実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉

居多神社(こたじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)に所載の式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社です 1207年には越後へ配流された親鸞聖人が 最初に参拝したとされ 親鸞聖人が念じたところ境内の芦が一夜にして片葉になったという「片葉の芦」の伝説が残ります その時代の境内地は 日本海に面する聖人上陸の地の西方にあったと伝わりますが 慶應2年(1866)海岸侵食により崩壊したため 社殿を解いて神官宅地内に遷し その後 明治12年(1879)に 現在の境内地に遷座したと伝えています

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

居多神社(Kota Shrine)
(こたじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

新潟県上越市五智6丁目1-11

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大国主命(Okuninushi no mikoto)
   奴奈川姫命(Nunakawa hime no mikoto)
   建御名方命(Takeminakata no mikoto)
   事代主命(Kotoshironushi no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

縁結びの神 God who deepens the connection and intimacy with others
子宝祈願の神 God praying for a treasure-like life blessed with children

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社
・ 越後國一之宮Echigo no kuni ichinomiya)

【創  (Beginning of history)】

越後一の宮 居多神社

祭神 大国主命(おおくにぬしのみこと)
   奴奈川姫(ぬなかわひめ)
   建御名方命(たけみたかたのみこと)

祭典 例祭 53
   講社大祭 819日・20

由緒 弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)に従四位下を朝廷から賜った。延長5年(927)の「延喜式(えんぎしき)」神名帳に記載された式内社(しきないしゃ)である。越後国司・越後守護 上杉家・上杉謙信の厚い保護をうけ、越後一の宮として崇敬されてきた。今日、縁結(えんむす)び・子宝祈願(こだからきがん)の神として信仰されている。

宝物 居多神社文書・狛犬(上越市指定文化財)

親鸞聖人御旧蹟
   親鸞聖人日の丸御名号・御詠歌
   越後七不思議「方葉の芦(かたはのあし)
境内社
 雁田(かりた)神社
 祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)神皇産霊神(かみむすびのかみ)
    子宝・安産の神
 稲荷(いなり)神社
 祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)(商売繁昌の神)
社頭の案内板より

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【由  (History)】

由緒

祭神 大国主命、奴奈川姫、建御名方命

祭典 例祭53日 大祭81920日。

居多神社は大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)を祭神とする式内社である。
朝廷から弘仁4年(813)に従5位下を、貞観3年(861)に従四位下をたまわった。古代、越後国司の厚い保護をうけて栄えた。
承元元年(1207)、親鸞聖人は越後国府に配流となった。以後、建保2年(1214)、常陸国稲田へ旅立つまでの7年間、越後で生活した。その際、居多神社に参拝した。
南北朝の動乱が一段落した貞和3年(1347)、室町幕府から社殿修理費として田井保(中頚城郡板倉町田井)三分の二をたまわった。
さらに観応2年(1351)、越後守護 上杉憲顕から荒蒔保(中頚城郡清里村荒牧)保司分を社領としてたまわった。以後、越後守護上杉家の厚い保護をうけ、越後一の宮として栄えた。
戦国時代には、京都の文化人達があいついで越後府中(直江津)を訪れた。
文明18年(1486)、京都常光院の僧尭恵は守護上杉房定の厚遇をうけ、至徳寺の塔頭最勝院を宿とした。滞在中、居多神社に参拝し、「天の原雲のよそまて八島もる神や涼しきおきつしほ風」と詠んだ。
京都相国寺の僧万里集九も長享2年(1488)、府中を訪れ、居多神社をはじめ国分寺、安国寺など、府中の名所を見学した。尭恵、集九以外にも、たくさんの文化人が参拝したことであろう。

戦国時代、居多神社も戦乱にまきこまれた。
天文2年(1533)、反長尾為景派によって社殿が焼かれた。そのため同年、為景(上杉謙信の父)は居多神社に内乱鎮定を祈願し、社殿造営を約束した。
天正6年(1578)、戦国大名上杉謙信が春日山城で死去すると、養子景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った。これが有名な「御館の乱」である。その際、居多神社は景虎に味方したため景勝軍の攻撃をうけ、社殿が焼かれた。神主花ヶ前盛貞・家盛父子は難をさけ、能登・越中を転々とした。
慶長3年(1598)、景勝が会津(福島県)へ移ると、晴れて帰国することが出来た。翌4年、春日山城主堀秀治から社領13石を寄進されたが、もはや昔日の面影はなかった。
江戸時代、幕府から高100石の御朱印地をたまわっていた。
明治12年、海岸侵食のため現在地に遷座した。のち、火災にあって焼失し、仮社殿のまま今日に至っている。

居多神社略年表
弘仁4年(813、朝廷から従五位下をたまわる。
貞観4年(861、朝廷から従四位下をたまわる。
延長5年(927、「延喜式」神名帳に記載された式内社である。
承元元年(1207、親鸞聖人、越後国府に配流、居多神社に参拝す。
貞和3年(1347、室町幕府より社殿修造費として、田井保三分の二をたまわる。
観応2年(1351、越後守護上杉憲顕より荒蒔保をたまわる。
応永18年(1411、居多神社 社領注文によると、社領は頚城・刈羽・古志・魚沼・蒲原五郡にまたがっていた。
文明18年(1486、京都常光院 尭恵は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
長享2年(1488、京都相国寺の僧万里集九は府中を訪れ、居多神社に参拝す。
天文2年(1533、越後守護代 長尾為景は内乱鎮定を居多神社に祈願す。
永禄3年(1560、上杉謙信が居多神社に制札を掲げる。
天正6年(1578、御館の乱に際し、上杉景虎に味方したため敗れ、神主花ヶ前家は能登・越中へ逃れる。
慶長3年(1598、上杉景勝が会津に移ったため、花ヶ前家は帰国す。
慶長4年(1559春日山城主 堀秀治より社領13石をたまわる。
慶長16年(1611、福島城主 松平忠輝より社領100石をたまわる。
慶安元年(1648、徳川三代将軍 家光より社領100石をたまわる。
元禄2年(1689、人芭蕉は奥の細道の帰途、居多神社に参拝す。
明治12年(1879、鸞聖人上陸の地の西方にあった境内が海岸侵食により崩壊したため、現在地に造営し、遷座す。

居多神社宝物 居多神社古文書 上越市指定文化財、
狛犬 上越市指定文化財

境内社
雁田神社 祭神 高皇産霊神 懐妊、安産、夜尿症治癒、性病治癒の神です。
稲荷神社 祭神 倉稲魂命(宇迦之御魂命)。

越後七不思議
居多神社「片葉の芦」片葉の芦とは芦の葉が一方にのみ向かってはえている芦のことである。親鸞聖人が越後配流のおり、居多神社に参拝し すえ遠く法を守らせ居多の神弥陀と衆生のあらん限りは と詠み、神前に供えて祈願されたところ一夜にして居多神社境内の芦が片葉になったという。今日、居多神社の境内に片葉の芦が群生している。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

雁田神社《主》高皇産霊神 神皇産霊神子宝・安産の神

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境内奥の石の祠 
稲荷神社《主》倉稲魂命 乳母嶽神社《主》乳母嶽神 白蛇神媼嶽(オウナダケ)明神

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

鎮座地辺りまで 社頭から徒歩6分程

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 居多神社
[ふ り が な ]の かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itano kaminoyashiro) 

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について

氣多神(ケタノカミ)と その御子神〈苗裔神(ビョウエイシン)〉や  分祠とされる神社が 日本海の沿岸や河川流域に鎮座します

「氣多神(ケタノカミ)」の本宮 「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」

・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の元宮 

一緒に読む
能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の本宮

能登生国玉比古神社(のといくくにたまひこじんじゃ)は 上古 第8代 孝元天皇の治世〈BC 214~BC 15年頃〉創祀され 第10代 崇神天皇の御代〈BC 97~BC 30年頃〉羽咋の竹津浦に祭神を分霊し これが現在の能登国一之宮 気多大社(羽咋市)の創祀 当神社は 元宮としてその頃から 氣多本宮とも称したと伝わり この古事から 羽咋の氣多大社から当神社まで 平国祭「おいで祭」の神幸祭〈毎年3月18日~3月23日 5泊6日 50余名で巡行する神事〉が 現在も執り行われています

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・気多大社(羽咋市)能登国一之宮 

一緒に読む
気多大社(羽咋市)能登国一之宮「入らずの森」の社

氣多大社(けたたいしゃ)は 北陸の大社として朝廷からの尊崇も厚く 文献に最初に登場するのは『万葉集』大伴家持が 越中国守として赴任の時〈天平20年(748)〉能登を巡行し「気太神宮」に赴いたとの歌がみえ 927年12月編纂の『延喜式 巻3 臨時祭』では名神大に列している由緒ある古社です 大正時代に国幣大社に列したことから 現在は「気多大社」として親しまれています

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①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載

・気多御子神社(小松市)

一緒に読む
気多御子神社(小松市)

気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です

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・市之瀬神社(加賀市山代温泉)〈合祀先〉

市之瀬神社(旧村社)に合併されている神明宮に祀られていたという御子社(山代日子命)が氣多御子神社だという説

➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載

・氣多神社(高岡市)越中国一之宮

一緒に読む
氣多神社(高岡市伏木一宮)〈延喜式内社 越中国一之宮〉

気多神社(けたじんじゃ)は かつて越中国の国府の地があったとされる〈高岡市伏木〉に鎮座しています 故に越中国一之宮とも称して 境内には 越中国 総社跡(伝承地)もあります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には 名神大社として所載される由緒ある古社です

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➂「越後國 頸城郡 居多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載

・居多神社(上越市)越後国一之宮

一緒に読む
居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉

居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています

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④「但馬國 氣多郡 氣多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載

・気多神社(豊岡市)但馬国総社

➄「飛騨国 気多若宮神」『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条 ・気多若宮神社(飛騨市)国史見在社

越後には 一之宮と称する神社が 3系統あります

一般には 彌彦神社が実質的な一之宮されていますが 南北朝期頃からに居多神社が上杉家の崇敬を得て一宮を公称するようになったとも云われています
天津神社は 第12景行天皇の時代の創建と伝えられ 第36孝徳天皇の勅願所であったと伝えらます

越後國頸城郡 大神社天津神社

・天津神社・奴奈川神社(糸魚川市)

一緒に読む
天津神社・奴奈川神社(糸魚川市一の宮)

天津神社(あまつじんじゃ)・奴奈川神社(ぬなかわじんじゃ)は ・天神を祀る「天津神社」・国津神を祀る「奴奈川神社」が すぐ横に並んで祀られています 鎮座している土地は 富山県との境に位置する新潟県最西端の糸魚川市です 縄文期よりのヒスイの産地として名高い地です 翡翠は古代は「玉」とされて大変貴重な神器でありました 「奴奈川神社」では ヒスイの神「奴奈川姫命(nunakawa hime no mikoto)」を祀ります

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越後國頸城郡 居多神社居多神社

・居多神社(上越市)越後国一之宮

一緒に読む
居多神社(上越市五智)〈越後國一之宮・延喜式内社〉

居多神社(こたじんじゃ)は 延喜式内社で 越後国一之宮とされる由緒ある古社 日本海に面する地に鎮座したと伝わり 1207年 越後へ配流された親鸞聖人が最初に参拝した地で「片葉の芦」の伝説が残ります 慶應2年(1866)海岸侵食により社地崩壊のため 社殿を神官宅地内に遷し 明治12年(1879)現在地に遷座しています

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越後國蒲原郡 伊夜比古神社 名神大弥彦神社

・弥彦神社(弥彦村)

一緒に読む
彌彦神社(弥彦村)越後国一之宮

弥彦神社(いやひこじんじゃ)は 創建から2400年以上であるとも云われ 万葉集にも詠われる由緒ある歴史を持つ古社です 御祭神は 天照大神の曾孫の天香山命(あめのかごやまのみこと)を祀り 人々からは「おや彦さま」と呼ばれ 信仰を集めてきた越後国一之宮です

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・彌彦神社奥宮 御神廟(弥彦山頂上)

一緒に読む
彌彦神社 奥宮 御神廟(弥彦山頂上)

彌彦神社 奥宮 御神廟は 弥彦山の頂上に鎮座します 越後国開拓の祖神「天香山命 (あめのかごやまのみこと)」と その妃神「熟穂屋姫命(うましほやのひめのみこと)」が 祀られているとされる御神廟です  弥彦山は 7~8世紀の万葉集にも詠われている古くからの信仰の歴史を持ちます

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新潟県内としては 佐渡に 一之宮があります

佐渡国(sado no kuni) (新潟県) ※ 743年に越後国に併合 752年に再分立

度津神社(佐渡市)

一緒に読む
度津神社(佐渡市羽茂飯岡)〈佐渡國一之宮・延喜式内社〉

度津神社(わたつじんじゃ)は 御祭神に 五十猛命を祀り 陸上海上の守護神として 島民から篤く信仰されています 佐渡国の一之宮と格式高い神社です ただし 1470年に大洪水があり 社地や由緒や縁起など古文書等が悉く流失したため 現在地に遷座したと伝わり その為 創立年月 その他詳かではありません

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

直江津駅から県道185号を西へ約1.8km 徒歩20分程度

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直江津の町並みは 親鸞聖人の所縁の地として 旧跡が至る所に在ります「親鸞聖人 鏡ヶ池」 

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街道沿いに進むと裏手から 越後 国分寺天平13年(741)45代 聖武天皇が日本の平和と繁栄を祈願し 国ごとに国分寺と国分寺尼寺を建立された越後国の国分寺本尊が五智如来なので 五智国分寺呼ばれます
三重の塔 白山神社御旅所などと 親鸞聖人の銅像もあります

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五智国分寺正門と抜けると 直ぐに居多神社の参道入り口となります
居多神社(Kota Shrine)に参着

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一礼をして鳥居をくぐると 下りの階段を降り 参道を進むと社頭に出ます
社頭には大きな社号標「居多神社」とあり 右手には親鸞聖人の伝説の片葉の葦」があり 正面の上り階段の先に鳥居が建ち社殿が見えています 

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階段を上がり 一礼をして 鳥居くぐり 拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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境内にも 親鸞聖人の石像があります

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境内社にお詣りをします

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御祭神の大国主命(オホナムチノミコト奴奈川姫命(ヌナカワヒメノミコトの夫婦神が 御子神の建御名方命(タケミナカタノミコトを慈しむ石像が奉納されています

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社殿に一礼をすると 大勢の御祈祷者がおられ 一斉に退殿するところでした

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に記される伝承

越後の神々とともに 神階の奉授が記されています

【意訳】

貞観3年(861)8月3日 甲辰

越後国(エチゴノクニ)従五位上
弥彦神(イヤヒコノカミ)
大神神(ヲホムワノカミ)
居多神ヰタノカミ
に 並びに 従四位 をまくれ

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

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『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

所在は 居田村と記しています

【意訳】

居多ヰタ神社

〇旧訓なし
〇国人は云う コタ

三代実録 貞観3年(861)8月3日 甲辰・・従四位

〇今 居田村に在す
案内 居田村 神職 花咲氏 御朱印100石 

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

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『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承

所在は 旧鎮座地〈明治12年に遷座以前〉で 居田村の躬野輪山(ミノワヤマ)麓の居多里と記しています

【意訳】

居多神社

居多は 仮字なり

〇祭神 大己貴命(オホナムチノミコト) 風土記節解
〇居田驛に在す 案内
〇節解云う 在するのは 躬野輪山(ミノワヤマ)麓の居多里と云り

例祭 毎月9日
神位 三代実録 貞観3年(861)8月3日 甲辰・・従四位
社領 当代 御朱印高100石

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』

 

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容

明治の遷座したての頃か 鎮座地は 現在地になっていますが 八幡宮に合殿と記されています

【意訳】

居多神社

祭神 大己貴命(オホナムチノミコト)

神位 清和天皇 貞観3年(861)8月3日 甲辰・・従四位
祭日 9月11日
社格 縣社
所在 居田村 今 府中八幡宮合殿(中頸城郡 春日村 大字五智国分

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)』〈明治45年(1912)〉に記される伝承

社名は 媼嶽明神とも 居多明神とも呼ばれたこと 慶應2年(1866)山崩れの為 社殿を解きて神官宅地内に遷したことなどが記されています

【意訳】

新潟県 越後頸城郡 春日村 大字 居田

縣社 居田神社

祭神 大己貴命(オホナムチノミコト)

相殿 奴奈川姫命(ヌナカワヒメノミコト)
   事代主命(コトシロヌシノミコト

創祀年月 詳(つまびら)らかならず 旧 媼嶽明神ともいう(越後名寄)
神祇志料に「居田(ケタノ)神社 今 居多(コタノ)濱村 岩戸浦山の半腹に在り 居多明神という 伝えて北海擁護の神なりとす 蓋 大己貴神を祭る 按 北国紀行云う この神は 神功皇后韓国伐た給う時より 北海鎮護神たりとみえ
盛衰記に 緒形惟義が先は 日向と豊後の間なる媼嶽(オウナダケ)明神にして その祖を大太夫 大弥太 大弥次 大六 大七という由を記し 三輪の神の故事を載せたり これは緒形氏 三輪の神裔にて大神姓なる故に 世々その姓の一字を名に負いしものと見ゆるに 居多と氣多と音近く 氣多神は大己貴命を祭る云い伝えたるに 今又 居多神を土人は媼嶽明神とも云うを北国旅行の説に合わせて 彼 征韓の時 三輪神の威霊を顕し給える事をも思い奉るに土人の伝説極めて縁あり」と 然るに 本社に伝わる旧記等には媼嶽(オウナダケ)の名なし 
尤(もっとも)古来流布の書に 居多神社は鳥居の額に うはたけ明神とあり
これに依りて 里人の伝に 昔 丹後の由良港の人買船 今町にて 岩城判官の士女 安寿姫 津知保丸を買い取り行きけるが 乳母たけという女 これを追い来て 舟の沖に離れるを見 一念 毒蛇となりて海中に飛入りぬ 即ち その霊を祀りしものなり(越後土産 家苞)もいえど 俗説に過ぎず

清和天皇 貞観3年(861)8月3日従5位上より従4位下に進められ(三代実録)
醍醐天皇 延喜の制 小社に列す 頸城郡13座の一なり(延喜式)
相伝う 北朝 光明天皇 貞和年中(1345~1349)社地陥没せしかば 鳥居を南方の高地に引く
天正6年 上杉輝虎没して後 神主 貞盛家盛 上杉氏に背きしかば 社領悉く没収せらめ(式社考証)
後陽成天皇 慶長16年9月幕府より 朱印地百石の寄進あり
孝明天皇 慶應2年(1866)山崩れの為 社殿を解きて神官宅地内に遷し しばらく ここに奉斎せり
明治5年5月郷社に列し 同6年5月縣社昇格す 同年 八幡村八幡宮の相殿に合祀せしが 同12年 旧地の南に社殿新築なりて遷座あり もと境内に天神社 八幡社 稲荷社 八坂社 諏訪社 大間社の6社ありしが 慶應2年解除以来未だ 再建に及ばす
境内2882坪 本殿 拝殿 祭舎 その他 両幄舎 廊下 神饌所 社務所等を備える 

西南に岩戸という岩窟あり 建御名方命 降臨の神蹟なりという 中に大日如来の神像を安置す 又 胎内くぐりというがあり 大人小児身体の大小に拘わらず辛うじて出入りすという
境内は 西北 杉林に囲まれ 東南 池 周囲一里 に臨み風致佳なり 宝物としては多く古簡を収蔵す 就 ・・・・・・・・

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

御祭神の大国主命奴奈川姫命の出逢い〈古事記上巻 妻問の歌〉ついて

境内の西南に岩戸という岩窟があり 大国主沼河姫命との間に生まれたとされる建御名方命(タケミナカタノミコト)」がここで誕生したと伝えられる地があります これに因んでか 現地に 古事記の案内板があります

大国主の沼河姫命への 妻問の歌説明板

古事記上巻
 大国主は(八千矛神)は、おいおい、四方に国を広げ、越の国を平定されました。
 その時、越後の国の沼河姫と結婚しようとして、姫の家へ行って、お詠みになった歌
(歌)
 八千矛の 神の命は 八州国 妻求ぎかねて 遠々し 越の国に 賢し女を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして さよばひに ありたたし 結婚にあり通はせ 太刀が緒も 未だ解かずて 襲ひをも 未だ解かねば 乙女の 鳴すや板戸を 押そぶらひ 吾が立たせれば 引こずらひ 吾が立たせれば 青山に 鵺は鳴き 野鳥 雉子は響む 庭つ鳥 鶏は鳴く 慨たくも 鳴くなる鳥が 此の鳥も 打ち悩めこせね いしたふや 天はせづかひ ことの語り言も こをば
(訳)
 八千矛の命は 八州国の国に妻を求めかねて 遠い遠い越の国に 賢い女がいると聞き 美しい女がいると聞いて 求婚しようと旅に立ち 結婚しようと通いきて 太刀をさげ緒もまだ解かず 着物をぬぐひまもなく 恋しい乙女の寝所の戸板を 押しゆすぶって立ち 引きあぐんで外に立っていると もう青山に鵺が鳴き 野には雉子が鳴き 庭先で鶏が鳴いている なげかわしくも鳴く鳥め そんなに鳴くのはやめてくれ 下におります走り使いする者の事の語り伝えはかようであります (これがあなたに捧げる言葉です)

 その時、沼河姫は、戸を閉じたまま、家の中から、次の歌を詠って応えられました
(歌)
 八千矛の 神の命 軟え草の 女にしあれば 吾が心 浦渚の鳥ぞ 今こそは 千鳥にあらめ のちは 和鳥にあらむを いのちは な死せ給ひそ いしたふや 天はせづかひ ことの語り言も こをば
(訳)
 八千矛の神さまよ 私はなよなよとした弱い女ですもの 私の今の心は、渚の鳥の千鳥のように落ち着きません。しかし、後には何鳥になるでしょうか どうか死なないでお待ち下さい 下におります走り使いをする者の事の語り伝えはかようであります (これがあなたに捧げる言葉です)

(歌)
 青山に 日か隠らば 鳥羽玉の 夜は出でなむ 旭の 笑み栄え来て 栲網の 白き腕 沫雪の 弱かやる胸を そ叩き 叩き供がり 真玉手 玉手さしまき 股長に 寝はなさむを あやに 勿恋聞こし 八千矛の 神の命 ことの語り言も こをば
(訳)
 青い山に太陽が入り 夜になったらおいで下さい 朝日のようなにこやかな顔をして コウゾの網のような白い腕で 沫雪のような若い私の胸を 撫でつつ抱きかかえ 玉のような手をからめて 足をのばして寝ましょうものを むやみに恋し給うな 大国主命よ これがあなたに捧げる言葉です

それで、その夜はお会いにならないで、翌晩お会いになりました。

現地案内板より

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親鸞聖人「片葉の芦」の伝説について

親鸞聖人が念じたところ境内の芦が一夜にして片葉になったという「片葉の芦」の伝説が残ります

承元元年(1207)、親鸞聖人は、越後国府に配流となった。
居多ヶ浜に上陸された親鸞聖人は、まず越後一の宮居多神社に参拝され、
 すゑ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは
と詠まれ、神前に供えて祈願された。
すると、一夜にして居多神社境内の芦が片葉になったという。
 今日、居多神社には親鸞聖人の御詠歌と日の丸の御名号が所蔵されている。
 境内には、親鸞聖人越後七不思議の一つ「片葉の芦」が群生している。

現地案内板より

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居多神社(Kota Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について

日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です

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越後国 式内社 56座(大1座・小55座)について に戻る        

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越後國(えちごのくに)の 式内社 56座(大1座・小55座)について

越後国(えちごのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 越後国には 56座(大1座・小55座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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