実践和學 Cultural Japan heritage

Shrine-heritager

木積神社(京丹後市大宮町久住)〈『延喜式』木積神社〉

木積神社(きづみじんじゃ)は 伝記には 丹後国與謝郡「三重郷」五十日眞黑人(いかがまくろうど)の宅に潜在した伝承を持つ 二皇子〔弘計尊(をけのみこと)〈第23代 顕宗天皇〉・億計尊(おけのみこと)〈第24代 仁賢天皇〕を祭神とする 延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こつみの かみのやしろ)の論社です

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

木積神社(Kizumi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府京丹後市大宮町久住165

  (Google Map)

 

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》大山祇命(おほやのずみのみこと)
   弘計尊(をけのみこと)〈第23代 顕宗天皇
   億計尊(おけのみこと)〈第24代 仁賢天皇

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『丹後史料叢書』第1輯,昭和2に記される内容

【抜粋参照】

丹後舊事記 卷之九 木積神社 皇住村

祭神 弘計尊 億計尊 延喜式竝小社

 傳記に 任國の所に出す五十日眞黑人(いかがまくろうど)記可見  木積嶽大伽監跡有中 昔坊官支配也 乎丈一丈六尺立像藥師如來 麓周

【原文参照】

『丹後史料叢書』第1輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175321

【由  (History)】

『中郡一斑 峰山案内』大正1年に記される内容

【抜粋参照】

第二編 神社 木積神社

○木積神社

同村(三重村)字久住(あざくずみ)に在り、村社(そんしゃ)、延喜式內にして神名帳には與謝郡(よさぐん)に入れり、祭神 大山祇命(おほやのずみのみこと)、億計命(おけのみこと)、弘計命(くけのみこと)、俗に高森大明神(たかもりだいめうじん)と稱す、往古は本村 西南隅に聳ゆる木積嶽(こずみだけ)に鎭座せしが後世(或は弘化四年八月と云ふ)現地へ遷したりと云ふ。

【原文参照】

高柴象外 編『中郡一斑峰山案内』,中郡一斑峰山案内編纂会,大正1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/947767

『万葉古代学研究年報』(19)に記される内容

【抜粋参照】

「記紀万葉をアニメ・マンガで描こうとしてみた : 明日香南無天踊りにおける場所・伝承・心意」より抜粋

P61より抜粋

『大宮町誌』は木積神社について、「当社は「延喜式神名帳」には、三重神社とともに与謝郡内にある。「丹哥府志」に「木積神社 (延喜式には与謝郡の部に出す)木積神社今新熊野宮と称し億計・弘計の二皇孫を祀る。俗に高森大明神、三島大明神といふ。億計弘計の二皇孫 爰に住居せられしより村を皇住村といふ。」とある。二皇孫は履中天皇 (四〇六四ーー)の皇孫億計•弘計の二王で、三重の長者五十日真黒人の家に隠れていたといわれる。」いう。また、京都府京丹後市大宮町久住に残る木積神社旧蹟についても、こう書いている。

 木積神社はもと刈安奥宮にあったが、文安五年(一四四八)八月地震と大洪水があり大被害をうけたので刈安の宮古久住口に移した。その時の洪水により衣冠姿の御神体二体億計弘計二王子を祀るの中一体が押し流され延利の小字一本木に漂流したのでこの地に宮を建て祀っていたが、安政年間皇守延利の権現山に移し高森皇守大明神と称し、御神体はそのまま引継がれて今日に至っている。また、久住刈安の木積神社は残りの御神体一体を祀っていたが、その後弘化四年 (一八四七)さらに、現在の「中の谷」口に奉遷した。明治六年社寺改めの際時の官吏が御神体を持ち帰って白幣に改めたとあるから二王子の御神体の内一体は持ち去られた。

すなわち、高森神社に安置されている神像は、木積神社の祭神である皇子の一体であると伝えられているのである。どちらの御神体が持ち去られたのかは語られていないが、丹波に深くかかわるのはオケノミコ、つまり後の仁賢天皇だろう。第4節でも引用しているが、山尾は「二王が辺地を流浪したかのように見える紀や風土記の記述は、兄を「島稚子」、弟を「来目稚子」とするその名と不可分の、神仙説による物語の変化形と思われる。」と述べて、「顕宗の一名「来目稚子」が久米仙人の原形の名とすれば、仁賢の一名「島稚子」は浦島太郎の原形の名であろう。」という。じっさい、来目稚子が久米の若子につながっていたとしたら、島稚子は浦島太郎につながっていると思われる。山尾はこう続けている。
・・・・〈以下略〉

【原文参照】

橋本裕之「記紀万葉をアニメ・マンガで描こうとしてみた : 明日香南無天踊りにおける場所・伝承・心意」『万葉古代学研究年報』(19),奈良県立万葉文化館. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12905083

『与謝郡誌』下,大正12年に記される御祭神「二王子御潜在趾」について

【抜粋意訳】

『与謝郡誌』二王子御潜在趾

 安康天皇の朝丙申 天皇崩し給ふや其の十二月、履仲天皇の皇子、市辺押磐尊雄略天皇の爲めに「蚊屋野」に害せられ給ふや其の臣、日下部使臣、億計、弘計二皇孫を奉じて與謝郡に難を避け給ひ、更に播州赤石郡縮見の屯倉に遁れ給ひしとて、與謝村字與謝小字峠の上王子宮は億計尊、小字北の下王子宮は弘計尊御潜在の地なりといふ。
尤も之れには異説多く『丹後舊事記』『丹後細見録』『丹哥府志』『日本書記』通釈等の諸書には、三重谷に在りし三重長者、五十日真黒人の家に御潜匿の趣を載せ、丹波直見谷の天神社の記録には、與謝郡温江村大虫神社の社家なりとし、『丹後考』には須津村の宮ヶ谷真鈴の宮なりとし、養老村字岩ヶ鼻『日吉神社々記』には、外垣の木積神社なりとし、『府中村郷土誌』及び麓神社の明細帳には同村字難波野の麓神社は其の遺趾にて祭神又二王子を祀るとなし、其他本庄村の浦島にも栗田村の久理陀神社にも傳説あり、
尚ほ加佐都大内郷にも皇子御潜在の爲めに大内の名起れりと爲す、之等の真偽は容易に断ずべからざれども 今は傳説の存することのみを掲ぐるに止めんとす。

【原文参照】

京都府与謝郡 編『与謝郡誌』下,京都府与謝郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978723

京都府与謝郡 編『与謝郡誌』下,京都府与謝郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978723

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

木積神社 本殿

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木積神社 本殿覆い屋

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・本殿の前 狛犬

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・参道石段・鳥居

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・参道

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・参道入口

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・〈旧鎮座地〉旧 延喜式内 木積神社跡(木積山の山麓)

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由緒

祭神 大山祇神

当神社は 往古より木積山麓の当地に鎮座しありしも 明治の年中頃  久住京ヶ坂百六拾参番地の所に奉斎したものである

 昭和六十一年十一月 施工 共和石材有限会社

現地石碑文より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 木積神社
[ふ り が な ]こづみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kozumi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こつみの かみのやしろ)の論社

・木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)

一緒に読む
木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)〈『延喜式』阿知江神社・木積神社〉

木積神社(きづみじんじゃ)は 江戸時代には山王大神 又 大和國三輪より勧請した三輪大神とも云われていました 罹災等により建築物 社記 古文書等を消失しましたが 2つの式内社〈①丹後國 與謝郡 阿知江神社(あちえの かみのやしろ)②丹後國 與謝郡 木積神社(こづみの かみのやしろ)〉の論社となっています

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・木積神社(丹後市大宮町久住)

一緒に読む
木積神社(京丹後市大宮町久住)〈『延喜式』木積神社〉

木積神社(きづみじんじゃ)は 伝記には 丹後国與謝郡「三重郷」五十日眞黑人(いかがまくろうど)の宅に潜在した伝承を持つ 二皇子〔弘計尊(をけのみこと)〈第23代 顕宗天皇〉・億計尊(おけのみこと)〈第24代 仁賢天皇〉〕を祭神とする 延喜式内社 丹後國 與謝郡 木積神社(こつみの かみのやしろ)の論社です

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・山王宮日吉神社(宮津市宮町)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道宮豊線 京丹後大宮駅から府道655号・53号経由で北東方向へ約9.2km 車での所要時間は13~16分程度

大宮町久住地区の県道53号の新道を走りましたが見当たらず

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県道53号の旧道沿い久住城跡の北に300m程の所に参道の入口がありました 入口には社号標「延喜式内 木積神社 旧与謝野郡久住」と刻字があります
参道は南西向きです

木積神社(京丹後市大宮町久住)に参着

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細長く山へと上がって行く参道は整備されています

永い参道の中間辺りにから 参道は石段となっている所に湧水が流れ込んでいる手水鉢があり ここで清めてから 石段を上がると すぐに石燈籠と石鳥居が建てられています
一礼をしてから 鳥居をくぐり抜けて さらに石段を上って行きます

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石段を上がり切ると 狛犬が座し 本殿の覆い屋があります

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覆い屋の扉を開けると本殿が座します

殿にすすみます

本殿の扁額には
向って右に「髙森明神」
中 央 に「木積神社
向って左に「七夕明神」と記されています

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 境内を戻ります

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石段を下ります

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鳥居を抜けて 参道入口に向います

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 木積神社について 祭神は良くわかっていない 所在は゛皇住村に在す゛〈現 木積神社(丹後市大宮町久住)〉と記されています

【抜粋意訳】

木積神社

木積は 古都美と訓べし

〇祭神詳ならず

〇皇住村に在す〔舊事記〕

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 木積神社について 祭神・所在は記されず 社号のみが記されています

【抜粋意訳】

木積(キツミノ)神社

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 木積神社について 所在は゛(中郡五箇村大字久住)゛〈現 木積神社(丹後市大宮町久住)〉と記されています

さらに
弓木村゛〈現 木積神社(与謝野町字弓木小字石田宮ヶ谷)〉
府中男山村
岩ケ鼻村゛〈現 山王宮日吉神社(宮津市宮町)〉
石田村 山王社と云は誤なるべし
と諸説あり一定しないと 記しています

【抜粋意訳】

木積(コヅミノ)神社

祭神 五十猛

祭日 九月十
社格 村社

所在 (中郡五箇村大字久住)

 今按 豐岡縣取調記に弓木村とし 神社覈録 府中男山村とみえ
 道志流倍に岩ケ鼻村とし 石田村 山王社と云は誤なるべしと云ひて 諸説一定せず

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

木積神社(京丹後市大宮町久住) (hai)」(90度のお辞儀)

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丹後国 式内社 65座(大7座・小58座)について に戻る

一緒に読む
丹後國 式内社 65座(大7座・小58座)について

丹後国(たんごのくに)の式内社とは 平安時代中期 「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧『延喜式神名帳』〈927年朝廷編纂『延喜式』(律令の施行細則 全50巻)の巻9・10を云う〉に所載される 丹後国65座(大7座・小58座)の神を云います

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  • B!

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