついで第十一垂仁(すいにん)天皇の御代 (約二千年前 )に各地をご巡幸ののち、大御神の御心にかなった大宮(おおみや)どころとして五十鈴川の川上、現在の地におしずまりになった。

皇大神宮には十所の別宮がある。別宮は、ご正宮 (本宮 ほんぐう)の「わけみや」の意味で、ご正宮についで尊崇されるお宮である。大神宮の域内には荒祭宮(あらまつりのみや)、風日祈宮(かざひのみのみや)の二宮がご鎮座になり、域外には月讀宮をはじめ八宮がご鎮座される。

 荒祭宮は、皇大神宮の第一別宮である。天照大御神荒御魂(あまてらすおおみかみのあらみたま)をおまつり申し上げる。荒御魂とは、和御魂(にぎみたま)のご神霊(しんれい)に対して、格別顕著なご神威を発揚(はつよう)されるご神霊である。ご正宮に引続いて祭典が奉仕され、勅使(ちょくし) (天皇のお使い)の参向もある。

 風日祈宮は、風の神、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)をおまつり申し上げる、農業に深い関係のある風と雨の順調をお祈りする。

 月讀宮は、伊勢市中村町にご鎮座される。月讀宮、月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)、伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)、伊佐奈彌宮(いざなみのみや)の四宮からなり、月讀尊(つきよみのみこと)、月讀尊荒御魂(つきよみのみことあらみたま)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)をおまつり申し上げる。

 瀧原宮(たきはらのみや)は、度会郡大紀町滝原にご鎮座される。瀧原宮、瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の二所からなり、古くから「大御神の遥宮(とおのみや)」と呼ばれている。いずれも天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)をおまつり申し上げる。

 伊雑宮(いざわのみや)は、志摩市磯部(いそべ)町上之郷にご鎮座される。古くから瀧原宮とともに「大御神の遥宮」と呼ばれ、天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)をおまつり申し上げる。伊雑宮の御神田(おみた)は、日本三大御田植祭として有名である。

 倭姫宮(やまとひめのみや)は、伊勢市楠部町にご鎮座される。第十一代垂仁天皇の皇女で、天照大御神を奉戴して諸国をご巡幸ののち、ご神慮によって現在の地に皇大神宮をご鎮祭された、 倭姫命(やまとひめのみこと)をおまつり申し上げる。倭姫命の御徳を慕う人々の熱望によって、大正十二年十一月五日にご鎮座祭が斎行された。
神宮配布紙より

【由(History)】

皇大神宮(こうたいじんぐう) (内宮 ないくう)

御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
御鎮座 垂仁(すいにん)天皇二十六年

天照大御神は皇室の御祖神であり歴代天皇が厚くご崇敬になられていますまた私たちの総氏神(そううじがみ)でもあります
 約二千年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり各地をめぐられたのち  この五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました
 二十年ごどに神殿をお建て替えする式年遷宮(しきねんせんぐう)は千三百年余リ続けられてきました

 第六十二回神宮式年遷宮は平成二十五年に行われる予定です

宇治橋の袂の案内板より

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神宮境内 (Precincts of the shrine)】

宇治橋 〈うじばし〉

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神宮司廳

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忌火屋殿〈いみびやでん〉祓所〈はらえど〉

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御贄調舎〈みにえちょうしゃ〉

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外幣殿〈げへいでん〉

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御手洗場(みたらし)

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斎館

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風日祈宮橋〈かざひのみのみやはし〉

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内宮神楽殿〈ないくうかぐらでん〉

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御饌殿

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御厩〈みうまや〉

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五丈殿〈ごじょうでん〉

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旧林崎文庫〈きゅうはやしざきぶんこ〉

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史跡 旧林崎文庫

当文庫は外宮の豊宮崎文庫と共にわが国調査研究図書館の先駆をなすものであり、貞享3年(1686)宇治会合所の大年寄等が山田奉行岡部勝重(駿河守)に請ひ、 幕府の下賜金150両を得て翌年丸山に内宮文庫を建設したのに創まる。

 然るにこの地湿潤の故に元禄3年(1690)北隣の林崎に移し林崎文庫と改称する。

 天明2年(1782)荒木田尚賢等同志が書庫・講堂・塾舎を改修・増築する。この際、柴野栗山より「林崎文庫記」が、本居宣長より「林崎ふみくらの詞」が寄せられ、 碑文となって文庫の庭に今も残されてゐる。講堂裏には沢田東江書の孝教の碑も立った。

 文政4年(1821)後方の高地に再建して石階を築き同6年(1823)茲に移転し今日に至る。この間、林信篤・伊藤東涯・竹内式部等の碩学大儒が一書を講じ、或いは水戸光圀・大塩平八郎・村井敬義等の諸侯・学者が著述や蔵書を寄進し、その蔵書はーー、九七八冊に及ぶ。明治6年(1873)土地・建物・図書一切を神宮に納める。同39年(1906)神宮文庫の開設により全蔵書を同文庫に移管する。昭和29年(1954)国史跡に指定される。

現地案内板より

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内宮の別宮・摂社・末社について

詳細については

内宮の別宮・摂社・末社について

・お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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内宮 別宮(べつぐう)10宮

別宮 ゛正宮のわけみやの意味
神宮の社宮のうち正宮に次いで尊いとされます

荒祭宮(あらまつりのみや)内宮域内の別宮〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 荒祭宮(大 月次 新嘗)(あらまつりのみや)

・荒祭宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉 
《主》天照大御神荒御魂

一緒に読む
荒祭宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

荒祭宮(あらまつりのみや)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に「荒祭宮一院 大神宮の北にあり 相去ること二十四丈 大神宮の荒御魂宮と称す」とあり『延喜太神宮式〈延長5年(927)〉』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見える古社です 天照大御神の荒御魂を祀り 内宮に所属する十所の別宮のうち 第一に位しています

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月讀宮(つきよみのみや)伊勢市中村町)〈内宮域外の別宮〉
月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまのみや)内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 月讀宮二座(荒御魂命一座・並 大 月次 新嘗)(つきよみのみや ふたくら)

・⽉讀宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉 
《主》⽉読尊

⽉讀荒御魂宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》⽉読尊荒御魂

一緒に読む
月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉〉

月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮は 各々が皇大神宮(内宮)の別宮で 明治6年(1873)現在の四つ宮並列した形で鎮座しました 『皇太神宮儀式帳(804年)』には「月讀宮一院 正殿四区」と一宮に四殿と記し 『延喜式〈927年〉』には「伊佐奈岐宮・伊佐奈彌社が瑞垣を巡らしたー院」「「月讀宮・月讀尊荒御魂社で一院」と二宮であったと記されています

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伊佐奈岐宮(いざなぎのみや)内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉
伊佐奈宮(いざなみのみや)内宮域外の別宮(月讀宮境内)〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 伊佐奈岐宮二座(伊佐奈弥命一座・並 大 月次 新嘗)(いさなきのみや ふたくら)

・伊佐奈岐宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》伊弉諾尊

・伊佐奈弥宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》伊弉冉尊

一緒に読む
月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉〉

月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮は 各々が皇大神宮(内宮)の別宮で 明治6年(1873)現在の四つ宮並列した形で鎮座しました 『皇太神宮儀式帳(804年)』には「月讀宮一院 正殿四区」と一宮に四殿と記し 『延喜式〈927年〉』には「伊佐奈岐宮・伊佐奈彌社が瑞垣を巡らしたー院」「「月讀宮・月讀尊荒御魂社で一院」と二宮であったと記されています

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瀧原宮(たきはらのみや)度会郡大紀町内宮域外の別宮〉
瀧原竝宮(たきはらならびのみや)内宮域外の別宮(瀧原宮境内)〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 瀧原宮(大 月次 新嘗)(たきはらのみや)

・瀧原宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》天照大御神御魂

一緒に読む
瀧原宮・瀧原竝宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

瀧原宮(たきはらのみや)・瀧原竝宮(たきらのならびのみや)は 二つの内宮の別宮が並列して鎮座します 御船倉を有するなど他の別宮と異なる点が多々あり゛大神の遥宮(とおのみや)゛として大きな信仰を集めます 倭姫命の創建で 元伊勢とも伝えられ 内宮を連想させる神域内の樹齢数百年を越える杉の木立の参道と谷水の流れる御手洗場は太古の信仰へと誘います

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伊雑宮(いざわのみや)志摩市磯部町上之郷内宮域外の別宮〉

延喜式内社 伊勢國 答志 粟嶋坐伊射波神社二座(貞・並大)(あはしまのます いさはの かみのやしろ ふたくら)

・伊雜宮(志摩市磯部町)志摩国一之宮
《主》天照大御神御魂

一緒に読む
伊雑宮(志摩市磯部町)〈皇大神宮(内宮)別宮〉

伊雑宮(いざわのみや)は 謎多き「志摩國 一之宮」とされています 伊勢の別宮としての高い格式も持ち「遙宮(tono miya)」と尊崇を集めます 「懸税(kake chikara)神事」の発祥の地として 御田植式(otaue shiki)があり 香取神宮・住吉大社とあわせて日本三大植祭の一つとされています

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風日祈宮(かざひのみのみや)内宮域内の別宮〉

風日祈宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》級長津彦命 級長戸辺命

一緒に読む
風日祈宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

風日祈宮(かざひのみのみや)は 鎌倉時代 蒙古襲来・2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)の時 伊勢の神風を吹かせ給い 国難を救ったと伝えられ 豊受大神宮(外宮)の風宮(かぜのみや)とともに 末社の格「風神社(かぜのかみのやしろ)」から 正応6年(1293)皇大神宮(内宮)別宮に昇格し゛風日祈宮゛と号します

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倭姫宮(やまとひめのみや)伊勢市楠部町)〈内宮域外の別宮〉

倭姫〈皇大神宮(内宮)別宮〉
《主》倭姫命

一緒に読む
倭姫宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

倭姫宮(やまとひめのみや)は 倭姫命(やまとひめのみこと)を祀るために 大正12年(1923)新しく創建された皇大神宮〈内宮〉別宮です 倭姫命は 2000年以上前に天照大御神の御鎮座の地を求め各地を巡幸された時 御神託を受けて伊勢に来られ 現在の五十鈴川のほとりに皇大神宮(内宮)を創建された 第11代 垂仁天皇の第二皇女です 伝説の初代 斎王(さいおう)でもあります

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内宮 摂社(せっしゃ)27社

摂社は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』に記載神社
定義では 正宮 別宮を除く 摂社は全て式内社
戦国時代に ほぼすべてが廃絶となり 江戸時代の寛永年間(16241644年)明治初頭(1870年代)にかけて復興されたものです

1.朝熊神社 (あさくまじんじゃ内宮域外の摂社〉
2.朝熊御前神社 (あさくまみまえじんじゃ内宮域外の摂社朝熊神社境内

延喜式内社 伊勢國 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)

・朝熊神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大歳神(おおとしのかみ)苔虫神(こけむしのかみ)朝熊水神(あさくまのみずのかみ)
・朝熊御前神社
《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)

一緒に読む
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

朝熊神社(あさくまじんじゃ)&朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ)は 五十鈴川と朝熊川の合流する東岸丘にあり 垂仁天皇27年(BC3)倭姫命が石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀ったのが創祀と伝える 皇大神宮(内宮)の27摂社の内 第1摂社です『延喜式神名帳』では 伊勢国 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)と記されています

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3.園相神社 座 (そないじんじゃ

延喜式内社 伊勢國 度會郡 園相神社(そのふの かみのやしろ)

・園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》曽奈比比古命(そなひひこのみこと)御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

園相神社(そないじんじゃ)は ゛園作神〈曽奈比比古命〉゛が皇大神に御園を奉り これを祝い 倭姫命が社を定めたと伝わる古社 皇大神宮(内宮)摂社の27社中 第3位と格式高い神社ですが 中世には頽廃して社地も不明となり 寛文3年(1663)河邊精長が度会郡積良村に再興 この再興地に疑義があり 元禄七年(1694)大中臣長春が津村を旧社地と定め 現在地へ遷座しました

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4.鴨神社 座(かもじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 鴨神社(かもの かみのやしろ)

・鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》石己呂和居命(いしころわけのみこと)御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

鴨神社(かもじんじゃ) は 皇大神宮(内宮)の摂社で『延暦儀式帳』〈延暦23年(804)〉によれば ゛倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と伝わり その後 中世に頽廃しましたが 寬文三年(1663)攝社として再興され この時は 本村字竈谷の地゛氷室洞くつ゛の所に本社が造立されています 明治九年(1876)更に神宮司廳に於て 現在の地に移造されています

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5.田乃家神社 (たのえじんじゃ内宮域外の摂社〉
6.田乃家御前神社 (たのえみまえじんじゃ〈田乃家神社御同座〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 田乃家神社(たのいへの かみのやしろ)

・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)

一緒に読む
田乃家神社〈御同座 田乃家御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

田乃家神社(たのえじんじゃ)〈御同座 田乃家御前神社(たのえみまえじんじゃ)〉は 創建は 第21代 雄略天皇の御代(457~479年)と伝わる皇大神宮(内宮)の摂社 かつて造宮使造替六社の一つで高い格式がありましたが ここも中世に頽廃し 寬文三年(1663)に再興されました その際 御前神は正殿に御同座し〈昔は二殿あり〉 現在に至ります

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7.蚊野神社 (かのじんじゃ内宮域外の摂社〉
8.蚊野御前神社 (かのみまえじんじゃ蚊野神社御同座〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 蚊野神社(かのの かみのやしろ)

・蚊野神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)

一緒に読む
蚊野神社〈御同座 蚊野御前神社〉〈皇大神宮(内宮)摂社〉

蚊野神社(かのじんじゃ)御同座する 蚊野御前神社(かのみまえじんじゃ)は 第21代 雄略天皇(457~479年)が定めたと伝え 皇大神宮(内宮)の27摂社の第7位と格式があります 規定では 造替使がその任に当り 20年に1度正宮と並び正殿を造替える神社でしたが 中世には頽廃してしまいます 寬文三年(1663)大宮司 河邊精長により 現社地に再興され 現在に至ります

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9.湯田神社  座(ゆたじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 湯田神社(ゆたの かみのやしろ)

・湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

一緒に読む
湯田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

湯田神社(ゆたじんじゃ)は 雄略天皇朝の創立 造宮使造替六社中の一で格式も高かったが 中世に廃絶し 社地は明らかになりませんでした 産土社の境内社 湯田社に再興したもので 祭神についても大歳御祖命(おほとしみをやのみこと)御前神(みまへのかみ)とされますが 鳴宸電(なるいかつち)を祀る説があり 式内社・湯田神社 ・雷電神社の二つの論社となっています

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10.大土御祖神社 (おおつちみおやじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大土御祖神社(おほつちの みおやの かみのやしろ)

・大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大国玉命(おおくにたまのみこと)水佐佐良比古命(みずささらひこのみこと)水佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)

一緒に読む
大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 宇治乃奴鬼神社〈内宮末社〉)

大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 御同座に宇治乃奴鬼(うじのぬき)神社〈内宮 末社〉が祀られます 式内社 伊勢國 度會郡 大土御祖神社(おほつちのみおやの かみのやしろ)とされ 境内には同じく式内社の國津御祖神社〈内宮 摂社〉と御同座する葦立弖神社(内宮末社)が鎮座 隣接地にも 倭姫命ゆかりの橡楠尾神社が鎮座し 神社の南東には 新嘗祭で神宮への奉納米を奉る神宮神田があります

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11.津御祖神社 (くにつみおやじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 國津御祖神社(くにつみおやの かみのやしろ)

・國津御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》宇治比賣命(うじひめのみこと)田村比賣命(たむらひめのみこと)

一緒に読む
國津御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 葦立弖神社〈内宮 末社〉)

國津御祖神社(くにつみおやじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 御同座に葦立弖(あしだて)神社〈内宮 末社〉が祀られます 式内社 伊勢國 度會郡 國津御祖神社(くにつみおやの かみのやしろ)とされ 同じく式内社の大土御祖神社〈内宮 摂社〉境内に鎮座します 隣接地には 倭姫命ゆかりの橡楠尾神社が鎮座し 神社の南東には 新嘗祭で神宮への奉納米を奉る神宮神田があります

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12.朽羅神社(くちらじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 朽羅神社(くちらの かみのやしろ)

・朽羅神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》千依比賣命(ちよりひめのみこと)千依比古命(ちよりひこのみこと)

一緒に読む
朽羅神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

朽羅神社(くちらじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 倭姫命が祝い定めたとされ 水田の中いかにも神が坐します雰囲気の゛宮田森゛に鎮座します 社名は゛朽羅(くちら)とも久麻良比(くまらひ)゛とも云い 共に゛籠(こもる)゛の転訛りで゛神の籠る森゛であるという意味とのことです 延喜式内社 伊勢國 度会郡 朽羅神社(くちらの かみのやしろ)とされます

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13.宇治山田神社 (うじようだじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)

・宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》山田姫命(ようだひめのみこと)

一緒に読む
宇治山田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 那自賣神社〈内宮 末社〉)

宇治山田神社(うじようだじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)の論社となっています 御同座に 那自賣神社(なじめじんじゃ)〈内宮 末社〉が祀られ 2社ともに 倭姫命が定めた神社であるとされています

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14.津長神社 (つながじんじゃ内宮域内の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 津長大水神社(つなかの おほみつの かみのやしろ)

・津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》栖長比賣命(すながひめのみこと)

一緒に読む
津長神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 新川神社・石井神社〉

津長神社(つながじんじゃ)〉は 皇大神宮(内宮)の摂社です 鎮座地の古地名を「津長原止」と云い 倭姫命が上陸したと伝えらる 五十鈴川を遡上した船の留場〈津〉でした 水神の栖長比賣命を祀る津長神社には 皇大神宮(内宮)の末社〈新川神社〉新川比賣命・〈石井神社〉高水上命が御同座しています

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15.堅田神社 (かただじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)

・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》佐見都日女命(さみつひめのみこと)

一緒に読む
堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

堅田神社(かただじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 垂仁天皇25年(BC5)二見の地に巡幸された倭姫命に 佐見都日女命(さみつひめのみこと〈地主神〉)は 黙して堅塩(かたしお)を奉った これを祝して倭姫命は当地に堅田神社を定めたと創建伝説に云う 二つの式内社〈①大國玉比賣神社(おほくにたまひめの かみのやしろ)②榎村神社(えむらの かみのやしろ)〉の論社となっています 

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16.大水神社 (おおみずじんじゃ内宮域内の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大水神社(おほみつの かみのやしろ)

・大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大山祗御祖命(おおやまづみのみおやのみこと)

一緒に読む
大水神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 川相神社・熊淵神社〉

大水神社(おおみずじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)の摂社で 皇大神宮(内宮)末社の2社〈・細川水神〈川相神社(かわあいじんじゃ)・多支大刀自神〈熊淵神社(くまぶちじんじゃ)〉が御同座します 3社ともに垂仁天皇の御代 倭姫命によって御鎭祭されたと伝わります

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17.江神社 (えじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 江神社(えの かみのやしろ)

・江神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》長口女命(ながくちめのみこと)大歳御祖命(おおとしのみおやのみこと)宇加乃御玉命(うかのみたまのみこと)

一緒に読む
江神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 栄野神社(伊勢市二見町江)

江神社(えじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 皇大神〈天照大神〉を倭姫命(やまとひめのみこと)が奉遷され 当地の海岸に着船 出迎えた゛佐見都比古命(さみつひこのみこと)゛に土地の名前を尋ねたのちに江社を定められたと伝わります 栄野神社(えいのじんじゃ)にも同様の言い伝えがあります

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18.神前神社 (こうざきじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 神前神社(かむさきの かみのやしろ)

・神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》荒前比賣命(あらさきひめのみこと)

一緒に読む
神前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉(御同座 許母利神社・荒前神社〈内宮末社〉)

神前神社(こうざきじんじゃ)〈御同座 許母利神社(こもりじんじゃ)・荒前神社(あらさきじんじゃ)〉は 3社ともに『皇太神宮儀式帳(804年)』に所載の古社 中世頽廃し廃絶の後 寬文三年(1663)松下村の北方海岸の山麓「カリヤノ森」再興〈儀式帳所載の舊地ではない〉其の後 高浪により山上に移転 さらに明治40年(1907)に現在地に移轉され2社が御同座したものです

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19.粟皇子神社 (あわみこじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 粟皇子神社(あはかうしの かみのやしろ)

・粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)

一緒に読む
粟皇子神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉& 土宮神社(鳥羽市小浜町)

粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 元祿五年(1692)大宮司 河邊長春が現在地に再興しました 創建は垂仁天皇の御宇 倭姫命が 皇大神を伊勢に鎮座の明年 御贄所を定めるため志摩國にいでまし御帰途 淡良伎(アハラキ)之島を經て 伊氣浦(イケノウラ)に至り ここで御贄を奉られた神を淡海子(アハミコノ)神と名付けて社を定めたと伝わります

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20.川原神社 (かわらじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原神社(かはらの かみのやしろ)

・川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》月読尊御魂(つきよみのみことのみたま)

一緒に読む
川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

川原神社(かわらじんじゃ)は 『倭姫命世紀』によると倭姫命が宮川の上流から此の邊りを御通過の時 澤道(さはち)の野原を「澤道の小野(さはちのをの)」と名付け祝ひ定められた神社と云う 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)゛と記される古社で 皇大神宮(内宮)の摂社です

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21.久具都比賣神社 座(くぐつひめじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 久久都比賣神社(くくつひめの かみのやしろ)

・久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》久具都比女命(くぐつひめのみこと)久具都比古命(くぐつひこのみこと)御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
久具都比賣神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

久具都比賣神社(くぐつひめじんじゃ)は 皇大神宮(内宮)摂社として『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛久具神社一處゛(クグノヤシロ ヒトトコロ)と記載される古社 かつては正殿が三區あったとされ゛一區は久々都比女命の御形(ミカタ)を齋(イハ)ひ ー區は久々都比古命を齋ひ 又一區は前社にて 右の神 の御蔭(ミカゲ)を祭奉る゛とあります

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22.奈良波良神社 (ならはらじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)

・奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》那良原比女命(ならはらひめのみこと)

一緒に読む
奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

奈良波良神社(ならはらじんじゃ)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』゛楢原神社 大水上の兒 那良原比女(ナラハラヒメ)命を祀る 倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と記される古社です 中世に頽廃しますが 寛文3年(1663)大宮司 大中臣精長によって再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の論社です

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23.棒原神社 二座(すぎはらじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 榛原神社(をいはらの かみのやしろ)

棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》天須婆留女命御魂(あめのすばるめのみことのみたま)御前神(みまえのかみ)

一緒に読む
棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります

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24.御船神社 (みふねじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 大神乃御船神社(をほみわの みふねの かみのやしろ)

・御船神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)

一緒に読む
御船神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟彌乃神社(内宮末社)〉

御船神社(みふねじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟弥乃神社(むみのじんじゃ) (内宮末社)〉は 2社ともに゛倭姫命が祝ひ定め給ふ所゛と伝わります ともに中世に廃絶してしまいますが 御船神社は寛文三年(1663)の再興 牟弥乃神社は 御船神社の附近にあったとされますが確定されず明治四年(1871)に 御船神社に御同座奉祀されました

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25.坂手生神社 (さかてくなりじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 坂手國生神社(さかての くなりの かみのやしろ)

・坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》高水上神(たかみなかみのかみ)

一緒に読む
坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

坂手國生神社(さかてくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 創建について『倭姫命世紀』に゛垂仁天皇の御時 倭姫命が皇大神を奉戴し この地に御遷幸の時 國つ神の゛高水神(たかみづのかみ)゛が この國は岳高田深坂手國(をかたかしたふかしさかてのくに)とお迎え申し゛田上御田(たのへのみた)゛を奉られたので 坂手社(さかてのやしろ)が祝い定められたと云います

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26.狭田生神社 (さたくなりじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)

・狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》速川比古命(はやかわひこのみこと)速川比女命(はやかわひめのみこと)山末御魂(やまずえのみたま)

一緒に読む
狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

狭田國生神社(さたくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 『倭姫命世記』に「倭姫命が皇大神を奉じ 寒川を遡った時 速河彦命が参り゛畔廣之狹田(アゼヒロノサタ)の國゛の神田を献上し 倭姫命が゛速河狭田社゛を祝定めた」と云う 延喜式内社 伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)とされます

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27.多岐原神社 (たきはらじんじゃ内宮域外の摂社〉

延喜式内社 伊勢國 度會郡 多伎原神社(たきはらの かみのやしろ)

・多岐原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
《主》真奈胡神(まなこのかみ)

一緒に読む
多岐原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

多岐原神社(たきはらじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 内宮別宮の瀧原宮から宮川を約6km下ったところに鎮座します ここは倭姫命が 皇大神(天照大神)を奉じて巡幸中 宮川を渡ろうとしたが 砂も流れる早瀬があり 渡河難渋であった時 真奈胡神(まなごのかみ)があらわれ その案内で渡ることができた 故に多岐原神社が定め祀られたと伝わります

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内宮 末社(まっしゃ)16社

末社は 『延暦儀式帳』に記載される神社正宮 別宮 摂社を除く

1.鴨下神社 (かもしもじんじゃ内宮域外の末社
2.津布良神社 (つぶらじんじゃ内宮域外の末社
3.葭原神社 (あしはらじんじゃ内宮域外の末社
4.小社神社 (おごそじんじゃ内宮域外の末社
5.許母利神社 (こもりじんじゃ内宮域外の末社
6.新川神社 (にいかわじんじゃ内宮域内の末社(津長神社御同座)〉
7.石井神社 (いわいじんじゃ内宮域内の末社(津長神社御同座)〉
8.宇治乃奴鬼神社(うじのぬきじんじゃ内宮域外の末社
9.加努神社 (かぬみじんじゃ内宮域外の末社
10.川相神社 (かわあいじんじゃ内宮域内の末社(大水神社御同座)〉
11.熊淵神社 (くまぶちじんじゃ内宮域内の末社(大水神社御同座)〉
12.荒前神社 (あらさきじんじゃ内宮域外の末社
13.那自賣神社 (なじめじんじゃ内宮域外の末社
14.葦立弖神社 (あしだてじんじゃ内宮域外の末社
15.乃神社 (むみのじんじゃ内宮域外の末社
16.鏡宮神社 (かがみのみやじんじゃ内宮域外の末社

内宮 所管社(しょかんしゃ)30社

所管社は 正宮・別宮・摂社・末社以外の神社

1.滝祭神 (たきまつりのかみ)内宮域内の所管社
2.興玉神 (おきたまのかみ)内宮域内の所管社
3.宮比神 (みやびのかみ)内宮域内の所管社
4.屋乃波比伎神 (やのはひきのかみ)内宮域内の所管社
5.御酒殿神 (みさかどののかみ)内宮域内の所管社
6.御稲御倉 (みしねのみくらのかみ)内宮域内の所管社
7.由貴御倉 (ゆきのみくらのかみ)内宮域内の所管社
8.四至神 (みやのめぐりのかみ)内宮域内の所管社
9.神服織機殿神社 (かんはとりはたどのじんじゃ内宮域外の所管社
10~17.神服織機殿神社末社八所神服織機殿神社境内〉

延喜式内社 伊勢國 多氣 服部麻刀方神社二座(はとりのまとまの かみのやしろ ふたくら)

・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)
《主》神服織機殿鎮守神(かんはとりはたどののまもりのかみ)

一緒に読む
八尋殿・神服織機殿神社(松阪市大垣内町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神服織機殿神社(かんはとりはたどのじんじゃ)は 八尋殿(やひろでん)の守護神を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した和妙(にぎたえ)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます 起源は『倭姫命世記』垂仁天皇22年機屋を作り 25年磯宮に服織社を建て 五十鈴川上に御鎭座の時 大宮の傍に八尋の機屋〈宇治の機殿〉を建て 清寧天皇3年(482)服織社の地に移ったとします

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18.神麻続機殿神社 (かんおみはたどのじんじゃ内宮域外の所管社
19~26.神麻続機殿神社末社八所神麻続機殿神社境内〉

延喜式内社 伊勢國 多氣 麻續神社(をみの かみのやしろ)

・神麻続機殿神社(松阪市井口中町)
《主》神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)

一緒に読む
八尋殿・神麻續機殿神社(松阪市井口中町)〈皇大神宮(内宮)所管社〉

神麻續機殿神社(かんおみはたどのじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)所管社〉は 八尋殿(やひろでん)の守護神゛神麻続機殿鎮守神(かんおみはたどののまもりのかみ)゛を祀り〈機殿〉八尋殿で奉織した荒妙(あらたえ)(麻)の神衣は 神御衣祭(かむみそさい)で皇大神宮・荒祭宮に供進されます

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27.御塩殿神社 (みしおどのじんじゃ内宮域外の所管社
28.饗土橋姫神社 (あえどはしひめじんじゃ内宮域内の所管社
29.大山祇神社 (おおやまつみじんじゃ内宮域内の所管社
30.子安神社 (こやすじんじゃ内宮域内の所管社

 詳しくは

お伊勢さん125社について

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お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、

前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
 右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
 紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2四時祭下」「九月祭 伊勢太神宮神嘗祭

【抜粋意訳】

 神祇 四時祭下 九月祭

伊勢太神宮(イセノヲホンカムノミヤノ)神嘗祭(カンナメマツリ)

幣帛二筥 內藏寮供設。絁三疋,絲八絇。倭文一端一丈。席二枚,鞍二具,馬四疋。籠頭料布一端一丈四尺。

 右,當月十一日平旦,天皇(スヘラミコト)臨大極後殿奉幣。事見儀式。
其使諸王五位已上,及神祇官中臣、忌部,官各一人給當色。執幣五人,使從者三人,各給潔衣布一端。但齋王初參入之時,設御座於大極殿。事見儀式。

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】 

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】 

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社 右諸社,並預祈年、神嘗祭。

以下略

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式Engishiki)』巻八 神祇八 祝詞(ノトコト)

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

二月祈年、六月・十二月月次祭

 天皇が我御命以て氐,度會の乃宇治の乃五十鈴川上の乃下津石根に爾,稱辭竟奉る流皇太神宮の能太前に爾申く久。常も毛進る流二月祈年,【月次祭唯以六月月次之辭相換。】大幣帛を乎,某官位姓名を乎為使て天,令捧持て氐進給ふ布御命を乎申給くと久止申。

豐受宮

 天皇が我御命以て氐,度會の乃山田原の乃下津石根に爾稱辭竟奉る流豐受皇神前に爾申く久。常も毛進る流二月祈年,【月次祭唯以六月月次之辭相換。】大幣帛を乎,某官位姓名を乎為使て天,令捧持て氐進給ふ布御命を乎申給くと久止申。

四月神衣祭【九月准此。】

 度會の乃宇治五十鈴川上に爾大宮柱太敷立て天,高天原に爾千木高知て天,稱辭竟奉る留天照坐皇太神の乃太前に爾申く久。服織、麻續の乃人等の乃,常も毛奉仕る留和妙、荒妙の乃織の乃御衣を乎進事を乎申給と止申。荒祭宮にも爾毛如是申て天進と止宣。【禰宜、內人,稱:「唯。」】

六月月次祭【十二月准此。】

 度會の乃宇治五十鈴の乃川上に爾,大宮柱太敷立て天,高天原に爾千木高知て天稱辭竟奉る留,天照坐皇太神の乃太前に爾申進る留。天津祝詞の乃太祝詞を乎神主部、物忌等諸聞食と止宣。【禰宜、內人等,共稱:「唯。」】

 天皇が我御命に爾坐,御壽を乎手長の乃御壽と止,湯津如磐村常磐堅磐に爾,伊賀志御世に爾幸倍給ひ比,阿禮坐皇子等をも乎毛惠給ひ比。百官人等、天下四方國の能百姓に爾至まで萬天,長平く久作食る留五穀をも乎毛豐に爾令榮給ひ比,護惠ひ比幸給と止,三郡國國處處に爾,御調絲,由貴の能御酒、御贄を乎,如海山置足成て天。大中臣、太玉串に爾隱侍て天。今年六月十七日の乃朝日の乃豐榮登に爾稱申事を乎。神主部、物忌等諸聞食と止宣。【神主部共稱:「唯。」】荒祭宮、月讀宮にも爾毛,如是く久申進と止宣。【神主部亦稱:「唯。」】

九月神嘗祭

 皇御孫命御命以,伊勢の能度會五十鈴河上に爾,稱辭竟奉る流天照坐皇太神の能太前に爾申給く久。常も毛進る流九月之神嘗の乃大幣帛を乎,某官某位某王、中臣某官某位某姓名を乎為使て氐。忌部弱肩に爾太襁取懸,持齋はり波理令捧持て氐。進給ふ布御命を乎申給くと久止申。

豐受宮同祭

 天皇が我御命以て氐,度會の能山田原に爾,稱辭竟奉る流皇神前に爾申給く久,常も毛進る留九月之神嘗の能大幣帛を乎,某官某位某王、中臣某官某位某姓名を乎為使て氐。忌部弱肩に爾太襁取懸,持齋はり波理令捧持て氐,進給ふ布御命を乎申給くと久止申。

同神嘗祭

 度會の乃宇治の能五十鈴の乃川上に爾大宮柱太敷立て氐,高天原に爾千木高知て天,稱辭竟奉る留天照坐皇太神の乃太前に爾,申進る留天津祝詞の乃太祝詞を乎,神主部、物忌等諸聞食と止宣。【禰宜、內人等,共稱:「唯。」】

 天皇が我御命に爾坐,御壽を乎手長の乃御壽と止,湯津如磐村常磐堅磐に爾,伊賀志御世に爾幸倍給ひ比,阿禮坐皇子等をも乎毛惠給ひ比,百官人等、天下四方國の乃百姓に爾至まで萬天,長平く久護惠美幸ひ比給と止。三郡國國處處寄奉れる禮留神戶人等の能,常も毛進る留由紀の能御酒、御贄,懸稅千稅餘五百稅を乎,如橫山く久置足成て天,大中臣,太玉串に爾隱侍て天,今年九月十七日朝日豐榮登に爾,天津祝詞の乃太祝詞辭を乎稱申事を乎,神主部、物忌等諸聞食と止宣。【禰宜、內人等稱:「唯。」】荒祭宮、月讀宮にも爾毛,如此く久申進と止宣。【神主部共稱:「唯。」】

齋內親王奉入時

 進神嘗幣詞申畢,次即申云。辭別て氐申給く久。今進る流齋內親王は波,依恒例て氐,三年齋ひ比清まはりて麻波理氐,御杖代と止定て氐進給事は波,皇御孫之尊を乎天地日月と止共に爾,常磐、堅磐に爾平けく氣久安く久御座坐しめむと志米武止,御杖代と止進給ふ布御命を乎。大中臣茂桙中取持て氐。恐美恐美も毛申給くと久止申。

遷奉太神宮祝詞【豐受宮准此。】

 皇御孫の能御命を乎以て氐,皇太御神の能太前に爾申給く久。常の乃例に爾依て氐,廿年に爾一遍ひ比,大宮新仕奉て氐。雜御裝束物五十四種,神寶廿一種を乎儲備て天,祓清め賣持忌はりて波理氐,預供奉辨官某位某姓名を乎差使て氐,進給狀を乎申給くと久止申。

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273537/1/17

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)

[名神大 大 小] 式内大社

[旧 神社 名称 ] 大神宮三座(相殿坐神二座 並大 預月次新嘗等祭)
[ふ り が な ]おほむかむのみや みくら
[Old Shrine name]Ohomukamu no miya mikura

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻十五 內藏寮

【抜粋意訳】

內藏寮 諸祭幣帛

伊勢太神宮祭

錦一疋,【寮物。】兩面一疋,深紫綾、淺紫綾、緋綾、中綠綾、黃綾各一疋,【已上五綾若無者。用生綾。】白綾一疋,【以上太神宮幣料。】緋、中縹、黃、皂帛各一疋,【以上度會宮幣料。】盛裹料柳筥二合,【各方一尺四寸,宮別一合。餘祭筥准此。】庸布二段,木綿小二斤,葉薦一枚,【分用兩宮。已上官物。】

右,件幣預前依例擬備。九月十一日平旦,寮官一人率史生一人,藏部二人,執件幣物,於大極後殿下候之。內侍已下四人從內退出,依例裹修。訖寮取置案上,立葉薦上。臨時幣帛亦同。

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛伊勢神宮の創祀゛伝承

『日本書紀』(垂仁天皇25年)豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から御杖代を託されました 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が 大神を鎮座申し上げるを探し 立ち寄った候補地を 宇陀笹畑から淡海(近江)美濃と記し やがて伊勢国にいたり「神風の伊勢国は(中略)傍国の可怜国(うましくに)なり 是の国に居らむと欲ふ」と大神がお伝えになり ようやく遷座のは 終焉を迎えたと云う

【抜粋意訳】

垂仁天皇 活目入彦五十狭茅天皇 二十五年 三月十日

天照大神アマテラスオミカミを豊耜入姫命トヨスキイリビメノミコトから離して 倭姫命ヤマトヒメノミコト)に託されまし

倭姫命は 大神を鎮座申し上げるを探し 菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)到りました
筱は 佐佐(ササ)と読む

さらに引返して 近江国に入り 美濃をめぐって 伊勢国に至りました
そのとき天照大神は 倭姫命に教えて言われまし

「この神風は 伊勢国は 常世の国からやってくる浪(ナミ) 重浪(シキナミ)〈繰り返し寄せる浪〉して帰(ヨ)せる国です 傍国(カタクニ)〈大和の側の国〉で 可怜国(ウマシクニ)である この国にいたいと思う」
云われました

そこで大神のことばのままに その祠(ヤシロ)を伊勢国に立てられた
そして斎宮(イワイノミヤ)斎王のいる宮を五十鈴川のほとりに立てまし

これを磯宮(イソノミヤ)と云い
天照大神が 初めて天より降りられたところで

一書に曰〈ある書によると

天皇は 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ)として 天照大神に奉りました
それで倭姫命は 天照大神を磯城(シキ)の嚴橿(イツカシ)の根元に鎮座して祀りました

その能登に神の教えの通りに 即位26年冬10月 伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました
このとき 倭大国魂神は 穂積臣(ホズミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて教えました

「太初(モトハジメ)のときに約束した
『天照大神は 天原(アマハラ)収める その天照の子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は 葦原中国(アシハラナカツクニ)の八十魂神(ヤソタマノカミ)を治める
私は 大地官(オオチツカサ)を治めよう』と 言葉はそれでお終いということでありまし
先代の御間城天皇(ミマキスメラミコト)は 神祇を祭祀(イワイマツリ)しましたが 微細(クワシク)は その源根(モト)を探らずに 粗(オロソカ)に枝葉(ノチノヨ)に留めまし 天皇の命は短い それで今の天皇は前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み 祀れば 天皇の命は長く また天下は太平になる」といわれた

天皇は この言葉を聞いて 誰に大倭大神(ヤマトオカミ)を祀らせればよいのか 中臣連(ナカトミノムラジ)の祖 探湯主クカヌシに仰せられて 占わせまし
淳名城稚姫命ヌナワカヒメノミコトが占いに出まし

この姫に 神地(カムドコロ)を穴磯邑(アナシノムラ)に定めて 大市(オオチ)の長岡岬(ナガオカノサキ)を祀りました
しかし 淳名城稚姫命は 身体が病み弱り 神を祀ることはできない状態となりました そこで 大倭直(ヤマトノアタイ)の祖の長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

元伊勢(もといせ)伝承をたずね

 皇大神宮(内宮)の御祭神は 皇祖神 天照大御神です
かつて 天照大御神と天皇は〈共に皇居内に祀られていた〉゛同床共殿゛であったと伝えらています
やがて 第10代 崇神天皇の時代 崇神天皇6年(BC92年)疫病を鎮めるべく 従来から宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に遷したと伝わります

それは゛同床共殿゛の状態を畏怖した崇神天皇が 皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に その神霊を託して 倭国 笠縫邑 磯城の厳橿の本に゛磯堅城の神籬゛を立てたことに始まり さらに理想的な鎮座地を求めて各地を転々と遷座し  第11代 垂仁天皇の第四皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)がこれを引き継ぎ およそ90年をかけて現在地三重県伊勢市宇治館町〉に遷座したとされます

遷座の経緯については
『古事記』では記載なし
『日本書紀』では簡略に
『皇太神宮儀式帳』にやや詳しく
中世の『神道五部書』の一書 『倭姫命世記』に より詳しく記される

元伊勢(もといせ)とは 〈伊勢神宮皇大神宮(内宮) 現在地三重県伊勢市宇治館町に定まるまで 遷座を繰り返し その時に一時的に祀られていた場所のことで
 元伊勢の伝承地は 主に近畿・東海地方に点在します

又 豊受神宮外宮〉は 雄略天皇の時代に 丹波國の比沼乃真名井爾坐(ひぬまのまないなまします)我御饌津神(わがみけつのかみ)由氣太神(とゆけのおおかみ)を招き 度会の山田原に立派な宮殿を建て 祭祀を始められたものです その際の遷座先も゛元伊勢゛とも呼びます

元伊勢伝承は 『皇太神宮儀式帳』・『止由氣宮儀式帳』や『古語拾遺』・『延喜式』などの所伝から派生しています

詳しくは゛元伊勢(もといせ)伝承をたずねて゛


【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

宇治山田駅から南へ約5km 車10分程度

お伊勢さんは゛外宮゛の先祭 なので 先に外宮に参拝してから内宮へ

外宮先祭(げくうせんさい)

神宮の祭典は 外宮先祭(げくうせんさい)といって まず外宮で祭儀が行われるならわしがあります
豊受大御神は 天照大御神の御饌都神ですので 内宮の祭儀に先だって御饌都神にお食事を奉る為です
祭典の順序にならい 参拝も外宮から内宮の順にお参りするのがならわしです

豊受⼤神宮(外宮)

一緒に読む
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

続きを見る

伊勢神宮を終点とするR23号を進み 神宮の宇治橋前に向かいます

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皇大神宮(内宮)に参着

一礼をして 鳥居をくぐり宇治橋を渡ります

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神苑に進みます
内宮は 右側通行で参道も右側を歩きます(外宮は左側通行)

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火除橋の先に 一の鳥居
〈江戸時代までは この辺りまで民家があったらしく 火事から神宮を守る為の堀に架かる橋です〉

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一の鳥居をくぐると 左手には五十鈴川の岸辺へと下りられます
一の鳥居からは 榊が供えられています

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五十鈴川の清流で禊 御手洗場で清めます

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すぐ脇にある゛瀧祭神゛にて

伊勢の里人からは「おとりつぎさん」として親しまれ 内宮(正宮)に詣でる前に瀧祭神を参拝すると 天照大御神に願い事を取り次いでくれるとする俗信があります

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木漏れ日の参道を進むと 二の鳥居があり 更に奥へと

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二の鳥居をくぐると すぐに御神札・御守授与所

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さらに進むと 正殿の石段下には 御贄調舎が建ちます

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古殿地(内宮)の脇から下がれる参道石段がありますが 通行禁止になっています 2000年頃までは通れた記憶があります

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いよいよ正殿の石段下です

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撮影は 石段の下まで その先は撮影禁止です

にすすみます
白い布は御幌(みとばり)といいます

正宮では 賽銭をおさめません お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

外宮の正宮と同じ 日々の感謝のみを伝えし 個人的な祈願は致しません

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荒祭宮(別宮)や風日祈宮(別宮)にお参りをしながら ゆったりと戻ります

因みに

内宮と外宮 正宮神域の平面図
神社仏閣地図〈明治8年(1875)〉』を見ると

『[神社仏閣地図]』,多田留五郎等,明8-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/814929 (参照 2024-01-12)

『[神社仏閣地図]』,多田留五郎等,明8-11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/814929 (参照 2024-01-12)

 荒祭宮などを お参りして 境内を戻ります 詳しくは

お伊勢さん125社について

一緒に読む
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

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一の鳥居を抜けると火除橋のたもとに古札納所がありました

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神苑から宇治橋を渡り 五十鈴川を超えます

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

皇大神宮(内宮)ついて 大神宮(おほむかみのみや)と読む 宇治郷五十鈴河上に在す 内宮と称す と記しています

【抜粋意訳】

大神宮

大神宮 三座 相殿坐神二座並大預月次新嘗等祭

大神宮は 於保武加美乃美夜と訓べし
○祭神 天照大神、相殿左 天手力男神、右 萬幡豊秋津姫命、
○宇治郷五十鈴河上に在す、内宮と称す、
○江家次第、新年穀奉幣 伊勢、依可卜定不書入

○日本紀、神代巻上、伊弉諾尊、伊弉册尊共議曰、吾巳生大八洲國及山川草木、何不生天下之主者歟、於是共生日神、号大日霊貴、」一書云、天照大神、』一書云、天照大日霊尊」同一書曰、於是日神方開磐戸而出焉、是時以鏡入其石窟者、触戸小隙、其隙於今猶存、此即伊勢崇秘之大神也、』、

古事記、神代段 此之鏡者、専爲我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉、次思金神者、取持前事為政、此二柱神者、拝祭佐久々斯呂伊須受宮、今伝ふる処、此思金神は相殿にまさで、手力男神とある不審事由は、既に古事記伝十五に云へるを見るべし」

事紀神祇本紀 復使鏡作祖天糠戸神、即石凝姥命之子也 採天香山之銅、使圓造日像之鏡、其状美麗矣、而触窟戸有小瑕、其瑕於今猶存、即是伊勢崇秘太神、所謂八咫鏡、亦名真経津鏡是也、

○日本紀、神代上 一書曰、至於日神閉居于天石窟也、諸神遺中臣連遠祖興台産霊児天児屋命、而使所焉、乃細開磐戸而窺之、是時天手力雄神侍磐戸側、則引開之者、日神之光満於六合、
〇同紀、神代下 一書曰、天照大神、以思兼神妹萬幡豊秋津姫命、配正哉吾勝々速日天忍穂耳尊爲妃、令降之於葦原中國、また一書曰、高皇産霊尊之女天萬幡千幡姫、

○倭姫世記云、天照太神一座、相殿神二座、左天児屋命、右天太玉命、鎮座伝記同じ 一書曰、天手力男神、萬幡豊秋津姫命、』、
御鎮座傅記云、御戸開前神二座、左天手力男神霊、右萬幡豊秋津姫命、」
御鎮座本紀云、天照大神、相殿坐神二前、自爾以往、以天手力男神、萬幡豊秋津姫命、天照皇大神乃為相殿神坐、元是號御戸開神 儀式帳云、天照坐皇太神 所称天照意保比流売命 同殿坐神二柱、坐左方称天手力男神霊、霊御形弓坐、坐右方称萬幡豊秋津姫命也、此皇孫之母、霊御形劔坐 御坐地、度會郡宇治里、伊鈴河上之大山中、云々、

〇神名秘書云、村上天皇御宇祭主公節之時、皇大神者奥座故称内宮、渡会宮者外座故申外宮、始自此時也、

日本紀、崇神天皇6年、先是天照大神倭大国魂二神、並祭於天皇大殿之内、然畏其神勢共住不安、故以天照大神託畳鍬入姫命、祭於倭笹縫邑、仍立磯堅城神籬、」
垂仁天皇25年3月丁亥朔丙申、離天照大神於豊鋤姫命、託于倭姫命、爰倭姫命求鎮坐大神之処、而詣菟田篠幡、
倭姫世記云、崇神天皇58年、倭姫命事依奉利、60年幸行而、佐々波多宮坐、更還之入近江国、東廻美濃到伊勢國、時天照大神誨倭姫命曰、是神風伊勢国、則常世之浪重浪国也、傍国可怜國也、欲居是國、故随、太神教、其祠立於伊勢国、興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照太神始自天降之処也、一云、丁巳年以冬10月甲子、遷于伊勢国渡会宮

社地
延暦儀式帳云、御坐地、四至、山遠道阻廻、又近園四北河廻 神境以東石井嵩、赤木嵩、朝熊嵩、黄楊山、尾垂峯等為山堺、以北比奈多島、島、志婆崎、酒瀧島、阿婆良岐島、大島、屋島、歌島、都久毛島、石島、牛島、小島等爲海堺、以南志摩國鵜椋島、錦山坂並為山堺、以西伊勢国飯高下樋小河、此称神之遠堺 常入 大神宮駅使鈴口塞 飯野郡磯部河、此為神之近堺、以北海限、連胤云、こは往古の神境也、今は違へり、此地名の事ども、委く儀式解に就て知るべし、

官幣
日本紀 持統天皇月乙丑朔庚寅、遣使者奉幣于伊勢大神、
連胤云、ここが幣帛を奉らる事のみえたる始め也、此後今に至りて挙るに遑なし、故に贄せず、

祭祀
式一、四時祭上 凡神嘗祭、為中祀、」同二、四時祭下 九月祭、伊勢太神宮神嘗祭、云々、」同四、(伊勢大神宮)四月、九月神衣祭、云々、九月神嘗祭、但朝廷幣数在内蔵式 云々、
速胤云、これ朝儀に預る祭也、

例幣
日本紀、養老月乙卯十一日、天皇御内安殿遣使供幣帛於伊勢大神宮、」江家次第首書云、例幣、十六日外宮神嘗祭、十七日内宮神嘗祭、令奉其幣帛也、養老年始之、」公事根元云、例祭とは伊勢大神宮へ御幣を奉らせ給ふ、毎年の事なるによて、例幣とは申也、昔神祇官へ行幸なりて、此事行はる、此事朱雀院の御時よりはじめらる、云々、さて此祭は、応仁大乱の後は廃れたるを、後光明院卸宇正保年中再興ありて、今は毎年行なはるる也、
連胤云、ここも其濫觴のみをいふ也、

齋宮
崇神天皇御時豊鍬入姫命を始めて、代々内親王いらせ給ひしが、御深草院御時非子内親王を定め給ふ後は断絶たり、其七十五代の緯は、齋宮記に拠て見るべし、

封戸
式四、(伊勢太神宮)封戸、当国、度曾郡四百烟、多気郡三百四十四烟、飯野郡□□□、飯高郡三十六戸、壹志郡廿八戸、安濃郡三十五戸、鈴鹿郡十戸、河曲郡三十八戸、桑名郡五戸、諸国、大和国十五戸、伊賀國廿戸、志摩國六十六戸、尾張國四十戸、参河国廿戸、遠江國四十戸、右諸國調庸雑物皆神宮司検領、依例供用、其当國地租収納所在官舎、随事支料、若遭年不登る、損田七分以上免徴租稻、並注帳申送所司、

神田
式四、(伊勢太神宮)神田四十六町一段、大和国宇陀郡二町、伊賀國伊賀郡二町、伊勢國四十二町一段、(桑名鈴鹿両郡各一町、按濃壹志両郡各三町、飯高郡二町、飯野郡十一町六段、渡会郡十町五段、)右神田如件、割度會郡五町四段、(二町四段大神宮、三町渡会宮、)令当郡司営種、収獲苗子供用大神宮三時並渡会宮朝夕之饌、自余依当土古宝祖充供祭料、
〇日本紀略、寛平9年9月11日、以飯野郡寄申神宮、被申兵乱可平之由、」応和2年2月27日、奉寄伊勢国三重郡、」天延元年9月11日、以伊勢国安濃郡奉寄之、」左経記、寛仁元年11月9日癸卯、以伊勢国朝明郡永可奉加寄大神宮、依御願也」百練抄、永保3年7月3日、伊勢大神宮近邊田畠等、永可奉寄之由宜下、

造替
式四、伊勢太神宮 凡大神宮二十年一度造替正殿宝殿及外幣殿、渡会富及別宮余舎造神殿之年限准此 皆操新材構造、自外諸院新旧通用、宮地定置二所至限更遷 其旧宮神宝遷収新殿、但綾綿之類、頒給大神宮司及禰宜内人等、神祇祭主処分亦共有分、

連胤云、此発端は垂仁天皇二十五 或云二十六 にて、夫より数度造替あり、式年に定めしは元明天皇の御世也とそ、されど其後は年限に遅速あり、抑応仁大乱に至りては修理だにかつかつなりしが、徳川家天下を治めちれしより式年の造替あられし也、昔より造替の年等は神境記談、また再興の趣は享保遷宮記を見るべし、

公卿勅使
二所大神宮例丈、伊勢公卿勅使、聖武天平月辛卯、勅使右大臣正三位橘宿禰諸兄、中臣神祇伯名代、
日本紀、天平月辛卯、使右大臣正三位橘宿禰諸兄、神祇伯從四位下中臣朝臣名代、右少辮從五位下紀朝臣宇美、陰陽頭外從五位下高麦太賽神賽奉于伊勢太神宮、

祭主
職原抄、垂仁天皇御宇、天照大神鎮座伊勢国度曾郡五十鈴川上之時、命中臣祖大鹿島命為祭主、其後代々爲祭主、
〇二所大神宮例文、祭主次第、第一御食子大連、天児屋根命廿一世孫可多能祐大連公一男也、推古天皇元年任、在任十六、中納言伯意美麿、國足一男、始為祭主、改祭官字爲主者也、天武天皇元任、在任三十七年、

大宮司
皇大神宮儀式帳、初神郡渡会多氣飯野三箇郡本記行事、右從纏向珠城朝廷 垂仁来、至于難波長栖豊前宮御宇、天万豊日天皇 孝徳 御世、有爾鳥墓村造神痔弖、為雑神政所仕奉支、同朝廷御時仁、初大御宮司所称、神痔司中臣香積連須気仕奉支、

社職
式四、伊勢大神宮 禰宜十人、 從七位官 大内人四人、物忌九人、童男一人、童女八人 父九人、小内人九人、
〇三代実録、元慶二十三日壬子、伊勢國度會郡大神宮氏人神主姓荒木田三字、大神宮氏人有三神生姓、荒木田神主、根木神主、度會神主是也、自進大肆荒木田神主首麻呂以後、脱漏荒木田三宇、今首麻呂裔孫向官披訴、故因旧加之、」
日本紀略、二十七日乙卯、天皇幸八省院、叙綱宜一階、

宮寺
日本紀、宝亀十一月丙申朔、神祇官言、伊勢大神宮寺、先為有崇遷建他処、而今近神郡、其崇未止、除飯野郡之外移造便地者、許之、

雑事
百練抄、養和元年十三日、金銅被進太神宮、依天慶例也、件使神祇少副定隆、去五日於塗中卒去、於鎧者散位大中臣在定取進之、」同年日、依逆乱事可有行自幸大神宮之由、被立御願如何之由、被仰合摂政左右両府、各無先跡、難計申之由之、」
寿永十一日内蔵人右衛門権佐定長奉勅、召祭主親俊於殿上口、仰云、兵乱平者、可行幸大神宮之由、可祈請中之由、被仰下之、此後召官寮、令ト申行幸大神宮之吉凶、神宮行幸、天平十二十一月行幸伊勢太神宮、被祈申太宰少弐廣継謀反事、」同月二十三日、諸卿定申伊勢大神宮司祐成與造宮使俊宗問注内外宮修造遅怠事、近曾祭主親俊奏法皇云、夢想云、斎神宮平伏庭上、父親定并親章卿 両人過去者 在堂上、以親定伝仰云、於我者令向天宮給畢、禅定法皇御事、所令申付荒祭宮給也、可被奉御剣、早可進院也、又常宮守護事、以泰経可申沙汰也、此後夢醒了、後朝内宮一禰宜成長持来御劒蒔虎云、、可進院之由有夢想、仍自宝殿所取出也、請取件劔、忽上洛者、』
仁治十五日、将軍家被行太神宮臨時祭、舞人装束以下移鞍等被調下云云、」建長二十八日甲子、於院殿上被議定去年伊勢外宮遷宮時所取落之安宮瑠璃壷事并西寳殿血氣事、摂政以下参之、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大神宮(オホミカミノミヤ)三座 相殿神二座並大預月次新嘗等祭について 所在は〈現 皇大神宮(内宮)〉とあります

【抜粋意訳】

大神宮(オホミカミノミヤ)三座 相殿神二座並大預月次新嘗等祭

祭神 天照坐皇大神(アマテラシマス スメオホミカミ)
相殿 天手力雄(アメノタチカラヲノ)命
   萬幡豊秋津姫(ヨロヅハタトヨアキツヒメノ)命

祭日 祈年 二月無定日 神衣 四月九月十四日 月次 六月十二月十七日
神嘗 九月十七日

所在 三重縣 宇治郷五十鈴川上(宇治山田市五十鈴川上)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂HTTP://cl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

皇大神宮(内宮) (hai)」(90度のお辞儀)

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