河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
河原淵神社(Kawarabuchi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市船江一丁目10-140
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》澤姫命(さはひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
〈水神〉
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮摂末社巡拝 下』に記される内容
【抜粋意訳】
河原淵神社神(かはらぶちのじんじゃ)
この船江上社と同じ社叢の東に坐ますのは、豊受大神宮の攝社 河原淵神社(かはらぶちのじんじゃ)である。
その御社名は延曆儀式帳に川原淵社とあり、官幣の供進されることが見えてゐるから、一千年以上の古社であることが分る。
延喜の伊勢大神宮式には河原淵社、同齋宮式には川原淵社 ,同神名帳には川原淵神社と見えてゐる。
宮川の下流に近い河原の淵になってゐる所に祭られてゐた神社であることが、この御社名から想像することが出來る。鎌倉時代に出來た神名秘書といふ書物には、祭神を澤姫神(さはひめのかみ)とし、その社地を箕曲郷(みのわのさと)勾村(まがりむら)河原社の南、字塩坪の向に坐ますと見えてゐる。吉野時代以降、戰乱の世となり、社地湮滅するに至った。江戸時代に至り、これを檜尻(ひのきじり)の地に再興したが、この地洪水の患あるを以て明治十一年、更にこれを、船江上社の境内に移したものである。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『大神宮叢書』に記される内容
【抜粋意訳】
外宮宮社 所攝神社 川原淵神社
此社は帳また式に川原淵社と出たり。上に川原社・高河原社とあれば、此社名に淵字をそへ云わけたるか。(淵字を用ふるは内宮の末社に熊淵神社あり。又淵字も用ある文字にや)もし淵字に義あらば水神などを祭らるるにもあらんか、定めがたし。(神名祕書に澤姫命を祭れりといふはいかヾなり。もし澤字の上に嗚字脱ちて鳴澤女神の誤なるべけれど、此地に祭れるはいぶかし。)
社地は、箕曲郷勾川原社向、字鹽坪向也、といへり。勾村の事は、上(川原神社、)にいへり。鹽坪とは汲鹽を設る場をいへば、其向ひに此神社の在しならん。(今も下野村には燒鹽を作れり。是を下野鹽といへり。)然るを寬文三年に社地詳かならずとて、今の槍尻川の東に建たり。(神境紀談、また外宮の書に、此社の事を論らひて、鹽坪とは槍尻川の落口なるべし、などいへるはひがごとなり。)今も此 槍尻の東川端の松原にあり。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
河原淵神社は 船江上社の境内に鎮座します
・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
船江上社(伊勢市船江)
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
河原淵神社は 豊受大神宮(外宮)の摂社てす
・豊受大神宮(外宮)
豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています
豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭に並預゛と記されます
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
河原淵神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 2つの式内社〈Ⓐ川原大社Ⓑ川原淵神社〉の論社となっています
Ⓐ川原大社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川原大社
[ふ り が な ](かはらの おほやしろ)
[Old Shrine name](Kahara no ohoyashiro)
Ⓑ川原淵神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 川原淵神社
[ふ り が な ](かはらふちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kaharafuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
Ⓐ延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社について
『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容
河原大社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉の旧鎮座地について
箕曲郷勾村に在り〈明応7戌午年(1498)地震津波のため 流出した神社〉
①寛文三年再興〈河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉の現社地
②檜木尻の社〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉
③神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林〈大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)〉
何れであるかは 判断がつかないと記しています
【抜粋意訳】
攝社末社所管社
河原神社
鎭座地 三重縣度會郡御薗村大字新開
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替河原(かはら)神社は 延喜大神宮式及び神名式に河(川)原大社に作る。
神名祕書及び神祇本源所引の社記には 箕曲郷勾(ミノガウマガリ)村に在り、祭神 川神・水神の二座と爲せり。
中世以後 社地 湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を地名と傳説とに考へ、現地に再興す。
但し 両宮攝社参詣記には 檜木尻の社を以て本社に擬し、神名帳考證再考・勢陽五鈴遺響等之に從へり。
又 二宮管社沿革考には、神社町大字竹鼻の西南田圃中の叢林を以て ,本社の奮地と爲せり。勾の地名は鎌倉時代に於て既に存せること、光明寺舊記及び神宮雜書に載する所の文書によりて知るべく、之を地理と遺跡とに徵するに、今の御蘭村の東部より神社町に亘る地域之に相當するが如し。
然れども寬文再興の現社地が果して眞の古址たるや否やに至ては、容易に之を断言し得べからざるに似たり。
【原文参照】
Ⓐ式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社
①・河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
河原神社(かわらじんじゃ)〈御同座 毛理神社(もりじんじゃ)〉は どちらも『延曆儀式帳(804年成立)』に川原社(かはらのやしろ)毛理社(もりのやしろ)と記載される千年以上の古社 川原社は寛文三年に当地に再興された『延喜式神名帳(927年)』所載の伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社 毛理社は明治三年(1870)に御同座御再興されて 今日に至ります
河原神社〈御同座 毛理神社〉〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
②・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
③・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉
大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
Ⓑ延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地について
『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』に記される内容
川原淵神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉の旧鎮座地について
三つの説を紹介しています
①寛文三年再興檜木尻の社〈川原淵神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉の現社地
②今本社に接して村社 船江上社あり〈船江上社(伊勢市船江)〉
③神社町大字小木(コギ)の曾禰社〈曽禰社(伊勢市小木)を合祀の箕曲神社(伊勢市小木町)〉
【抜粋意訳】
攝社末社所管社 河原淵神社
鎭座地 宇治山田市大字船江町
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替河原淵(カハラブチ)神社は 延喜大神宮式及び神名式にも見えたり。神名祕書及び社記に、祭神 澤姫(サハヒメ)神 箕曲郷勾村 河原社の南字鹽坪の向に坐せりとなす。
中世以來社地湮滅して明かならず。
寬文三年 大中臣精長 之を宇治山田市の北部檜尻の地に再興したるも、固より正確なる根據ありてのことにあらず。
而も其の地 河涯にあり、洪水の患あるを以て、明治十一年十二月之を現地に移し奉る。
今本社に接して村社 船江上社あり、前に潴水あり、朧ケ池(オボロガイケ)と云ふ。依て両宮攝社参詣記には、本社の位置を此の處に擬す。
二宮管社沿革考には之を排して、神社町大字小木(コギ)の曾禰社を以て本社の舊跡と爲せり。
【原文参照】
Ⓑ延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社について
①・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
河原淵神社(かわらぶちじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)に比定される古社です 中世に社地が湮滅し 寛文三年(1663)船江町檜尻(ひのきじり)の檜尻社の境内に再興されました この檜尻社が 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社になっています 明治十一年(1878)現社地に遷座しました
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
②・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
船江上社(伊勢市船江)
③・箕曲神社(伊勢市小木町)
〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉
箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています
箕曲神社(伊勢市小木町)
現在の大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 仮の鎮座地で 旧鎮座地の候補地については諸説があります
現在の大津神社(おおつじんじゃ)は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました
その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は 不明のまま 現在に至っています
・大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》葦原神(あしはらのかみ)
大津神社(おおつじんじゃ)〈豊受大神宮(外宮)末社〉は 明治六年(1873)現在地〈外宮宮域内〉に新たに社殿を設け再興されました その際 旧鎮座地を搜索しましたが ゛雖も猶明かならざるを以て そのままゝ今日に至れり゛とあり 旧鎮座地は不明のまま 現在に至っています
大津神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉
『神宮要綱〈昭和3年1928)〉』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地
゛長徳檢錄に所謂大水社は、蓋し本社なるべし。社地湮滅して明かならず。
一説 神社町(かみやしろまち)大字竹鼻にありとし、或は同町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)を以て之に擬す。共に明據無し。゛とあり
・長徳檢錄に所謂大水社の説は 大水神社(伊勢市御薗町長屋)か?
・大水神社(伊勢市御薗町長屋)
・神社町大字竹鼻の説は 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)か?
大口神社は〈式内社の論社 川原大神社の旧鎮座に祀られていた祠(水饗社)を合祀〉 式内社 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社です
・大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
大口神社(おおくちじんじゃ)は 明応7年(1498)大地震の津波のために流出した式内社〈往古 水郷の守り神として 勾村字 三津社に河原大社・水饗社・河原饗社という三社の水神あり〉この内 水饗社を竹ヶ鼻に遷座させた小祠の後継神社です 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原大社(かはらの おほやしろ)の論社とされます
大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)
・神社町阿竹(アタケ)の箕曲氏社(ミノウヂヤシロ)の説は
箕曲氏社を合祀した船江上社 ? 曽祢社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)か?
・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉箕曲氏社を合祀
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
船江上社(伊勢市船江)
・箕曲神社(伊勢市小木町)
〈箕曲神社は 〈式内社・川原淵神社の旧地に在った曽禰社(伊勢市小木)を合祀〉式内社 川原淵神社(貞)(かはらふちの かみのやしろ)の論社です〉
箕曲神社(みのわじんじゃ)は 明治39年 3社を合祀〈小木社・曽祢社・今田社〉明治41~42年〈大口神社・日和神社・馬瀬神社〉を移遷合祀 新たな神社名を箕曲神社と称したものです 昭和時代に大口神社・日和神社の2社は旧鎮座地に分祀遷座しました 合祀の曽祢社は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の論社となっています
箕曲神社(伊勢市小木町)
『大神宮叢書 前篇(1932年)』にある 大津神社の旧鎮座地の候補地
゛今按に、大津といふは舟の泊る所をいへば、海邊なることしるし。是によりて考ふるに、今の神社 一色村などをいにしへ大津村とはいはざりしか。
此里は大湊の南方にて、舟のはつべう海邊なるを、神社といふ名古く見えざれば疑はし。神社といふは此神社の域なる故なり。上にいへる水戸御食都神社は神名秘書に、大口村に在て今の神社村なりとあれど、其條に論ふ如く、水戸の字神社村に似つかはしからず。今の湊地に叶ひ、神社村は大津と云に似つかはしれば、くさぐさ云試むるなり。又大口村と云も大津の誤なるか゛とあります
・水戸御食都神社(大口村)大口村と云も大津の誤なるかの説は 御食神社(伊勢市神社港)か?
御食神社は 式内社 御食神社(みけの かみのやしろ)の論社です
・御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
御食神社(みけじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 『倭姫命世紀』には 倭姫命が皇大神宮御遷幸の時 鷲取老翁(わしとりのをきな)が清水を奉り その功績を賞し 水饗社(みけのやしろ)を定めたと起源を傳えている 中世に廃絶しますが 寛文3年(1663)現社地で再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 御食神社(みけの かみのやしろ)とされます
御食神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
候補地に挙げられている
※神社町(かみやしろまち)は 三重県度会郡にあった町 現在の伊勢市北部域 旧神領で町の中心地・神社港(かみやしろこう)は宇治・山田の外港として発達していました
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 近鉄 伊勢市駅から県道201号経由で北上 約1.1km 車5分程度
船江上社(伊勢市船江)に参着
一礼をして鳥居をくぐると 左手〈南側〉は 龍神の居す池と云われる゛おぼろヶ池゛があり この淵に沿って 南向きに社域があります
゛船江といふ名は 宮川の流れが昔し、この邊りを流てゐた頃の船着揚であつたことを示すもので、同神社の前にるあ朧ヶ池(おぼろがいけ)と呼ぶ細長い池は、當時の宮川の名残りを示してゐるものである゛
一番手前〈東側〉が・河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉です
河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉に参着
社殿は 南向き 古殿地(こでんち)は 見あたりません
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
その奥〈西側〉には 船江上社 その奥に吉王稲荷神社が祀られています
・船江上社(伊勢市船江)
〈河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉の旧社地〉
船江上社(ふなえかみのやしろ)は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 川原淵神社(かはらふちの かみのやしろ)の旧跡地であったとする説を度会延賢〈享保3年(1718)『二十二社参詣記』著者の渡会延賢〉が唱え 以来これが通説となり 明治11年(1878)当社域内に外宮摂社 河原淵神社が遷座されてきました
船江上社(伊勢市船江)
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 川原大社について 所在は 載せず
大社と呼ぶのは 同じ郡に川原神社がある為である と記しています
【抜粋意訳】
川原神社
川原は前に同じ
○祭神 川神、水神、神名秘書
○(欠く)○式四、伊勢大神宮 度曾宮所摂十六座の第十一に載す
連胤云、式内小の社にて、大社とあるは當社と近江國 栗太郡 小槻大社のみ也、
当社は上に川原神社あり、小槻大社も同郡に小槻神社あり、共に同稱を分むため かくいふにて、大社といふに深き心あるに非ずと知るべし、
式内社 川原淵神社について 所在は今俗云檜尾 に在す〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
川原淵神社
川原は前に同じ、淵は不知と訓べし、
○祭神 澤女神、神名秘書
〇箕輪郷勾村川原社南塩坪向 今俗云檜尾 に在す、神名略記
〇式四、伊勢大神宮 度會宮所摂十六座の第十二に載す、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 川原大社について 所在は゛昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云゛と記すが 現在地については 明言しません
【抜粋意訳】
川原(カハラノ)大社
昔 箕曲郷勾村 川原渕社 玉垣内にあり、三津社と云、神祇本源、神名秘書、
後 舊址詳ならず、近世 之を新開村に建つ、神境紀談、神名略記、
〇按 今 船江町産神社の地に淵形池あり、毎年 淵祭あり、是蓋 川原渕社にして、其北 檜尻地に川原渕社と云ふは、此の説據あるに似たり、附て考に備ふ醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
式内社川原淵神社について 所在は箕曲郷勾村川原大社の南檜尻にあり〈現河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
川原淵(カハラノフチノ)神社
今 箕曲郷勾村 川原大社の南檜尻にあり、神祇本源、神名秘書、神境紀談、神名略記、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 川原大社について 所在は゛御蘭村大字新開゛〈現 河原神社(伊勢市御薗町新開)〉とし
旧鎮座地の所在について゛竹ケ鼻村に今も川原社と唱ふる小祠あり是ならむ゛〈現 大口神社(伊勢市竹ケ鼻町)〉である と記しています
【抜粋意訳】
川原大社
祭神
祭日 六月九月十二月並十八日社格外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)
所在三重縣箕曲郷新開村 (度會郡御蘭村大字新開 )
今披るに檢錄に寬文三年今の地に造立あり 舊社はと云へり
式内社 川原淵神社について 所在は船江町檜尻〈現 河原淵神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
その旧跡については 小木村地方にある曾禰社〈現 曾禰社を合祀した箕曲神社(伊勢市小木町)〉と記しています
【抜粋意訳】
川原淵神社
祭神
祭日 六月九月十二月並十八日社格 外宮所攝十五所之一 (外宮摂社)
所在 三重縣箕曲郷船江町檜尻 (宇治山田市大字船江町 )
今按るに檢録に今の地は元檜尻社と稲する小祠の在たる域内へ造立 りたるな り舊社は小木村地方にある曾禰社ならむ 其社の西北の川を淵川といふと云へり
【原文参照】
河原淵神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
お伊勢さん125社について
゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉
お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉
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伊勢国(いせのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 伊勢国の 253座(大18座・小235座)の神社のことです 伊勢国(いせのくに)の式内社 253座は 一つの国としては 日本全国で最多数です
伊勢國 式内社 253座(大18座・小235座)について