駒形神社 里宮(こまがたじんじゃ さとみや)は 江戸時代(1603年 ~1700年頃)に仙台藩側から駒ヶ岳山頂の奥宮に向かう参拝路口にあたる「金ヶ崎の里宮」になります 明治4年(1871)に 山頂の「奥宮」が 国幣小社に列する際に 奥宮・里宮とも参拝時の交通が不便であるので 当時の水沢県県庁に近い水沢の鹽竈神社の本殿が仮遥拝所とされました それが現在の駒形神社「本社」となります この「奥宮」と「本社」の中間なので「中宮」とも呼ばれています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
駒形神社 中宮(komagata shrine chugu)
(こまがたじんじゃ ちゅうぐう)
[通称名(Common name)]
駒形神社 里宮 さとみや
【鎮座地 (location) 】
岩手県胆沢郡金ヶ崎町西根雛子沢13
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天常立尊(ameno tokotachi no mikoto)
大日霊貴尊(ohirume muchi no mikoto)
国狭槌尊(kunino sazuchi no mikoto)
吾勝天忍穂耳尊(masakatsu ameno oshihomimi no mikoto)
置瀬尊(okise no mikoto)
彦火火出見尊(hiko hohodemi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 陸中国一之宮
【創 建 (Beginning of history)】
陸中一宮 駒形神社中宮(俗称 里宮)
御祭神 天常立尊
大日霊尊 別名(またのな)天照皇大神
国狹槌尊 別名(またのな)国狭土尊
吾勝々速天忍穗耳尊
彦火火出見尊 別名(またのな)火遠理命
日子穂々出見命・山幸彦
置瀬尊 別名(またのな)天杵火火置瀬命
祭典日 祈念祭 旧1月1日
鎮大祭 旧3月15日
例大祭 旧9月19日由緒
駒形神社は社記によると 第12代景行天皇40年 皇子日本武尊東夷鎮帝の砌、国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の祖神として六神を奥羽山脈の最高峰駒形山に勧請し給う、とあります。従って、その創祀は大古に属するも、奈良朝、東夷平定の業漸く進んで この地に胆沢城が築城、鎮守府が置かれし頃より 神威中央に及び、国史には延暦21年正月 征夷大将軍 坂上田村麻呂 朝廷に奏上し、陸奥国三紳に神階を加う、とあり第55代 文徳天皇 仁寿元年 正五位下に叙せられ、第56代 清和天皇 貞観4年従四位下に勧められ、奥羽最高の神階を受け給う。
第60代 醍醐天皇の御代に制定せられた延喜式神名帳にも搭載され神階をより一段と高めました。
里宮
神霊の鎮り給う駒形山は天下の霊山で、諸人歩みを運ぶといえども山勢はなはだ峻険にして 登拝困難なり、更に中腹のウガイ清水より女人禁戒の霊山なれば 老少婦人が参詣心にまかせず、里人これを憂い、山麓に社を建て御神霊を勧請し奉斎したのが当神社であります。封内風土記、奥宮の次に
其二.号 里御堂、山上禁婦人之登拝 故 建堂於山麓、使婦人拝之、とあります。明治の御代に至り 国幣社となり、当社は境外末社に定められ祭儀を厳修、戦後は無格社として氏子、崇敬者の赤誠により尊仰されて居ります。
案内石板より
【由 緒 (history)】
駒形神社は
第十二代景行天皇40年、日本武尊東夷征討の折、当地駒ヶ嶽山頂に国土安寧と民心安定を祈念し、奥州鎮護の神として勧請し給うとあり、
創祀は太古に属するも東夷平定の業漸く進んで、この地方に鎮守府が置かれし頃より神威中央に及び、文徳天皇仁寿元年(851)9月には正五位下を加えられ、清和天皇の貞観4年(862)6月従四位下に昇り、延喜式にも列せられた東北地方における第一の名社である。当社里宮については、
奥羽観蹟聞考誌によれば、奥宮の鎮座地は、高山険阻にて初冬より雪積もりて、翌年春まで参道を埋め、殊に女人禁制の霊山なれば老少婦人の参詣心にまかせず、里人これを憂いて山麓に一社を建て拝するため奉斉とある。封内風土記、奥宮の次に「其ノ二、里ノ御堂ト号ス。山上婦人ノ登拝ヲ禁ズ。故ニ堂ヲ山麓ニ建テ、婦人之ヲ拝使ム。」終戦前は国幣小社駒形神社境外末社の指定を受く。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]
【境内社 (Other deities within the precincts)】
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)胆沢郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 駒形神社
[ふ り が な ](こまかたの かみのやしろ)
[How to read ](komakatano kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
駒形神社(komagata shrine)は「奥宮」「2つの里宮」「本社」の構成について
駒形神社(komagata shrine)は もともとは金ケ崎町の駒ヶ岳山頂に駒形大神を奉祭したのが始まりですが「奥宮」「里宮」ともに交通不便の地にあったため 水沢の街中に鎮座していた塩釜神社の鎮定地(現在地)を遥拝所としたものです
詳細の経緯は
「奥宮」について
元々は駒ヶ岳の南方の大日岳山頂に奥宮がありました
近世になって駒ヶ岳山頂に遷座します
里宮の社伝では
「第12代景行天皇40年 皇子日本武尊東夷鎮帝の砌、国土安寧と民心安定を祈念し 奥州鎮護の祖神として六神を奥羽山脈の最高峰駒形山に勧請し給う」とあります
江戸時代には 仙台藩と盛岡藩の藩境界に駒ヶ岳がありましたので 20年ごとに両藩が交代で社殿を改築したと伝わります
「2つの里宮」について
駒ヶ岳は 山頂の奥宮は参拝の便が困難で 中腹のウガイ清水より女人禁戒の霊山でありましたので 仙台藩・盛岡藩は それぞれが駒ヶ岳の麓に山頂の神霊を勧請して里宮を造営しました
・仙台藩側の「金ヶ崎の里宮」
・盛岡藩側の「岩崎の里宮」
2つの里宮が鎮座します
「本社」について
明治期になり国家神道の元「国幣小社」となりますが 当時の水沢県県庁に近い鹽竈神社の本殿が仮遥拝所とされました(その時 鹽竈神社は境内社の春日神社に遷座します)
明治7年(1874)駒形神社の正式な遥拝所となり
明治36年(1903)山頂の神霊が遥拝所に勧請されて 駒形神社本社となります
もとの鹽竈神社は 社殿等一切が駒形神社に編入されて 境内別宮の春日神社に合祀されて「春日神社」から「鹽竈神社」社名改称されて今日に至ります
駒形神社 本社 の記事をご覧ください
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駒形神社 本社(陸中一宮)
駒形神社 本社(こまがたじんじゃ ほんしゃ)は 「陸中国一之宮」とされていて 駒ヶ岳山頂に「奥宮」が鎮座します 古代には 付近一帯が軍馬の産地であったと考えられていて 御祭神「駒形神」は「馬の守護神」ともされています 馬頭観音や大日如来と神仏習合して 東日本の各地に勧請されて 広く信仰されていきます
神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR水沢駅から R397号 県道196号経由 約13.5km 車25分程度
胆沢川の支流
黒沢川を渡る手前の田の中に社号標「陸中一宮 駒形神社 中宮参道」が建ちます
そのまま道を進んで
黒沢川を渡ると大きな赤鳥居が建ちます 扁額には「駒形神社 中宮」とあります
道の右手に 再び社号標と赤鳥居があり
駒形神社 中宮(komagata shrine chugu)に到着
コンクリートの階段にある赤鳥居を一礼してくぐります
階段を上がると 目の前に社殿があり 境内には大きな木々はなく 日差しを浴びて明るい
社殿の左手手前には 案内の石板があり 読み耽ります
拝殿にすすみます 扁額には「駒形神社」とあり 両サイドに白馬の絵馬が奉納されています
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって左には「一願観音」の小さなお堂があります
その後ろに「古峯山」「金華山」「青麻岩戸三光宮」「金比羅大権現」等の石碑が建ちます
お詣りをします
本殿を仰ぎます
境内を後に振り返ると 境内の入り口には巨木のスギが2本立ち その根元に 狛犬が構えていました
再度 境内の左右から 社殿を振り返ります
階段を下り 鳥居をくぐり振り返り一礼
大きな赤い鳥居を抜けて戻ります
神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』に記される伝承
『日本文徳天皇実録』(元慶3年(879年)完成)は 六国史の第五にあたり
平安時代に編纂された歴史書【文徳天皇の御代】[嘉祥3年(850)~天安2年(858)]の8年間を記録した文徳実録ともいい 編年体・漢文・全10巻
意訳
「 仁寿元年(851)9月2日 陸奥国の「駒形神」正五位下に神階を進む」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』に記される伝承
平安時代に編纂された歴史書 六国史の第六
意訳
「貞観4年(862)6月18日 陸奥国 正五位下「駒形神」従四位下を授かる」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=
仙台藩側から駒ヶ岳山頂の奥宮に向かう参拝路にある「金ヶ崎の里宮」に当たります
駒形神社 中宮(komagata shrine chugu)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
駒形神社 本社 の記事をご覧ください
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駒形神社 本社(陸中一宮)
駒形神社 本社(こまがたじんじゃ ほんしゃ)は 「陸中国一之宮」とされていて 駒ヶ岳山頂に「奥宮」が鎮座します 古代には 付近一帯が軍馬の産地であったと考えられていて 御祭神「駒形神」は「馬の守護神」ともされています 馬頭観音や大日如来と神仏習合して 東日本の各地に勧請されて 広く信仰されていきます
「全国 一之宮(Ichi no miya)」について に戻る
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」は 律令時代に発生した制度・社格で 律令時代の国司の参拝に伴う制度・社格として生じました 全国各地に現在でも「一宮」の地名が沢山あり 呼び方については「いちのみや」は同じでも 標記の仕方は「一宮」・「一之宮」・「一の宮」「一ノ宮」など様々です
日本全国に鎮座します「一の宮(いちのみや)」について
陸奥国 式内社 100座(大15座・小85座)について に戻る
陸奥国(むつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 陸奥国には 100座(大15座・小85座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
陸奥國 式内社 100座(大15座・小85座)について