籠神社(このじんじゃ)は 正式名称を「丹後一宮 元伊勢 籠神社」一般呼称は「元伊勢籠神社」 宮司は83代も続く 海部(あまべ)家〈「国宝 籠名神社祝部海部直氏系図」あり〉その祖神゛彦火明命が 籠船に乗り 海神の宮へ行かれた゛故事により゛籠゛の社名となる 神寶゛邊津鏡〈中国の前漢時代(紀元前206年~8年)〉゛息津鏡〈中国の後漢時代〉゛もあり由緒正しき古社です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
籠神社〈元伊勢〉(Kono shrine)
【通称名(Common name)】
・元伊勢籠神社
・元伊勢根本宮
・籠守大権現
・籠宮大明神
【鎮座地 (Location) 】
京都府宮津市字大垣430
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
《配》豊受大神(とようけおほかみ)〈御饌津神〉
天照大神(あまてらすおほかみ)
海神(わたつみのかみ)〈社家海部氏の氏神〉
天水分神(あめのみくまりのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・丹後國一之宮
・旧国幣中社
・別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
籠(この)神社 (古称 吉佐宮(よさのみや))
御祭神 彦火明命
相 殿 豊受大神 天照大神
海 神 天水分神神代の昔より奥宮真名井原に豊受大神をお祀りして来ましたが、その御縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫邑からおうつりになり、之を吉佐宮と申し、豊受大神と共に四年間お祀り致しました
その後天照大神は垂仁天皇の御代に、又豊受大神は雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました それに依って當社は元伊勢と云われております
両大神がおうつりの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社、又丹後国一之宮として朝野の崇敬を集めてきました
現地案内板より
【由 緒 (History)】
伊勢神宮元宮(古称 與佐宮)
延喜式内 山陰道一之大社 丹後國一宮 籠神社
御祭神
彦火明命 (元伊勢一の宮)(天照御魂神)相 殿
天御中主神
天照大神(豊受大神)
海 神 (豊玉姫命)
天水分神(水神)例祭 四月二十四日 葵祭ト称ス
摂社 (奥宮)眞名井神社
御祭神 豊受大神
相 殿 伊弉諾尊例祭 十月十五日
境内神社
蛭子社 天照皇大神社
春日社 猿田彦命社寶物古文書
一、 藤原佐理郷筆額面勅額 重要文化財
一、 小野道風筆 額面 勅額
一、 蘭陵王古面 文蔵主作
一、 丹後國一宮深秘 建武年中書写
一、 籠神社祝部海部直氏系図 國寶
一、 石造狛犬二基 鎌倉時代建造 重要文化財現地案内板より
籠(この)神社由緒
御祭神 天照國照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
神代と呼ばれる遠くはるかな昔から 奥宮の地 眞名井原に匏宮と申して豊受大神をお祀りして来ました。その御縁故によって第十代崇神天皇の御代に天照大神が大和国笠縫色からお遷りになり、天照大神と豊受大神を吉左宮という宮号でご一緒に四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお還りになりました。それに依って当社は元伊勢と呼ばれております。
例大祭 葵祭 四月二十四日
葵祭は欽明朝以前は藤祭を呼ばれ、第四代懿徳(いとく)天皇四年に始まったと伝えられています。
御朱印帳説書より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈本殿 拝殿〉
・恵美須社《主》彦火火出見命、倭宿彌命
丹後で最古の歴史を持つ
丹後一番 えびす
拝殿の向かって右側に鎮座する恵美須神社は、奈良時代の養老三年(約一三〇〇年前)現在の御本宮が御鎮座された際に、それ以前の主祭神てあった彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)と倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)を別殿にお祭り申し上げたものて、丹後で最も古い歴史を持つえびす様と言う事が出来ます。
以来、商売繁盛や大漁満足を始めとする御神徳が聞こえ、遠近の商工業や漁業に携わる人々などから篤い信仰を受けて参りました。案内張り紙より
・猿田彦社、春日社、天照大神和魂社
・眞名井稲荷社《主》倉稲魂,保食神,豊受比賣命
・水琴窟
・倭宿禰命(やまとのすくねのみこと)像
倭宿禰命
別名・珍(うず)彦・椎根津彦・神知津彦
籠宮主祭神 天孫彦火明命第四代
海部宮司家四代目の祖神武東遷の途次、明石海峡(速吸門 はやすいなど)に亀に乗って現われ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとのすくね)の称号を賜る。
外に大倭国造、倭直(あたい)とも云う。
大倭(おおやまと)の宇音は、後の大和の(やまと)の国号に深い関係があると云われる。亀に乗ったお姿は 応神朝の海部の賜姓以前、海人族(あまぞく)の始原の一画を語り、又 海氏(あまうじ)と天系(あまけい)との同一出自をも示唆するようである。
御神徳
人生先導、事業成就、健康長寿、平和招来、海上守護元伊勢 籠(この)神社 八十二代宮司 海部光彦
現地案内板より
・産霊岩(むすひいわ)〈社殿向かって左隣〉
・神札授与所
・社務所
・青龍殿
・神門
・狛犬
重文狛犬(阿吽一対) 伝 鎌倉時代作
伝承によると、作者の一心で魂の入った狛犬が、天正年中不意に天橋立の松林に出現して、元伊勢詣りの参拝者や通行人を驚かした。 偶々親の仇討ちにひそんでいた岩見重太郎が之れを聞いて鎮霊を決意し、一夜待ち構えて音の方向に剛刀を一閃したところ、石の狛犬の前脚が切れて出現が止んだと云う。 以来社前に還座して専ら魔除の霊験が聞こえたと伝えられる。
他所と違い、胴と脚がどっしりして、日本化された狛犬の最大傑作と云われる。
現地案内板より
・鳥居
・手水舎
・社頭・鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・眞名井神社
《主》豊受大神《配》罔象女命,彦火火出見命,伊射奈岐命,伊射奈美命
・奥宮磐座
・磐座主座《主》豊受大神(とようけおほかみ)《相殿》罔象女命(みづはのめのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)神代五代神(かみよいつつよのかみ)
・磐座西座《主》天照大神(あまてらすおほかみ)伊射奈岐大神(いざなぎのおほかみ)伊射奈美大神(いざなみのおほかみ)
〈詳しくは 眞名井神社〈籠神社奥宮〉を参照〉
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
・麓神社
《主》顕宗天皇・仁賢天皇《相殿》仁徳天皇
〈麓神社は ご祭神 億計・弘計の二王子(後の顕宗天皇・仁賢天皇)が都から逃れ宮を営まれた所と伝えられます〉
12月第1日曜日には飯遣福(いいやりふく)祭が執り行われます〈二王子が旅立つ際にお赤飯を献じた故事に因む祭 祭典後 お供えした藁苞のお赤飯を参列者で分け合っていただきます〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
丹後國 籠神として 神位の奉授が記されます
【抜粋意訳】
卷十九 嘉祥二年(八四九)二月庚戌〈廿五〉
〇庚戌
大宰府言。對馬嶋司解稱。此嶋居海中。地近新羅。若有機空者。何以備不虞。望請。停史生一員。置弩師一員。依請許之。』陰陽寮言。今年疫癘可滋。又四五月應有洪水者。勅。頃來染疫之人。往々夭亡。夫護防之恃。實頼冥威。存濟之方。亦期梵力。宜令五畿内七道諸國。奉幣名神。兼復於國分二寺及定額寺。一七ケ日。晝轉經王。夜禮觀音。如法修行。必呈靈感。』
此日 奉授に 丹後國 籠神に 從五位下を
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
丹後國 籠神として 神位の奉授が記されます
【抜粋意訳】
卷九 貞觀六年(八六四)十二月廿一日甲戌
○廿一日甲戌
授丹後國 從五位上 籠神 正五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷二十 貞觀十三年(八七一)六月八日癸未
○八日癸未
授に丹後國 正五位下 籠神に 從四位下を
復 美濃國 土岐惠奈兩郡百姓調庸一年
【原文参照】
【抜粋意訳】
卷卅二 元慶元年(八七七)十二月十四日庚辰
○十四日庚辰
授に
丹後國 從四位下 籠神に 從四以上
因幡國 正五位下 賀露神 從四位下
丹後國 正六位上 村岡神 從五位下
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
巻2 四時祭下 新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・大川神社一座 籠神社一座 大虫神社一座 小虫神社一座 大宮売神社二座〈已上丹後国〉
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 籠神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](このかみのやしろ)
[Old Shrine name](Ko no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
丹波國の元伊勢『吉佐宮』(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 皇大神宮(内宮)の丹波國『吉佐宮』(伝承地)について
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 吉佐宮 | 真名井神社〈籠神社摂社〉(宮津市字中野) | |
但波国 | (4年) | 皇大神社(福知山市大江町内宮) | |
笶原神社(舞鶴市紺屋) | |||
竹野神社(京丹後市丹後町宮) |
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
・元伊勢内宮皇大神社(福知山市大江町内宮)
・笶原神社(舞鶴市紺屋)
・竹野神社(京丹後市丹後町宮)
・皇大神宮(内宮)
皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です
皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉
豊受大神宮(伝承地)について
元伊勢(もといせ)とは 伊勢神宮〈皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮)〉が 現在地へ御遷座される以前に 遷座の伝承を持つ神社・場所を云います
その内の 豊受大神宮(伝承地)について 遷幸順に
国名 | 伝承地(地名) | 伝承地の論社 | |
『止由気宮儀式帳』 | 『倭姫命世記』 | 現在の論社 | |
丹波国 | 比治真奈井 | 与佐之小見比治之魚井原 | 比沼麻奈為神社 (京丹後市峰山町久次字宮ノ谷) |
(与謝郡比冶山頂麻奈井原) | 奈具神社 (京丹後市弥栄町船木) |
||
真名井神社〈籠神社摂社〉 (宮津市字中野) |
|||
豊受大神社 (福知山市大江町天田内) |
|||
藤社神社 (京丹後市峰山町鱒留) |
|||
摂津国 | 大神木神社〈假宮・姫宮〉(吹田市山田市場) (旧:摂津国三島郷大神木) |
||
伊勢国 | 度会宮 | 山田原宮 | 豊受大神宮 (伊勢市豊川町) |
・比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次)
比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)は 式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社 社傳には 第21代雄略天皇の夢の御告げ「丹波国比沼の真名井原に坐す吾が御饌の神 豊受大神をば 吾許に呼寄せたい」があり 大佐々命を丹波国に遣わし 現在の伊勢(外宮)に御遷座あらせらた跡宮であると伝えます
〈元伊勢〉比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町久次字宮ノ谷)
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
奈具神社(なぐじんじゃ)は 嘉吉三年(1443)旧鎮座地 奈具村が大洪水により流失〈遺跡地は未詳〉した時 船木奈具神社は溝谷神社の相殿に遷座しました 天保三年(1832)船木村が霊石の返還を求め 返還命令が出され 明治六年(1873)延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)として再建されたものです
奈具神社(京丹後市弥栄町船木小字奈具)〈播磨國風土記所載社・延喜式内社〉
・眞名井神社〈籠神社奥宮〉
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
・豊受大神社(福知山市大江町天田内)
豊受大神社(とゆけだいじんじゃ)は 第21代雄略天皇の御代に丹波国から伊勢神宮外宮に遷宮された゛豊受大神゛を祀ると伝わる 元伊勢伝承地の1つで 通称名を゛元伊勢外宮゛と呼びます 又 その境内を比沼の真名井ケ原と称したことから 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社でもあります
〈元伊勢外宮〉豊受大神社(福知山市大江町天田内船岡山)
・藤社神社(京丹後市峰山町鱒留)
藤社神社(ふじこそじんじゃ)は 崇神天皇の御代 比治山に降臨された豊受大神を祀ったのが始まりとされ 古老の伝には 丹波道主命の創始とも伝えられます 雄略天皇二十二年に伊勢に奉遷された゛伊勢外宮の元宮゛とされる 延喜式内社 丹後國 丹波郡 比沼麻奈為神社(ひぬまなゐの かみのやしろ)の論社です
〈元伊勢〉藤社神社(ふじこそじんじゃ)(京丹後市峰山町鱒留)
・豊受⼤神宮(外宮)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉
詳しくは
元伊勢(もといせ)伝承地をたずねて
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 天橋立駅から徒歩で 天橋立経由で北上して約3.4km 約50分程度
早朝 文殊港への運河沿いの温泉旅館から宮津湾に昇る朝陽を見る
運河に浮かぶボートでは 漁師がシジミ採りの最中でした
天橋立は文殊堂の境内地になっていますので 先ずは 智恩寺 文殊堂で お参りをして 天橋立を歩いて 籠神社に向かうことにしました 智恩寺の境内にある゛霊木 文樹゛
天橋立(あまのはしだて)に参着
天橋立は砂洲に松並木が見事です まるで籠神社の参道の様に その松並木の中を小路が続きます
松並木の両側は それぞれ白砂浜があり 穏やかな湾海〈阿蘇の海〉が広がっています
松並木の路には 与謝野寛・晶子の歌碑があったり
不思議なことに 海岸であるのに 真水が沸いている井戸゛磯清水゛があります
元伊勢を移したものとの説もある
゛天橋立神社゛にお参りをします
天橋立神社(橋立大明神ともいう)
橋立大明神本社 正面は豊受大神、向かって左は大川大明神、右は八大龍王(海神)である。
かつては、皇大神を祀り、いわゆる元伊勢を移したものとの説もあるが、これは附説であり、やはり文殊信仰が流行した平安末期から鎌倉時代にかけて、文殊堂境内鎮守として祀られたものと考えたい。
(天橋立は文殊堂の境内地です)現地案内板より
阿蘇の海では ここでとれた「金樽イワシ」が有名です
金樽いわしの話
この天橋立の内海でかつて大量に獲れた「金樽いわし」は、別名「金太郎いわし」とも呼ばれ、その歴史も非常に古く、一千年以上も昔から丹後の名産として名高いという。したがってこの鰯にちなむ伝承も多く、古くは平安時代の中項、丹後の国司藤原保昌が金の樽に酒を入れ、内海で酒盛をしていたところ樽が海に落ち、それを漁師が網ですくおうとしたが樽は見つからず、かわりに金色に輝く鰯が大量に獲れたという。同様の伝承で、酒盛りをしていたのは、時に源平会戦のころの平忠房であるとか、江戸時代後期の宮津藩主の本庄氏であるとも伝えられている。
とにかくこの金樽いわしは美味であったといい、評論家として名高い小林秀雄氏も宮津来遊の折り、宿の朝食た出された金樽いわしのオイルサーディンのおいしさに、「ひょっとすると、これは世界一のサーディンではあるまいか」(『考えるヒント』)と、感動したというエピソードもある。
名月や 飛あがる魚も 金太郎 蝶夢
宮津市教育委員会
現地案内板より
文殊堂から天橋立を渡り切ると江尻となり 天橋立の号標が建ちます
内海の阿蘇海川沿いに籠神社へと進むと 今歩いてきた天橋立の松原を振り返ることが出来ます
室町時代に雪舟が描いたとされる゛国宝 天橋立図〈京都国立博物館蔵〉゛には 天橋立の右に籠神社・左に゛智恩寺 文殊堂゛が描かれていて その位置関係が良くわかります
観光船のりば「天橋立 一の宮駅」の正面が籠神社の社頭です
籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)に参着
手水舎で清めます
二の鳥居をくぐると゛狛犬゛が座します
そして 一礼をして神門をくぐると拝殿となります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿のすぐ横に神札授与所
境内社にお参りをします
境内から〈籠神社の奥宮〉眞名井神社へと向かいます
・眞名井神社
眞名井神社(まないじんじゃ)は 式内社 丹後國 與謝郡 籠神社(このかみのやしろ)(名神大月次新嘗)の発祥地゛奥宮゛で゛眞名井原゛と呼ばれる境内には 御神水゛天の眞名井の水゛が滾々と湧き出て 神代と呼ばれる時代から の姿を残す゛磐座(いわくら)〈古代祭祀場〉゛が 社殿の奥に祀られ坐します
〈元伊勢〉眞名井神社〈籠神社 奥宮〉(宮津市字大垣小字諸岡)
籠神社の参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛板列府中村に在す゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
【抜粋意訳】
籠神社 名神大月次新嘗
籠は古毛利と訓べし
〇祭神 住吉一躰〔一宮記〕
〇板列府中村に在す、〔舊事記〕一名籠守権現、〔一宮記、頭注〕
〇式三、〔臨時祭〕名神祭 二百八十五座、〔中略〕丹後国 籠神社一座
〇當國一宮也〔一宮記〕
〇永万記云、籠宮主基、神位
續日本後紀、
嘉祥二年二月庚戌、奉レ授ニ 丹後國籠神從五位下
三代實錄、
貞観六年十二月廿ー日甲戌、授ニ 丹後國從五位上籠神正五位下
同十三年六月八日癸未、授ニ 丹後國正五位下籠神從四位下、
元慶元年十二月十四日庚辰、授ニ 丹後國從四位下籠神從四位上、雑事
朝野群載云、永曆四年六月十日、奏龜卜御盤御卜、〔中略〕坐ニ丹波國籠神云云、社司等依過ニ穢神事祟給、遣レ使科ニ中祓、可レ令ニ祓清奉仕事、〔下略〕宮主正六位上行少祐卜部宿禰兼宗 ,中臣從六位下有大祐大中臣朝臣惟維、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛今 府中庄大垣村にあり、籠守大明神と云ふ゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
又 海部氏が代々 神主を勤めるとも記しています
【抜粋意訳】
籠(コモリノ)神社
今 府中庄大垣村にあり、籠守大明神と云ふ、
即 丹後の一宮也、仁明天皇 嘉祥二年二月庚戌、從五位下を授奉り、〔續日本後紀、〕
清和天皇 貞観六年十二月甲戌、從五位上籠神に正五位下を加へ ,十三年六月癸未、從四位下を賜ひ、陽成天皇元慶元年十二月庚辰、從四位上に叙され〔三代實錄〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、月次新嘗の幣帛に預り、〔延喜式〕
白河天皇 承曆四年六月 御卜に籠神の祭事を穢せる祟あるを以て、社司に中祓を科せしむ、〔朝野群載〕
〔〇按 本書丹波四神とする者誤れり、故に之を訂す、下の物部神も又同じ〕
伏見天皇 正應元年に至て、本社神田凡四十六町、朔幣田十一町ありき、凡 每年四月中酉日祭を行ふ、之を葵祭と云ふ〔〇按 後拾遺和歌集に、俊網丹後守に侍ける頃、彼国臨時祭の使にて藤の花を頭挿て侍けるを見て詠る、・・・〕
世々 海部直氏を以て神主とす、・・・・・
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 籠神社 名神大月次新嘗について 所在は゛大垣村゛〈現 籠神社〈元伊勢〉(宮津市字大垣)〉と記しています
【抜粋意訳】
籠(コモリノ)神社 名神大月次新嘗
祭神 天之水分神(アメノミクマリノカミ)
今按 式内神社道志流倍に籠字和名抄 籠和名古とあり守を そへたるは後 世のことなりコモリコモルの義に非ず 社の左東の川をコカハともコノ川とも云 卽籠ノ川なり 祭神 度會延經考證また神名記などに天水分神とあり 古事記博にも天水分神なりと云と云ひ 平田篤胤も師説にもたれて云るは誤れり扨 水分神とは祝詞にも見えたる如く山々の口より下し玉ふ水とあるに此社 前は直に海なり後は成相山なり 府中七村は田面少く 皆旱ヶ所のみなり 水分神の有べき所に非ず 故考るに此神社は風土記に見えたる天立橋の縁起に依て 其神霊を鎮祭りたるなるべし
風土記云 謝興郡郡家ノ東北隅方ニ有ニ連石里此里之海有ニ 長大石前長二千二百二十九丈 廣或所ニ十丈以上二十丈以下 先キニ名ニ天梯立 後ニ名ニ久志濱 然云者(シカユフハ)國生(クニウミノ)大神 伊射奈藝(イザナギノ)命天ニ爲ニ通行 而作ヲ立タマフ故云ニ天梯立 神御寝坐ル間ニ仆伏シキ云々古事記傳に云 此に囚ば此浮橋もと此神の作り坐しなりさて天に通の橋なれば梯階にて立て有しを神の御寝坐る間に仆れ横はりて 丹後ノ國の海に遣れるなり云々とあり 故に籠神社は其神霊を祭りしならんとは思ふなり此神社梯立の其所にありて 前は直に與謝海なり限なき風景なれども 昔の森は悉田畑と成りていと冷(スサ)まじけなり 橋立も大に景色を損じ 近年中より断て二つの如くなりぬ 後世いかにならんずらん計りがたし云々と云るは天之水分神と云ふ説に比すればまされるに似たり 故今附て後考に備ふ
神位
仁明天皇 嘉祥二年二月庚戍奉レ授ニ丹後國籠神從五位下
清和天皇 貞観六年十二月二十一日甲戌授ニ丹後ノ國從五位下籠ノ神從五位上 籠神正五位下 十三年六月八日祭未授ニ丹後國正五位下籠神從四位下
陽成天皇元慶元年十二月十四日庚辰授ニ丹後國從四位下籠神從四位上祭日 四月二午日
社格 國幣中社所在 大垣村 (與謝郡府中村大字大垣 )
【原文参照】
丹後國一之宮〈元伊勢〉籠神社(宮津市字大垣)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る
丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います
丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について
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日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について