木葉神社(このはじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』所載 大和国 髙市郡 川俣神社三座(並大月次新嘗)(かわまたの かみのやしろ さんざ)(だい つきなみ にいなめ)とされています 創建・由緒は不詳ですが当初は この地に居住した「川俣氏」が 祖神を祀ったものだろうとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
木葉神社(Konoha shrine)
[通称名(Common name)]
権現社(ごんげんしゃ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県橿原市雲梯町512
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
雲梯町には 川俣 / 川股 / 河俣の地名が残存 《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)として比定されています
【由 緒 (History)】
江戸時代には 川股八王子と称され 中世以降には「富士権現〈寺院の鎮守社で 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る〉」と称されて 現在の「木葉(このは)神社《主》木花開耶姫命」の原型となっています
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神 304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)髙市郡 54座(大33座・小21座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 川俣神社 三座(並 大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](かわまたの かみのやしろ さんざ)(だい つきなみ にいなめ)
[Old Shrine name](Kawamata no kamino yashiro sanza)(Dai Tsukunami Niiname)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社は二つあります
・木葉神社(橿原市雲梯町)
木葉神社(このはじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』所載 大和国 髙市郡 川俣神社三座(並大月次新嘗)(かわまたの かみのやしろ さんざ)(だい つきなみ にいなめ)とされています 創建・由緒は不詳ですが当初は この地に居住した「川俣氏」が 祖神を祀ったものだろうとされます
木葉神社(橿原市雲梯町)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
《式内社》大和國十市郡 子部神社二座 並大 について
『大和志料〈大正3年(1914)〉』には『五郡神社記』の引用があり
「雄略天皇に至り 小子部蜾蠃(ちいさこべのするが)をして天之穂日(あめのほひ)、天津彦根(あまつひこね)の二神を子部里に分祀せしめ給う。
これ、十市郡子部社の創始なりと云う。」と記されていて
これに依れば
川俣神社の所在は 飛鳥川と細谷川の合流地〈現 加夜奈留美命神社(高市郡明日香村栢)辺り〉に鎮座と記しています
川俣神社の祭神について
元々 川俣神社は 五座〈天之穂日(あめのほひ)・天津彦根(あまつひこね)・活津彦根(いきつひこね)・熯之速日(ひのはやひ)・熊野忍穂根(くまのおしほね)〉であった
しかし 雄略天皇の時に 小子部蜾蠃(ちいさこべのするが)が 川俣神社から二座〈天之穂日(あめのほひ)、天津彦根(あまつひこね)〉を 子部神社二座《式内社》へ分祀したので 三座〈活津彦根命(いきつひこねのみこと)、熯之速日命(ひのはやひのみこと)、熊野忍穂根命(くまのおしほねのみこと)〉となったのが 現在の川俣神社三座であると記しています
・子部神社(橿原市飯高町)〈軒の宮〉
・子部神社(橿原市飯高町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神武天皇陵のある畝傍山の西には 高取川と曽我川の二流があり その合流地点から 曽我川の堤を1km程南下した所に 曽我川に架かる戒智橋があり その東岸に《式内社》河俣神社(橿原市雲梯町)が鎮座します
・河俣神社(橿原市雲梯町)
河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります
河俣神社(橿原市雲梯町)
木葉神社は 雲梯町の南方 曽我川の西岸の杜に囲まれて鎮座
木葉神社(橿原市雲梯町)に参着
一礼をして鳥居をくぐります
拝殿にすすみます
拝殿の格子戸の奥には塀に囲われて 本殿が鎮座します
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社が記され その名で大和国の上位の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞観元年(859)正月27日(甲申)の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉り授くに
大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ)に並びに 従一位
・・・
・・・従五位下
和邇赤坂彦神 山邊御縣神 村屋祢富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神
鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原髙御魂神 畝尾建土安神 子部神
天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神
牟佐坐神 高市御縣神 軽樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神
川俣神 波多井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天照御魂神 志貴御縣神
忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久虫玉神 調田一事比古神
金村神 葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神
矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神並びに 従五位上
无位 綱越神 に 従五位下
【抜粋意訳】
元慶六年(882)五月二日 癸卯の条
大和國司(やまと くにのつかさ)言う 管(すが)高市郡 従五位下 天川俣神社の樹に 鳥巣が有り 四雛が産れ得た その一雛は毛色純白
【原文参照】
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
所在は 雲梯村で 川俣八王子と称している と記しています
【抜粋意訳】
川俣(カハマタノ)神社三座 並大月次新嘗
三実 貞観元年正月二十七日甲申 奉授 大和國 從五位下 川俣神 從五位上
〇同六年五月 正五位下姓氏 大和皇別 川俣公 彦坐命の後なり
〇今 鍬田村 川俣の誤 属すに葛上郡大和志 在に雲梯村 今称すに 川俣八王子
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
所在は 雲梯村 と記しています
【抜粋意訳】
川俣神社三座 並大月次新嘗
川俣は加波末多と訓べし
○祭神 川俣公祖歟
○雲梯村に在す、今 川股八王子と称す、大和志、同名所図会、
○姓氏録 大和国皇別 川俣公、彦坐命之後也、
考証云、鎌田村、今属 葛上郡、鎌田村川俣之訛、神位
三代實録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國 從五位下 川俣神 從五位上、雑事
三代実録、元慶六年五月二日癸卯、大和國司言、管高市郡 從五位下 天川俣神社樹、有鳥巣、産得四雛、其一雛毛色純白、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
所在は 雲梯村 祭神は木 華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)ではなく 川俣公(かわまたのきみ)の祖神であろう と記しています
【抜粋意訳】
川俣(カハマタノ)神社三座 並大月次新嘗
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神は一座 木華開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と云るは 疑わし
姓氏録 大和皇別に川俣公(かわまたのきみ)彦坐命(ひこいますのみこと)の後なり とみえたるをもて思うに 川俣公の祖(おや)彦坐命を主として その族類の神を祭れるなるべし
されど古書に徴なければ 神名を考ふることあたわず神位 清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、奉授 大和國 從五位下 川俣神 從五位上、
祭日 八月十五日
社格 村社
所在 雲梯村 字新堂内初穂寺(高市郡金橋村大字雲梯)
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
神社の創始から 丁寧に記されています
但し 所在は 飛鳥川と細谷川の合流地〈現 加夜奈留美命神社(高市郡明日香村栢)辺り〉と記しています
【抜粋意訳】
川俣(カハマタ)神社
三代実録に「元慶六年五月二日癸卯、大和國司言、管高市郡 從五位下 天川俣神社樹、有鳥巣、産得四雛、其一雛毛色純白、」
延喜式神名帳に「川俣神社三座 並大月次新嘗」と見ゆ。
大和志に「在に雲梯村 今称すに 川股八王子」と記するにより、今 眞菅村 大字雲梯の指定村社を以って式内 川俣社と称し、事代主命を祭ると云へり。川俣社を雲梯にありとするは 川俣八王子の俗称に因り、その事代主命を祭ると云ふは 出雲国造神賀詞に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提〈河俣神社〉に坐(ましま)す」とあるに依れるものにして、要するに付会の説たるに過ぎず。雲梯社は即ち高市御縣鴨八重事代主神社にして 川俣社にあらざること既に彼の社の下に詳に述べるが如し。
崇神天皇 群神を祭祀し給える時、彦坐命(ひこいますのみこと)に詔して社殿を川俣に造り 天之穂日(あめのほひ)・天津彦根(あまつひこね)・活津彦根(いきつひこね)・熯之速日(ひのはやひ)・熊野忍穂根(くまのおしほね)の五神を斎祀せしめらる。
実にこれ、当社の創始にして この時 彦坐命これが祝部(はふり)となり、よりて川俣の氏姓を負ひ子孫永く その職を襲ふ、
雄略天皇に至り 小子部蜾蠃(ちいさこべのするが)をして天之穂日(あめのほひ)、天津彦根(あまつひこね)の二神を子部里に分祀せしめ給う。
これ、十市郡子部社の創始なりと云う。
事、五郡神社記に引ける注進状に見ゆ。曰く「川俣神社、帳云、川俣神社三座。在に加美郷川俣村 石川俣合(いしかはまたあい)。社家者 川俣公 説曰。注進状に川俣神社三座。活津彦根命(いきつひこねのみこと)、熯之速日命(ひのはやひのみこと)、熊野忍穂根命(くまのおしほねのみこと)なり。古伝に云。崇神天皇 命じる 八十万群神を祭る時 彦坐命(ひこいますのみこと)に詔して社殿を川俣に造り 天之穂日(あめのほひ)命・天津彦根(あまつひこね)命・活津彦根(いきつひこね)命・熯之速日(ひのはやひ)命・熊野忍穂根(くまのおしほね)命を斎祀せしめ 大社に定め 神田を封じる。社号は天川俣神社。彦坐命 為に祝部(はふり)となり よりて川俣の氏姓を負ひ子孫永く その職を奉仕す・・云々」
〇案ずるに 姓氏録 大和皇別 に「川俣公・・・彦坐命の後なり」とあり。川俣の故事、注進状記し得て詳なり。以って姓氏録の文を補ふべし。
雄略天皇に至り 小子部蜾蠃(ちいさこべのするが)をして天之穂日(あめのほひ)、天津彦根(あまつひこね)の二神を子部里に分祀せしめ給う。
これ、十市郡子部社の創始なりと云う。〇多神社 注進状に「及に 于泊瀬朝倉宮 御宇 大泊瀬幼武天皇。・・・即位九年乙巳初春。天皇 霊夢にり 詔し 蜾蠃(するが)に奉斎を皇枝彦日根両神を祭る 〇注進状裏書に縁るに彦日根両神は天之穂日命・天津彦根命なり 於 子部里。今 天子部神社これなり」とあるに相合う。
然るのち、弟 活津彦根(いきつひこね)命・熯之速日(ひのはやひ)命・熊野忍穂根(くまのおしほね)命の三神 遣し止め 当村に尊敬三座を曰に川俣神社なり」と即ちこれ。
これによれば 川俣は、飛鳥川と細谷川との交合にして これを石川俣合と称し、その里を川俣村と名づく。
神社の位置 正に此の所にあるべきも村己廃し、社の在所また詳ならず。
【原文参照】
木葉神社(橿原市雲梯町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る
大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです
大和国 286座(大128座(並月次新嘗就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)